AJER(日本経済復活の会)にゲスト出演して「グローバル資本主義の危機と社会的共通資本: 経済学者宇沢弘文が残したもの」というテーマで話してきました。宇沢先生を追悼する意味で、社会的共通資本について四回にわたって話しました。
AJERのホームページは以下です。
http://ajer.jp/
動画の全編は有料会員にならないと見れませんが、前半のみでしたら無料で視聴可能です。
携帯版
http://ajer.jp/video/show/3a308c880523766bf962e406d404e481
youtube版
https://www.youtube.com/watch?v=dIw00xpuZ4A
ニコニコ動画版
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25079301
前半のみです。肝心な部分が隠れていて趣旨が伝わりにくいので、よろしかったら有料会員になって後半も見てやってください。
第一回は「社会的共通資本の民営化は社会を不安定化させる」というタイトル。社会的共通資本の民営化が生み出す諸問題を話しました。(ちなみに動画の私の肩書が間違っています。助教となっていますが、正しくは准教授です。間違えられたのこれで二回目。貫禄がないので、助教にしか見えないみたい・・・・。)
まだ第一回しかアップされていませんが、社会的共通資本シリーズで、第二回、三回、四回まで続きます。毎週月曜日に一本づつアップされていきます。
第一回目は民営化という市場原理主義の弊害を述べ、第二回では官僚主義による利権追及型公共事業の弊害の話しになります。
来週の月曜日にアップされる第二回では、ダム問題を事例にして、社会インフラ整備が官僚主義に陥ると、これもマイナス面の問題の方が大きいという話です。
国土強靭化のような現行の公共事業は、社会的共通資本の整備の観点からはマイナスが大きく、経済対策として適当でないことを述べます。
アベノミクスを支持する方々が多く視聴している番組なので、さてさて、どのような批判が寄せられることやら・・・。
前回は自由貿易批判を全四回シリーズで話しました。ニコニコ動画版では賛否両論いろいろなコメントが飛び交っていました。批判も含めてコメント下さった皆様、ありがとうございました。
AJERのホームページは以下です。
http://ajer.jp/
動画の全編は有料会員にならないと見れませんが、前半のみでしたら無料で視聴可能です。
携帯版
http://ajer.jp/video/show/3a308c880523766bf962e406d404e481
youtube版
https://www.youtube.com/watch?v=dIw00xpuZ4A
ニコニコ動画版
http://www.nicovideo.jp/watch/sm25079301
前半のみです。肝心な部分が隠れていて趣旨が伝わりにくいので、よろしかったら有料会員になって後半も見てやってください。
第一回は「社会的共通資本の民営化は社会を不安定化させる」というタイトル。社会的共通資本の民営化が生み出す諸問題を話しました。(ちなみに動画の私の肩書が間違っています。助教となっていますが、正しくは准教授です。間違えられたのこれで二回目。貫禄がないので、助教にしか見えないみたい・・・・。)
まだ第一回しかアップされていませんが、社会的共通資本シリーズで、第二回、三回、四回まで続きます。毎週月曜日に一本づつアップされていきます。
第一回目は民営化という市場原理主義の弊害を述べ、第二回では官僚主義による利権追及型公共事業の弊害の話しになります。
来週の月曜日にアップされる第二回では、ダム問題を事例にして、社会インフラ整備が官僚主義に陥ると、これもマイナス面の問題の方が大きいという話です。
国土強靭化のような現行の公共事業は、社会的共通資本の整備の観点からはマイナスが大きく、経済対策として適当でないことを述べます。
アベノミクスを支持する方々が多く視聴している番組なので、さてさて、どのような批判が寄せられることやら・・・。
前回は自由貿易批判を全四回シリーズで話しました。ニコニコ動画版では賛否両論いろいろなコメントが飛び交っていました。批判も含めてコメント下さった皆様、ありがとうございました。
「博物館は社会的共通資本である」
というのがあります。
これは反証可能な仮説でも、広い共通了解が得られる公理でもなく、「そうでなくちゃ」という規範の提起です。
ゆたかな経済生活を営み,すぐれた文化を展開し,人間的に魅力ある社会を安定的に維持する・・・全ての博物館は、そのことに寄与する存在であって欲しいですよね。
脱学校を主張し、ほとんどの公的機関をテクノクラートに奉仕する「影の経済」のための装置として指弾するイヴァン・イリイチでさえ、博物館に対しては肯定的な見方を示しています。
というわけで今年、上記命題を基礎とした共同研究を、一緒に立ち上げませんか?
