来年の大河ドラマ「真田丸」の大きな見どころは、これまでドラマや映画などで一度もその全容が描かれたことがない「天正壬午の乱」にスポットが当たるであろうことだ。旧武田遺領をめぐって北条・徳川・上杉の三戦国大名と真田昌幸・依田信蕃・小笠原貞慶・保科正直・木曽義昌などなど信濃の国衆が虚虚実実の駆け引きを繰り広げるこの抗争、戦国乱世のフィナーレを飾る大歴史スペクタクルである。不思議なことに、これまでドラマや映画などでこの戦乱が描かれることはなかった。おそらく戦乱の全容が解明されておらず、その抗争の歴史的意義も史学的に明確でなく、また、抗争があまりにも複雑であったために描きにくかったということもあろう。
来年のNHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当する平山優氏は、「天正壬午の乱」を専門的に研究しておられる歴史学者である。迂闊にも私は平山氏の著作を読んだことがなかったので、平山優著『天正壬午の乱(増補改訂版)』(戎光祥出版、2015年)を読んでみた。これは名著である。膨大な史料を渉猟し、さらに城の位置関係や部隊の配置を地図上に落として合戦の全体像を克明に再現することに成功している。詳細が必ずしも明確でなかった「天正壬午の乱」の全容が平山氏によってはじめて描き出されたのだ。その躍動的な筆致は、専門的な歴史書であるにもかからわず、下手な小説よりもはるかに面白い。この平山氏が時代考証を担当するということは、大河ドラマも期待できるかも知れない。
上杉・徳川・北条の複雑な三カ国抗争という点では、天正壬午の乱は中国の三国志にも比肩されるが、真田・依田・小笠原・保科以下、信濃の国人領主たちが三大国を翻弄し、国衆が各々勢力を維持・拡大している点など、三国志よりも面白い歴史ドラマとすらいえそうだ。
アメリカ・中国・ロシアという大国のはざまにいる日本が進むべき途を考える上でも、天正壬午の乱における信濃国衆の生き方を学ぶ意義は大きい。その意味でも、来年の大河ドラマは日本人に示唆を与えるものになろう。
平山氏による序文の記述を一部引用させていただく。
「この争乱は、余燼が長期にわたって燻り続け、後に戦国の終焉をもたらす大戦の遠因となった・・・・・真田昌幸は家康が北条氏と結んだ国分協定に同意せず、上杉氏と結んで最後まで抵抗を続けた。この真田昌幸問題=上野沼田領・吾妻領の帰属問題は、北条、徳川両氏の当事者間では解決しえず、やがて天下統一を推進する豊臣(羽柴)秀吉の預かるところとなり、秀吉により裁定が下され、北条・徳川・真田三氏は不承不承ながら同意して解決に至る。・・・・天正壬午の乱は最終的に豊臣軍の北条氏撃滅と、それにともなう天下統一が図られるまで、戦国争乱の最終段階を規定し続けたといえるのである。
またこの争乱は、おもに信濃国衆が自分の領土保全と拡大を目指して、北条、徳川、上杉という大国と結合と離反を繰り返し、逆に大国の戦略や思惑を大きく狂わせ、翻弄することすらあったという点でも極めて重要である。戦国争乱が、常に大国有利だとばかりはいえないことをよく示す・・・・・
家康が当初から優位にあったのではなく、さまざまな局面を経て、次第に情勢を切り開いていったことを明らかにしたいと思う。それは同時に、なぜ北条氏直と上杉景勝が大幅な勢力拡大を達成できなかったかを明らかにすることでもあり、こうした視点こそ、今も根強い「徳川中心史観」を克服することにも繋がると信じる。」(平山優、前掲書、7-8頁)
この本の影のテーマは、歴史の結果を知っている後世の視点から徳川が天下を取るのは必然的であったかのように描く「徳川中心史観」の克服にある。明治維新史における薩長中心史観同様、戦国史おける徳川中心史観があり、そこからの脱却を唱える著者にエールを贈りたい。薩長中心史観同様、徳川中心史観も克服せねばならないだろう。
私もこのブログで、家康が秀吉に臣従せざるを得なくなったのは、沼田問題がこじれ、解決しようと北条と徳川が真田を征伐しようとしたが逆に負けてしまって、徳川北条同盟が秀吉に対抗できなくなったからである、何で歴史学者にはそれが見えないのだ、と論じていた(この記事)。平山氏が綿密な史料考証を経て、そうした見方を発表しておられた。平山氏の学説を知らなかった不明を恥じたい。
真田家以外にも注目すべき一族は多い。たとえば、旧信濃守護で、後の小倉藩15万石の小笠原家は、いちど武田信玄に滅ぼされ、一族は四散し苦難の道を歩んできたにも関わらず、この戦乱を利用して深志城(現・松本城)の旧領を奪還している。同様に、後の会津藩23万石・保科家(松平家)も、武田家滅亡後は流浪の一族となっていたにも関わらず、この戦乱をたくみに利用し、大国を翻弄しつつ高遠の旧領を奪還した。彼らの知恵と勇気と執念には本当に敬服する。小倉や会津の方々にとっても、自藩のルーツを知る上で、この本は興味深い内容と思う。
その他、大河ドラマとの関連でいくつか書き留めておきたい。
(1)大河ドラマはいつから始まるのか?
