薩長公英陰謀論者さんから8月8日にいただいたコメントを紹介いたします。水色字がいただいたコメントで白地が私からのリプライです。
2015年08月06日付記事「アメリカが盗聴を止めないのであればTPP交渉から離脱すべきである」非常に有益でした。お礼を申し上げます。
日本の円安操作と一体の異様な金融緩和は、金融緩和余力がなくなったアメリカ筋の指示によるものかと思っておりましたら、TPPで為替操作禁止が真っ向から持ち出されるとはやはり、と・・・円安反対の米自動車業界の差し金によるものか、むしろ為替投機を自由にやりたい金融筋の思惑なのか・・・TPPをめぐって米国サイドにおいてかなりの齟齬があるのではないかと見受けます。
アメリカ国内にも大きな矛盾があり、それゆえ混迷しまくっていると思います。金融業界の影響が強いUSTRは為替操作禁止条項にはあまり乗り気ではないでしょうが、議会は自動車業界など製造業の影響も強いので為替操作禁止条項を求める声が強いのだと思います。
すでに情報操作と言う以外のものではなく、せいぜい逆読みするしかないマス・メディアの報道では覆い隠される実情を早速お伝えいただきありがとうございました。なるほどTPP昏迷・・・まさかそこから、戦争法案と同期して「日米FTA」に一気に飛ぶとか。
山田正彦さんは著書『TPP秘密交渉の正体』 (竹書房新書、2013年)で「本当に怖いのはTPPの日米並行協議」と書かれています。TPP本交渉が漂流しても、アメリカは日米並行協議で日本をカモに次から次へと要求をのませることができるからです。
TPPが漂流しても、漂流のあいだにも着々と二国間交渉でゴリ押しできます。だから日米FTAなんていうのも必要ないし、日米FTAは政治日程には上らないだろうと先日、山田正彦さんはおっしゃっていました。
そこで山田さんご本人に「しかし、日米並行協議で次々に要求をのまされても、TPPの本協定が流産すれば、そんなものに法的拘束力はありませんよね」と尋ねると、「次々に日本の国内法を改正させて、のませてしまう」とのことでした。
そういえば、例えば2015年から軽自動車税が1.5倍に増税されていますが、あれもおそらく「軽自動車の規格は貿易障壁だから廃止せよ」とアメリカから要求されていたことと関係しているのでしょう。
日本側が「規格は廃止できないが、税率を一般車に近づけるよう増税します」と妥協してしまったのでしょう。日本政府は、米国の圧力とは口が裂けても言えないので、あたかも国内の財政事情で増税せざるを得ないような説明をして、国民の目をごまかしているのでしょう。
結局、TPPの日米並行協議でのんだことは、TPP交渉が漂流しても、確実に国内法の改悪という形で実施に移されていくのだと。まさに「TPPより怖い日米並行協議」です。
☆☆☆
りくにすさまと関さんのやりとりを拝読して、はるかむかし、10代の終わり頃に、新緑の溢れる教養部の小さな教室で、痩せぎすの疳の強そうな憲法の先生から聴いたやに思える言葉がアタマを横切りました。
「国家からの自由(= ジョン・ロック風「 liberty 」)」と「国家への自由(= ルソー風「 liberte 」)」です。
りくにすさまの言われる、国政に対して公然と発言して意見を反映させようとすることの自由、おそらく、反ナチス・レジスタンスを闘った詩人、ポール・エリュアールが歌った有名な「リベルテ」、これなくして国家の専横抑圧からの解放=「リバティ」が結実することはない、と膝を打ちました。
一見、正反対のように見える「国家からの自由」と「国家への自由」は、この二つの自由の弁証法的な統合運動のなかでのみ成立しうる、ということかと理解しました。
ほんとうにそうです!これを「自由に関する、りくにすさん原理」と名づけてはいかがでしょう。
思いますに、甲子園球場で熱狂する観客たち、銀座をショッピングに歩く人々、・・・岸信介氏の鋭い目には「国家からの自由を行使している人々」には映っていなかったのではないかと思います。
おそらく「注文どおりに嬉々として嵌められた人々」に見えていたのでは。スポーツを含めてあらゆる勝負ごとが苦手で、自ら足を運ぶ銀座は「七丁目ライオン」のみの、不器用な偏屈からの凡なやっかみでしょうか。
「国家」が荒れ狂うとき、その風に媚びず、身にあったやり方で「それなりに」支配に立ち向かい自由を脇の下に抱え持つことこと、その一つの例を永井荷風が示していると思っておりました。
しかしいま、議事堂前で声をあげる人々は、国家が国民(つまり、国)から乖離して、その対立物となってしまったことを一人ひとり全身で弾劾することによって「国家への自由」が行使できることを示しています。
それによって、国家が人に人を殺させること、つまり外では殺戮と破壊の「戦争」をすること、内ではあの「アクト・オブ・キリング化」することを精一杯の声をあげて防ごうとしています。永井荷風ができなかったことを。
しかも、個人があくまでそれぞれ個人でありながら、その力をあわせてそうすることができること、これを若者たちが突然に、湧き出る躍動によって示してしまいました。そして、波がミドル、オールズ、むろんレディーズへと。偉大なことではないでしょうか。
緑から漏れてくる光を抱く友たちに囲まれていたつもりだった頃の記憶に戻り、立憲主義こそ、民(国民=ネィション=民族)の「国家への自由」の決定的で唯一の平和的な武器だったということを思い出しました。
専横的権力は、自分たちをチェックし制約する規範・ルールを打毀したいがために憲法を否定し立憲主義を排斥します。
そして民に対して守るべき約束というのは存在しない、自分たちの恣意以外に正義は存在しない、つまり法的安定性を意に介さないと、まるで、自分たちが武器を取って力ずくで権力を獲得したかのような「覇者幻想」に惑溺して言いつのるわけです。自分たちより強いものには、「超憲法的存在」として拝跪しながら。
SEALDsのアピール「憲法守れ!」の射程の深さに気が遠くなります。
ここで、ガメ・オベール氏のウェブログの「初めて立てられた柱のそばで August 4, 2015 」https://gamayauber1001.wordpress.com から抜粋引用します:
「 日本社会は20年の停滞と、覆えなくなった衰退の苦しみを通じて、おおきく変わりつつある。遠くから見ていて、最も顕著な変化はいままでの攻撃的糾弾的な口調が疎まれだして、古く感じられて、『議論をしたい』『自分の意見を聞いてもらいたい』という自由社会ができあがっていくには絶対に必須の姿勢が若い世代を中心に生まれてきたことだとおもう。
これだけたくさんの、急進的右翼、体制側、反体制側、リベラル・・・あらゆる階層の「ガミガミおっちゃん」「皮肉屋おじさん」「軍人口調の軍師気取りおやじ」たちに囲まれながら、まっすぐに自分が保持している自由の主張に向かった若いひとびとの魂は、他国、とりわけアジアの若い世代のなかにおおきな共感を呼んでいる」
「『日本人は苦しいときだから、嫌韓や反中の、少しヘンな方向に向かってしまったのは仕方がないんだよ、ガメ、わたしたち中国人や韓国人の学生は、まだもう少し様子を見るべきだと思ってる。日本人は、バカじゃない。必ず判ってくれるときがくる』と述べたアジア系学生たちの言葉は、おどろくべきことに真実だった。若い人達は、まだ香港や北京、京城の学生たちと初対面で顔をあわせる前なのに、すでにお互いになくてはならないほど気持ちを通いあわせてしまっている」
「 民主制が壊れてしまうのが先か、かろうじて踏みとどまって、民主制という容れものが戦後70年間、『国民的情緒』として湛(たた)えてきた澱んだ全体主義に、自由主義の新しい、冷たく透明な水がいれかわっていくか、時間との競争で、はらはらするような気持ちで見ています」
・・・と。
土地勘のないところで、高校生レベルの「歴史的知識」にすぎないことを白状して、たしかスターリンに覆された「反ファシズム統一戦線」を今こそ、と身の程知らずに思います。むろんガメ・オベール氏の示唆する国際的連帯のもとに、そして国内では、自民党内のリベラル派を含めてはどうかと。
と、考えていたところ、SEALDsの中心メンバーの一人の発言に驚愕しました。「とりあえず、『自民党内で』安倍首相ともっとも対立している人に首相になってほしい」と(参照:2015年7月29日、東京新聞「こちら特報部」『誰にも任せられぬ』)。
まちがいなく政治音痴だの「やっぱり右翼」だの何のかんのとひどく叩かれたであろう、この左翼OBにはまさに「失望的」だった、この発言の高度で洗練された政略的聡明さに舌を巻き、低頭してシャッポをぬぎました。逆立ちしようがかないません。
この路線のさまざまな意味での現実的威力はさることながら、何はさておき、りくにすさまご懸念の「デモに行くと就職できなくなる」という学生たちの杞憂を吹き飛ばすものではないでしょうか。
ガメ・オベール氏のブログの紹介ありがとうございました。こんなブログがあったのですね。あまりにも的確で、核心を得ている発言に敬意を抱きました。是非多くの方々(急進的右翼、体制側、反体制側、リベラル・・・あらゆる階層の「ガミガミおっちゃん」「皮肉屋おじさん」「軍人口調の軍師気取りおやじ」さんたち)に読んで欲しい言葉でした。
SEALDsの女子学生たちが「デモに行くだけで就職させてくれない企業があるのなら、そんな企業はこっちから願い下げだ!」というような発言をしているのをどこかで読んで、私も泣けてくるくらいうれしかったです。鶴見俊輔さんも、この世を去る直前にあのような学生たちが出現したことを知って、きっと安心して旅立たれたのではないでしょうか。
関さん、たしかに日本共産党のピグマリオン・コンプレックスには思わず焦慮に駆られます。
時として「共産党の人たちは、まさか世の中の不幸を、自分たち(だけ)が正しいということを立証するものだと考えているのではないだろうね」とか
「何はともかく世の不幸に対して闘う、というのではなく、何にせよ『自分たちの正しさ』のために闘う、ということにはなっていないよね」と、つぶやきたくなるときがあります。
それはそれとして、考えてみれば他の勢力が日本共産党に継続的共闘をはたらきかけたことがあるでしょうか。つねに仲間はずれにされる(共産党だけは、と差別にさらされる)がゆえに、頑強に自分たちの殻に閉じこもるのはむしろ当然のことのように思います。
見ておりますと、SEALDsはそこを軽々と乗り越えてしまったのではないでしょうか。
そうです。自民党内の反戦平和勢力に瞼をあげてもらい、へたをすれば経済界にまで輪を拡げるということ(おそらくこれがキィかと推察します。第一、これで就職の心配は霧消しますね)これが「未来によって誰よりも愛されている」素敵な若者たちには可能ではないかと思えます。
「反ファシズム統一戦線」というと時代がかっていますが、それに相当するものが必要だと思います。ヒトラーを止めるためにはアメリカとソ連ですら手を組めたわけですから。少しくらいの考え方の違いで四の五の言っている場合ではありませんし。釈迦に説法になりますが・・・・・。ファシズムを止めるのが先か、それとも奴隷か、死か、です。
2015年08月06日付記事「アメリカが盗聴を止めないのであればTPP交渉から離脱すべきである」非常に有益でした。お礼を申し上げます。
日本の円安操作と一体の異様な金融緩和は、金融緩和余力がなくなったアメリカ筋の指示によるものかと思っておりましたら、TPPで為替操作禁止が真っ向から持ち出されるとはやはり、と・・・円安反対の米自動車業界の差し金によるものか、むしろ為替投機を自由にやりたい金融筋の思惑なのか・・・TPPをめぐって米国サイドにおいてかなりの齟齬があるのではないかと見受けます。
アメリカ国内にも大きな矛盾があり、それゆえ混迷しまくっていると思います。金融業界の影響が強いUSTRは為替操作禁止条項にはあまり乗り気ではないでしょうが、議会は自動車業界など製造業の影響も強いので為替操作禁止条項を求める声が強いのだと思います。
すでに情報操作と言う以外のものではなく、せいぜい逆読みするしかないマス・メディアの報道では覆い隠される実情を早速お伝えいただきありがとうございました。なるほどTPP昏迷・・・まさかそこから、戦争法案と同期して「日米FTA」に一気に飛ぶとか。