たんさいぼう影の会長どの:
理論経済学者、伊藤光晴先生の指摘にあるようにピケティのcapitalが「資本」ではなく「資産」を指す、という問題は措いて、「社会的存在である博物館を<とてつもなくたのしいところ>にすること、千葉浦安と此花桜島のテーマ・パークとテレビやゲームの心理効果から子どもたちと若者を救い出すものとすることが、じつに偉大なことであると確信しました。
日本史学者、朝尾直弘先生が1988年にこのようにおっしゃっています。
図書館は<書物>を扱い、博物館は<物>を扱う。・・・<書物>と<物>とでは、情報の伝えかたを異にしている。前者はみずから発信するが、後者は受け手が引き出してくれるのを待っている。
沈黙している資料から情報を引き出すには、まず研究が必要であり、研究しないと名前をつけることも、分類することもできない。・・・ここが図書とは逆なところである。 ・・・博物館にとって<展示>が不可欠であるのは、そのためである。・・・博物館が一般に対する公開性を本来的な属性としているのも、ここに由来している。
日本では、博物館の発達は図書館に比して一歩おくれてきた。・・・日本の近代化が、<書物>として体系化された知識を追うのにいそがしく、第一次資料である<物>から知識を組み立てるいとまをあたえなかったせいであろう。
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/37017/1/s250201.pdf
・・・と。博物館とは、まさに <目の前のヴィジュアル> いまどきの若い人々にとっての魅力がいっぱいです。それに「博覧会」が博物館の発展にとって決定的だったということをはじめて知りました。
http://www.p.u-tokyo.ac.jp/lab/ichikawa/johoka/2007/group1/okaniwa/history.html
しかし、あのジョン・デューイの博物館批判 ↓ には度肝を抜かれました。が、非常に興味深いことに・・・
近代国家において博物館は国民主義と帝国主義の所産であり、共同社会の生活、地方的風土、日常の経験から芸術を隔離する装置として機能してきた、というデュー イの議論は、ごく一般的な批判のレトリックであるといえよう。・・・博物館批判を基盤として提示されたデューイの議論が、 “experience” をベースにした現在の博物館学習論の根幹の一部を築いていることは興味深い。
Dewey, John.『経験としての芸術』Art as Experience. New York, Minton, Balch, 1934 河村望訳、人間の科学社、2003, p.12-18
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/51633/1/life36_2.pdf
・・・そして、
作品そのものというよりも、作品を媒介としたコミュニケーション に注目し、展示もそうした意図のもとに演出されるのは、近年の博物館の特徴であろう。例えば2000年代以降、台北故宮博物院では、林曼麗館長のもと、映像作家とのコラボレーションなどにより様々な映像メディアを用いて情報発信を行い、 中華文明の発信という伝統的な文化財の論理と展示方法を越え、文化財から新たな価値を見出すような作品展示のありかたを探求している。
・・・とのこと。大のお勉強嫌いの当方は(「経済学」のみならず<勉学>なべて。念のため)「生涯学習」の場とか言われるとすぐそっぽを向くのがオチなのですが、台北には行ってみたくなります。
そういえば(なぜか虎馬に)「経済学博物館」というものがない、またありえないのはなぜでしょう。並べるものがないから(御託しか?)。現物(現実)を示すと「経済学」にはならないからでしょう。といいますか、先験的な命題に終始する当為体系(政策合理化体系)ではない、経験科学としての経済学は経済的事象の再現性のなさから不可能なのでしょうか。いや、可能だと思います。「経済学史」ではなく「経済史」博物館をこころみうることとあわせて。
それはともかく、かの安冨歩センセイの『ドラッカーと論語』(東洋経済新報社、2014年;p065)によれば、あの旭山動物園が閉園の危機にあったときに決定した動物園のミッションとは「人類に野生動物のもの凄い迫力を思い知らせる」という、いわゆるお客さま目線とは最もかけ離れたものであったそうです。
おそらく「経済史博物館」を含めて博物館は、旭山の「野生の迫力を思い知らせる」ことに対応して「生きた現実世界のもの凄い迫力を思い知らせる」ものになるのでしょう。
で、じつは「理論」自体が本来は「生きた現実世界のもの凄い迫力を思い知らせる」ものなんだろうなと、勉強嫌いが思ってしまいました。
「大のお勉強嫌い」は単なるご謙遜とは思いますが、本気でご自分のことをそう思われているならば、強いられた「勉強」でなく自発的な「学び」の意味をよく知り、楽しんで学んで来られたということになります。「勉強」の意識なしにこれだけの学識を得られたということであれば、これぞ理想的な学び方の具現、いよいよ尊敬いたします。
経済学博物館、ありだと思います。しかし材料としての展示物を示して自ら考えてもらい、議論を喚起する「フォーラム型博物館」を目指すならば、実は関さんがここでそのような「バーチャル博物館」をやっていると見ることもできます。
「勉強」とは「つとめしいる」という意味なので、お好きな方の方が少ないのかと…
博物館、動物園、安富歩、自然法則…それで思いついた言葉が「飼いならす」。
安富氏の最近の著書に『誰が星の王子様を殺したか』があります。バラに命をささげた王子さまの愛は美しいものだったのでしょうか。この本はこれはまだ読んでいないのですけど、『星の王子さま』には「飼いならす」という言葉が出てきます。友達になろうとした王子さまにキツネが「おれと友達になりたかったら、あんたがおれを『飼いならす』ことだね」と言って「飼いならす」作法を教えるのですが、気を許してくれたと思ったら「大切なものは目に見えない」という「秘密」を教えて別れてしまいます。
安富氏の本は『星の王子さま』を人間関係とハラスメントで読み解こうという試みですが、自然法則にまで話を拡げていいのか。神話の神々も本当は荒ぶる神なのに、日本人はそこからご利益を引き出したりしますしね。