真田信繁(幼少期は武藤弁丸)の幼少時代から描くのかと思っていたが、初回から堺雅人さんが出て、幼少期は描かないようである。信繁の幼少期から描くのであれば、「三方ケ原の合戦から描いて欲しいなあ(1572年の合戦当時、信繁5歳)、家康の生涯で本陣が崩れたのは二回しかないのに、大河ドラマの初回と最終回で家康本陣が崩されるなんてさぞ痛快だろう」などと思っていたが、それはないらしい。
長篠の合戦? 1575年の長篠の合戦当時、信繁は8歳であるからこれも違う。
ドラマの初回は1580年の真田昌幸による沼田城攻略あたりだろうか? この頃は、まだ武田勝頼もまさかその2年後に滅亡に追い込まれるとは思っていなかったであろう。このとき信繁は13歳。これでも堺雅人さんが演じるのはかなり厳しいが・・・。まあ、12歳の山本八重も綾瀬はるかさんが演じたのから許容範囲かと・・・・。
(2)依田信蕃の活躍は描かれるか?
私もよく認識していなかったが、徳川家康は天正壬午の乱の中で4万3千といわれる北条の大軍に包囲されて絶体絶命のピンチにまで追い込まれていた。対する徳川軍はわずか8000であった。本能寺の変直後の当時の段階では、戦国最大の大名である北条軍と徳川軍の兵力差はこのように圧倒的な開きがあったのだ。
かつて大河ドラマ「徳川家康」では、本能寺の変をからくも切り抜けた家康は、ほとんど無人の野をいくがごとく易々と「無主の地」となった甲信二か国を手に入れたように描かれていたように記憶している。実際はそんな甘いものではなかった。下手をすれば徳川は滅亡の瀬戸際という状況にまで追い込まれていた。今回の大河ドラマではじめてその全容が描かれるのではないか。
家康の窮地を救ったのは、ほとんど知られていないが、依田信蕃という武将の活躍に負うところが大きい。平山氏の本を読むと、依田信蕃の活躍がなかったら家康が窮地を脱して甲信二か国を手に入れることも不可能だったと思えてくる。依田信蕃がいなかったら、家康が天下を取ることなどなかったのではないかとすら思える。それほど重要な武将なのだが、何故かこれまで小説・ドラマ・映画等でスポットが当たったことはないし、ほとんど知られていない。来年の大河ドラマにおいては、依田信蕃という信州の猛将にスポットが当たることを期待する。
信濃の国衆で唯一徳川についた依田信蕃は、北条の大軍相手に孤軍奮闘し、さらに武田家時代の同僚であった真田昌幸を調略して、昌幸を北条方から離反させることによって、依田・真田連合軍で北条軍の補給ルートを寸断し、結果として北条の徳川包囲網が維持できない状況に追い込んだ。家康は、昌幸に危ういところを救われているわけなのだ。
家康は別の側面でも昌幸に救われていた。北条軍に包囲された家康が本陣を置いたのは新府城であった。この新府城こそは、真田昌幸が武田勝頼のために普請した城である。勝頼は、新府城では織田=徳川軍に対抗して籠城することはできないと判断し、早々に新府城を捨ててしまった。しかし、徳川家康はこの城に籠って北条軍に対抗し、真田昌幸の普請した城の防衛機能の高さを実証したことになる。真田昌幸が勝頼のために造った城は、皮肉なことに勝頼ではなく、家康を救ったことになる。
(3)真田信繁の初陣をいつにするのか?