山田正彦さんは著書『TPP秘密交渉の正体』 (竹書房新書、2013年)で「本当に怖いのはTPPの日米並行協議」と書かれています。TPP本交渉が漂流しても、アメリカは日米並行協議で日本をカモに次から次へと要求をのませることができるからです。
TPPが漂流しても、漂流のあいだにも着々と二国間交渉でゴリ押しできます。だから日米FTAなんていうのも必要ないし、日米FTAは政治日程には上らないだろうと先日、山田正彦さんはおっしゃっていました。
そこで山田さんご本人に「しかし、日米並行協議で次々に要求をのまされても、TPPの本協定が流産すれば、そんなものに法的拘束力はありませんよね」と尋ねると、「次々に日本の国内法を改正させて、のませてしまう」とのことでした。
そういえば、例えば2015年から軽自動車税が1.5倍に増税されていますが、あれもおそらく「軽自動車の規格は貿易障壁だから廃止せよ」とアメリカから要求されていたことと関係しているのでしょう。
日本側が「規格は廃止できないが、税率を一般車に近づけるよう増税します」と妥協してしまったのでしょう。日本政府は、米国の圧力とは口が裂けても言えないので、あたかも国内の財政事情で増税せざるを得ないような説明をして、国民の目をごまかしているのでしょう。
結局、TPPの日米並行協議でのんだことは、TPP交渉が漂流しても、確実に国内法の改悪という形で実施に移されていくのだと。まさに「TPPより怖い日米並行協議」です。
☆☆☆
りくにすさまと関さんのやりとりを拝読して、はるかむかし、10代の終わり頃に、新緑の溢れる教養部の小さな教室で、痩せぎすの疳の強そうな憲法の先生から聴いたやに思える言葉がアタマを横切りました。
「国家からの自由(= ジョン・ロック風「 liberty 」)」と「国家への自由(= ルソー風「 liberte 」)」です。
りくにすさまの言われる、国政に対して公然と発言して意見を反映させようとすることの自由、おそらく、反ナチス・レジスタンスを闘った詩人、ポール・エリュアールが歌った有名な「リベルテ」、これなくして国家の専横抑圧からの解放=「リバティ」が結実することはない、と膝を打ちました。
一見、正反対のように見える「国家からの自由」と「国家への自由」は、この二つの自由の弁証法的な統合運動のなかでのみ成立しうる、ということかと理解しました。
ほんとうにそうです!これを「自由に関する、りくにすさん原理」と名づけてはいかがでしょう。
思いますに、甲子園球場で熱狂する観客たち、銀座をショッピングに歩く人々、・・・岸信介氏の鋭い目には「国家からの自由を行使している人々」には映っていなかったのではないかと思います。
おそらく「注文どおりに嬉々として嵌められた人々」に見えていたのでは。スポーツを含めてあらゆる勝負ごとが苦手で、自ら足を運ぶ銀座は「七丁目ライオン」のみの、不器用な偏屈からの凡なやっかみでしょうか。
「国家」が荒れ狂うとき、その風に媚びず、身にあったやり方で「それなりに」支配に立ち向かい自由を脇の下に抱え持つことこと、その一つの例を永井荷風が示していると思っておりました。
しかしいま、議事堂前で声をあげる人々は、国家が国民(つまり、国)から乖離して、その対立物となってしまったことを一人ひとり全身で弾劾することによって「国家への自由」が行使できることを示しています。
それによって、国家が人に人を殺させること、つまり外では殺戮と破壊の「戦争」をすること、内ではあの「アクト・オブ・キリング化」することを精一杯の声をあげて防ごうとしています。永井荷風ができなかったことを。
しかも、個人があくまでそれぞれ個人でありながら、その力をあわせてそうすることができること、これを若者たちが突然に、湧き出る躍動によって示してしまいました。そして、波がミドル、オールズ、むろんレディーズへと。偉大なことではないでしょうか。
緑から漏れてくる光を抱く友たちに囲まれていたつもりだった頃の記憶に戻り、立憲主義こそ、民(国民=ネィション=民族)の「国家への自由」の決定的で唯一の平和的な武器だったということを思い出しました。
専横的権力は、自分たちをチェックし制約する規範・ルールを打毀したいがために憲法を否定し立憲主義を排斥します。
そして民に対して守るべき約束というのは存在しない、自分たちの恣意以外に正義は存在しない、つまり法的安定性を意に介さないと、まるで、自分たちが武器を取って力ずくで権力を獲得したかのような「覇者幻想」に惑溺して言いつのるわけです。自分たちより強いものには、「超憲法的存在」として拝跪しながら。
SEALDsのアピール「憲法守れ!」の射程の深さに気が遠くなります。
ここで、ガメ・オベール氏のウェブログの「初めて立てられた柱のそばで August 4, 2015 」https://gamayauber1001.wordpress.com から抜粋引用します:
「 日本社会は20年の停滞と、覆えなくなった衰退の苦しみを通じて、おおきく変わりつつある。遠くから見ていて、最も顕著な変化はいままでの攻撃的糾弾的な口調が疎まれだして、古く感じられて、『議論をしたい』『自分の意見を聞いてもらいたい』という自由社会ができあがっていくには絶対に必須の姿勢が若い世代を中心に生まれてきたことだとおもう。
これだけたくさんの、急進的右翼、体制側、反体制側、リベラル・・・あらゆる階層の「ガミガミおっちゃん」「皮肉屋おじさん」「軍人口調の軍師気取りおやじ」たちに囲まれながら、まっすぐに自分が保持している自由の主張に向かった若いひとびとの魂は、他国、とりわけアジアの若い世代のなかにおおきな共感を呼んでいる」
「『日本人は苦しいときだから、嫌韓や反中の、少しヘンな方向に向かってしまったのは仕方がないんだよ、ガメ、わたしたち中国人や韓国人の学生は、まだもう少し様子を見るべきだと思ってる。日本人は、バカじゃない。必ず判ってくれるときがくる』と述べたアジア系学生たちの言葉は、おどろくべきことに真実だった。若い人達は、まだ香港や北京、京城の学生たちと初対面で顔をあわせる前なのに、すでにお互いになくてはならないほど気持ちを通いあわせてしまっている」