「経済学のものすごい迫力を伝える博物館」ですが、どこかにそんなものを建てようとしたら銀行とか企業の重役が「顧問」として乗り込んできて、「金利くん」とか「トリクルダウンちゃん」といったゆるキャラが説明をしてくれる施設にされてしまいそうです。「税制」とか「再配分」もゲームで楽しく学んだつもりになれるとか。
本当は「新古典派経済学が科学を冒涜している理由」にコメントすべきですが、経済学、こと貿易理論が植民地主義と結びついていて、イギリスとインドとの関係には適用できても、マリとガボンの間ではどうなのか、みたいに疑ってしまうのです。人類学とか民族学とか宗教学とかはヨーロッパの優位を裏打ちする学問にされがちでした。まじめにやればやるほど後進国の現実が見えなくなるとか。世界銀行やIMFのスタッフは赴任するとホテルと相手国高官のオフィスを往復し、本部のプランを忠実に実行するか確認するだけだというのです。
「経済学の本質がわかる博物館」は大歓迎ですが、経済的支配層にとってはありがたくないと想像します。
たんさいぼう影の会長さま:
どうしても惹かれる量子論を指をくわえて見ることしかできない数学コンプレックスが一瞬にして古典力学ベースの「経済学」まで引きずり下ろされてしまったため、小学生の頃の「お勉強トラウマ」が突如よみがえり「お勉強大嫌い」を連呼いたしまして大変失礼をいたしました。りくにすさま、優しいさりげないフォローをいただきありがとうございました。
以降「お勉強大嫌い」という言葉を二番目の「自粛」語彙といたします。「自粛」とは、ロイターの日本のメディア報道に関する記事によればなんと「 self-censorship 」(辞書的には「自己検閲」、英文 Wikipedia 流には「自主言論弾圧」)というそうですが。
http://www.japantimes.co.jp/news/2015/02/25/national/media-national/japanese-media-self-censorship-seen-growing-abes-reign/#.VO0pHSn2DoC
(閲覧ご注意!表現力のありすぎる顔写真が飛び出します)
『私の大学』というにはあまりにささやかな体験をおぎなうべく、一知半解の聞きかじり読みかじりで表面を糊塗しているだけですのに、頬から火の出るような励ましを影の会長さまからいだたきまして感激・感謝しつつ、まことに畏れ多いことと腰を抜かしております。どうか今後とも親しくご嚮導をいただきますようお願いいたします。
たしかに、本ウェブログは関さんという、正義感とユニークで際立って優れた感性・知性を持つ存在によって、バーチャル・リアリティ社会経済「博物館」というべき風格と偉容を持っていると思います。
文部科学省のサイトにある「社会教育調査」統計によれば、2010年度の「歴史博物館」来館者総数は7千9百万人、「美術館」は6千2百万人、「科学博物館」が3千4百万人・・・とあって!絶句しました。
http://www.mext.go.jp/a_menu/01_l/08052911/1313126.htm
あの東京ディズニー・ランドとディズニー・シーあわせて ↓ 2010年度の入場者数は2千5百万人です。大阪のユニバーサルスタジオジャパンの入場者数が大きく盛り返した2013年度で1千万人、あわせてようやく「科学博物館」来館者数と同レベル!になります。これはすごいことなのでは。
http://www.olc.co.jp/tdr/guest/
http://bb-building.net/project/usj2.html
博物館に「統計では一人が年二度以上は訪れる」と始まる朝日新聞のネット向け記事が、博物館が社会制度的には微妙な存在であることについて触れていました。東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館ともに、自治体教育委員会や財団法人を設置者に想定した「博物館法」では正規の博物館ではないと。
大きな期待を浴びた戦後間もなく以来の「博物館法」大改正は、国の財源の枯渇に引きずられて、大山鳴動して鼠一匹、に終わったとのことです。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200808300050.html
さはさりながら、博物館は、大学や研究所とは「開放性」と「エンタテインメント性」という二点においてまったく対照的な、すばらしい知的空間であり、創造空間であることは、そのすさまじいと思えるレベルの来訪者数とあわせて、本当にうれしい驚きです。オカミがカネと口を出さないという条件を生かして? 「1人が年2度以上訪れる」という、まさに「楽しんで学ぶ」場所が実在するのですね。
と、いいながら芥川龍之介が「過去の廊下には薄暗い中にさまざまの正義が陳列してある。・・・彼処に房のついた長剣がある。あれは国家主義者の正義であろう。・・・」とつぶやいた九段坂の「遊就館」、それに広島の「原爆資料館」は、と言えばゴクリと言葉をのみます。
まして福島第一原発4号機が「博物館」になる日など来るのだろうかと思うと・・・。
・・・と、論点を見失っていることが露呈してきて不安になり、本題の「経済学博物館」、いつもの https://startpage.com で見ましたところ(安全な検索エンジンだと)世界初の経済学専門の博物館!としてメキシコ・シティに2006年に開館した「 Museo Interactivo de Economia ( Interactive Museum of Economics ) 」というのがありました。
http://muzeydeneg.ru/eng/?p=593
メキシコ銀行協会がスポンサーで、いやはやどうも、りくにすさまが想定されたとおりの博物館、地球の反対側まで届く千里眼にのけぞりました。
ここに貨幣(古銭)のコレクションがあるところがいかにもですが、日本銀行には「貨幣博物館」がありますね。ちなみに日本銀行が株式を上場している株式会社であるということは・・「日本銀行券」と刷られた円貨紙幣はなんとオカミの権威をかさにきた私的証券なんでしょうか!?
