りくにすさんから、明治7(1874)年8月に、民主主義的な内容の憲法構想を建白した宇加治新八(旧米沢藩士の置賜士族)の紹介をいただきました。いわゆる「民撰議院設立建白書」が提出された半年後に提起された非常に民主的な憲法構想です。恥ずかしながら、私も全く不明な人物でした。これだけの人物が歴史の闇に埋もれているのですから、日本の近代史の闇はまだまだ深いといえそうです。まずは、りくにすさんのコメントを紹介いたします。
***以下、りくにすさんのコメントの引用*******
「近代の呪い」と「国民」 (りくにす)2015-07-23 23:30:51
「そもそもフランス革命はブルジョア革命なのか」という話が1950年代からある、と渡辺京二『近代の呪い』(平凡社新書)に紹介されています。
彼らリビジョニスト(「ナチスの犯罪はなかった」という連中は、この説の存在を悪用している?)が突き止めたところによると、フランス革命を推進したのはインテリ、法曹、三文文士らで、ブルジョア資本家といえるのはむしろ地方の貴族だったとのことです。さてこの本を最初から読み返すと、近代化とは人びとがギルドや農村や教会の信者組織など(日本風に言うと「一揆」?)から切り離されて「個人」にされ、その個人が国家の運命に結び付けられていく過程だと述べています。右寄りでも、左寄りでも、社会主義でもそれほど大きな違いはないというのです。
いま国会周辺では「憲法を守れ」「戦争する国にするな」との声が高くなっていますが、近代国家に物申そうという「国民」は、その国家が強く豊かになることを望んでそうするのだ、と言います。この本を読みながら国会前で「民主主義ってな・ん・だ!」と叫んだりすると変な気分になります。なんで反戦運動しているのだろう。
そんななかでかねてから気になっていた宇加治新八についてやっと調べ始めたました。広瀬隆『文明開化は長崎から』(集英社)に「主権在民」「民選議会の設立」「男女平等の投票権」を訴えた建白書を出す人物として登場しますが、長崎とはあまり関係なさそうで、むしろ慶應義塾で自由思想を学んだようです。広瀬さんは植木枝盛が好きなのですが、彼も慶應義塾などの演説会に入り浸っていたらしい。でも福沢は自由思想を「伝えた」だけであったようです。
福沢諭吉に幻想を持っていられたなら「主権在民」のシンボルを歓迎できるのですが、福沢は次第に国家と財界の代弁者という正体をあらわにし始め、植木枝盛から「法螺を福沢 嘘をゆう吉」と非難されます。そんなのお構いなしで福沢は日清戦争を円滑にするために朝鮮・清国へのヘイトスピーチを『時事新報』紙上で盛んにやりました。広瀬さんが福沢を嫌うのは別な理由もあるようですが、宇加治や植木が慶應義塾と関わりがあったことはちゃんと書いてほしい(ぷんぷん)。
参考までに、雁屋哲の美味しんぼ日記http://kakaue.web.fc2.com/1/ganntetu.html
調査したともいえないけど、とりあえず分かったことは
・藩主家の墓所(祖父の家の近くだ)の警護についていた。『龍馬伝』で龍馬の父が同様の役についていたが、それって偉いのか?
