前回の続きです。前回書いたように、佐藤優氏の『私のマルクス』は、学生運動の実践部分に関しては、ある程度は共感しながら読んだ部分が大きかったです。しかしながら、佐藤氏の『資本論』の解釈は・・・・どうしても、私の立場とは異なります。いろいろと反論したくなってしまいます。もっとも、誰がどう解釈しようと個人の自由なので、「ああ、見解は違いますね」ということで良いのですが。
佐藤優氏の『資本論』理解は、基本的には宇野弘蔵の「原理論」を継承するものです。私は、この宇野派経済学の方法論にどうしても賛同できません。
塩沢由典先生は、宇野弘蔵の経済学に関しては、一方で評価もし、他方では批判もしています。塩沢先生の著書である『マルクスの遺産』(藤原書店、2002年)はぜひ多くの方々に読んでもらいたい本です。その本の7章は「マルクス経済学の作風 -宇野弘蔵と経済学の現在-」というもので、宇野弘蔵の方法論について書かれています。宇野経済学は「原理論」という、実証のない「純粋な資本主義」という思考実験的なカテゴリーを設けて、資本主義の抽象的でスタティック(静学的)な一般原理を研究の俎上にのせます。現実経済の分析に関しては、「段階論」という別カテゴリーでやるべきだと主張し、宇野自らは空想の中にしか存在しない純粋資本主義の「原理」研究に没頭するのです。
宇野の「原理論」とは、ある種、新古典派の想定する「一般均衡論」みたいなものです。現実世界には存在しないモデル上の空想的世界なのです。私は、社会科学研究において、実証のないこうした方法を採用することは許されてはならないという立場です。
塩沢先生が宇野の「原理論」を批判するエッセンスは下記のようなものです。私も基本的に同じ見方です。
***塩沢由典『マルクスの遺産』:165頁より引用***
もしマルクスの『資本論』がニュートンの『数学原理』と同様の完全性をもつ原理の体系であるならば、残された仕事は宇野のいうごとく「純化」であるにちがいない。だが、経済学は物理学とちがって人間社会を対象とする学問である。そして、この社会の特徴は歴史をもつことである。商品経済の発展によって資本主義が成立したように、資本主義そのものにもまた進化がある(だからこそ段階論が必要となったのであった)。このような社会において、ひとたび成立するや、あとはその論理展開を行うだけというような原理の体系がありえるだろうか。
***<引用終わり>****
武谷三男は、「武谷三段階論」と呼ばれる理論で、科学的認識は「現象論」的段階から、「実体論」的段階を経て、「本質論」的段階へ至ると主張しました。たとえば、太陽系のモデルに関していえば、「天動説」という現象論段階があり、楕円軌道を実証的に把握したケプラーの惑星運動論という「実体論」の段階があり、最後に、運動方程式と万有引力の法則から惑星の運動を正しく解析したニュートン力学という「本質論」の段階に至るというわけです。(もっとも私はこの武谷の三段階論に必ずしも賛同していませんが)
宇野の経済学における「原理論」とは、自然科学における武谷の「本質論」の地位に相当するものと捉えられているのでしょう。そして彼本人は、一段高い思想的営みであるかのように位置付けた「原理論」の研究に没頭します。あたかも、新古典派の世界において、モデル作りの理論研究が、実証研究よりも崇高な営みであると思われているのと同じように・・・。しかし、これは勘違いも甚だしいのです。私は以前も「ピグマリオン症」と呼んでこうした態度への批判を書きました(この記事)。
塩沢先生の言うように、歴史をもって進化し、非連続な発展を伴うことを特徴とする人間社会の分析に、ニュートンのような方法を当てはめることはあり得ません。
時間不可逆性な人間社会の分析においては、線形的で時間可逆的なスタティックなモデルを「原理」と仮定する、新古典派の「一般均衡論」も、マルクスの「原理論」も、ともに存在してはならない研究カテゴリーです。ともに原理主義的誤謬の極みであり、勘違いこの上ないのです。
マルクスの『資本論』は、理論分析の部分と、歴史分析の部分の二つの要素が含まれています。そしてその両者がうまく接合されていない部分があります。しかし、私の目からは、『資本論』の面白さはその歴史分析の部分にあります。