「インタラクティヴ」と謳い、どうもディスプレイと対面での経済学の「お勉強」のことらしいメキシコ・シティの経済学博物館からさっそく遁走して(← 自己検閲ギリギリです)、関さんの「弁証法空間」の中に「フォーラム」型の社会経済学博物館が形成されていることことにようやく気がつきました。
たんさいぼう影の会長さまのご示唆どおりで、まさに「青い鳥」!!かけがえのない大切な空間であることをあらためて認識します。
りくにすさま:
聞きかじりの寄せあつめで、『星の王子さま』は原タイトルからすると「あのとき会った小さな国の君主」という感じなのではないか、と言うのは「いくらアニメの口の動きにあわせたとはいえ『レット・イット・ゴー』を『ありのままで』とは」と目くじらを立てるのとおなじになるのでしょうが、それはそれとして:
『 Le Petit Prince 』に描かれた一輪のバラは、「アルゼンチン郵便飛行会社」の支配人としてブエノスアイレスに赴任したサン=テグジュペリがたちまち恋に落ち、妹ガブリエルが嫁いだ南仏ヴェールのダゲイ( d’ Agay)家の城館で母親の厳命により翌年結婚式を挙げさせられた、サン・サルバドル生まれの若い蠱惑的な未亡人コンスエロ・スンシン・サンドヴァルのことであったこと;
あのキツネといえば、サン=テグジュペリがニューヨークに滞在して「Le Petit Prince」執筆したニューヨーク滞在時当時彼に夢中になり、その原稿を別れ際にテーブルに投げ託された愛人シルビア・ハミルトンにまちがいないということを二日がかりで拾いあつめました。
しかし、かようなありがちな「真相」は、「お勉強大嫌い」などと比べると宇宙的なレベルのトラウマ、みずからの魂が鋼の爪でかきむしられた、いたましいハラスメント体験を下敷きにして、安冨歩氏が(りくにすさま、「冨」は冠が一角獣ではないものを当ててあげてくださいますよう)『 Le Petit Prince 』におけるバラ(メイン・ハラスメント)とキツネ(サブ・ハラスメント)の存在のあり方を定式化されたことに比べると、まことに些末なことのように思えます。
多義的で変幻自在な「apprivoiser 」が、「飼いならす」→「絆」→「鎖」 → <自殺> と変化する、というのはじつに威力のある認識です。
安冨歩氏がとくに一章を設けられた「X将軍への手紙」において「手足を切断されてからあたえられる自由」が提起されていることとあわせて、これが冒頭のロイター記事が指摘する、現在のマス・メディアとアベ・シン官邸の関係、ひいては現時点の日本国民一般のあり方を直喩的に言いあてていた、とそのまま敷衍することができるという事態にじつは反吐が出る思いがします。
りくにすさまご指摘のように、現在ますますそうである、西欧世界(米英とEU主要国)の非西欧世界・非西欧的なるものに対する文化的かつ物理的ハラスメントにおいてしかりなのでしょう。
安冨歩氏の読み解きはみごとであるとひたすら感服し、おそろしくて『誰が星の王子さまを殺したのか』をひらくことができません。「自然法則への話の拡大」についてはなんとも見当が・・・どうかご容赦ください。
しかし、これまたありがちのことですが、「星の王子さま=サン・テグジュペリ」自体、『銀河鉄道の夜』のわが宮沢賢治に比すべき神話と聖者化の産物であり、おそらく谷川徹三にあたるのがアンドレ・ジッド、宮沢清六に知性と文筆能力を加えたのが、若はげに悩み、終始ドジを繰り返した貴公子パイロット、サン=テグジュペリの生涯のパトロンであり、愛人であった伯爵夫人ネリー・ド・ヴォギエだということになります。
なんとサン=テグジュペリの自分宛の私信を「X将軍への手紙 」というタイトルで出版したとのはこの伯爵夫人であったとのこと!
