「原子力ムラ」の実態が暴露されるにつれ、近代が生み出した「官・業・学」を中心とする利権共同体が、前近代の封建時代のムラ社会とのアナロジーで語られることが多くなった。
飯田哲也氏は、官・業・学に配置された、相互批判のない馴れ合いの癒着体質を「原子力ムラ」、そして9つの電力会社の地域独占および発電・送電・配電の三事業の独占支配(それが結果として再生可能エネルギーの普及を拒んでいる)を「電力幕藩体制」と呼んでいる。いずれも近世江戸の政治・社会構造との類似性に着目した命名である。
しかし私は、このブログの過去記事でも書いてきたように、近世ムラ社会や幕藩体制を、安定的で多様な地方文化を育んだ持続可能なシステムだったと一定評価している。
この私の立場からすると、「ムラ」や「幕藩体制」が悪いことのように言われるのには、少々腑に落ちない点もあるのだ。そこで前近代のムラ社会と近代のムラ社会のどこが似ていて、どこが違うのかを考察してみたい。
たしかに「前近代のムラ社会」と、原子力ムラやダム・ムラのような「近代ムラ社会」は、同調圧力や異質分子の排斥(=村八分)慣行の存在などで、同質の構造を持っている。
村で使える限られた資源をなるべく平等に分配してムラ社会の安定を保とうとする慣行の存在も似ている。
近世のムラ社会の共同的資源管理の慣行はコモンズと呼ばれている。近代的ムラ社会である原子力ムラにしてもダム・ムラにしても、国から配分される資源としての予算枠を、官・業・学が団結して協力しながら、ムラの外部のアクター(政治・マスコミ・市民など)に対しては不都合な情報は隠しながらも、ムラ社会全体の繁栄を企図して比較的平等に分配してきた。これも近世のコモンズ的慣行との類似性が大である。
前近代的責任感と近代的無責任
しかし違う点も大きい。近代と前近代の共同体が「同じ」と言い切ってしまうと、前近代の共同体に対しては失礼ではないかとも思のだ。近代に形成された共同体は、前近代のそれとは大きく異なる。まず大きく違うのは「責任感」であろう。
前近代社会においては、百姓一揆の指導者は打ち首の覚悟であった。年貢の減免などムラの要求を通すには、打ち首の覚悟をもって臨んだのだ。実際、自らの死罪と引き換えに、年貢減免などを勝ち取った「義民」の事例は多いのである。武家社会においても、武士も自分の行為が失敗に終われば切腹の覚悟があった。己の言葉や行為に対して厳格な責任が存在したのである。
しかるに近代が生み出した官・業・学が形成する共同体は、どのような失敗が発生しても誰も責任を取らない。「大学時代の同門」「机を並べ同じ釜のメシを食った」という同族意識で支えられたムラ社会が、ムラ社会の存続のために、責任の所在もあいまいなまま、「赤信号みんなで渡れば怖くない」式に突っ走るとき、もはや理性による自制力など働かなくなる。どんな失敗が起こっても責任の所在があいまいなので、誰も責任を取らずにうやむやになってしまう。自分の責任を問われることがないから、集団による同化作用のままに突っ走ることになり、本当に赤信号でも怖くないという状況になる。
戦前の軍部が、負けるとわかっていても戦争を止められなかったのと同質の構造がある。戦前期の陸軍ムラ社会も、驚くべき無責任さであった。ノモンハン事件のような巨大な失敗に至っても、指導者の多くは責任を逃れそのまま要職についていた。そこまで無責任だったからノモンハンで反省することなく、無責任体質のまま太平洋戦争というさらに巨大な失敗へと突き進んでしまったのである。
江戸時代の武家社会の規律であったら、指導者はノモンハンで切腹となっていただろう。しかし近代ムラ社会は無責任である。張作霖爆殺事件やノモンハン作戦の指導者の責任を厳格に追及し処罰する規律があれば、その後の失敗は回避できたであろう。
原子力ムラやダム・ムラに関しても、この間の失敗の責任を明確にし、関係者を処罰しなければ取り返しのつかないことになるだろう。
前近代における資源の公正な分配と近代における資源の不効率な浪費
日本の近世ムラ社会が、資源の乱獲を回避しながら、持続可能で社会的公正度の高い資源利用を行ってきたことに関しては、海外の研究者からも高く評価されている。それに対し原子力ムラやダム・ムラは、国家予算という資源を浪費するばかりで、資源利用の持続可能性を脅かすことにしか寄与していない。この差異はどこから生じるのだろうか。