宇野は、歴史性・時間不可逆性を捨象した、「純粋資本主義の永久運動」のような理論を『資本論』の中から「原理論」として抽出します。つまりマルクスの中から歴史分析の部分を捨象して、資本主義の原理だけを抽出するのです。その原理は静的世界ですから、もはや革命の起こる可能性すら導かれません。『資本論』という書物から、このような読み取りが可能なのは事実です。それがやはりマルクスの限界なのだと私は考えています。マルクスの経済学に、非弁証法的なスタティックな分析が多いからです。
その点、「合成の誤謬」の論理で一貫しているケインズの方が、マルクスよりもはるかに経済現象を弁証法的に捉えていたと思います。
合成の誤謬とは、一言でいえば「ミクロの総和はマクロにならない」ということです。一例をあげれば、家計は節約、企業はリストラといった生き残るために「合理的」と思える正しい行動を実行しても、その行為を重ね合わせた集合としてのマクロ経済のレベルにおいては「総需要不足」という形で、経済全体の需給バランスを崩すことにつながります。それがミクロにフィードバックされて跳ね返ってくると、競争力をつけたはずの企業も、結局は生き残れなくなって潰れてしまうといった「不合理」な結果をもたらします。
これが合成の誤謬であり、部分と全体の相互作用、合理的行動が不合理な結果になって跳ね返るという矛盾の弁証法です。線形数学を用いた経済モデルでは、こうした集合行為の合成の誤謬を説明できないのです。
ちなみに社会経済的にこうした弁証法的事態が発生するのは、古くから思惑と結果が異なるものになることを諭したことわざの中で認識されてきていました。たとえば、「地獄への道も善意から」「急がば回れ」「損して得とれ」「負けるが勝ち」といったところです。
私の理解では、マルクスの「原理論」的な部分の体系は、ほぼリカードの古典派経済学の議論の左派的な読み換えにすぎません。ですのでマルクスの中には、ミクロとマクロの相互作用という弁証法的理解はありません。だから「マルクス原理論」という形で、新古典派の亜種のような解釈もされてしまうのです。
ケインズの考え方は、弁証法的にいえば「量質転化」、複雑系科学の言葉でいえば「部分の総和で全体を記述できない」という創発の考え方です。その意味で、ケインズは複雑系経済学の創始者ともいえるでしょう。
最近、間宮陽介先生の訳でケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』の新訳が岩波文庫から出ました。ちょうど新訳が出たとたんに「ケインズの復権」が言われはじめたので、本当にタイムリーでした。数ある岩波文庫の中で、今もっとも売れている本なのだそうです。皆さんもぜひ買い求めましょう。私も通して読んでませんし、簡単に読めるような本ではありませんが、本棚に常備しておいて損はない本です。ちなみに私は『一般理論』も『資本論』も気になった箇所を拾い読みするという読み方しかかしていないので、通して読んでません。まあ、私は別に経済学の専門家じゃないのですから許して下さいね。
岩波文庫版の下巻には宇沢弘文先生と間宮陽介先生という豪華メンバーによるケインズ理論の解説もついていて、読者の理解を助けてくれます。下巻における間宮先生の「『一般理論』に関する若干の覚書」が、ケインズの発想法の特徴をすごく分かりやすく説明しているので、その一部を引用させていただきます。(岩波文庫版『雇用、利子および貨幣の一般理論(下)』:244―246頁より引用
***<間宮「覚書」より引用開始>*****
部分が全体に影響を及ぼし、その全体が部分に反作用するという、部分と全体のあいだに存する相互作用の認識がケインズの思考方法を古典派のそれから区別する。
(中略)
このような発想、すなわち個々の経済行動が全体に作用し、その全体が部分に反作用して、時には個人の目論見を挫いてしまうという発想は、『一般理論』の随所に見られる。貨幣賃金の切り下げは、それが一企業あるいは一産業に留まるかぎりは、当該企業もしくは産業の雇用を増加させるが、切り下げが経済全体に及ぶと雇用は逆に減少する、という第二章「古典派経済学の公準」における議論はその一例だし、第14章「古典派の利子率理論」における図解もその亜種である。
(中略)