・慶應義塾を卒業後、明治7年に新政府の求めに応じて建白書を提出。
・同じ明治7年には、板垣退助も建白書を提出していた。
・明治22年に米沢出身者の子弟のための「有為会」が設立された時、私学の教師として参加。
・没年不詳。歴史家の鈴木由紀子さんが本気を出せば、判明するでしょうか。
・少なくとも2013年と14年の秋の米沢市のお祭りの時代行列に登場している。今年の時代行列にも出ていたら行けない私の代わりに応援してやってください。
・インターネット上の情報は少なく、2回以上登場しているブログをまだ見ていない。
明治7年に建白書を提出した宇加治と、明治22年に「有為会」の設立集会に現れた宇加治は同一人物なのでしょうか。この会は少年たちの学費を援助する会なので、ある程度財産がないと参加できないと思われます。転向してしまったらしたと言ってほしい。
行方不明になっておらず、ファンも沢山いる赤松小三郎は幸せだなあと思います。彼が明治7年まで生きていたらどんな建白書を出したでしょう。
板垣退助は戊辰戦争で会津領に入った時に新政府軍に協力を申し出る領民が現れたのに驚いたそうですが(多分侵略軍ならみんなそういう連中に出合っていると思う)
板垣という人は、維新成功後薩長に対抗して諸藩士と連合したりとちょっと生臭いところがありますが、危機感は本当だったぽい。民権運動が政党運動になって最後には大政翼賛会になるのも動機がそこだからでしょうか。そして「非国民」という言葉が現れる。
時代が下って60年安保になると岸首相が「サイレント・マジョリティ」論を展開して甲子園球場で野球を観戦したり、銀座でショッピングしたりしている人々を岸首相は勝手に味方とみなしましたが、翌日「俺はプロ野球ファンだが安保には反対だ」とか「安保反対声なき声の会」といったプラカードが登場したそうです(井上静さんのツイートより)。
で、60年安保当時に戻ると、野球を見たり銀座にいる人は「近代の呪い」にかかっていない、条件次第で敵にまわりかねない人々だ、という見方もできなくはない、と言えるのかなと変なところをぐるぐるまわっています。議事堂に人が集まるようなら「日本」はまだ見放されていないといえるかも。
「強い国家を求めているはずの市民が、反戦運動に走るのはなぜか」を考えてきましたが、そこは「総力戦」の恐れなのか、近代兵器への恐れなのか。ヒューマニズムの進歩なのか、わからないです。
日露戦争は第0次世界大戦というべき、総力戦の走りのはずなのですが、イギリスから戦艦を仕入れて勝利したのでちょっと違うかも。それとは別に、鉄砲が普及したことで日本人に厭戦気分が広がったという人もいますね。
*****引用終わり*******
宇加治新八の紹介ありがとうございました。
これだけの人物も歴史に埋もれ、没年も不詳のままとは、驚くべきことだと思います。ぜひ発掘せねばなりませんね。赤松小三郎も、2010年に江宮隆之さんが小説を書いて紹介するまで全く埋もれたままでした。宇加治新八も、まさにこれから世に出すべき人物といえそうですね。
長州=靖国史観系の人々は、左派史観を批判しながら「汚辱の近現代史」とかおっしゃいますが、実際には左右両派が結託して、当然に光をあてるべき人物を無視したままに、非常に偏った歴史の「物語」を日本人に押し付けてきたように見えます。「パンドラの箱に封印された闇の中の近代史」とでも言うべきものがありそうです。天皇を主権者とする専制国家の出現が必然的であるかのように描く歴史叙述こそ、「自虐」と言うべきでしょう。
宇加治新八による憲法構想、江村栄一著『憲法構想(日本近代思想体系)』(岩波書店)にも収録されていましたので、早速読んでみました。蛇足になりますが、私なりの解説・感想です。
建言書の冒頭で、当時明治政府が無分別に行った台湾出兵に対する批判が展開されています。建言書には「支那交際の議」という部分があって、清国との付き合い方に関しても建白されているようですが、残念ながらその部分は江村氏の本の中からは割愛されていました。