近世のムラ社会が利用できた資源は、ムラの内部資源であった。自らの資源を自らの手で管理していたから厳格な責任と規律があった。しかるに近代ムラ社会が利用する資源はムラの外から流入する「国民の血税」という外部資源である。内部資源の自主管理でなく、外部資源への寄生なのだ。これは決定的違いである。
浪費が起こるのは当たり前。資源の安定的で持続可能な利用もできるわけがない。待ち受けるのは資源枯渇(=財政破たん)に至るまでの乱獲である。
飯田哲也氏は、官・業・学に配置された、相互批判のない馴れ合いの癒着体質を「原子力ムラ」、そして9つの電力会社の地域独占および発電・送電・配電の三事業の独占支配(それが結果として再生可能エネルギーの普及を拒んでいる)を「電力幕藩体制」と呼んでいる。いずれも近世江戸の政治・社会構造との類似性に着目した命名である。
しかし私は、このブログの過去記事でも書いてきたように、近世ムラ社会や幕藩体制を、安定的で多様な地方文化を育んだ持続可能なシステムだったと一定評価している。
この私の立場からすると、「ムラ」や「幕藩体制」が悪いことのように言われるのには、少々腑に落ちない点もあるのだ。そこで前近代のムラ社会と近代のムラ社会のどこが似ていて、どこが違うのかを考察してみたい。
たしかに「前近代のムラ社会」と、原子力ムラやダム・ムラのような「近代ムラ社会」は、同調圧力や異質分子の排斥(=村八分)慣行の存在などで、同質の構造を持っている。
村で使える限られた資源をなるべく平等に分配してムラ社会の安定を保とうとする慣行の存在も似ている。
近世のムラ社会の共同的資源管理の慣行はコモンズと呼ばれている。近代的ムラ社会である原子力ムラにしてもダム・ムラにしても、国から配分される資源としての予算枠を、官・業・学が団結して協力しながら、ムラの外部のアクター(政治・マスコミ・市民など)に対しては不都合な情報は隠しながらも、ムラ社会全体の繁栄を企図して比較的平等に分配してきた。これも近世のコモンズ的慣行との類似性が大である。
前近代的責任感と近代的無責任
しかし違う点も大きい。近代と前近代の共同体が「同じ」と言い切ってしまうと、前近代の共同体に対しては失礼ではないかとも思のだ。近代に形成された共同体は、前近代のそれとは大きく異なる。まず大きく違うのは「責任感」であろう。
前近代社会においては、百姓一揆の指導者は打ち首の覚悟であった。年貢の減免などムラの要求を通すには、打ち首の覚悟をもって臨んだのだ。実際、自らの死罪と引き換えに、年貢減免などを勝ち取った「義民」の事例は多いのである。武家社会においても、武士も自分の行為が失敗に終われば切腹の覚悟があった。己の言葉や行為に対して厳格な責任が存在したのである。
しかるに近代が生み出した官・業・学が形成する共同体は、どのような失敗が発生しても誰も責任を取らない。「大学時代の同門」「机を並べ同じ釜のメシを食った」という同族意識で支えられたムラ社会が、ムラ社会の存続のために、責任の所在もあいまいなまま、「赤信号みんなで渡れば怖くない」式に突っ走るとき、もはや理性による自制力など働かなくなる。どんな失敗が起こっても責任の所在があいまいなので、誰も責任を取らずにうやむやになってしまう。自分の責任を問われることがないから、集団による同化作用のままに突っ走ることになり、本当に赤信号でも怖くないという状況になる。
戦前の軍部が、負けるとわかっていても戦争を止められなかったのと同質の構造がある。戦前期の陸軍ムラ社会も、驚くべき無責任さであった。ノモンハン事件のような巨大な失敗に至っても、指導者の多くは責任を逃れそのまま要職についていた。そこまで無責任だったからノモンハンで反省することなく、無責任体質のまま太平洋戦争というさらに巨大な失敗へと突き進んでしまったのである。
江戸時代の武家社会の規律であったら、指導者はノモンハンで切腹となっていただろう。しかし近代ムラ社会は無責任である。張作霖爆殺事件やノモンハン作戦の指導者の責任を厳格に追及し処罰する規律があれば、その後の失敗は回避できたであろう。
原子力ムラやダム・ムラに関しても、この間の失敗の責任を明確にし、関係者を処罰しなければ取り返しのつかないことになるだろう。
前近代における資源の公正な分配と近代における資源の不効率な浪費