「 民主制が壊れてしまうのが先か、かろうじて踏みとどまって、民主制という容れものが戦後70年間、『国民的情緒』として湛(たた)えてきた澱んだ全体主義に、自由主義の新しい、冷たく透明な水がいれかわっていくか、時間との競争で、はらはらするような気持ちで見ています」
・・・と。
土地勘のないところで、高校生レベルの「歴史的知識」にすぎないことを白状して、たしかスターリンに覆された「反ファシズム統一戦線」を今こそ、と身の程知らずに思います。むろんガメ・オベール氏の示唆する国際的連帯のもとに、そして国内では、自民党内のリベラル派を含めてはどうかと。
と、考えていたところ、SEALDsの中心メンバーの一人の発言に驚愕しました。「とりあえず、『自民党内で』安倍首相ともっとも対立している人に首相になってほしい」と(参照:2015年7月29日、東京新聞「こちら特報部」『誰にも任せられぬ』)。
まちがいなく政治音痴だの「やっぱり右翼」だの何のかんのとひどく叩かれたであろう、この左翼OBにはまさに「失望的」だった、この発言の高度で洗練された政略的聡明さに舌を巻き、低頭してシャッポをぬぎました。逆立ちしようがかないません。
この路線のさまざまな意味での現実的威力はさることながら、何はさておき、りくにすさまご懸念の「デモに行くと就職できなくなる」という学生たちの杞憂を吹き飛ばすものではないでしょうか。
ガメ・オベール氏のブログの紹介ありがとうございました。こんなブログがあったのですね。あまりにも的確で、核心を得ている発言に敬意を抱きました。是非多くの方々(急進的右翼、体制側、反体制側、リベラル・・・あらゆる階層の「ガミガミおっちゃん」「皮肉屋おじさん」「軍人口調の軍師気取りおやじ」さんたち)に読んで欲しい言葉でした。
SEALDsの女子学生たちが「デモに行くだけで就職させてくれない企業があるのなら、そんな企業はこっちから願い下げだ!」というような発言をしているのをどこかで読んで、私も泣けてくるくらいうれしかったです。鶴見俊輔さんも、この世を去る直前にあのような学生たちが出現したことを知って、きっと安心して旅立たれたのではないでしょうか。
関さん、たしかに日本共産党のピグマリオン・コンプレックスには思わず焦慮に駆られます。
時として「共産党の人たちは、まさか世の中の不幸を、自分たち(だけ)が正しいということを立証するものだと考えているのではないだろうね」とか
「何はともかく世の不幸に対して闘う、というのではなく、何にせよ『自分たちの正しさ』のために闘う、ということにはなっていないよね」と、つぶやきたくなるときがあります。
それはそれとして、考えてみれば他の勢力が日本共産党に継続的共闘をはたらきかけたことがあるでしょうか。つねに仲間はずれにされる(共産党だけは、と差別にさらされる)がゆえに、頑強に自分たちの殻に閉じこもるのはむしろ当然のことのように思います。
見ておりますと、SEALDsはそこを軽々と乗り越えてしまったのではないでしょうか。
そうです。自民党内の反戦平和勢力に瞼をあげてもらい、へたをすれば経済界にまで輪を拡げるということ(おそらくこれがキィかと推察します。第一、これで就職の心配は霧消しますね)これが「未来によって誰よりも愛されている」素敵な若者たちには可能ではないかと思えます。
「反ファシズム統一戦線」というと時代がかっていますが、それに相当するものが必要だと思います。ヒトラーを止めるためにはアメリカとソ連ですら手を組めたわけですから。少しくらいの考え方の違いで四の五の言っている場合ではありませんし。釈迦に説法になりますが・・・・・。ファシズムを止めるのが先か、それとも奴隷か、死か、です。
関さん、いま目の前で見ている時代が尋常なものではないことに急かれてしまい走り書きになりましたものに、カーンと澄んだ音が鋭く響くような的確なフォローアップ・コメントをいただき、心から感謝しております。
関さんから各論点に対して逐一いただいた丁寧なご指摘へのお礼を申し上げるとともに、戦争反対の声を上げる若者たちに対する「就職恫喝」について先の投稿での言及の仕方がきわめて不適切であったことをお詫びして、大急ぎで補正補足いたします。
☆☆☆
「米日TPP」、二国間交渉=米系グローバル企業の利益を代表する米国政府の要求による日本の国内法変更という新次元の構造改革が進行していること、そこですでに日本という国家が日本国民のために存在するものではなくなっていること、国民の利益を代表する国家間の国際条約という想定がここではありえないこと、ご指摘のことにあらためて衝撃を受けて、両膝を地についてしまいます。
「日米安保体制」の「日米軍事同盟」への変化を国内法変更によって公然とした国家体制に仕立てること、それがいま焦眉の争点となった「安保法案(戦争法案)」なのですね。
第3次アーミテージ&ナイ報告@CSISの口ぶりからあてずっぽうで思っていた「TPPと戦争法案の一体性」が大きな岩のようにゴロンと目の前に落ちてきたように思えます。山田正彦氏とのやりとりのご教示、ありがとうございました。
現在の国会両院におけるこの国内法変更・国内法制化に対して、逐一どのように立ち向かうか、きわめて重大な課題ですね。
☆☆☆
ガメ・オベール氏の智識と饒舌には往々にして気が遠くなります。じつは氏のツィッターにきわめて興味深いやりとりがありました。ガメ・オベール氏の「止揚的な知性」が期せずして関さんの「代替案@弁証法」コンセプトとまさに対応していると驚きました。
十全外人大庭亀夫@gamayauber01 2015年08月08日&09日
@midoriSW19 科学者の告発や行動だけで変わるとは思わないけれど
@gamayauber01 いま考えていたのだけど、やはり「糾弾的な知性」は世界をよくすることは出来ないのだとおもいます
@midoriSW19 「糾弾的な知性」の対極にあるものは何?