宇加治の建言書では、当時の太政官(行政府)を上院とし、新たに民撰議院としての下院(立法府)を創出するとしています。宇加治の「議院」は、行政府と立法府の双方を抱合する機構のようです。
下院が決議し、上院が復議し、天子が審判し、法律も政策も採決されるとしています。ここで、天皇に関して、「天子の権重大なりといえど、国人(国民)の不可とする所決してこれを行ふべからざる」と述べ、天皇は国会の決議には従わねばならないとしています。
宇加治は、「国法は人民の議し以て定むる所にして、之を君主に委任し之を施行せしむ」と、明快な表現で主権在民の精神を謳っています。また、天子は「重大の権ありといえど、これをほしいままにするを得ず」とするなど、天皇の権限に大きな制限をかける文言を繰り返し述べています。
赤松小三郎の建言書もそうですが、幕末から明治の早い時期の国家構想ほど、天皇を神聖視しておらず、絶対化しておらず、過度な権力を天皇個人に与えないように注意が喚起されています。天皇制に対して、赤松や宇加治が感じたであろう懸念は、後年、見事に現実化してしまうわけです。日本の歴史的な天皇制の伝統は、むしろ赤松案や宇加治案のような君臨すれども統治しない、「象徴」としての存在だったはずなのに・・・・。
明治の私擬憲法の中でもっとも議会の権限の強い民主的な内容と言われる1881年の植木枝盛「日本国国憲案」ですら、天皇による法案への拒否権と議会の解散権を認めています。この点、植木案ですら、宇加治案よりもはるかに後退しています。
宇加治案より後年に出されていく私擬憲法案は、天皇の権限を、なにか絶対的で神聖不可侵なものと見なければいけないような不文律によって自縛されていくような印象を受けます。やはり、明治維新から西南戦争にかけての明治初期の段階に大きな反動化の波があり、「近代の呪い」というか、「天皇制の呪い」のような呪縛に日本全体が呑み込まれていくように伺えます。近代化の過程では国家が肥大化せざるを得ないにしても、天皇と国家とを一体化させてしまったことが、日本国民にとっても天皇家にとっても、後年の悲劇を生んだ根本原因と思いますので。もう少し幸せな「近代」のあり方はあったはずなので。
選挙権の範囲に関しては、宇加治案でも赤松案に比べ後退しているようです。宇加治案で選挙権の範囲は、性別を問わず男女に付与されますが、納税額による制限はかけられていました。選挙権があるのは「農は100石以上、商は10両以上の年貢(納税)を出す男女」、納税額が少ない場合でも、「県官、教師、区長」などは選挙権が与えられるとのことです。ただし、注として「これは一般の規則」であって、「非常の人物は非常の典あるべきや」とも書かれています。赤松案の場合、「門閥貴賤を問わず」全人民に選挙権が付与されることになっていました。
***以下、りくにすさんのコメントの引用*******
「近代の呪い」と「国民」 (りくにす)2015-07-23 23:30:51
「そもそもフランス革命はブルジョア革命なのか」という話が1950年代からある、と渡辺京二『近代の呪い』(平凡社新書)に紹介されています。
彼らリビジョニスト(「ナチスの犯罪はなかった」という連中は、この説の存在を悪用している?)が突き止めたところによると、フランス革命を推進したのはインテリ、法曹、三文文士らで、ブルジョア資本家といえるのはむしろ地方の貴族だったとのことです。さてこの本を最初から読み返すと、近代化とは人びとがギルドや農村や教会の信者組織など(日本風に言うと「一揆」?)から切り離されて「個人」にされ、その個人が国家の運命に結び付けられていく過程だと述べています。右寄りでも、左寄りでも、社会主義でもそれほど大きな違いはないというのです。
