本を書いていて、そちらに集中せねばならなかったため、長い間ブログを放置しております。申し訳ございません。
丸山穂高衆院議員(大阪19区)が北方領土を取り返すには「戦争をしないと、どうしようもなくないですか」と発言。この発言の真偽を検証してみたい。
そもそも択捉島とウルップ島のあいだに日露の国境線が引かれるのが確定したのは、1855年の日露和親条約においてである。この条約では択捉島まで日本領とするとともに、ロシアが領有権を主張していた樺太についても、交渉によってロシアを譲歩させ、樺太を両国の雑居地とするという大きな交渉成果を勝ち取った。まったく平和的な交渉によってロシアを譲歩させたのだ。
日本側の交渉担当者は徳川政権の外交官・川路聖謨であった。川路は、ロシアの交渉担当者プチャーチンとのあいだに友情を深め、ロシアを支援し、そしてロシアから大幅な譲歩を勝ち取ったのだ。徳川政権の外交能力は、現在の日本政府のそれを上回るかも知れない。
安政元(1854年)11月、日露和親条約締結交渉のために来航し、下田に碇泊していたロシアの軍艦ディアナ号が津波で大破し、その後、駿河の富士の沖合で嵐により沈没してしまうという不幸な事故があった。
富士の漁民たちは懸命にロシア人の救助活動を行い、乗務員は全員が附近の海岸に上陸し、奇跡的に全員が助かったのである。その人道的な姿勢はロシア側から賞賛された。
この様子は、今年の3月27日にNHKのBSで「ヘダ号の奇跡」という番組で放映されていた。当時、どれだけロシア軍人たちが日本の人道的支援に感謝していたかがよく分かる、大変によい番組であった。
徳川政権は、帰国できなくなったロシア人を救うため、伊豆の戸田村において日露で協力して新しい船を建造することに決定した。
日露で協力して新造船を建造することで、日本側も洋式造船技術を学ぶというメリットがあった。伊豆の戸田村の船大工で新艦建造の棟梁の一人になった上田寅吉は、この時の経験によって飛躍的に技術を高め、のちに「日本造船の父」と呼ばれるようになった。人を助ければ、結局は自分たちも助けられるのだ。
新艦建造で日露協力が実現したことは、両国の信頼関係を高め、日露領土交渉にも良い影響を与えた。川路聖謨が率いた日本側交渉団は、ロシア側から大きな譲歩を引き出し、樺太は国境を定めず両国の雑居地とし、またエトロフ島までを日本領とする交渉成果を勝ち取ったのである。困っている相手国を助けてこそ、友情を深めてこそ、外交交渉もうまくいくのだ。
ちなみにロシアのディアナ号が沈没したとき、水戸の徳川斉昭は、船が沈没して困っているロシア人を襲撃して全員皆殺しにせよという、残忍きわまりない建言をして、老中たちを困らせている。公儀老中たちは、必死に斉昭の暴言を諫め、日露協力を推し進めた。
徳川斉昭の恐るべき主張をもし実施に移していたら、ロシアとの全面戦争は避けられなかったであろう。それでエトロフ島までを日本領とする交渉成果を勝ち取れたとはとても思えない。下手をすれば北海道の一部の割譲まで強いられていたのではないか。
さしずめ、あまりにも小物なので比べるべくもないが丸山穂高議員は、徳川斉昭的なのである。
若手議員にこのような人物が増えてきたことは真に恐ろしい。徳川の平和が終わり、好戦主義の明治国家に転換していくときも世相もこうだったのだ。
丸山穂高衆院議員(大阪19区)が北方領土を取り返すには「戦争をしないと、どうしようもなくないですか」と発言。この発言の真偽を検証してみたい。
そもそも択捉島とウルップ島のあいだに日露の国境線が引かれるのが確定したのは、1855年の日露和親条約においてである。この条約では択捉島まで日本領とするとともに、ロシアが領有権を主張していた樺太についても、交渉によってロシアを譲歩させ、樺太を両国の雑居地とするという大きな交渉成果を勝ち取った。まったく平和的な交渉によってロシアを譲歩させたのだ。
日本側の交渉担当者は徳川政権の外交官・川路聖謨であった。川路は、ロシアの交渉担当者プチャーチンとのあいだに友情を深め、ロシアを支援し、そしてロシアから大幅な譲歩を勝ち取ったのだ。徳川政権の外交能力は、現在の日本政府のそれを上回るかも知れない。
安政元(1854年)11月、日露和親条約締結交渉のために来航し、下田に碇泊していたロシアの軍艦ディアナ号が津波で大破し、その後、駿河の富士の沖合で嵐により沈没してしまうという不幸な事故があった。
富士の漁民たちは懸命にロシア人の救助活動を行い、乗務員は全員が附近の海岸に上陸し、奇跡的に全員が助かったのである。その人道的な姿勢はロシア側から賞賛された。
この様子は、今年の3月27日にNHKのBSで「ヘダ号の奇跡」という番組で放映されていた。当時、どれだけロシア軍人たちが日本の人道的支援に感謝していたかがよく分かる、大変によい番組であった。
徳川政権は、帰国できなくなったロシア人を救うため、伊豆の戸田村において日露で協力して新しい船を建造することに決定した。
日露で協力して新造船を建造することで、日本側も洋式造船技術を学ぶというメリットがあった。伊豆の戸田村の船大工で新艦建造の棟梁の一人になった上田寅吉は、この時の経験によって飛躍的に技術を高め、のちに「日本造船の父」と呼ばれるようになった。人を助ければ、結局は自分たちも助けられるのだ。
新艦建造で日露協力が実現したことは、両国の信頼関係を高め、日露領土交渉にも良い影響を与えた。川路聖謨が率いた日本側交渉団は、ロシア側から大きな譲歩を引き出し、樺太は国境を定めず両国の雑居地とし、またエトロフ島までを日本領とする交渉成果を勝ち取ったのである。困っている相手国を助けてこそ、友情を深めてこそ、外交交渉もうまくいくのだ。
ちなみにロシアのディアナ号が沈没したとき、水戸の徳川斉昭は、船が沈没して困っているロシア人を襲撃して全員皆殺しにせよという、残忍きわまりない建言をして、老中たちを困らせている。公儀老中たちは、必死に斉昭の暴言を諫め、日露協力を推し進めた。
徳川斉昭の恐るべき主張をもし実施に移していたら、ロシアとの全面戦争は避けられなかったであろう。それでエトロフ島までを日本領とする交渉成果を勝ち取れたとはとても思えない。下手をすれば北海道の一部の割譲まで強いられていたのではないか。
さしずめ、あまりにも小物なので比べるべくもないが丸山穂高議員は、徳川斉昭的なのである。
若手議員にこのような人物が増えてきたことは真に恐ろしい。徳川の平和が終わり、好戦主義の明治国家に転換していくときも世相もこうだったのだ。