@gamayauber01「止揚的な知性」に決まっているでないの。わしらは、その愚かさによってのみ危機を乗り切ってきたのではないの。そんなことも判らないのか
@gamayauber01 渋谷や国会前に集まった若いひとびとを見ていると日本は20年の苦しみと停滞をくぐって文明を発見しつつあるのではないかという気がする。おっちゃんやおばちゃんたちの「糾弾的な知性」とは別のものがそこに生まれている。言葉さえ新しくて透明である。素晴らしい、というほか言いようがない
☆☆☆
先回の投稿において、戦争反対デモ参加者への「就職恫喝」を結果として肯定することになる論議のもって行き方をいたしまして臍を噛んでおります。
急ぎお詫びして、その恫喝はまさに「詐欺」であることを急いで申し上げなければならないと思い投稿をしたためた次第です。
(1)採用にあたって戦争反対デモに参加したかどうかを企業側が本人に聞くことは法的な問題からしてありえないでしょうし、たしかに企業には往々にして警察OBが採用されていますが
(2)公安筋から個人情報の提供を得て採用諾否を決するということは公安・企業双方側において現実問題としてありえないのではないかと思います。
すなわち(1)、(2)ともに、法的な問題=企業にとってきわめてリスクの高いコンプライアンスの問題としてありえないと考えてよいかと思います。
もし何らかのかたちで(1)または(2)があったとすれば、まさに関さんが言及されたSEALDsの女子学生さんたちの発言のとおり、それはとんでもないブラック企業であり、パブリックに指弾されるべきです。
おそらく採用のみならず他も推して知るべしで、そんなところに入社すべきではないであろうと思います。
それに・・・企業は国際間の対立緊張によって(その種の企業ではない限り)まっさきに被害を受け、大きな負担を負います。中国での反日運動の生々しい経験はつい最近のことです。まして戦争となると、対象地域・関連地域の事業基盤が吹っ飛びます。
以前に経済界要人の無責任きわまりない「戦争待望論」を紹介しました。しかし、ミクロ(個別企業)のベースでは、国際間の平和こそが企業の事業環境を担保します。「企業の論理」からして平和は不可欠なものとなります。おそらく戦争を望むのは軍需関連部門だけではないでしょうか。
ということで、デモ参加者への「就職恫喝」はレベルの低い、アナクロな、卑しい詐欺であることに間違いないと思います。一笑に付されてしかるべきであると思量します。
企業についてよくご存じの方が本投稿をご覧でしたら、どうかアドバイスをいただくことができますでしょうか。
☆☆☆
「反ファシズム統一戦線」や「人民戦線」というのはたしかにセピア色をした言葉ですね。「戦線」という言葉がいかにもで。
新鮮で躍動的なコンセプトと言葉がSEALDsから生み出されることを期待します。
それが!広島の北東部、山深いところにあるという庄原市で、亀井静香氏の弟子筋にあたるらしい現役の自民党県議が会長となって「『ストップ・ザ・安保法制』庄原市民の会」が誕生、副会長は市議会議長で、庄原市議20人のうち、自民党、共産党、社民党を含む19人が「個人として参加」しているそうです( http://ideanews.jp/archives/7051 )。
この会の会長、小林県議はインタビューにこう答えています。
「私は40年間、自民党籍でずっとやってきました。私の規範というのは40年間変わってませんし、政治信条も変わっていません。保守本流を真っ直ぐ歩いてきたと思っていますが、ひるがえって考えると、小泉政権のころから自民党は、本部は、独断的状態になってきた。安倍政権に至っては、ほんとに右傾化をし、そして国民に背を向けてしまった、ということで、我々が変わったわけではない。党本部が変わったという風に認識をしておりまして、そのことは態度で表明をしていきたいという風に思っています」
「今回の行動については、一切亀井先生と相談はしておりません。・・・(共産党や社民党の市議と一緒に行動することについては)「同じ意志を持った一市民の行動というのが原点にあり、イデオロギーを超えたような状態でやる。(安保法案は)日本国憲法に抵触するのであり、これ(憲法)以上の規範はないので、当然、一緒になって考えられると私は思っています」
関さんのおっしゃるとおり、小異をものともせず掲げるべきはまさに「ファシズムを止めるのが先か、それとも奴隷か、死か」であると思います。
2015年8月7日(金曜日)、アメリカから帰国して国会前デモに参加したSEALDsの若者はこのようにスピーチしました。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/257164
2015.08.09 IWJ Independent Web Journal
「・・・ここで僕は声を上げるのをやめるわけにはいかない。次の世代に僕みたいな辛い経験をさせるわけにはいかない。国を思うこと、心配することは間違っていない。ここに立ってスピーチすることは間違っていない。戦争に行きたくないと言うのは間違っていない。民主主義を追い求めることは間違っていない。理想を掲げることは間違っていない。おかしいことにおかしいということは間違っていない。ここにいるあなたは間違っていない。
私たちは誰の奴隷でもない。思考し続けていきましょう、行動していきましょう。フェイスブックの記事をシェアしていきましょう。自分の言葉にしましょう」
最後に、パスカルの有名な言葉を引用させてください:
「人間はひとくきの葦にすぎない。・・・だが、それは考える葦である。・・・われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならない・・・考えることによって、私が宇宙をつつむ」
☆☆☆
・・・あわてて考え、あわてて書きまして、思考と文章ともに疎漏が目立ち推敲不足であることをお詫びします。