そして、『 Le Petit Prince 』においてメイン・ハラスメントの加害主体であったバラ、すなわちサン=テグジュペリの「正妻」コンスエロこそ、最大かつ決定的な運命のアイロニーのもとにありました。
異邦人である彼女を絶対に認めなかった伯爵夫人ネリー・ド・ヴォギエと、アンドレ・ジッドをはじめとするフランスの「ハイ・ソサエティ」からその存在が排斥され続け、「サン=テグジュペリの世界」から徹頭徹尾無視され、現実世界のハラスメントの最大の被害者だったのです。
以上のような探索の始点と帰点は「きりえれいそん」とおっしゃる、おそらくスペインに帰化された方のウェブログ中のきわめて印象的なサンテグジュペリ関連記事です。感謝を込めて紹介させていただきます。
http://kiriesekainokunikara.blog108.fc2.com/blog-category-26.html
いっそ「サン=テグジュペリ、空飛ぶ宮沢賢治聖者伝説博物館」をこの弁証法空間に設けてはいかがでしょうか。いえ、経済支配層を視野にとらえるにはこれはまことに迂遠なアプローチであり、まして弁証法のダイナミクスには届かない飛翔を売りにした貴族の道楽息子の話に関さんが食指を動かすことはないでしょう。
「自然法則」のことは、その謎を解明することで「飼いならせた」「支配できた」と思い込みがちな傾向を書きたかったのです。最悪な診断でも、病名が分かると一種安堵するとか。それは呪術に似ているかもしれません。
しかし現実には土木技術が確立しているはずなのにトンネルが崩落したりしますから、自然はなかなか「飼いならされて」くれないようです。「飼いならされている」のは人の方だったりして。
きりえ様のブログのご紹介ありがとうございます。
『星の王子さま』を背後の人間関係を抜きに読むなら、小惑星の住人にとってバラはバオバブの美しい一変種なのかもしれません。(乱暴ですが。バオバブの小さいのとバラの区別がつかないアフリカ人はいないと思います)私たちは小惑星のような領土を持つ小君主なのだ、という話ならバオバブはきれいなのもそうでないのも見つけ次第抜き捨てるべきだ、になるでしょう。でもバラは開花して王子様をいたぶり始めている。どうしたらいい…
コンスエロがエクアドル出身だったことは失念しておりました。
そういえばスペインが南米に植民地を持った時、植民地生まれの人は純血のスペイン人であっても本国人とは区別されました。メキシコ革命で立ち上がったのはこの植民地生まれのスペイン人でした。同じ人種でもアパルトヘイトはありうる。
王子さまはバラを置き去りにして出て行ってしまいましたが、見方によっては「島流し」ですね。小惑星とは南米のことで、地球がフランスだったのでしょうか。
『凶悪犯罪者こそ更生します』の岡本茂樹氏によると、加害者が加害したことを被害のように表現は犯罪者にはよくあることのようです。たとえば「誰でもいいから殺してみたかった」犯人が「あいつが泥酔して人気のない路地を歩いていたのが悪い。あいつのせいでおれは人殺しになった」みたいに言う。被害者を目撃者や警官と同列に見てしまう。犯罪者は人間関係が未熟なまま社会に出ることが多いので、更生にはまともな人間関係を結べるようにな教育することが必要だ、とのことです。
同胞の間では加害か被害かはっきりわかるのに異邦人のことになるとみんな「こちらは被害者」と言い立ててしまうのです。それで「飼いならしたものには責任がある」では救われない気がします。「あなたが飼いならしたのだもの、最後まで面倒を見てあいつが私たちに迷惑をかけないようにしてちょうだい」なんて話になってしまう。
王子さまは愛人を根っこの生えた花にして、小惑星に置き去りにして、それでもこの世に二つとない美しいバラだったと告白するんですね。ヒツジの絵とか毒蛇のセリフとか、気になることはいろいろありますがこの辺で切り上げさせていただきます。
話変わって…
本人確認を徹底するようになっている今日ではどうか分かりませんが、昔は子供のために銀行口座を作ると、銀行は初歩の経済学と銀行の役割を説明した冊子をくれたものでした。だから銀行は子供が経済学に興味を持つことは歓迎すると思います。そうして子供を未来の顧客として「飼いならす」。ただ、着ぐるみ、人形、イラストでの説明を喜ぶのは日本人であり、世界の多くの人はそれで「子ども扱いされた」と感じるらしいので、メキシコの経済学博物館にはゆるキャラはいないと思われます。
> ここに貨幣(古銭)のコレクションがあるところがいかにもですが、日本銀行には「貨幣博物館」がありますね。ちなみに日本銀行が株式を上場している株式会社であるということは・・「日本銀行券」と刷られた円貨紙幣はなんとオカミの権威をかさにきた私的証券なんでしょうか!?
