先週のことだが、NHKのBSで平日の夜10時から放送している「国際報道2020」が、「コロナ後の世界はどうなるのか」というテーマで、世界の三人の識者へのインタビューを三夜連続で報道していた。1日目はフランスの経済学者のジャック・アタリ、2日目は『サピエンス全史』でおなじみのイスラエルの歴史家のユヴァル・ノア・ハラリ、3日目はアメリカの政治学者のイアン・ブレマー。
三人の描く未来図がそれぞれ異なっていて興味深かった。描かれる未来というのは、それぞれの持っている知的背景によって全く異なる。
イスラエルのハラリ氏は国家による監視強化や全体主義体制の発生の危険性を指摘していた。そうなってはいけないとは言っているが、ポジティブな未来展望を語っているわけではなく、がっかりだった。
アメリカのブレマーの予想はさらにヒドいもので、貧困が増大し格差は今まで以上に破局的に拡大するだろうと断言していた。いちばんしょうもなかった。コロナ禍にもめげず新自由主義が今後も続くという前提での予言なのだ。それを変えようという志向性はないのだ。アメリカの知的衰退を象徴しているようにも思える。キャスターの池畑修平氏が、「このブレマー氏の予想が外れるよう私たちは行動しなければならない」とフォローしていた。同番組、三人のキャスターたちの姿勢には好感がもてる。
だいたい、したり顔で「未来はこうなる」などと偉そうに断言している知識人の発言は信用しない方がいい。未来というのは、傍観者として予想するようなものではなく、一人ひとりの主体的な働きかけによってつくっていくものだからだ。
その点、フランスのアタリ氏は最悪のシナリオもあり得るが、私たちの行動次第で人類が勝利する明るい未来も開け得るというポジティブな意見だった。
アタリ氏は、これを契機に軍拡競争から医療や食料を重視するよう世界経済を変革のしようと呼びかけていたのだ。アタリ氏は、長期による不況の継続や独裁政権の誕生など最悪のシナリオも可能性もあるとしつつ、私たち一人一人がポジティブなプレイヤーとして世界経済の変革を実現できれば、人類は長期的に勝利できるだろう、と。爆弾や武器ではなく、医療、住宅、水、良質な食料の生産に資源を配分し直そうと呼びかけていた。まったく同感である。
安全保障と称して、どんなにミサイルや戦闘機に金銭を注ぎ込んでも、この程度の危機の前にには全く無力なのだ。
ジャック・アタリは10年間の著書の『危機とサバイバル』(林昌宏訳、作品社刊)で「市場のグローバル化と自由な流通により今後10年で破滅的なパンデミックが発生する恐れがある」と予想しており、新自由主義のグローバル化が人類に幸せをもたらさないことに警鐘を鳴らしてきた。どのみち新自由主義は不幸しかもたらさないのであるから、これを契機として勇気をもって終わらせよう。
今国会でも、農家が種を自家採取する権利を禁止しようという、種苗法改正案が出されている。自民党政権は2000年続いた日本の伝統を完全否定し、国際アグリビジネスの軍門に下って、日本農業を破滅に追い込もうとしているといっても過言ではない。彼らの何が保守なのだ。バカを言うのもいい加減にして欲しい。
アメリカからのビジネス界からの市場原理主義的要求を片端から拒絶することこそ、新自由主義から脱却する第一歩となるだろう。
三人の描く未来図がそれぞれ異なっていて興味深かった。描かれる未来というのは、それぞれの持っている知的背景によって全く異なる。
イスラエルのハラリ氏は国家による監視強化や全体主義体制の発生の危険性を指摘していた。そうなってはいけないとは言っているが、ポジティブな未来展望を語っているわけではなく、がっかりだった。
アメリカのブレマーの予想はさらにヒドいもので、貧困が増大し格差は今まで以上に破局的に拡大するだろうと断言していた。いちばんしょうもなかった。コロナ禍にもめげず新自由主義が今後も続くという前提での予言なのだ。それを変えようという志向性はないのだ。アメリカの知的衰退を象徴しているようにも思える。キャスターの池畑修平氏が、「このブレマー氏の予想が外れるよう私たちは行動しなければならない」とフォローしていた。同番組、三人のキャスターたちの姿勢には好感がもてる。