http://blogs.mobile.yahoo.co.jp/p/blog/myblog/content?bid=kotyannomama&id=17803117&ySiD=W_nHVdNTvtays7JAmD7W&guid=ON
これほど魂のこもったスピーチを、私は今まで見たことがありません。感動しました。
さらに、飛び抜けて別格の大和魂田中角栄を可愛がって世界史上最高総理となる道を開いたのが岸佐藤兄弟であることを、母方の孫である安倍晋三はよく考えよ。
安倍晋三の本当の父方祖父の安倍寛は226事件死刑の磯部浅一と同じく尊皇攘夷高杉晋作の師吉田松陰の生まれ変わり「今松蔭」と呼ばれたほどの神童大和魂であった。
その大和魂さえ受け継いでおればいかに無学無能でも安倍晋三が歴史に名を残すことはいともたやすいことである。
人類史上最高の至高の大和魂総理田中角栄の事績を見るがよい。
田中角栄は総理になったとき「総理大臣は自分がなろうと思ってなれるものではない。人事を尽くしてもなれぬモノで、ただ天が命ずるときにのみなれるのである。その総理大臣になった以上は天に対する責任を果たすために、誰もが不可能だと考えることを身命を懸けて成し遂げなければならぬ」と覚悟を語って、世界中の誰もが不可能と考えた日中平和条約締結するために単身丸腰で訪中したのである。まさに敬天愛人西郷隆盛の武士道である。時の中国政府の大君子周恩来首相は田中角栄の武士道に感嘆して世界中の誰もが夢にも思わなかった日中平和条約の締結が達成された。
これが大和魂の歴史である。
安倍晋三よ、大和の国に生まれ育ったのなら必ず大和魂がある。偉大な先達大和魂を温故知新してお前が為すべき大和魂としての仕事を成し遂げれば必ず歴史に大きく名を残すことが出来る。
誰もが不可能だと考えることとは何か。
それは、ロシアと二国間対等相互安保条約を結ぶことだ。決して軍備増強して北方領土を取り戻すことではない。武器を全く用いないで北方領土問題を解決する、これこそが「不可能事」である。これは尖閣諸島についても同じ事である。
また、中国とも二国間対等相互安全保障条約を結ぶことだ。この二つとも誰もが不可能と考えているだろうからこそ、そこに大和魂だけが成し遂げることができる「ロシア及び中国とそれぞれ二国間対等安保条約を締結する」事の本当の意味があるのだ。日本国総理大臣冥利に尽きる、しかも世界史にその名を不朽の栄光とともに刻み込む偉業を、何者をも恐れぬ無刀取り活人剣忘己利他慈悲道徳菩薩武士道の金剛力大和魂で達成せよ。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150810/k10010184861000.html
相手の立場になって考えるという発想が、我々日本人には欠けているのかもしれません。特に自民党が。
確かに石油が足りなくなるから自衛隊を派遣するという考え方は、帝国主義や植民地主義にも見えます。恐らく歴史学者も多くは安保法案に反対しているでしょう。
今の民主主義国家の国々は、もしかしたらひどく傲慢になっているのかもしれませんね。相手がもし民主主義とはいえない国だったとしても、それなりに敬意を払うべきでしょう。いや、百歩譲ってそれが無理だとしても、そこに住んでいる人々のことは考えるべきです。他国の国民への理解が乏しいから、武藤議員のような自国民すら見下す愚かな政治家が誕生してしまったのかもしれません。
我々日本人は、横暴な中国を見て、「まるで19世紀の国のようだ」とつい見下しがちですが、今まさに中国以上に愚かな行為をしようとしているような気がします。
当該記事は「大正デモクラシーは列強の陰謀」という意味にとれる文章でした。
このブログは政治ランキングでいつも上位にいるので見たことある人も多いと思いますが、「右も左もない」というやつはだいたい右寄り、国権主義が好きな傾向にあります。そもそも「日本を守る」というやつは国権主義です。
ここでみんなの共通敵・便利ワード「ロスチャイルド」が登場します。かれらは日露戦争ではロシアを抑えるために日本に融資したのですが、勝利によって増長したので日本の力を弱めるために「大正デモクラシー」を蔓延させたのだそうです。
広瀬隆氏が説明するロスチャイルドは金融業者であると同時に鉱山を握っていて、軍需と原子力を支配していて労働者を抑圧するんですけど。
そして、これを現在に置き換えると、「国会前が抗議デモで溢れかえるのは『ロスチャイルド』のせい」となります。みんな安倍政権に怒っているのに、安倍政権が正しいことになってしまいます。
安保法制にも怒っているし、原発再稼働にも反対する人が多いですからどうも敵は共通のようです。しかし…
意味が取れないよ、という方は「」に注意して熟読してください。「共通敵」を前にしながら、「日本を守りたい」人と、アベ政権に怒っている人が共闘できない、してはいけないということが分かると思います。その「日本」というのは統治機構とか言語・文化とか経済生活より上位にあるものと思えます。
阿部寛は政治的にはよかったかもしれませんが、家庭人としてはどうかと思います。息子の晋太郎氏ができの悪い次男の晋三を折檻していたらしいことは漏れ伝わるところです。晋太郎氏の「あれは政治家になってはいけない人間だ」というのも慧眼でもなんでもなかった。その晋太郎氏もまた父親から…と想像すると、政治の場で有能であっても尊敬する気が起きません。
今日もらったチラシに書いてありましたが、2011年9月に石破茂は「核の潜在的抑止力を維持するために、原発をやめるべきとは思いません」と発言しました。
SEALsの皆さんは原発再稼働をどう思っているのでしょうか。
ところで広瀬隆氏が最近『東京が壊滅する日』(ダイヤモンド社)を出しました。広瀬さんの本をどうしても一冊買わなくてはならないとしたらこれでしょう。『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』など昔の本のデータを2015年の現実に合わせて紹介しています。ロスチャイルドもちゃんと登場します。