日銀の「独立性」を云々する人は、日銀が国有になったら大変だ、といいます。たしかアメリカには長らく中央銀行がなく、イギリスやフランスでも民間の銀行家が集まって中央銀行を設立したのでした。
仮に国有化されても、銀行家が国債を買うから似たようなものです。それだから金持ちは優遇され、労働組合はいわれもなく中傷されるのですね。ピケティは「資産の増殖スピードは収益よりずっと速い」と言いましたが、同様のことはファンタジー作家のミヒャエル・エンデも指摘していて、NHKが番組をつくったほどです。エンデはピケティと違って資本主義を擁護しませんから「持ってるだけで貨幣が増殖するのはおかしい!利子とか貨幣をなんとかしろ」と折に触れて述べておりました。また、「ピケティは資産を持つ側にまわれ、と言っている」という論客もいるようです。『金持ち父さん 貧乏父さん』とどこが違うのでしょう。
ところで、日本人は平均年2回博物館を訪れるとのことですが、多くの動物園・博物館などは年間パスポートを発行しています。年4回ぐらい行けば元が取れるようです。一部の愛好家が繰り返し訪れていると想像しますが…
ところが経済学では、こうした転換を図っても、せいぜい古典主義がマルクス経済学になる(あるいはマル経が新古典主義になる?)くらいで、あまり面白い展開は望めません。
するとやはり、経済学者がどのように人の世を捉え、どのような勢力と結びつき、どのような信念対立が生まれ、どのような社会的弊害を生んできたのかを淡々と記述するという「メタ経済学」を展示し、それを前にして皆で語り合うというのが面白そうです。
メタといえば、トロツキーが20歳そこそこの頃に、こういうニーチェ論を書いています。http://www.marxistsfr.org/nihon/trotsky/1900/nietzsche.htm
ニーチェの哲学にはなかなか魅力的な部分もあるのですが、トロツキーはこれを正面から批判するというよりも、これを称揚する寄生的プロレタリアートに対する痛烈な批判を展開しています。
こういうのは面白いですよね。そのトロツキーの影響を色濃く受けた、ニューヨークのトロツキストたちが新保守主義者(ネオコン)に変わっていた過程なども、分析してみると面白そうです。
りくにすさま:
関さんが弁証法空間に復帰なさったら、弊投稿名を「バオバブ」に変更するのはどうだろうと思ったりします。しかし、体型が「バオバブ」なのだと思われては、とためらいが・・・
1977年に初版が出て、先日入手した2011年版まで34版を重ねた大石慎三郎氏(2004年逝去)著『江戸時代』(中公新書476)の「明治維新の利得者をさぐる」(p218ーp262)に、ずっと気になっていたことがズバリと切り込まれていて「やはり」とショックを受けました。
明治維新以来の支配階層のうち、寄生地主「だけ」が農地解放によって斜陽没落したことが、戦後から現在にいたる日本の社会構造と産業構造を決定づける大きな要因になったわけですが、敗戦後に切り捨てられた、この大地主が明治維新の「共同正犯」でなかったはずがないと漠然と思っていまして、そこを突かれました。
さりとて、三井や住友という大商人と寄生大地主を加え「薩長公英大商人大地主陰謀論者」では長すぎるので「バオパブ」ではと、りくにすさまの「星の王子さま」コメントから思いついたのですが。
いずれにせよ元気を出してそのうち「明治維新に関する仮説」を手直ししなければなりません。「ええじゃないか」を煽ったのは商人よりむしろ大地主くさいとにおいます。
なるほど。「飼いならしチェーン」である「自然支配/自然科学」という御意、おかげさまでたしかに受け取りました。ふと思いますに、山の運動による?トンネルの崩落から「量子力学的自然」の威力に違いない福島の問題まで、人間の社会的なあり方に即応した「自然の飼いならし」に起因するものであるような気がいたします。
そこで「飼いならしている側」といえば、その人間の体内は脳を含めてまさに「自然の驚異」であることが不思議です。花粉症(免疫異常)、ガン(遺伝子&免疫異常)、鬱病(自律機能異常)に酒酔い(神経麻痺)を含めてたぶん自然の復讐としての「飼いならされ」症候群なのでしょうか。
さて、キツネさんの「飼いならす」というのはじつは子ども向けの童話には無縁のことを意味しているのではないかと思えます。小貴公子サン・テグジュペリの、想像からかけ離れた行状からして。情熱のバラを摘んで帰ったのはいいものの、母親に婚姻を強要されて、あのように。でも、ニューヨークではキツネさんのところから、バラが待つはずの部屋に帰っていたとか。こまったものですね。
安冨歩氏のように「上手に騙されて」自分のトラウマをかさねて歌うようなことはない慧眼の持ち主、りくにすさまのお見立てどおり、じつはハラスメントのバリバリの加害者だったサン・テグジュペリこと小惑星のナルシス・マキャベリスト・プリンス、何を思って『星の王子さま』に化けたのでしょう。
そこで、ここで、「話変わって」飛びますが、岩井克人氏とはかけはなれて真実を見抜く目で貨幣の本質を見たエンデと比べようのない、じつは無害無毒の、それゆえに売れに売れたピケティ氏の『21世紀の資本』についての伊藤光晴先生の小論にいたく感銘を受けました(「話題のピケティを読む 誤読・誤謬・エトセトラ」雑誌『世界』岩波書店、2015年3月号所載)。
