代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

政官業学報ペンタゴンの中核は日本型ムラ社会

2011年04月03日 | 利益相反 その傾向と対策
 政官業学報のペンタゴンによる、異論を許さない翼賛体制の存在はよく指摘されるところ。原発推進プロパガンダしかり、このブログで取り扱ってきた自由貿易推進プロパガンダもしかり、ダム推進プロパガンダもしかりである。市民・住民の不安や異論を徹底的に排除するペンタゴンであり、ソフトな日本型全体主義体制といっても過言ではないだろう。

 以前は「政官業のトライアングル」という言い方がされた。それだけではないだろうということで、それを補完する役回りの「学(専門家)」と「報(マスコミ)」も付け加えられて、トライアングルからペンタゴンへと昇格(?)してきたわけだ。誰が最初に言い出したのかは知らないが、田中康夫議員などが好んでこのフレーズを使っている。

 ペンタゴンの中核はいったい何だろう? 政がいちばん上にくるので政治なのかと思いきやそうではない。「政」と「報」は状況によっては変わり得る。住民・市民の側に立脚しえる可能性のある存在なのだ。実際、ダム問題に関しては、「政」も「報」も、原発問題やTPP問題などに比べれば若干は中立的である。

 中核にあるのは官・業・学といってよいだろう。官業学で形成された閉鎖的なムラ社会の「絆」は本当に強固だ。このムラ社会が日本を破滅に追いこむのではないか。今回の原発事故を見てそういう思いを強くした。

 前回に引き続いて河野太郎議員のブログから、「原子力政策の別れ道」とういう記事を紹介したい。六ヶ所村の核燃サイクル工場に強く反対してきた河野議員は、19兆円もの血税(最終的には50兆円とも)をつぎ込むことになる、費用対効果も見合わない、プルトニウム汚染の危険性もきわまりない六ヶ所村工場のアクティブ試験に強く反対していた。この時が「日本の原子力政策の分かれ道だった」と述懐する。
 河野議員は、「19兆円の請求書」という「快文書」を紹介している。ぜひご覧いただきたい。下記サイト。
 
 http://bit.ly/ed9f90

 そのスライドの21ページには次のようにある。

***引用開始*********

やめられない止まらない -原子力ムラの事情-

原子力工学科卒業生の存在
― 国、電力会社、特殊法人、重電メーカーには原子力工学科の卒業生が多数存在し原子力ムラを構成
― 国家予算4700億円、電力の原子力発電費2兆円へのたかりの構図。
    ↓
 サイクルやめれば、もんじゅ、次世代原子炉といったプロジェクトの意義が失われ、プロジェクトにまつわる利権が失われる

***引用終わり*********

 19兆円の六ヶ所核燃サイクルでも、4600億円の八ッ場ダムでも、10兆円の第二東名・名神高速道路でもそうだが、費用対効果のおよそ見合わない不要な事業が延々と繰り返されるのは、官業学に配置された、同じ学科を卒業した「同族意識」に支えられた閉鎖的ムラ社会が国家予算に寄生して「たかり」を繰り返しているからだ。
 「ムラ社会」のたとえ通り、彼らのムラ社会を守るための団結心・結束力はきわめて強固である。個性豊かな逸脱者は下手な発言をすれば「村八分」の制裁を受けて「ムラ社会」からパージされていく。

 戦前の軍部が、負けるとわかっていても戦争を止められなかったのと同じ。同族意識で支えられたムラ社会が、責任の所在もあいまいなまま、「赤信号みんなで渡れば怖くない」式に突っ走るとき、もはや理性による自制力など働かなくなるのである。どんな失敗が起こっても責任の所在があいまいなので、誰も責任を取らずにうやむやになってしまうから、本当に赤信号でも怖くないという状況なのだ。
 原発が技術的にどうこうという以前の問題として、それを動かす中核に「前近代」としか表現しようのないムラ社会が存在する限り、破局は避けられない。
 いや、そう言っては前近代に失礼かも知れない。前近代のムラ社会はもう少し自制心に富んでいた。近代以降に形成されたムラ社会は、「長州閥陸軍共同体」にせよ「原発共同体」にせよ、まったく外部からはコントロールの効かない存在である。