国権主義者であっても、改憲論者であっても、立憲主義を遵守する立場であれば、いまは反安倍で共闘できると思います。しかし、国会前のデモ隊まで陰謀史観で語る人々は、ちょっと共闘の手がかりをつかめそうもありませんね。
> 阿部寛は政治的にはよかったかもしれませんが、家庭人としてはどうかと思います。息子の晋太郎氏ができの悪い次男の晋三を折檻していたらしいことは
立派なこと言っている人でも、家庭では問題がある人は多いですからね。安倍寛さんも晋太郎さんもそうだったのですか。
安倍首相が、肉親で岸信介さんのみ尊敬できるというのは、やさいい好好爺だったからなのでしょうか。しかし、だからと言って政治思想まで岸信介を丸のみにしなくても良いでしょうに・・・・。あまりに発展がなくて、逆にあの世の岸さんもガッカリかも知れませんね。
中東の地域研究者ほど危機感強いと思います。安保法制が通れば中東に研究に行くことにもリスクが伴うようになります。いままで平和憲法があるからこそ日本に好意的だった人々が、安保法制を通すことによって「アメリカの仲間」と見なされるようになることが、どれほど重大なリスクか・・・・・。
関良基さま:
関さん、まことに時宜を得た8月15日の記事に感じ入りました。長州史観に関する集大成的結晶です。どうか、これからの歴史が書き替えられますように。
じつは投稿の原稿をたったいま誤って消去してしまいました。
8月11日の「南スーダン作戦計画」文書暴露と8月12日の自衛隊特殊作戦要員2名を乗せた米軍ヘリの辺野古沖での事故と「第3次アーミテージ・ナイ報告」があざやかに符合すること、
そして、昨日手にとって驚愕した、雑誌『世界2015年9月号』の谷口長世氏による記事、間違いなく上記の文書暴露以前に書かれたものである「『死の産業と商人』から眺めた安保関連法案 本能寺は南スーダンにあり」の内容について報告するものでした。
できれば是非、谷口氏の記事をご覧くださればと思います。当方では読み取ることができないことが多々あると思いますから。
取り急ぎ、あわてた報告のみにての失礼をお許しください。
りくにすさま:
りくにすさま、「戦争反対デモ参加者の就職問題」についてのフォローをいただきありがとうございます。そういえば、つい最近知ったガメ・オベールさんの記事によって、言葉というものの大切さを学んだことが、この若者たち問題に結びつくような気がします。
ガメ・オベールさんは、SEALDsに集う若者たちと言葉について、このように ↓ 言っています
( https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/08/15/barbarians-2/ ):
ある日、三浪亭が空をみあげてつぶやいた言葉を読んで、それまでの「運動」とは違う言葉で考えられるひとたちなのだと理解した。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/15/letter5/
・・・たとえば自分たちの写真を無遠慮に撮りまくるマスメディアを怒って、荒い言葉をつかう女のひとのメンバーでも、言葉の荒さとはまったく別個の、魂の純粋さが感じられて、日本全体は、案外、この若い人々が救ってしまうのではないかと思うことがある。
・・・皮肉屋ばかりがうけるのは未開社会の特徴だが、日本の場合「先進社会」でありながら、罵倒好きな国民性がたたって、言語そのものが失われた結果、支配層の側にやすやすと支配されて、囲い込まれて、まるで場でお互いに皮肉を述べて傷つけ合う羊たちとでも言うような滑稽な姿になってしまったのは・・・自分が全体主義的観点に立ってしかものを考えられずに、目立った個人に対して、ありとあらゆる手をつくして集団的なサディズムを行使してきた結果であるとおもう。天然に全体主義者である点で、日本では「左」も「右」も寸分変わらない。
・・・汚い言葉で話す人間は真実を語っていても嘘つきなのだとおもう。その「真実」は、薄汚い魂の人間が、どこかの店先からかすめとってきた、誰か他人のものであるにしかすぎないからです。若い日本人たちは、ほっておいても、ちゃんと自分たちの二本の足であるいていきそうだけど。
<引用以上>
と、このように。
日本の企業のさまざまな激しい劣化は、皆がおなじ言葉で語る、かっては強さだと勘違いされていた「全体主義」が、1980年代以降に猛威をふるった東西冷戦構造の終焉と交差した「世界の新自由主義化」との歪んだ化学反応によって烈しい毒となり、企業の変化する力と動きを麻痺させているからだと思えます。
日本の企業に必要なのは、自分の言葉を持ち自分の言葉で語ることによって動き人々と世界に働きかけ、それによってほんとうの自分へと変化してゆくことができる、意図せずしておのおのの弁証法を生きている若者たちだと思います。
左右をとわず支配している全体主義サディズムへの(長州史観のことかも?)若者たちの挑戦を称揚するガメ・オベール氏に心から共感します。はい!SEALDsのデモにやって来る若者たちは、真剣に未来に取り組む企業に求められ、熱烈歓迎されるにちがいないことを確信します。
そういえば、下手すれば株主利益と説明責任に追いまくられて魔が差すと結局自分に跳ね返る粉飾にまで手を染めかねない企業とは異なって、あくまで責任を追及されることなく眼の先のエゴ利益を追いかけまくることができる官僚が、世のあらゆる悪だくみの背後には必ずいるという感じが強烈にするようになりました。
彼らが「民間より低い待遇を天下国家を背負う矜持で補っている」と国民に思わせることができた時代はすでに半世紀近くむかしになったのですね。
りくにすさまが思い違いを心配なさるアジアの若者は、官僚が自立した展望なしに動かすアベ・ヤスクニ「日本」にではなく、ヘイト・デモではない「戦争反対デモ」に参加する日本の若者たちに期待をかけているのではないでしょうか。