日本の近世ムラ社会が、資源の乱獲を回避しながら、持続可能で社会的公正度の高い資源利用を行ってきたことに関しては、海外の研究者からも高く評価されている。それに対し原子力ムラやダム・ムラは、国家予算という資源を浪費するばかりで、資源利用の持続可能性を脅かすことにしか寄与していない。この差異はどこから生じるのだろうか。
近世のムラ社会が利用できた資源は、ムラの内部資源であった。自らの資源を自らの手で管理していたから厳格な責任と規律があった。しかるに近代ムラ社会が利用する資源はムラの外から流入する「国民の血税」という外部資源である。内部資源の自主管理でなく、外部資源への寄生なのだ。これは決定的違いである。
浪費が起こるのは当たり前。資源の安定的で持続可能な利用もできるわけがない。待ち受けるのは資源枯渇(=財政破たん)に至るまでの乱獲である。
ムラの前近代と近代の最大の差異は戦闘集団か否かの違いではないかと思います。
私が受けた歴史教育では、江戸時代のムラは完全に武装解除され、武士から搾取される存在だと教えられました。しかしこれは事実ではなく、ムラはまだ戦闘集団としての性格を残していた。「百姓一揆の指導者は打ち首覚悟」なのも、戦闘集団としての性格があったからでしょう。
ただし、その性格は、江戸時代には「専守防衛」へと縮小していたと思われます。ムラ社会を侵略しようとする武家社会に対しての防衛集団という性格ですね。戦国時代まではムラ自身も侵略を行なったようですが、天下が統一されるとムラの侵略行為は抑制されるようになった。
近代のムラは完全に戦闘集団としての性格は喪失しています。戦闘集団としての性格を維持しているということは、より大きなムラ(武家社会)への併合を拒んでいるということですが、近代においては、ムラはより大きなムラの一部になってしまっています。原子力「ムラ」は、日本国「ムラ」のなかの一部分であり、さらには言えば日本国「ムラ」はグローバル「ムラ」の一部分になってしまっています。
現在において実現してしまっているのはは、昔私たちが江戸時代の姿として教わった社会の姿であるように思います。
ムラは成立の起源からして戦闘集団だったとの意見同意です。天皇が日本のすべての農地を所有するという公地公民制のタテマエが崩れて以降、土地の所有権は武装し自営することによって勝ち取られていったものでした。
しかし、原子力ムラやダム・ムラのような共同体の場合、顔の見える狭い範囲の共同体であるのに対し(その意味でムラの比喩があたっている)、日本国ムラ、グローバル・ムラというのは、広域的すぎてムラの比喩には該当しないようにも思えます。
しかしグローバル経済を動かしているダボス会議の常連などは、やはり顔の見える狭い範囲の共同体でムラ社会という感じもしますね。
甲斐での暮らしはいかがでしょうか?
こちらの暮らしにもやっと慣れてまいりました。気候と、それから人間の気質も、紀州とはかなり違いますので、最初は少々戸惑いましたが。
>日本国ムラ、グローバル・ムラというのは、広域的すぎてムラの比喩には該当しない
そうですね。では、こちらのムラはシステムと言葉を置き換えましょうか。そうしますと、前近代の日本のムラは、システム(武家社会)への抵抗勢力だったと言えます。
世界的にみると、システムがもっとも早くから発達したの中国です。中国ではシステムが発達しすぎて、ムラは早くから存在しなくなった。漢の時代にはムラは消滅していたといいます。
その中国にもシステムのなかのムラは存在した。「閥」というのがそうですね。現代日本では学閥が優勢ですが、あちらでは地方閥。北京閥とか上海閥とか。日本でも中国でも、こういった存在は平気でシステム下層の庶民から搾取します。今も昔も変わりありません。
システムの歴史が長い中国で、システムに対抗するために生まれたのが「幇」というものです。ムラよりも遥かに強い結束力と排他性を持ちます。中国人はドライだとよく言われますが、一方で受けた恩義は忘れないともいう。歴史が育んだ気質なんでしょう。
日本人も、徐々に中国化して行っているのかもしれません。
中国の場合、中央集権的皇帝政治(=官僚政治)が長く続き、日本のような分権的封建制度の伝統があまりなかったので、ムラも個に分解されていったのかなと思います。
ただ、日本人が行っている政・官・業・学・報の癒着システムは、やはりコンセンサスを重視するムラ社会の伝統の延長上にある独特なもので、皇帝政治の延長上にある中国のシステムとは違うように思えます。