いま国会周辺では「憲法を守れ」「戦争する国にするな」との声が高くなっていますが、近代国家に物申そうという「国民」は、その国家が強く豊かになることを望んでそうするのだ、と言います。この本を読みながら国会前で「民主主義ってな・ん・だ!」と叫んだりすると変な気分になります。なんで反戦運動しているのだろう。
そんななかでかねてから気になっていた宇加治新八についてやっと調べ始めたました。広瀬隆『文明開化は長崎から』(集英社)に「主権在民」「民選議会の設立」「男女平等の投票権」を訴えた建白書を出す人物として登場しますが、長崎とはあまり関係なさそうで、むしろ慶應義塾で自由思想を学んだようです。広瀬さんは植木枝盛が好きなのですが、彼も慶應義塾などの演説会に入り浸っていたらしい。でも福沢は自由思想を「伝えた」だけであったようです。
福沢諭吉に幻想を持っていられたなら「主権在民」のシンボルを歓迎できるのですが、福沢は次第に国家と財界の代弁者という正体をあらわにし始め、植木枝盛から「法螺を福沢 嘘をゆう吉」と非難されます。そんなのお構いなしで福沢は日清戦争を円滑にするために朝鮮・清国へのヘイトスピーチを『時事新報』紙上で盛んにやりました。広瀬さんが福沢を嫌うのは別な理由もあるようですが、宇加治や植木が慶應義塾と関わりがあったことはちゃんと書いてほしい(ぷんぷん)。
参考までに、雁屋哲の美味しんぼ日記http://kakaue.web.fc2.com/1/ganntetu.html
調査したともいえないけど、とりあえず分かったことは
・藩主家の墓所(祖父の家の近くだ)の警護についていた。『龍馬伝』で龍馬の父が同様の役についていたが、それって偉いのか?
・慶應義塾を卒業後、明治7年に新政府の求めに応じて建白書を提出。
・同じ明治7年には、板垣退助も建白書を提出していた。
・明治22年に米沢出身者の子弟のための「有為会」が設立された時、私学の教師として参加。
・没年不詳。歴史家の鈴木由紀子さんが本気を出せば、判明するでしょうか。
・少なくとも2013年と14年の秋の米沢市のお祭りの時代行列に登場している。今年の時代行列にも出ていたら行けない私の代わりに応援してやってください。
・インターネット上の情報は少なく、2回以上登場しているブログをまだ見ていない。
明治7年に建白書を提出した宇加治と、明治22年に「有為会」の設立集会に現れた宇加治は同一人物なのでしょうか。この会は少年たちの学費を援助する会なので、ある程度財産がないと参加できないと思われます。転向してしまったらしたと言ってほしい。
行方不明になっておらず、ファンも沢山いる赤松小三郎は幸せだなあと思います。彼が明治7年まで生きていたらどんな建白書を出したでしょう。
板垣退助は戊辰戦争で会津領に入った時に新政府軍に協力を申し出る領民が現れたのに驚いたそうですが(多分侵略軍ならみんなそういう連中に出合っていると思う)
板垣という人は、維新成功後薩長に対抗して諸藩士と連合したりとちょっと生臭いところがありますが、危機感は本当だったぽい。民権運動が政党運動になって最後には大政翼賛会になるのも動機がそこだからでしょうか。そして「非国民」という言葉が現れる。
時代が下って60年安保になると岸首相が「サイレント・マジョリティ」論を展開して甲子園球場で野球を観戦したり、銀座でショッピングしたりしている人々を岸首相は勝手に味方とみなしましたが、翌日「俺はプロ野球ファンだが安保には反対だ」とか「安保反対声なき声の会」といったプラカードが登場したそうです(井上静さんのツイートより)。
で、60年安保当時に戻ると、野球を見たり銀座にいる人は「近代の呪い」にかかっていない、条件次第で敵にまわりかねない人々だ、という見方もできなくはない、と言えるのかなと変なところをぐるぐるまわっています。議事堂に人が集まるようなら「日本」はまだ見放されていないといえるかも。
「強い国家を求めているはずの市民が、反戦運動に走るのはなぜか」を考えてきましたが、そこは「総力戦」の恐れなのか、近代兵器への恐れなのか。ヒューマニズムの進歩なのか、わからないです。