換言すれば、人々はみずからの行動を決める自由意志をもつが、個々の経済行動が集計されると経済全般の状況を変化させ、それが「必然」となって個人に跳ね返ってくる、ということである。古典派にとっては、自由と必然は調和的であり、市場の自己調整機能とは自由と必然を調和させる機能にほかならない。
だがケインズにとっては自由と必然は往々にして相反的である。だから、みずからよかれと思って行う経済行動が、結果としてみずからの首を絞めることになる。
***<引用終わり>****
というわけで、私としてはマルクスの『資本論』を読もうというよりは、ケインズの『一般理論』を読もう、と言いたいです。
ミクロの集合的ふるまいはマクロに影響を与え、マクロからミクロにフィードバックされると、ミクロレベルの当初の期待とは違った結果をもたらす。ミクロの合理性追及ばかりを「正義」と主張する市場原理主義者や構造改革礼賛論者や小泉=竹中ファンの方々は、この「合成の誤謬」を分かっていない。これが彼・彼女らの致命的な思考的欠陥なのです。
佐藤優氏の『資本論』理解は、基本的には宇野弘蔵の「原理論」を継承するものです。私は、この宇野派経済学の方法論にどうしても賛同できません。
塩沢由典先生は、宇野弘蔵の経済学に関しては、一方で評価もし、他方では批判もしています。塩沢先生の著書である『マルクスの遺産』(藤原書店、2002年)はぜひ多くの方々に読んでもらいたい本です。その本の7章は「マルクス経済学の作風 -宇野弘蔵と経済学の現在-」というもので、宇野弘蔵の方法論について書かれています。宇野経済学は「原理論」という、実証のない「純粋な資本主義」という思考実験的なカテゴリーを設けて、資本主義の抽象的でスタティック(静学的)な一般原理を研究の俎上にのせます。現実経済の分析に関しては、「段階論」という別カテゴリーでやるべきだと主張し、宇野自らは空想の中にしか存在しない純粋資本主義の「原理」研究に没頭するのです。
宇野の「原理論」とは、ある種、新古典派の想定する「一般均衡論」みたいなものです。現実世界には存在しないモデル上の空想的世界なのです。私は、社会科学研究において、実証のないこうした方法を採用することは許されてはならないという立場です。
塩沢先生が宇野の「原理論」を批判するエッセンスは下記のようなものです。私も基本的に同じ見方です。
***塩沢由典『マルクスの遺産』:165頁より引用***
もしマルクスの『資本論』がニュートンの『数学原理』と同様の完全性をもつ原理の体系であるならば、残された仕事は宇野のいうごとく「純化」であるにちがいない。だが、経済学は物理学とちがって人間社会を対象とする学問である。そして、この社会の特徴は歴史をもつことである。商品経済の発展によって資本主義が成立したように、資本主義そのものにもまた進化がある(だからこそ段階論が必要となったのであった)。このような社会において、ひとたび成立するや、あとはその論理展開を行うだけというような原理の体系がありえるだろうか。
***<引用終わり>****
武谷三男は、「武谷三段階論」と呼ばれる理論で、科学的認識は「現象論」的段階から、「実体論」的段階を経て、「本質論」的段階へ至ると主張しました。たとえば、太陽系のモデルに関していえば、「天動説」という現象論段階があり、楕円軌道を実証的に把握したケプラーの惑星運動論という「実体論」の段階があり、最後に、運動方程式と万有引力の法則から惑星の運動を正しく解析したニュートン力学という「本質論」の段階に至るというわけです。(もっとも私はこの武谷の三段階論に必ずしも賛同していませんが)
宇野の経済学における「原理論」とは、自然科学における武谷の「本質論」の地位に相当するものと捉えられているのでしょう。そして彼本人は、一段高い思想的営みであるかのように位置付けた「原理論」の研究に没頭します。あたかも、新古典派の世界において、モデル作りの理論研究が、実証研究よりも崇高な営みであると思われているのと同じように・・・。しかし、これは勘違いも甚だしいのです。私は以前も「ピグマリオン症」と呼んでこうした態度への批判を書きました(この記事)。
塩沢先生の言うように、歴史をもって進化し、非連続な発展を伴うことを特徴とする人間社会の分析に、ニュートンのような方法を当てはめることはあり得ません。