私は、天正壬午の乱のどこかの合戦で、真田信繁は初陣を果たしていると思う。信繁の初陣は小田原の陣ではないかという人もいるが、それは遅すぎる。天正壬午の乱のどこかの戦で初陣をはたしているはずであろう。はたして三谷さんはどの合戦で信繁を初陣させるのであろう? これは興味深い。
徳川家康が北条氏直に包囲されている中、先に述べたように依田信蕃が真田昌幸と連合して北条の補給ルートを寸断する戦いをする。この戦のとき真田信繁15歳。初陣にはよい年頃だろう。あるいはもう少し早い戦で初陣していてもおかしくない。
来年のNHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当する平山優氏は、「天正壬午の乱」を専門的に研究しておられる歴史学者である。迂闊にも私は平山氏の著作を読んだことがなかったので、平山優著『天正壬午の乱(増補改訂版)』(戎光祥出版、2015年)を読んでみた。これは名著である。膨大な史料を渉猟し、さらに城の位置関係や部隊の配置を地図上に落として合戦の全体像を克明に再現することに成功している。詳細が必ずしも明確でなかった「天正壬午の乱」の全容が平山氏によってはじめて描き出されたのだ。その躍動的な筆致は、専門的な歴史書であるにもかからわず、下手な小説よりもはるかに面白い。この平山氏が時代考証を担当するということは、大河ドラマも期待できるかも知れない。
上杉・徳川・北条の複雑な三カ国抗争という点では、天正壬午の乱は中国の三国志にも比肩されるが、真田・依田・小笠原・保科以下、信濃の国人領主たちが三大国を翻弄し、国衆が各々勢力を維持・拡大している点など、三国志よりも面白い歴史ドラマとすらいえそうだ。
アメリカ・中国・ロシアという大国のはざまにいる日本が進むべき途を考える上でも、天正壬午の乱における信濃国衆の生き方を学ぶ意義は大きい。その意味でも、来年の大河ドラマは日本人に示唆を与えるものになろう。
平山氏による序文の記述を一部引用させていただく。
「この争乱は、余燼が長期にわたって燻り続け、後に戦国の終焉をもたらす大戦の遠因となった・・・・・真田昌幸は家康が北条氏と結んだ国分協定に同意せず、上杉氏と結んで最後まで抵抗を続けた。この真田昌幸問題=上野沼田領・吾妻領の帰属問題は、北条、徳川両氏の当事者間では解決しえず、やがて天下統一を推進する豊臣(羽柴)秀吉の預かるところとなり、秀吉により裁定が下され、北条・徳川・真田三氏は不承不承ながら同意して解決に至る。・・・・天正壬午の乱は最終的に豊臣軍の北条氏撃滅と、それにともなう天下統一が図られるまで、戦国争乱の最終段階を規定し続けたといえるのである。
またこの争乱は、おもに信濃国衆が自分の領土保全と拡大を目指して、北条、徳川、上杉という大国と結合と離反を繰り返し、逆に大国の戦略や思惑を大きく狂わせ、翻弄することすらあったという点でも極めて重要である。戦国争乱が、常に大国有利だとばかりはいえないことをよく示す・・・・・
家康が当初から優位にあったのではなく、さまざまな局面を経て、次第に情勢を切り開いていったことを明らかにしたいと思う。それは同時に、なぜ北条氏直と上杉景勝が大幅な勢力拡大を達成できなかったかを明らかにすることでもあり、こうした視点こそ、今も根強い「徳川中心史観」を克服することにも繋がると信じる。」(平山優、前掲書、7-8頁)
この本の影のテーマは、歴史の結果を知っている後世の視点から徳川が天下を取るのは必然的であったかのように描く「徳川中心史観」の克服にある。明治維新史における薩長中心史観同様、戦国史おける徳川中心史観があり、そこからの脱却を唱える著者にエールを贈りたい。薩長中心史観同様、徳川中心史観も克服せねばならないだろう。
私もこのブログで、家康が秀吉に臣従せざるを得なくなったのは、沼田問題がこじれ、解決しようと北条と徳川が真田を征伐しようとしたが逆に負けてしまって、徳川北条同盟が秀吉に対抗できなくなったからである、何で歴史学者にはそれが見えないのだ、と論じていた(この記事)。平山氏が綿密な史料考証を経て、そうした見方を発表しておられた。平山氏の学説を知らなかった不明を恥じたい。