『21世紀の資本』は2013年9月にフランスで出版されたあと、2014年4月に英訳がアメリカで出版されると、保守派にパニックが起きて一躍有名に、その津波が大西洋を越えてイギリスへ、本国フランスに逆上陸、そして太平洋を越えて日本に。いったい何がそうさせたのか。伊藤光晴先生は「その多くはこの本の誤読ゆえと思われる」と身もふたもなく喝破しています。このように。
この本が扱うのは 小文字で始まる capital すなわち富者の持つ資産であって「資本」ではない、ゆえにこの本は『21世紀の資本論』ではない。しかるにピケティはマルクスの『資本論』(『 Das Kapital 』、『 Capital 』)を意識してこのタイトルをつけたに違いない。そこのあったのは、社会の「誤読期待」である、と。
そして「期待」にたがわず、大方が引っかかりました・・・りくにすさまのさりげない「エンデはピケティと違って資本主義を擁護しませんから」という言葉がみごとに言いあてているところを皆さんガニ股でせっせと乗り越えて、存在しない紙背を読んで震えたわけです。
参照:「宇沢弘文の社会的共通資本」まで言及した、間宮陽介「『21世紀の資本』の紙背を読む」(雑誌『世界』岩波書店、2015年3月号所載)
現在87歳の伊藤光晴先生の、もうはばかるものがない率直さによって誰よりも光っていると思える見立ては・・・、ピケティのいう資本主義の中心的な矛盾とは、それが「減ることなく増え続ける世襲財産」の社会であること、そこでピケティは絶望的な提案(国際統一の軽い累進課税)によって世襲の富裕の肥大を抑えようとしたのだ(そう言ってみせたのだ)、ということです。
伊藤光晴先生の指摘の裏打ちとして、ピケティ・ブームは「泰山鳴動して鼠一匹」と言う在ブダペストの経済学者、盛田常夫氏による『異常なピケティブームを支える経済学の貧困』を是非ご参照ください。
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-3090.html
そこで、『 Le Petit Prince 』と掛けて『 Le Capital au XXIe siècle 』と解くのはいかがでしょう。そのこころは、あられもない「誤読期待 」。語りの天才というのは、まさにそういうことが息を吐くようにできること、それが、オカネにこまったことなどない、花巻の道楽息子、宮沢賢治でよくわかります。
参照:吉田司『宮沢賢治殺人事件』(文春文庫、2002年)
ピケティと掛けて、星の王子さまと解く。そのこころは「キツネ憑きねらい」と。いかがでしょうか。
はて、わが長身馬顔の星の王子さまはといえば、なんと・・・
「 寄席に出られない若い弟子たちのために建てた『若竹』の借金を返すために・・・全国を講演して歩き、・・・タイトルはいつも「戦争と平和」だった。戦後の日本は、平和の大切さを忘れて経済にまい進している。戦争を再びしないとの気持ちを忘れてはいけないと・・・東京大空襲の体験も聞いた。竹の塚から親戚を探しに下町まで来て浅草近くの隅田公園に行ったが、まだ地面が焼けて熱く、長靴の中に水に浸した真綿をしいて歩いたそうだ。人の死骸を踏み超えなくては歩けない惨状だったと。体験者だけに、平和の大切さが分かる円楽さんだった 」
・・・とあります。ウィキペディアによれば、浅草にあった「易行院」を生家とし、食糧難の時代、農業をこころざして埼玉の農業高校を出た師匠、読売ファンだったとのことには目をつぶり、おなじ江戸っ子出自の身として心から合掌します。
http://ameblo.jp/counselors/entry-10377298764.html
加世田智秋 「三遊亭円楽師匠と星の王子さま」
安冨歩氏にはどうあれ共感を持ちますが、正直言ってサン・テグジュペリには・・・。さんざん鉦や太鼓で「星の王子さま」騒ぎをしておいて今さら何を、と眉を顰められるでしょうが。
たんさいぼう影の会長どの:
「20歳そこそこのトロッキーによる『パラサイト・プロレタリアート』に対する痛烈な批判は面白い」そして「トロッキーの影響を色濃く受けたニューヨークのトロツキストたちがネオコンに変わっていた過程の分析は面白そう」である、とおっしゃったことを追いかけるのに三日かかりました。
長いあいだ心の底に澱んでいたものが攪拌されて浮かび上がって来るように思います。ありがとうございました。
「生産と分配の組織的過程に何ら系統的に参加していない」という意味でプロレタリアートではあるが、食べるためには働くか乞うしかない「ルンペン」(われわれは大概そうですが)ではなく、「一種のブルジョア騎士団の構成員」である資本主義の寄生者=働くブルジョアジーを搾取する超人は今や、
どんなに説教をたれてもけっして世の中を変える気はない(まして「弱者」のために)ジョージ・ソロスや、ウォーレン・バフェットのような存在となりました。
20歳そこそこのトロッキーの才気おそるべし、ですが; 自分の非凡さを信じながら、自分に独創性はないのかもしれないという不安と絶望に駆られて「自己超克」を唱えたニーチェへの痛烈な批判は、若きトロッキー自身の自己認識であったのであろうと思うと、いたましい気がします。