時間不可逆性な人間社会の分析においては、線形的で時間可逆的なスタティックなモデルを「原理」と仮定する、新古典派の「一般均衡論」も、マルクスの「原理論」も、ともに存在してはならない研究カテゴリーです。ともに原理主義的誤謬の極みであり、勘違いこの上ないのです。
マルクスの『資本論』は、理論分析の部分と、歴史分析の部分の二つの要素が含まれています。そしてその両者がうまく接合されていない部分があります。しかし、私の目からは、『資本論』の面白さはその歴史分析の部分にあります。
宇野は、歴史性・時間不可逆性を捨象した、「純粋資本主義の永久運動」のような理論を『資本論』の中から「原理論」として抽出します。つまりマルクスの中から歴史分析の部分を捨象して、資本主義の原理だけを抽出するのです。その原理は静的世界ですから、もはや革命の起こる可能性すら導かれません。『資本論』という書物から、このような読み取りが可能なのは事実です。それがやはりマルクスの限界なのだと私は考えています。マルクスの経済学に、非弁証法的なスタティックな分析が多いからです。
その点、「合成の誤謬」の論理で一貫しているケインズの方が、マルクスよりもはるかに経済現象を弁証法的に捉えていたと思います。
合成の誤謬とは、一言でいえば「ミクロの総和はマクロにならない」ということです。一例をあげれば、家計は節約、企業はリストラといった生き残るために「合理的」と思える正しい行動を実行しても、その行為を重ね合わせた集合としてのマクロ経済のレベルにおいては「総需要不足」という形で、経済全体の需給バランスを崩すことにつながります。それがミクロにフィードバックされて跳ね返ってくると、競争力をつけたはずの企業も、結局は生き残れなくなって潰れてしまうといった「不合理」な結果をもたらします。
これが合成の誤謬であり、部分と全体の相互作用、合理的行動が不合理な結果になって跳ね返るという矛盾の弁証法です。線形数学を用いた経済モデルでは、こうした集合行為の合成の誤謬を説明できないのです。
ちなみに社会経済的にこうした弁証法的事態が発生するのは、古くから思惑と結果が異なるものになることを諭したことわざの中で認識されてきていました。たとえば、「地獄への道も善意から」「急がば回れ」「損して得とれ」「負けるが勝ち」といったところです。
私の理解では、マルクスの「原理論」的な部分の体系は、ほぼリカードの古典派経済学の議論の左派的な読み換えにすぎません。ですのでマルクスの中には、ミクロとマクロの相互作用という弁証法的理解はありません。だから「マルクス原理論」という形で、新古典派の亜種のような解釈もされてしまうのです。
ケインズの考え方は、弁証法的にいえば「量質転化」、複雑系科学の言葉でいえば「部分の総和で全体を記述できない」という創発の考え方です。その意味で、ケインズは複雑系経済学の創始者ともいえるでしょう。
最近、間宮陽介先生の訳でケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』の新訳が岩波文庫から出ました。ちょうど新訳が出たとたんに「ケインズの復権」が言われはじめたので、本当にタイムリーでした。数ある岩波文庫の中で、今もっとも売れている本なのだそうです。皆さんもぜひ買い求めましょう。私も通して読んでませんし、簡単に読めるような本ではありませんが、本棚に常備しておいて損はない本です。ちなみに私は『一般理論』も『資本論』も気になった箇所を拾い読みするという読み方しかかしていないので、通して読んでません。まあ、私は別に経済学の専門家じゃないのですから許して下さいね。
岩波文庫版の下巻には宇沢弘文先生と間宮陽介先生という豪華メンバーによるケインズ理論の解説もついていて、読者の理解を助けてくれます。下巻における間宮先生の「『一般理論』に関する若干の覚書」が、ケインズの発想法の特徴をすごく分かりやすく説明しているので、その一部を引用させていただきます。(岩波文庫版『雇用、利子および貨幣の一般理論(下)』:244―246頁より引用
***<間宮「覚書」より引用開始>*****
部分が全体に影響を及ぼし、その全体が部分に反作用するという、部分と全体のあいだに存する相互作用の認識がケインズの思考方法を古典派のそれから区別する。
(中略)