日露戦争は第0次世界大戦というべき、総力戦の走りのはずなのですが、イギリスから戦艦を仕入れて勝利したのでちょっと違うかも。それとは別に、鉄砲が普及したことで日本人に厭戦気分が広がったという人もいますね。
*****引用終わり*******
宇加治新八の紹介ありがとうございました。
これだけの人物も歴史に埋もれ、没年も不詳のままとは、驚くべきことだと思います。ぜひ発掘せねばなりませんね。赤松小三郎も、2010年に江宮隆之さんが小説を書いて紹介するまで全く埋もれたままでした。宇加治新八も、まさにこれから世に出すべき人物といえそうですね。
長州=靖国史観系の人々は、左派史観を批判しながら「汚辱の近現代史」とかおっしゃいますが、実際には左右両派が結託して、当然に光をあてるべき人物を無視したままに、非常に偏った歴史の「物語」を日本人に押し付けてきたように見えます。「パンドラの箱に封印された闇の中の近代史」とでも言うべきものがありそうです。天皇を主権者とする専制国家の出現が必然的であるかのように描く歴史叙述こそ、「自虐」と言うべきでしょう。
宇加治新八による憲法構想、江村栄一著『憲法構想(日本近代思想体系)』(岩波書店)にも収録されていましたので、早速読んでみました。蛇足になりますが、私なりの解説・感想です。
建言書の冒頭で、当時明治政府が無分別に行った台湾出兵に対する批判が展開されています。建言書には「支那交際の議」という部分があって、清国との付き合い方に関しても建白されているようですが、残念ながらその部分は江村氏の本の中からは割愛されていました。
宇加治の建言書では、当時の太政官(行政府)を上院とし、新たに民撰議院としての下院(立法府)を創出するとしています。宇加治の「議院」は、行政府と立法府の双方を抱合する機構のようです。
下院が決議し、上院が復議し、天子が審判し、法律も政策も採決されるとしています。ここで、天皇に関して、「天子の権重大なりといえど、国人(国民)の不可とする所決してこれを行ふべからざる」と述べ、天皇は国会の決議には従わねばならないとしています。
宇加治は、「国法は人民の議し以て定むる所にして、之を君主に委任し之を施行せしむ」と、明快な表現で主権在民の精神を謳っています。また、天子は「重大の権ありといえど、これをほしいままにするを得ず」とするなど、天皇の権限に大きな制限をかける文言を繰り返し述べています。
赤松小三郎の建言書もそうですが、幕末から明治の早い時期の国家構想ほど、天皇を神聖視しておらず、絶対化しておらず、過度な権力を天皇個人に与えないように注意が喚起されています。天皇制に対して、赤松や宇加治が感じたであろう懸念は、後年、見事に現実化してしまうわけです。日本の歴史的な天皇制の伝統は、むしろ赤松案や宇加治案のような君臨すれども統治しない、「象徴」としての存在だったはずなのに・・・・。
明治の私擬憲法の中でもっとも議会の権限の強い民主的な内容と言われる1881年の植木枝盛「日本国国憲案」ですら、天皇による法案への拒否権と議会の解散権を認めています。この点、植木案ですら、宇加治案よりもはるかに後退しています。
宇加治案より後年に出されていく私擬憲法案は、天皇の権限を、なにか絶対的で神聖不可侵なものと見なければいけないような不文律によって自縛されていくような印象を受けます。やはり、明治維新から西南戦争にかけての明治初期の段階に大きな反動化の波があり、「近代の呪い」というか、「天皇制の呪い」のような呪縛に日本全体が呑み込まれていくように伺えます。近代化の過程では国家が肥大化せざるを得ないにしても、天皇と国家とを一体化させてしまったことが、日本国民にとっても天皇家にとっても、後年の悲劇を生んだ根本原因と思いますので。もう少し幸せな「近代」のあり方はあったはずなので。