真田家以外にも注目すべき一族は多い。たとえば、旧信濃守護で、後の小倉藩15万石の小笠原家は、いちど武田信玄に滅ぼされ、一族は四散し苦難の道を歩んできたにも関わらず、この戦乱を利用して深志城(現・松本城)の旧領を奪還している。同様に、後の会津藩23万石・保科家(松平家)も、武田家滅亡後は流浪の一族となっていたにも関わらず、この戦乱をたくみに利用し、大国を翻弄しつつ高遠の旧領を奪還した。彼らの知恵と勇気と執念には本当に敬服する。小倉や会津の方々にとっても、自藩のルーツを知る上で、この本は興味深い内容と思う。
その他、大河ドラマとの関連でいくつか書き留めておきたい。
(1)大河ドラマはいつから始まるのか?
真田信繁(幼少期は武藤弁丸)の幼少時代から描くのかと思っていたが、初回から堺雅人さんが出て、幼少期は描かないようである。信繁の幼少期から描くのであれば、「三方ケ原の合戦から描いて欲しいなあ(1572年の合戦当時、信繁5歳)、家康の生涯で本陣が崩れたのは二回しかないのに、大河ドラマの初回と最終回で家康本陣が崩されるなんてさぞ痛快だろう」などと思っていたが、それはないらしい。
長篠の合戦? 1575年の長篠の合戦当時、信繁は8歳であるからこれも違う。
ドラマの初回は1580年の真田昌幸による沼田城攻略あたりだろうか? この頃は、まだ武田勝頼もまさかその2年後に滅亡に追い込まれるとは思っていなかったであろう。このとき信繁は13歳。これでも堺雅人さんが演じるのはかなり厳しいが・・・。まあ、12歳の山本八重も綾瀬はるかさんが演じたのから許容範囲かと・・・・。
(2)依田信蕃の活躍は描かれるか?
私もよく認識していなかったが、徳川家康は天正壬午の乱の中で4万3千といわれる北条の大軍に包囲されて絶体絶命のピンチにまで追い込まれていた。対する徳川軍はわずか8000であった。本能寺の変直後の当時の段階では、戦国最大の大名である北条軍と徳川軍の兵力差はこのように圧倒的な開きがあったのだ。
かつて大河ドラマ「徳川家康」では、本能寺の変をからくも切り抜けた家康は、ほとんど無人の野をいくがごとく易々と「無主の地」となった甲信二か国を手に入れたように描かれていたように記憶している。実際はそんな甘いものではなかった。下手をすれば徳川は滅亡の瀬戸際という状況にまで追い込まれていた。今回の大河ドラマではじめてその全容が描かれるのではないか。
家康の窮地を救ったのは、ほとんど知られていないが、依田信蕃という武将の活躍に負うところが大きい。平山氏の本を読むと、依田信蕃の活躍がなかったら家康が窮地を脱して甲信二か国を手に入れることも不可能だったと思えてくる。依田信蕃がいなかったら、家康が天下を取ることなどなかったのではないかとすら思える。それほど重要な武将なのだが、何故かこれまで小説・ドラマ・映画等でスポットが当たったことはないし、ほとんど知られていない。来年の大河ドラマにおいては、依田信蕃という信州の猛将にスポットが当たることを期待する。
信濃の国衆で唯一徳川についた依田信蕃は、北条の大軍相手に孤軍奮闘し、さらに武田家時代の同僚であった真田昌幸を調略して、昌幸を北条方から離反させることによって、依田・真田連合軍で北条軍の補給ルートを寸断し、結果として北条の徳川包囲網が維持できない状況に追い込んだ。家康は、昌幸に危ういところを救われているわけなのだ。
家康は別の側面でも昌幸に救われていた。北条軍に包囲された家康が本陣を置いたのは新府城であった。この新府城こそは、真田昌幸が武田勝頼のために普請した城である。勝頼は、新府城では織田=徳川軍に対抗して籠城することはできないと判断し、早々に新府城を捨ててしまった。しかし、徳川家康はこの城に籠って北条軍に対抗し、真田昌幸の普請した城の防衛機能の高さを実証したことになる。真田昌幸が勝頼のために造った城は、皮肉なことに勝頼ではなく、家康を救ったことになる。
(3)真田信繁の初陣をいつにするのか?