このような発想、すなわち個々の経済行動が全体に作用し、その全体が部分に反作用して、時には個人の目論見を挫いてしまうという発想は、『一般理論』の随所に見られる。貨幣賃金の切り下げは、それが一企業あるいは一産業に留まるかぎりは、当該企業もしくは産業の雇用を増加させるが、切り下げが経済全体に及ぶと雇用は逆に減少する、という第二章「古典派経済学の公準」における議論はその一例だし、第14章「古典派の利子率理論」における図解もその亜種である。
(中略)
換言すれば、人々はみずからの行動を決める自由意志をもつが、個々の経済行動が集計されると経済全般の状況を変化させ、それが「必然」となって個人に跳ね返ってくる、ということである。古典派にとっては、自由と必然は調和的であり、市場の自己調整機能とは自由と必然を調和させる機能にほかならない。
だがケインズにとっては自由と必然は往々にして相反的である。だから、みずからよかれと思って行う経済行動が、結果としてみずからの首を絞めることになる。
***<引用終わり>****
というわけで、私としてはマルクスの『資本論』を読もうというよりは、ケインズの『一般理論』を読もう、と言いたいです。
ミクロの集合的ふるまいはマクロに影響を与え、マクロからミクロにフィードバックされると、ミクロレベルの当初の期待とは違った結果をもたらす。ミクロの合理性追及ばかりを「正義」と主張する市場原理主義者や構造改革礼賛論者や小泉=竹中ファンの方々は、この「合成の誤謬」を分かっていない。これが彼・彼女らの致命的な思考的欠陥なのです。
1970年代の前半までは、(少なくとも日本では)ケインズは、圧倒的な権威をもっていました。しかし、1970年代からルーカスの合理的期待形成などが出てきて、マクロ経済学の流行も次第に変わってきて、1970年代後半以降のマクロ経済学は、基本的には反ケインズ的なものになったと理解しています。
問題は、なぜこうなってしまったのか、なぜ新古典派的なミクロ的基礎付けが(学問世界の民主主義において)勝利してしまったのか、ということです。このあたりをキチンと考えて、反撃の方針を立てないと、「ケインズに戻れ」だけでは事態を変えられないとおもいます。関さんも、そのあたりは考えていられるとはおもいます。今後のブログで展開いただければ幸いです。
「マクロ経済学のミクロ的基礎付け」という主題は、もともとはケインジアンの構想したものでした。最初は、フランスのマランボーとかグラモン、ベナシーなどが活躍していましたが、次第に反ケインジアンが活躍する場となり、いまではプレスコットなどの実物景気循環論が幅を利かせています。今回の大不況も技術ショックで説明できるのでしょうか。そう思い続けることのできる人は幸せです。
どこかに書いたこもありますが、1970年代の当時、根岸隆先生は、「ほんとうはマクロ経済学のミクロ的基礎付けでなく、ミクロ経済学のマクロ的基礎付けが必要だ」と主張されていたのです。しかし、ミクロ経済学が変わらないままに四半世紀を経過すると、結局、「マクロ経済学のミクロ的基礎付け」という主題は、出発点とはまったく別ものになってしまいました。
ミクロ経済学を変える、あるいはミクロ経済学にとって代わる経済学がぜひ必要です。ケインズへの回帰は、ぜひそこまで行って欲しいと願っています。
関さんの銀の本筋に戻ってひとこと。
関さん(私にとってのマルクス①)>>丸山孫郎における「逸脱」や、プリゴジンにおける「ゆらぎ」は、ルクレチウスにおける「クリナメン」と基本的に同じ概念である。デモクリトスvsエピクロスの対立は、古典力学・新古典派経済学vs複雑系の世界観の対立構造と同質なのである。
プリゴジーンがこういうことを書いているのは知りませんでした。「クリナメン」も、こういうように読めるのですね。最晩年のアルチュセールがなぜかこの「クリナメン」だったのですが、こんな関連もあったのでしょうか。アルチュセールと複雑系は気質的には正反対のような気もしますが。
「逸脱増幅機構」が重要というのは、今回の経済危機でますますはっきりしてきたとおもいます。金融工学の問題点の基本は、逸脱増幅機構が市場の中に隠れていることを見逃していたことにあるように思います。
この関連では、まだ不十分なものですが、わたしの「金融工学批判」
http://www.shiozawa.net/kinyukogakuhihan/index.html
を見てください。