だいたい、したり顔で「未来はこうなる」などと偉そうに断言している知識人の発言は信用しない方がいい。未来というのは、傍観者として予想するようなものではなく、一人ひとりの主体的な働きかけによってつくっていくものだからだ。
その点、フランスのアタリ氏は最悪のシナリオもあり得るが、私たちの行動次第で人類が勝利する明るい未来も開け得るというポジティブな意見だった。
アタリ氏は、これを契機に軍拡競争から医療や食料を重視するよう世界経済を変革のしようと呼びかけていたのだ。アタリ氏は、長期による不況の継続や独裁政権の誕生など最悪のシナリオも可能性もあるとしつつ、私たち一人一人がポジティブなプレイヤーとして世界経済の変革を実現できれば、人類は長期的に勝利できるだろう、と。爆弾や武器ではなく、医療、住宅、水、良質な食料の生産に資源を配分し直そうと呼びかけていた。まったく同感である。
安全保障と称して、どんなにミサイルや戦闘機に金銭を注ぎ込んでも、この程度の危機の前にには全く無力なのだ。
ジャック・アタリは10年間の著書の『危機とサバイバル』(林昌宏訳、作品社刊)で「市場のグローバル化と自由な流通により今後10年で破滅的なパンデミックが発生する恐れがある」と予想しており、新自由主義のグローバル化が人類に幸せをもたらさないことに警鐘を鳴らしてきた。どのみち新自由主義は不幸しかもたらさないのであるから、これを契機として勇気をもって終わらせよう。
今国会でも、農家が種を自家採取する権利を禁止しようという、種苗法改正案が出されている。自民党政権は2000年続いた日本の伝統を完全否定し、国際アグリビジネスの軍門に下って、日本農業を破滅に追い込もうとしているといっても過言ではない。彼らの何が保守なのだ。バカを言うのもいい加減にして欲しい。
アメリカからのビジネス界からの市場原理主義的要求を片端から拒絶することこそ、新自由主義から脱却する第一歩となるだろう。
宮沢賢治『ポラーノの広場』1934年
宮沢賢治の名言をご紹介くださり、ありがとうございました。今回の危機を文明の転換点にせねばならないと思います。がんばって参りましょう。
危機を利用したショックドクトリンで、悪い方向に進めようという勢力に勝てるかどうかですね。東日本大震災のときも、コンクリートで災害を防ぎ切ることは不可能という視点がコンセンサスになるかと思いきや、気付いてみたらいつのまにか国土強靭化勢力に世論は席捲されてしまっていました。
今回どうなるか・・・・しかし悲観していたら、ますますやられてしまいます。前に進めましょう。
また大奥フェミニズムのご論考も大変に啓発されました。最近出た松浦玲氏の『徳川の幕末』を読んでいるのですが、相変わらずの「一橋派史観」で、松平忠固は悪者扱いですし、大奥の政治力もスルーされています。私たちがやるべきことは多そうです。
列島史学の主流は、19前半は一橋派史観、後半は長州靖国史観。これではまさに司馬史観そのものです。あるいは史観を伏せての、ピースミール実証史学。
最近の内情は存じ上げませんが、大学文系では史学関連の講座が教養/専門ともに減少しているという話を十数年前に仄聞しています。これは、高校日本史+大学受験日本史(あるいは世界史)で、十代の人々が「日本(世界)史」に飽き飽きしている証拠でしょう。
この惨状では、社会人になって、司馬の歴史フィクションを歴史学と思い込むのも、残念ながら不可避と言えます。良心的な史家と言える松浦氏でさえ、一代の天才セルフプロデューサー「勝鱗太郎」を結果的には称揚するぐらいですから。勝の鏡像のような、業務上横領犯の福澤諭吉を称揚するが丸山真男ですし。
昭和前半のデタラメ軍国日本を肌で実感し、憎悪する世代は、その反動で、結果的に明治日本を持ち上げる傾向が強い。
「令和」の史学は、明治/昭和の分離史観を解消して、明治/昭和連続史観へ、そして徳川日本近代史へ、と構造変化しなければなりません。これは、「長州靖国史観」が愛する「近代日本の戦争70年」に施した偽装ではありません。「徳川日本の平和270年」を、リスペクトを持って人類史から冷静に見直すことです。
歴史(自分の過去)を偽る者は、「自己」を維持できなくなり、究極的には「他者」支配に陥り、それを真の「自己」と思い込もうとします。米国の「属国/走狗」になりながら、その日本(自己)を「美しい」と偽り続ける連中のようにです。