SEALDsに対しておきまりの手あかをなすりつけるおびただしい数のコメントはともかく、思わず背中に冷や汗がスッと流れるようなことを言うひとがいます。戦争反対デモが「反アベ」に絞られていることに注目して、「あれはカラー革命だ」と。それから「SEALDsはアメリカのパシリだ」と。くやしいことにアタマのまわりがおそいので、聞いて一瞬動揺します。
実質的におなじである、この二つの冷笑的、糾弾的認識は、SEALDsを使嗾しているのが米系「非ネオコン(反ネオコン)」筋であるということでなければ成り立たないのではないかと思いますけれど。
CIAと、そのエージェントの直孫が操り人形として動かす日本に非ネオコンが手を出す手立てがあるのでしょうか・・・。
桜島緊迫を読んで駆け込みで行われて、数日後に異様な山体膨張で迎えられた川内原発の再稼働@8月11日(火曜日)、これまで戦争&安保法案反対に集中していたSEALDsのデモのコールに、8月14日(金曜日)雨の中、原発再稼働反対がはじめて現れ「この二つは一つの問題」とアピールされたとのこと( http://www.labornetjp.org/news/2015/0814kinosita )。
8月11日の「スーダン軍事行動計画文書」の存在の暴露、8月12日の自衛隊特殊作戦要員2名を乗せた米軍ヘリの辺野古沖事故・・・と、若者たちが学ぶことのできるあざやかな現実の歴史的展開を若者たちとともに眼前にしています。
おまけに、国威発揚・民心高揚じつは利権の化け物、オリンピックまで「一つの問題」として当然のようにスキャンダル化して( http://ameblo.jp/usinawaretatoki/entry-12062144169.html )。
戦争の悔悟をありのままに引き継ぐ若者たち、ドライアイのアベ・シン。りくにすさま、8月14日のSEALDsスピーチをどうかご覧ください( http://iwj.co.jp/wj/open/archives/258019 )。「招魂」スピーチです。生きているわれわれの魂を含めて。
「右も左もない」・・・「近代の呪い」とは生産力原理であろうと推察します。米国、EU、ロシア、中国、むろん日本・・・を支配する生産力(GDP)パラダイムを持っていない国はかのブータンだけ?なんだか悲しく思います。ひとの心ではなく数字。サイコパス、アベ・シンには当然のことかも。
かっての、天皇制という名の一党専制である、財界(財閥)と結びついた、軍人エリートを含む官僚専制は、富国強兵パラダイムによる、いわゆる「開発独裁」的な特性によってソ連とナチスと共通しているように思えます。
そうなのですか。幼稚園と聞き紛う小学校から企業内学閥まで、それにむろんお財布まで、あらゆる意味で福沢諭吉先生とは無縁であったことをまことに幸いに思います。
「日本銀行」のクーポン、一万円札が人の上に立つ諭吉像で、五千円札が貧窮のなかで病み24歳で夭折した樋口一葉であるというのはまことに残酷です。痛ましくてお札(おふだ?)に触れることをためらいます。千円札の世界は、聖徳太子、伊藤博文、夏目漱石、それから以前に実像をお教えいただいた野口英世という変遷を経ているのですね。
元禄期から田沼時代の江戸時代の興隆期、それが一転しての寛政の世のなかで政論(経世の学)が昌平黌アカデミー、林家の独占となったことがポイントであることを教えていただき感謝します。
そこで江戸期について少し見て、あの三井は紀伊の吉宗に食い込んでいて彼とともに中央、江戸に進出したとか、驚きました。
明治維新について考えるにあたって江戸期の構造変化について見なければ、と当たり前のことにようやく気がつきました。ありがとうございます。
まとまりを考えずに書きました。ご容赦ください。最後に、雑誌『世界』2015年9月号巻頭にある杉並の17歳の高校生からの投稿を紹介させてください:
「あまり勉強は好きじゃないけど・・・これでも一応,世間では『受験生』と呼ばれている。・・・『でも、その日、花火大会あるよ?・・』クラスメイトは大真面目だ。私は、デモそのものよりも彼女の真剣さに惹かれて行ってみることにした。
国会なんて、小学校の社会見学以来だった。頭も育ちもいい特別に選ばれた人たちが、居眠りしながら難しいことを議論する場所。・・・
完全に雰囲気から察したにすぎないが、参加者は私と似た人が多かったと思う。つまり・・・『そのへんの人』だ。・・・それでも、肌で感じたことがある。民主主義とは、雑多でグラデーションに満ちている。・・・行動はときに無力で、声は届かないかもしれない。だとしても『でも・・・』とやらない言い訳を考えるよりは『デモ!』の側にいたい。それは、民主主義国に生まれた私たちの義務でもあると思うから」
いったいぜんたいどうして、このような若者たちが「ふつうに」あらわれたのでしょうか。感動!とともにアタマをかかえてしまいます。
よけいなことを言いますと、もっとアタマをかかえているのは「公安」なのではないかと思います。ひょっとしたら、これは・・・
オリンピックがスキャンダルになってしまい、もう「ええじゃないか」を起こすのはムリでしょう。
なるほど。軍産複合体はビルダーバーグ会議で、未来の紛争地まで「計画」しているわけですね。利権のために。市場大好きな連中のその実は、ソ連顔負けの計画主義者たちなわけです。
南スーダンは、自衛隊による集団的自衛権行使のテストケースとして適当だとして選ばれたのでしょうね。それが米国ではなく、EUの軍事利権と絡んでいるとは・・・・。
もっとも、複雑系の未来は計画通りになりませんから、彼らの目論見通りに行くとは限りません。
谷口論文にも、某ネオコン重鎮の「最近は、やりにくくてなぁ。昔は楽だった。ごちゃごちゃ言い出す国がいたら、ソ連の脅威を持ち出せばよかった・・・」という発言が引用されていました。彼らもシナリオ通りにはなかなか進まなくなって焦燥に駆られているのだと思います。逆転のチャンスは残されているとは思います。
罵倒好きな日本の国民性、糾弾大好き知性などの問題に関しては、別途、引用させていただきながら新記事にさせていただきます。