選挙権の範囲に関しては、宇加治案でも赤松案に比べ後退しているようです。宇加治案で選挙権の範囲は、性別を問わず男女に付与されますが、納税額による制限はかけられていました。選挙権があるのは「農は100石以上、商は10両以上の年貢(納税)を出す男女」、納税額が少ない場合でも、「県官、教師、区長」などは選挙権が与えられるとのことです。ただし、注として「これは一般の規則」であって、「非常の人物は非常の典あるべきや」とも書かれています。赤松案の場合、「門閥貴賤を問わず」全人民に選挙権が付与されることになっていました。
大した補足ではありませんが、当時はアメリカですら男女同権の選挙ではなかったようです。それを考えると、明治初期に男女同権を導入しようとした宇加治新八は確かにすごいですね。
12434さんになりすまして虚偽情報をネットに書きまくったあの人のあの件に関しては、慰謝料を請求できる完全に犯罪の次元の問題だと思います。対処なさる場合、協力いたしますので、よろしくお願いいたします。
例の件についてですが、関さんのお気持ちは大変ありがたく思います。しかし、私の両親がどうしても訴えたりするのがいやなようですし、私自身も正直あまりしたくないです。我ながら甘ちゃんだなと思いますが、ただ真実は知りたかったですね。もっとも概ね私の予想通りでしょうけど。
しかしまあ高校の教師が農家に向かって、「それなら農業用の機械を壊す運動しろ!」とかよくいえたなと呆れてしまいます。あの方がどこの高校に勤めているかは知っていますが、私がその地域の農家だったら学校に直接怒鳴り込んでますよ。今思えば電話で普通にクレーム入れればよかったかもしれません。
でも私も悪かったなとも思いますし、頭に血が上っておかしくなっていました。それはダメでしたが。
12434さん、お声を聞かせていただいて安堵しました。りくにすさま、宇加治新八を発掘していただいてありがとうございます。
12434さんが参照されたウィキペディアでは、宇加治新八の『建言議院創立之議』は明治6年(1873年)となっているのを見まして、明治6年10月の「明治6年政変」を思い起こしました。
見ますとこの明治期初年の政変によって、土佐の板垣退助、後藤象二郎、佐賀の江藤新平、副島種臣が下野し、その後、長州の山縣有朋と井上馨が失脚から復帰したとあります。
江戸期末期に澎湃として湧き起こったであろう民主主義政治思想、公議政体論が、関さんご指摘のように明治初年、「明治6年政変」までは大きな影響力を持っていたということではないかと推察します。
そこから発して思いましたことは、長薩維新派が明治維新クーデターによって葬り去ろうとしたのは「水戸慶喜」ではなく、公議政体論と民衆運動との結びつき、そこへの武士階層の合流の可能性であったという仮説が考えられるのではないかと。
それゆえに、武士階層に大きな影響力を持っていた赤松小三郎は西郷と大久保によって無体にほうむられ、
経済(市場化)要求から政治的自覚に向かいつつあった民衆運動の昂まりは各地の寄生大地主層によって「ええじゃないか」に誘導されて散逸せしめられたのではないかと。
気になりますのが、公議政体論=民主政体論が武士階層からのみ出てきたことです。
はたして武士以外の階層からの声はなかったのだろうかと。これは、朱子学また水戸学の政治思想独占のしからしめた政治的リテラシーの偏在によるものでしょうか。
元禄文化以降は明確に町人文化が時代の主体で武家はそこに溶け込んでいたと思えますのに。
この前のコメントに書き忘れたのですが、『近代の呪い』でのフランス革命、ロシア革命、中国の共産党革命にいたる「全体主義」と、ルソーの思想について。革命といっても、イギリスのピューリタン革命、名誉革命については触れられていません。
ルソーは「個人が秘密を持たないこと」が社会をよくすると信じて自らの秘密を告白しますが、告白される側が「個人が秘密を持つ」ことを禁じるなら警察国家になってしまいます。誰でもやるような不道徳をやったことがない、と告白したらなんだか拷問されそうです。(例によって乱暴な要約ですみません)