逸脱増幅機構という点では、主流の経済学の中では、時系列分析のGARCHの中には、そういう思想があると思われます。GARCHの一番簡単な形は
y= ∑x,
x = s ErrorTerm,
s^2 = a0+a1 x^2 + b1 s^2
と書けます。ただし、a0、a1、b1 は正、x^2などはxの2乗。
ここでsは、変動量xの分散を決めるもので、xは正規分布のs倍の変動をします。
その分散が
s^2 =a0+ a1 x^2 + b1 s^2
という形ですから、いったん分散が大きくなれば、b1の値にもよりますが、しばらくは分散は大きいままです。b1は、1以下でないとsが簡単に発散してしまいますから、+ b1 s^2の項では、逸脱増幅は起こらず、「逸脱維持」といったものでしょうが、+ a1 x^2の項のおかげで、突然、sが大きくなる可能性があり、そうするとしばらくはそれに振り回されるという形です。
この時系列をMathematicaで実験的に動かしてみたのですが、100万回の試行で、ほぼきれいなLevy分布が得られました。もしこれが厳密に正しいとすると、この時系列は分散無限大ということになります。(実験ではb1=0.9を使いました。)
もし上の時系列が一定の分散に収束すれば、
s^2 = a0+ a1 s^2 + b1 s^2
となるから、
s^2 = a0/(1-a1-b1)
となる筈です(Mantegna & Stanley, 日訳p.106)。本当でしょうか。
いずれにしても、金融時系列のファットテールについてのよい情報を与えていると思われます。
逸脱増幅機構を組み込んだ経済学へのヒントになればありがたいと思っています。
やはりケインズの完全雇用の維持という需要サイドの議論だけでは不十分なので、供給サイドの技術革新による創造的破壊も伴わなければ不況からの脱出は不可能と思います。そしてケインズ的に総需要管理を行いながら、同時に供給サイドの創造的破壊を行うことは可能です。
石油に代わる自然エネルギーの基盤整備をケインズ的に実施し、それをテコに民間投資を呼び込んで創造的破壊を行い、産業の形を抜本的にエコロジカルなものに変えるという戦略です。
それが、このブログで当初から訴えてきたエコロジカル・ニューディール政策でした。私は10年ほど前から訴え続けてきましたが、ようやくアメリカでも「グリーン・ニューディール」と言われ始め、日本でも急速に広まりました。この「グリーン・ニューディール政策」のコンセプトの広まり方も、臨界状態における逸脱増幅の典型的事例で、なかなか面白かったと思います。
>ミクロ経済学を変える、あるいはミクロ経済学にとって代わる経済学がぜひ必要です。ケインズへの回帰は、ぜひそこまで行って欲しいと願っています。
本当に、私も切にそう願います。複雑系の経済学は、ミクロ・マクロというニ区分法そのものをアウフヘーベンできるのではないでしょうか。こんなことを私が言うのは、まさに釈迦に説法なので、おこがましいことですが。
私としては、塩沢先生の構想するミクロ・マクロ・ループの理論に大きな期待を寄せる次第です。
複雑系経済学や進化経済学が大学で通常に教えられるようになり、大学のカリキュラムの中から「ミクロ経済学」という科目が、その不人気さ故に消滅するという日が来ることを切に願います。大学で堂々とウソが教えられているのは、やはり見るに耐えられません。
>最晩年のアルチュセールがなぜかこの「クリナメン」だったのですが、こんな関連もあったのでしょうか。アルチュセールと複雑系は気質的には正反対のような気もしますが。
本当に私も不思議です。「構造主義者」と呼ばれるアルチュセールと、「クリナメン(ゆらぎ)」と「自由意志」のエピクロスやルクレチウスは正反対のように思えます。
アルチュセールは、フランス共産党によって教条主義的に解釈された弁証法的唯物論に異議を唱える中で、構造主義を構築していったのでしょうか。晩年のアルチュセールは、その構造主義からも脱してエピクロスに接近した。しかし考えてみれば、エピクロスはマルクスの思想的な原点です。エピクロスこそが、アルチュセールの嫌った弁証法的唯物論の始祖のように見えます。
ソ連共産党などによって教条主義的に解釈された弁証法的唯物論は、エピクロスの唯物論とは全く異なるものになり果てていたので、アルチュセールの目から見ると、エピクロスは新鮮だったということなのでしょうか?