私は、天正壬午の乱のどこかの合戦で、真田信繁は初陣を果たしていると思う。信繁の初陣は小田原の陣ではないかという人もいるが、それは遅すぎる。天正壬午の乱のどこかの戦で初陣をはたしているはずであろう。はたして三谷さんはどの合戦で信繁を初陣させるのであろう? これは興味深い。
徳川家康が北条氏直に包囲されている中、先に述べたように依田信蕃が真田昌幸と連合して北条の補給ルートを寸断する戦いをする。この戦のとき真田信繁15歳。初陣にはよい年頃だろう。あるいはもう少し早い戦で初陣していてもおかしくない。
普通大河ドラマを見る人はここまで「予習」しませんので、信州の国人がずらっと出てきても誰が誰やら分からないまま話が進んでしまってつまらなかった、になる気がします。
また、歴史的人物に「現代人とかけ離れた英雄性」みたいなものを求める人もいます。所作がなっていない、ともいわれます。そういう人は「戦は嫌だ」「命を大事に」と言ったセリフが出ると鼻白む傾向にあります。戦国時代の人々の生死観とか名誉欲はともかく、損得勘定はわりと働いていたと思うのですが。
なので歴史的人物を「現代人」にするのはやめて、いっそのこと現代人をタイムスリップさせ、現代人とはかけ離れた歴史の人物を観察させる、という趣向にしたらいいと思ってしまいます。タイムスリップするのは「普通の人」で、俳優が本名で出るのもよさそうです。行った先の世界にはなじむがあくまで現代人としてふるまってもらう。
登場人物を覚えるのが苦にならないような脚本ならいいのですが、年をとったせいか「あそこのシーンで踊った人」「桃の花を贈った人」「伝令のあの人」のような感じになっています。
見知らぬ英雄に会うのは楽しみなので大河ドラマではいろいろやってほしいと思います。
>普通大河ドラマを見る人はここまで「予習」しませんので、信州の国人がずらっと出てきても誰が誰やら分からないまま話が進んでしまってつまらなかった
脚本家の腕次第だと思います。軸がブレることなく、真田中心に他の大名・国人を描きこんでいけば視聴者が混乱することもないでしょう。三谷さんの手腕に期待いたします。
また、予習するとかえってネタバレになるので、下手に予習しないで観る方が、来年の大河は新鮮に、面白く視聴できるような気がします。
また上杉景勝もすごくかっこよく描かれると思います。上杉ファンの方々も、天地人のうっぷんを晴らすことができるかと・・・・。平山優さんの前掲書からも、上杉の軍略のすごさがよく分かります。
三谷さんが「真田丸」で、今まで誰も取り上げた事のなかった「天正壬午の乱」を細かく描いて下さるとの事で、真田とは対照的に長野県民さえも知らない依田信審にようやくスポットライトが?!と、登場を心待ちにしておりましたが、残念ながら今現在のキャストに名前すらありませんでした。(かなりのちょい役で登場するのでしょうか?)
真田中心に描かれるとドラマ的に信蕃の働きなどカットしても差し障りないのかもしれませんね。真田とのフィクサー役、ゲリラ戦…その功績が家康に認められ松平姓までも授けていただき、生きていたら有力譜代大名だったかもしれませんが…またひっそりと歴史の陰に隠れてしまうのでしょうか?
様々な残念無念が400年前の同じく蘇りました。
どなたか光を当ててくれないかなぁ!