それが「天皇制の呪い」と結びつくのか、それとも関係ないのか。ソ連やナチスの全体主義との類似点はなんなのでしょう。
そんなことを考えていたら、最近の自民党議員の「いじめ自慢」で、なんとなくルソーの『告白』を想起してしまいました。あれも単なる露悪趣味ではなく、いじめ議員たちは告白を通じて日本国民に「いじめ体質になれ」と訴えたいのか、と疑います。彼らと同じいじめマインドを持ち、自分がいじめたのと同じような相手をいじめてほしい。いじめたことがない人、いじめるつもりのない人にも嘘でいいから「いじめた」と言わせたい。なんともいやらしい話であります。
変な前置きですみません。
実は、宇加治新八が慶應義塾にいた、と分かった時点でテンションだだ下がりでした。彼が在学していた明治4・5年は明治の立身出世主義の経典『学問のすすめ』が書かれる直前でもあり、安川寿乃輔先生いうところの「初期啓蒙期」です。でも、すでに…
投稿者:豆かん 2015/4/2 21:22
えっ、福沢諭吉ってこんな人だったの?こんな渡邉美樹みたいな新自由主義者で、桜井誠みたいな差別主義者で、曽野綾子みたいな選民主義者が何で一万円札なんかになってるんだろう…
今の日本人が自らを見つめ直す為の、全ての出発点はここにあるような気がします。私達はこんな酷い人物が描かれた只の紙切れを何故有り難がり、肌身離さず持ち続けているのか?札の肖像画部分を上述の面々の顔に置き換えてみれば、その異様さ、グロテスクさに誰もが気付けるのではないだろうか。
という人物だったようです。ただし、西欧社会に追いつくために、国民すべてを底上げしようと考えていた。しかし士族の反乱やら自由民権運動、社会主義運動の広がりを見るにつれ保守・エリート主義に移行していきます。安川寿乃輔著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』によると明治14年に何かの勅で「臣民」という言葉が使われ、福沢も使い始めたそうですが何の勅だったか再発見できずにいます。
さらに日清戦争を控えた明治25年あたりから好戦的で中国などに対する蔑視がひどくなります。とにかく総力戦をあおる。第二次大戦中の金属供出、犬猫の供出などもその延長にあるのかもしれません。一貫しているのは「日本を諸外国に負けない国にする」ことのみ。
尾崎行雄bot ?@Ozaki_Yukio ・ 8月3日
福沢諭吉先生は私に諭して、「猿を相手に書け。俺はいつも猿に読ませる積りで書くが、それで丁度当世にあてはまるのだ」と言われた。・・・されど私は今「人」の為にこの読本を書く。『政治読本』
尾崎行雄がであった福沢はこの時期ではなかったかと思いますが。
一方、米沢藩というところは不遇な人を見つけると機会をくれるようですが無能と分かると冷淡なようです。
だから米沢出身で慶應義塾を出ている人が貧乏人に冷淡なのはある種しかたないのかもしれません。
また、演説や選挙や議員活動をするよりは実業家や官僚になった方が不遇な人々を救える、と考える傾向があるとも思えます。
宇加治が私学の教師になって有為会に参加するのも確かにそういう方向に沿っています。
ところで、維新の敗戦以降米沢人エリートのある種の場面における理性がどこかに行ってしまったと思うのは私だけでしょうか。
話変わって、薩長公英さまからの
>気になりますのが、公議政体論=民主政体論が武士階層からのみ出てきたことです。
はたして武士以外の階層からの声はなかったのだろうかと。これは、朱子学また水戸学の政治思想独占のしからしめた政治的リテラシーの偏在によるものでしょうか。
元禄文化以降は明確に町人文化が時代の主体で武家はそこに溶け込んでいたと思えますのに。
話は80年も遡ってしまいますが、寛政期に徂徠学が後退して朱子学全盛期になったのと関係あるような気がします。
徂徠学が不人気になったのは「経世の学としての性格が強く、武士以外や下士には不要の学問だったから」と一般に説明されています。