>わたしの「金融工学批判」を見てください。
塩沢先生の金融工学批判、大変に興味深く拝読させていただきました。とくに某新聞の「経済教室」への投稿原稿すばらしかったです。あれをボツにした某新聞(バレバレですが)はとんでもないと思いました。
ソロスの再帰性の議論もそうですが、金融における逸脱増幅の研究は本当に焦眉の課題かと存じます。
また今回の事態に関しては、金融の暴走を引き起こした根底として、アメリカの貿易赤字の暴走があるのだと思います。米中間の貿易不均衡の累積的暴走の背後には、中国が特化した工業製品の収穫逓増と、アメリカが特化した農産物の収穫逓減という問題があり、これも複雑系経済学の観点から論じるべき課題かと思います。
ご存知のように我が国のGDPの6割は個人消費です。
米国は更に比率が高くて7割が個人消費です。
その米国の個人消費が落ち込んだ事が金融危機の直撃を免れたのに日本が他の先進国以上の被害を受けた理由だと思いますね。
そのアメリカも70年代後半から修正資本主義を捨てて
中間層を切り捨てて貧困層を急増させて来ました。
その貧困層に無理な消費をさせる目的でやったのがサブプライム問題の本質だと思います。
修正資本主義のまんまなら無理な消費を煽らずに済んだというのが私の見方です。
税制を含めた富の分配方法を誤ったとしか思えませんね。
日本も改革何ぞやらずに修正資本主義のまんまならまだ内需で外需の落ち込みをある程度カバーできたんじゃないかと思っております。
80年代は米国が不況でも日本は高成長をしていましたし、90年代の円高期もバブルが崩壊したとは言え、中間層が健在だったおかげである程度内需でカバー出来ていました。
その内需を切り捨てる改革をやったものですから打撃も大きかったんですね。
10-12月期のGDP成長率はどうやら二桁減になりそうです。
1-3月期もおそらく同様の結果になりそうです。
戦後これだけ落ち込んだのは初めてでしょう。
幸いにして金融危機を契機にして一時的にしろ世界中がケインズ主義に転換したようです。
日本も改革の総括をした上で今後の事を決定するべき時期に来てると思います。
財源は政府紙幣の発行でも日銀による国債買い切りでもいいじゃ無いですか。
それから国際的にはケインズ主義が生きていますよ。
対米黒字国の米国債買いがそれに当たるんじゃないでしょうか?
米国の巨額の軍事費も景気対策の予算もそれなしでは成り立たないでしょう。
現にヒラリーは日本に米国債買いを頼みに来ますしね。
それから米国で一番就業者数が多いのは実は公務員です。
人口当たりの公務員数でも日本より遥かに多いですしね。
人口当たりの生活保護の受給者数も日本の9倍くらいじゃなかったですか?
あの国が小さな政府、市場原理主義の国だと言うのは間違いだと思いますね。
新自由主義を端的に表す言葉として「利益の私有化・独占化、損失の社会化・大衆化」が適当なんじゃないでしょうか?
我々庶民がそんなものを支持する必要なんてないと思いますがね。
負け組である我々一般庶民が新自由主義を支持するくらい愚かな事は無いと思いますね。
それこそ自らの首を絞めるような愚かな行為だと思います。
「不況になるとケインズ (塩沢由典) 2009-02-09 15:22:49」
に次のように書きしまた。
************** 引用 ***************
この時系列をMathematicaで実験的に動かしてみたのですが、100万回の試行で、ほぼきれいなLevy分布が得られました。もしこれが厳密に正しいとすると、この時系列は分散無限大ということになります。(実験ではb1=0.9を使いました。)
もし上の時系列が一定の分散に収束すれば、
s^2 = a0+ a1 s^2 + b1 s^2
となるから、
s^2 = a0/(1-a1-b1)
となる筈です(Mantegna & Stanley, 日訳p.106)。本当でしょうか。
************** 以上引用 ***************
これは誤解がありました。上での数値実験、じつは
a1=0.1、b1=0.9 で a1+b1=1
という場合でした。Engelたちは、これをIGARCHなど呼んでいるようです。
a1+b1=1とすると、定分散は
s^2 = a0/(1-a1-b1)
とい式では求められなくなります。そしてどうも、この場合のみが、Levy分布になるようです。
最初の与件についての実験計画が甘かったようです。
まる様のお考え、ほぼ賛同できるのですが、上記の点にだけは反対です。ハイパーインフレの懸念がぬぐえません。米国と違って、まだまだ個人金融資産に余裕がある日本の場合、ふつうに赤字国債を発行して市場から財源を調達し、日本版グリーン・ニューディールを実施できます。このような禁じ手を使わずとも十分に財政政策は実施可能だと思います。