思わず長くなってしまいました。失礼しました。
コメントが続いてしまい、ごめんなさい。
関さんのご指摘で気付き、本コメント表題の記事を弊ブログにポストしました。ご笑覧頂ければ幸甚です。
丸山真男を批判する必要は高いですね。私も今度の著書で以下のように丸山批判を行いました。長くなりますが、少し紹介します。
丸山眞男は、太平洋戦争中の昭和一九年に『国家学会雑誌』に掲載された論文において、以下のように論じている。
最も熱烈な「攘夷」論者にして同時に積極的な開国論者たりしもの少なからず(佐久間象山・吉
田松陰・大国隆正等)、逆に開国論といふも、その本来の内面的傾向はむしろ最も保守的な鎖国論であって、ただ現下の情勢に推されての止むをえざる開国論にとどまるものであった 。
丸山は、井伊直弼を事例に出しながら、幕閣の開国論の根っこは保守的鎖国論であったと論じ、他方で吉田松陰や大国隆正のような神国思想の持ち主たちを「積極的な開国論者」と評価した。
戦時中だからこのように書かざるを得なかった
のだろう、と思われるかも知れない。とこ ろが 丸山は、敗戦後においても、基本的にこの評価を変えていない のだ 。
「知の巨人」と称賛された丸山のような研究者が、ひとたびこのようなドグマを打ち立ててしまったら、容易に覆すことなどできない。
幕閣の開国論が開明的であったなどと、丸山の主張に反するような論を展開することは、それこそアカデミズムの中にあっては、戦前において天皇制を批判して不敬罪に問われるほどの覚悟が必要であったろう。
かくして松平忠固は、井伊直弼と同様、「保守的開国論」のカテゴリーで ひと括りに され、真剣に研究するに値しない人物と見なされ、その政策内容は顧みられなくなったのも当然であった。
丸山真男も、講座派マルクス主義史学も、日本会議史観も、あまねく長州史観と呼んでよいように思われます。
「丸山真男も、講座派マルクス主義史学も、日本会議史観も、あまねく長州史観と呼んでよいように思われます。」
上記ご指摘、かなり大きな問題を孕んでいるかも知れません。現在、問題になっているのは、「幕末維新史」という研究者が論文を生産するためや幕末マニアのためのコマ切れ時代区分ではなく、また19世紀に「江戸時代」から「明治時代」に変わったなどというご都合史観(長州史観)でもない、19世紀列島の国制史を一貫した整合的な視角から再評価し記述し直す、と言うことのような気がします。
寛政の改革を以降の徳川思想史に関しては、眞壁仁『徳川後期の学問と政治/昌平坂学問所儒者と幕末外交変容』2007、前田勉『江戸後期の思想空間』2009・『江戸の読書会』2012、などのかなり重要な本が出て、日本近世史学に構造変動が起こる可能性がある(あった?)のですが、いまだ不発です。松平忠固を始めとするいわゆる大大名以外の、中小(零細?)大名出身の老中政治家の評価が進んでいないことにもそれは明らかです。
幕末マニアには人気のある徳川家能吏たち、筒井政憲、川路聖謨、井上清直、岩瀬忠震、等の大活躍はポジティブに評価され、少しづつ知られるようになっていますが、そのボスであった老中(格)は、見向きもされず、むしろネガティブに「無能」の烙印が押されるのが関の山です。恐らく、徳川公儀の老中選抜システムが、中小(零細)大名なので、軽んじられ名目的な消耗品扱いされている節がありますね。徳川政治史の根本史料である、「老中日記」が未だに公刊されずに都立図書館の書庫に大量に眠っている、というのも「実証史学」と言う割には、言っていることとやっていることにかなり恣意的な差があると感じます。長文になってしまいました。失礼します。とりあえず
>そのボスであった老中(格)は、見向きもされず、むしろネガティブに「無能」の烙印が押されるのが関の山です
調べれば調べるほど、魅力的で有能な老中がたくさんいたことがわかります。彼らの業績が一様に無視されているのは、日本人の歴史観を誤らせている重大な要因であり、日本にとっての損失とも思われます。
老中研究の必要性は徐々に認識されてきているので、今後、この状態が変わっていくことを希求します。