コメントいただき光栄に存じます。大河ドラマが近づいて、にわかにこのブログのアクセス数も増え、真田家臣の吾妻衆忍者の末裔の方からもコメントいただいたりして、盛り上がっておりました。今回、信蕃公の末裔の方からコメントいただけて恐悦至極に存じます。
私も、ドラマのホームページに「依田信蕃」の名がなかったので、すごく落胆しておりました。登場人物を増やしすぎると複雑になりすぎて視聴者がついてこれないということをNHKは心配しているのではないかと拝察されます。
しかし、他の誰をおいても、依田信蕃だけは出してほしかった・・・・・・。
もっとも、依田信蕃のあまりにも劇的な人生、ドラマで取り上げれば感涙ものであること間違いないしですので、いずれ何かの作品で必ず取り上げられると思います。家康主人公のドラマをつくるにしても、依田信蕃を出せばすごく劇的要素が増え、それが家康の評価も高めることになるはずですから。
それまで地道に、業績評価の取り組みを続けることが肝要かと存じます。
今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。
いつか、日の目を見る時がやってくる事を信じ待ちたいと思います!
Wikipediaで天正壬午の乱を検索すると家康の次に名前まである信蕃がスルーされてしまうのはどうなんだ?との思いはありますが、あまり知られていなかったこの乱自体、全国的に知られるようになっただけでも(私なんぞが言うのもなんですが)少しだけ報われた気持ちです。
日本の戦国時代劇に出てくる武将達はいつも同じ顔ぶれで、誰もが知っているお話が多い中、歴史が変わった瞬間を頑張っても人知れず儚く散ってしまった大名がいたり、あの家康もあまり知られていない武将達に実はかなり苦戦していた…というドラマは、新しい切り口の作品として、いつか本当に生まれて欲しいと願うばかりです。
メジャーな主人公を取り上げる作品はマンネリ化してきていますので、時代は、新しいヒーローを求めていると思います。
いままで見落とされていた、あるいはスルーされてきた人物に光を当てるドラマは今後、増えていくと思います。「八重の桜」の新島八重もそうでした。
私も、明治維新史から抹殺された信州上田藩士・赤松小三郎を復権させようと、ブログにいろいろ書いてまいりました(日本近代化に多大な貢献をしつつ、殺されてから149年間、まともにスポットが当てられたことはない)。
今後ともがんばって参りましょう。
教えていただきありがとうございます。
残念ながら、今教えていただけるまで私も全く知らない方でした。
「へぇ~!」を何回も言ってしまいました。
すごい方だったんですね!
先生が言われる通り、彼も今までの数々の幕末ドラマに名前が出ても不思議ではないような
人生なのに…どうしてスルーされてしまったんでしょう?
勉強になりました。
まだまだたくさんいるであろう、歴史の陰に隠れた偉大な人物達が
これから、ぜひ、どんどん発掘される事を願います。
P.S.
赤松小三郎は、上田藩士・芦田家の出なんですね!
このあたりの芦田=依田でしょうから…
彼も信蕃の流れを組んでいるかもしれませんね。
2人共、注目されづらい因縁…かな?!
たしかにその可能性あると思います。今後の研究課題として調べさせていただきます。ぜひ信蕃公の末裔として、調べてみてくださるとうれしく存じます。
もし事実だとすれば、芦田家の才能は戦国から幕末まで脈々と継承されていることになりますね。
>どうしてスルーされてしまったんでしょう?
この理由は明らかと思います。これまでの明治維新史は薩長側を正義として描かれ、研究も薩長側からの視点中心で行われてきたので、赤松小三郎の名は表に出てきてもらってしまっては困る人間でした。
薩長に暗殺されているので、赤松小三郎が有名になると薩長を正義とする歴史観が崩れてしまうからです。
依田信蕃に関しても、本能寺の変以降、豊臣秀吉がいかに天下をとったかという豊臣中心史観の中で、「天正壬午の乱」は、中央政治とは関係のない、「地方で起きた小競り合い」のように見なされてしまっていて、それでスルーされてしまったように思えます。
平山優先生が、天正壬午の乱がいかに重要な事件であったかを詳細に論じてくださったので、これからは依田信蕃もスルーされなくなるのでは・・・と期待しております。