あわててネットで調べてLevy分布のファットテールということの意味は分かりました。ファットテールから逸脱増幅の可能性が発生するのですね。ご教唆ありがとうございました。
ほとんど同じですが、因果関係からいうなら、逸脱増幅機構があるから、ファットテールが起こります。つまり、たんに偶然(つまり多数の変動要因)が積み重なって起こる以上の大きな逸脱が起こります。
Lévy分布と正規分布とは、普通の表示では、裾野のあたりのちょっとした違いに過ぎません。ですから、普通は「誤差の範囲」程度に思われていますが、3σ以上(-3σ以下)で起こる頻度を見ると、正規分布で起こる場合に比べると、何千倍以上も違うのです。この差は、片対数グラフを使うと良く分かります。頻度を対数とするのです。
例として毎日の株価指数変動を取ると、ニューヨーク証券取引所の場合(S&P500)、変動の標準偏差は1.03%程度です。ところが、昨年10月には5パーセント以上=5σ以上の逸脱が6回も起こっています。正規分布とすると5000年に一回も起こらないはずのことです。
「テール・リスク」という言葉があります。こういう大きな変動(逸脱)は、投資者とっては大きな損失のリスクになるわけですが、正規分布と考えているとリスクの大変な過小評価になるわけです。
かってに投資して大損しても、それは自己責任でよいのですが、それが金融機関となり、経済の仕組みと成ってしまうと、社会・経済全部が影響を受けます。今回の金融危機も、背後にはこうしたメカニズムが働いています。
認識としては、[リスクの過小評価]>>[自己万能感]から、現実世界の[ブーム]>>[行きすぎ]>>[瓦解]と進みます。そういう意味では、(この場合、金融工学という)学問の社会的理解が重大な意義を持つことになります。
すいません。本末が逆でした。確かにその通りでした。
流行から熱狂へ、過剰期待によりファンダメンタルからのかい離が増幅していくという現象は、あらゆる「ブーム」の背景に共通することかと思います。
私は金融工学を全く知りませんが、逸脱増幅の可能性すらモデルの中に組み込んでおらず、収益の期待値が正規分布になるなんていう非現実的な仮定をおいている時点で、モデルの中身を見る前に「なんじゃそりゃ。ハナからウソに決まっているじゃない」という感じがいたします。
熱狂したときの群衆の心理状態をモデルに組み込む必要がありそうですが、他人の行動に惑わされない「合理的経済人」を仮定する彼らにとっては、ご法度なのでしょうか。
先生の逸脱増幅機構の研究が進展することを、一人のシロートとして切に祈ります。
いきなり質問します。
あなたは右翼or左翼?
私は中間です。
なぜなら、戦争は嫌いだし、かといって祖国日本を捨てるようなこともできません。
このブログは見る限りそういうようなことが書いてありますよね・・・?まだちょっとしかみていないけど・・・。
私はアメリカ人が嫌いです。良識人を除いて。だって完璧に世界征服を企んでいると思えるのです。日本に軍事基地おくこともその1つといえますよね・・・?
ブッシュとかひどいですよね。ちょっとしか知りませんけど、ビンラディンシュがテロを起こしたっていう証拠がないのに、イラク?イラン?に攻め込んだり・・・。
日本人も日本人で、この国を腐らせていますよね。国民主権は、たしかに国民の意見を尊重しやすいですけど、尊重しすぎて、国民がなんでも国の政策のせいにされたらもうおしまいですよね。
国民にも参政権っていうのがあるのだから、一票一票責任感を持って投票してもらいたいものですし、政治にたいしての発言も責任を持ってもらいたい。派遣社員達だって、自分達が努力していないから貧乏になったくせに、国の政策のせいにして、おかしいとは思いませんか?
今日本がやることは、
1.国民の参政権にたいして意識や責任を高める
2.輸入はなるべく減らして農業を活性化させる
3.愛国心もつけたほうがいい
こ、これくらいですか?
政治にたいして何も知らない中学生が書くのもなんですけど、一応読んでくれたらうれしいです。あなたの意見、まってます。
って、話ずれましたね・・・。
かってに横やり(しかも人のブログで)だけど。
僕も米国嫌いですよ。ただし「政府」がです。
どこの世界も悪が横行するのは政治、官僚、マスコミです。
特に官僚が力を持った結果、政府やマスコミを動かし悪へと引き込んでいる気がします。
今の日本もそうだし、中国志における戦争になる前も官僚政治の圧政による暴乱が戦争になっている。
ただ戦争が悪、平和が正義とは限らないと思うよ。
平和って地球の誰もが幸せって事なんだろうけど、人が欲をもつ限り、物が有限である限り戦争が無くても縦社会による貧富の差は無くならない。
それを打破するのが戦争である可能性(三国志みたいにね)もある。
中学生でここまで考えてすごいと思う。
関さんのような右も左もしっかり見て、それに対して両方の考え(対極)から代替案を持つような人になって欲しいです。
ちなみに二宮尊徳の報徳について勉強するとおもしろいよ~まずはウィキで!