このころ財政改革のやり方が確定してきたので、藩や代官が下の者から意見を求めることが減ったということは想像できます。
そして「君主から庶民まで学べる」朱子学の登場ですが、本来は「人間としてのスタート時は平等」で「勉強次第でいくらでも向上できる」というある種不穏な教えであったのに、学ぶものにとりあえず「忠と孝」だけを教えるものになってしまったのでは。
18世紀には士分以外にも「経世家」と呼ばれる学者が多くいて、米沢藩の改革をお膳立てした藁科松柏も医者でした。
幕末だったら「医者坊主」と言われてあまり活躍できなかったかもしれません。
知っていることと突き合わせての推測なので、正しいとは限りませんが。
例によってまとまりのないコメントですみません。
「明治14年の何かの勅」は明治14年の福沢の著作『帝室論』の読み間違いでした。
実は福沢の「右旋回」は『学問のすすめ』を書き終えたあたりから始まっていて丸山真男から子供向き評伝までみんなこの「右旋回」を無視しています。
さて、思い付きで「一万円札は呪いのお札?」と書いてしまいましたが、検証してみると
1984年(福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石)
この年は中曽根首相が靖国神社への新春参拝を果たし(1月5日)グリコ社長誘拐などがありました。翌年、御巣鷹山日航ジャンボ機墜落事故。国鉄の分割民営化、
アジアとの関係でいうと、中国・韓国の人名の現地読みが奨められ、教科書問題がくすぶりだしますが90年代には和解しそうなムードになります。
経済的には絶頂期で、90年ごろは「バブルがはじけた」と言われながらまだまだ好景気。絶頂は1987年だったと思われます。
あるサイトによると、日露戦争の借金を返し終えたのが1986年だそうですから、借金を返すためにこれまで経済成長させられていたのかもしれません。
2004年(福沢諭吉・樋口一葉・野口英世)
なんだか「経済格差」を連想させる取り合わせです。
自衛隊がイラクのサマワに派遣され、「冬のソナタ」が放映されて韓流ブーム。
実はこの年に「チャンネル桜」が始動して、8月15日の最初の番組のゲストが安倍晋三だったそうです。
ETV特集の慰安婦の番組に政府を代表して介入するのも安倍晋三。
それ以前から、右も左もぶった切る「ネットアイドルちゆ14歳」などが暗躍しておりましたが。
「呪い」の総括をするほどデータを整理できていませんが、福沢一万円札は「戦後」の何かを終わらせる意志を持った誰かによって企画されたと思います。
さて、土佐以外の「自由民権家」が行方不明になる理由ですが、やっぱり雲井龍雄の処刑が響いているのでしょうか。
彼は親長州で、維新期の米沢藩の立ち位置をややこしくしてしまうので苦手なのですが。
あまり触れられることはありませんが、「集議院」というものがあります。
明治2年3月7日に「公議所」として発足、7月8日に「集議院」と改称。後に左院に編入されます。一応「立法機関」でした。
「集議院」で検索すると関係者は雲井龍雄の記事が一番多く、ついで薩摩の横山安武で、集議院そのものの記事は少ないです。
この二人は集議院がなんちゃって立法機関だと知ると辞めてしまってそれぞれ過激な行動に走ってしまいます。「まとも」に議員活動をしていた皆さんはどうしたんだ。(集議院議生それぞれの記事はそれなりにあります)
あと「衆議院」の誤記もあり、現代人も引っかかります。
現在学生が安保反対のハンストを敢行しているとのことですが、議員も過激な行動を迫られる時期が近いのでしょうか。
安保法案に夢中でこういうものが採決されているとは存じませんでした。
日刊ゲンダイ「違憲は安保法案だけじゃない 「盗聴法改正」が招く総監視社会」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/162438