一つ前の記事「蚕と日本語学習と松平忠固」のコメント欄で、renqingさんから以下のようなコメントをいただいた。
renqing
手許の「数字でみる日本の百年」改訂第6版(日本国勢図会)のp.333に、「戦前の主要輸出品」の表があります。生糸が、1900年(M33)第1位なのは当然として、1920年、1930年、1940年(S15)まで、輸出額第1位です。つまり戦前経済を一貫して外貨的に支え、輸出競争力があったのは生糸だった、ということになります。この点、松平忠固は、渋沢栄一に匹敵する日本資本主義の功労者です。現代日本人は、現代日本経済の途轍もない工業競争力を当然とみていて、そのイメージを戦前日本経済に投影して、既に戦前から欧米に伍する近代産業経済があったように錯覚していますが、第2次産業就業者数が第1次産業就業者数を超えるのは1960年の高度経済成長以降であり、戦前日本経済は、全体として見れば、中進国の下クラスで、基本的にまだ農林漁業国家に過ぎません。
この事実、けっこう知らない方も多いと思われます。そこで補足して、詳しく検討してみたいと思います。以下の図は、「社会実験データ図解」というサイトに掲載されている、日本の産業構造の150年間の変化がわかる図です。日本の近代産業の歩みが人目で分かるすばらしい図です。明治初年度から、日本の輸出品目ごとに総輸出に占める比率を図にしたものです。
出所)社会実験データ図解 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4750.html
明治初年度から輸出の40%程度は生糸(赤い折れ線)が占め、一貫して生糸は輸出第1位、いったい生糸の1位はいつまで続くのかと見ていくと、1934年までずっと第1位、一瞬、綿織物に抜かれますが、第二次大戦がはじまる直前の1940年にまた第1位であったことが分かるかと思います。
生糸は明治以前、江戸末期の安政年間に日本が開国してからずっと輸出競争力があり、日本の近代化を支え続けた最大の外貨獲得源だったわけです。
この技術は誰が育成したのでしょうか? 明治政府ではありません。日本の生糸の高い品質そのものは、江戸時代の技術の結晶なのです。日本の生糸の高い品質は、横浜開港直後から世界に知れ渡り、日本の優れた養蚕技術を学ぼうと、養蚕国のフランスやイタリアで日本語学習熱が高まったことは前回の記事で述べました。
つまり日本の近代化を支え続けた、生糸の技術は江戸文明の遺産であり、日本は太平用戦争に突入する直前まで、江戸の遺産で食っていたと言えるのです。
来年の大河ドラマの主人公である日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一は官営の富岡製糸工場の設立などに尽力しました。しかし、これは従来の「家内制手工業」から規模の経済効果を働かせる「工場制工業」へと転換させる契機になりましたが、そこで生産される生糸の品質は変ったわけではなく、国際社会で高い評価を受けていた生糸の質そのものは江戸の技術です。
ちなみに言えば、渋沢栄一も、もともと深谷の百姓で幕臣に取り立てられて、公費で海外留学までさせてもらっていた徳川政権の人間です。近代的工場制度まで徳川政権の遺産と言えるでしょう。ちなみに、渋沢栄一の事例は、江戸時代が身分が固定されたガチガチの身分制社会であったというのが、ウソであるということも物語っています。
戦前の重工業はせいぜい国内市場を満たす程度で、輸出産業にまでは至りませんでした。重工業化のための原資を稼いでいたのは最後まで生糸なのでした。
長州(と薩摩)が政権をとったから近代工業が生まれたどころか、長州政権が近代工業化を遅らせたというのが歴史の真相なのです。私が今度出す本で、その事実を詳述します。
徳川政権による近代化路線であれば、小栗忠順の横須賀造船所・製鉄所建設に見られるように、日本の重工業化も、長州政権で起こった現実よりもはるかに早期に達成されていたはずなのです。
pp.197-206、岩波講座日本経済の歴史第3巻、2017年
論文の紹介ありがとうございます。未読の文献でした。参考にさせていただきます。