 中核にあるのは官業学のムラ社会であるが、「政」と「報」がそれを補完したとき、一般市民などが発する異論や警鐘はいっさい聞き捨てにされる翼賛体制になる。

 河野太郎議員の別の記事、「原子力をめぐる不透明さ」もぜひ読んでほしい。この記事は、環境エネルギー政策研究所の田中信一郎氏の報告書を紹介したものだ。

 今回の津波を「想定外」とする論拠となっているのは、土木学会の原子力土木委員会津波評価部会の定めた指針である。田中氏と河野議員は、その部会の委員のメンバーを紹介して、これでは中立で公正な指針など策定し得ないとしている。何せ委員は、原発を推進する側の、電力会社、官僚、大学の利害関係者がズラーッと並んでいるのである。

 私の出自である林学という学問分野も、官業学からなるムラ社会の「たかり屋」を形成してきた。その業界を名づければ「スギ・ヒノキ村」とでもなるであろうか。このムラ社会は、広葉樹林を伐採して採算の取れない奥地までをもスギやヒノキの人工林で置き換えていく「拡大造林」と呼ばれる愚行を展開してきた。戦前の日本の軍部と同じで、採算など取れないとわかっていながら、いちど走り出したら止まらずに、ついには累積債務が膨らんで破滅に至ったのである。ムラ社会の暴走は、ついに破滅にいたるまで続くのだ。

 最近出た、宇沢弘文・大熊孝編著『社会的共通資本としての川』(東大出版、2010年)の第6章(脱ダムから緑のダムへ)は私が執筆させていただいた。そこには以下のように書いた。手前ミソで恐縮だが、紹介させていただく。

***宇沢・大熊編著、前掲書、206ー207頁より引用****

 林学(森林科学)という学問分野は全体として、林野庁を頂点とする「林野一族」の傘下にある。河川工学などの土木工学分野が旧建設省(国土交通省)の傘下にあったのと同様である。大学で林学や土木工学を専攻した学生たちの主な就職先は、林野庁や建設省といった中央官庁、各都道府県の林務部や土木部、林野庁や国交省の天下り先の特殊法人、そこから仕事を受注するコンサルタント会社や建設会社などである。大学に残った者は研究者になっていく。

 確かに彼らは表面的には、国、地方自治体、民間、研究者と、異なる社会的アクターに分かれているように見える。しかし、ともに出身母体を同じくする均質な思考の集団であり、国からの補助金や公共事業や委託研究に寄生する「利権共同体」を形成している。林学も河川工学も、官僚の要請を受けた下請け研究分野的な側面が強く、学問としての独立性は弱かった。それ故であろうか、その研究関心と主張内容は、官僚の思惑には合致しても、住民の意識からは乖離していくのである。

 業界全体として、国からいかに多くの予算を獲得するかという目的で一致している「利権共同体」に属する人々は、国の財政がいかに危機的でも無頓着で、お金の使い方に関して、一般の納税者の感覚からかけ離れていく。彼らが専門家としてどれだけ優れているのか知らないが、国の財政状況も顧みることができないのなら、専門家である以前に、市民として失格であろう。

 私の出自である林学の場合、林野庁が行った「拡大造林」という政策、つまり社会的共通資本を劣化させながら、なおかつ国有林野のみで3兆8000億円もの累積債務を抱えこみ、その責任を納税者に転嫁するという社会的犯罪行為に、学問全体として加担してきたといえる。かつての林学においては、拡大造林に反対するだけで、「自然保護団体の回し者」といったレッテルを貼られ、白い眼で見られるという雰囲気が濃厚にあった。私は1989年に大学の林学科に入学した。その時には「拡大造林」の失敗はすでに社会的には明らかであり、私は何とか誤りを正したいと考え続けてきたが、林学という学問を専攻した人間として、私自身もその社会的責任からは逃れられない。

***引用終わり******


 「原発村」も「ダム村」も同じ構図で、ムラの内部から止める力は絶対に出てこないといってよい。官・業・学ムラ社会の暴走を止めるには、まず「利権共同体に属する専門家たちになど任せきりにしておいたらとんでもないことになる」ということをしっかりと認識せねばならない。その上で、市民と政治とメディアが結束して対抗するしかないといえるだろう。日本にそれができるのであろうか? 甚だ心もとないのだが、希望の芽があるとしたら中東と同じくネットの生む力である。

 危機の際に心を一つに結束できる日本人の性質は、美徳として海外からも称賛された。しかし、大本営が健全な異論を力で封殺しているというのに、大本営発表をひたすら信じてついていくのは悪徳である。大本営の中核に、「たかり」を繰り返す利権共同体があるのに、彼らが理性的な決断をしていると信じるのは愚かである。日本人の美徳は悪徳と表裏なのだ。
 ジャスミン革命が必要なのは、中東だけではない。日本でまさに必要なのだ。



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