トロッキーがニーチェに向けた目、「弱きものまで照らそうとする神の正義」の欺瞞を剔抉するために「神は死んだ」と言い、そこに「自己超克」の果ての「超人」を置き、といってじつは世俗の権威や力に対する阿諂から逃れられない、それが世の弱者たちに対する屹立した姿勢となる、
・・・とニーチェを見てとったトロッキーにかかったニーチェの呪いが、福引きならぬ厄引きの結果、ネオコンを生み出したのではないかと思います(これは仮説ではなく、修辞です。来たるべき分析を待ちます)。
「ニーチェ、トロッキー、ネオコン&ジャパン・ハンドラーズ(経済学)博物館」というのが関さんの興味を惹くかどうかが問題ですが、それ以前に、「経済学」というのは、経済社会を動かすメカニズムを世の中を差配する者の視点で扱うものですから、「生活者の経済学」というのは、生活者が博物館展示替えのトレンドであるにかかわらず、不幸にして形容矛盾になるのでしょうか。
資本家・企業経営者に支配されて働き生活する人びとに暖かい視線を向けていたのは知る限りアダム・スミスだけであったように思います。
マルクスはと言えば、支配され搾取される労働者に対して「おまえたちが世の中の支配者にならなければ!」と叱りつけ背中を蹴飛ばしていたわけで。
この二人以外の「経済学者」たちはすべて「経済事象を論じて人を見ず」で、人間自体に対する愛情や探究心で動いた人は、それをあまりに前面に出しているのでどうも信用しきれないアマルティア・センを棚上げすれば、いないように思えます。
「経済」を研究すると否応なく「人間の生活の匂いを忘れる」なぜか、ということが「メタ経済学博物館」のテーマになりましょうか。おもしろそうです。
しかし、なぜ「通貨価値が稀薄化されないようにするため発券銀行が政治から独立した存在でなければならない」というような、お金持ちの利益を社会一般の利益と言いくるめながら、じつはいろいろある、というようなことは展示で扱うには手こずるでしょうね。
いつもながら、ゴム長靴の底に穴があいてきたようなので、博物館リピーターがひらく博物館の明るい将来、おそらく垂れ籠める知的絶望に窓をあけて人類に希望を持つための唯一の希望である「非超人への愛情と信頼」のために乾杯して、饒舌を終わります。
ネオコンと長州の通底性について、あらためてコメントをまとめることができればよいのですが。
たんさいぼう影の会長どの:
「メタ経済学」と「メタ経済学博物館」について示唆いただいたこと・・「経済学者がどのように人の世を捉え、どのような勢力と結びつき、どのような信念対立が生まれ、どのような社会的弊害を生んできたのかを淡々と記述するメタ経済学を展示して、それを前にして皆で語り合うメタ経済学博物館」・・に感謝しつつ、
(1)「『経済学』学」としてのメタ経済学と、(2)メタフィジックス的な「メタ学」としてのメタ経済学のこころみ、の二つがあるのだろうかと漠然と考え始めておりした。
(1)については、神武庸四郎教授の2009年度経済学史学会大会報告「 経済学史研究に社会科学的な意義はあるだろうか?ー 『 経済学組織 』の分析例によるその評価 」が短いものながら明確なヒントになるかと思いました。
http://jshet.net/old/conference/73rd/73paper/2-1-1-kamitake.pdf
この報告中の、「社会システムとしての『 経済学組織 』の変遷」の仮説的分析例は、抱腹絶倒とは言いませんが、見たままをそのままお書きになったと思われる記述で、非常に参考になる(?)かと思います。
神武教授は報告の最後に「 今後の課題として、<1> 経済学史と経済学者の社会行動とを分析するメタ理論(「メタ経済学」)の構築」と、会長さまのご示唆とぴったり重なるものを提示され、続けて「<2>( 自然科学との対比による)多様な経済「科学」の観察と批判、および<3>( 経済学史学会の「自己観
察」を含む )経済学関係諸学会の組織(システム)の分析、などが考えられよう」と提起しておられます。
(2)については、どうも「きわめて困難」な課題のようで、アタマをひねったままでいます。
世界大百科事典によれば「 経済学の性格を自然科学のそれと類似のものにするための条件を探るのが経済哲学の主要な仕事になっている。
その結果、K.R.ポッパー流の経験的反証可能性に関する議論が経済哲学の中心を占めており、理論仮説の前提をなす公理、公準あるいは基本的仮定に関する意味解釈は形而上学に属するとして退けられる傾向にある 」とのこと。
https://kotobank.jp/word/経済哲学-1162728
はてさて、案の定(2)の旗色はきわめてかんばしくなく、たとえば「貿易は世界をゆたかにする」(ゆえに貿易に制限制約を課してはならない)と言われて「なぜ、どうして?」とプロテストすることは「形而上学的要求」として排されるというわけです。
卑近な例で恐縮ですが、どこかの記者会見のような・・・。
「なぜ」を問うことがいけない、というのでは、科学ではなく神学・信仰ではないかと思うのですが。いかがでしょう。
・・・ということは、(2)の意味でのメタ経済学の気炎を上げるまえに、まず(1)のメタ経済学によって経済学を腑分け台にあげることがなさるべきなのですね。どうかよろしくお願いいたします。
なんで経済なんてものがエラそうに、とか、経済的価値をめぐる貴族&奴隷制社会を民主主義といえるのか、とかいう「感情的原理論」は、ご法度というか、100年早いのでしょう。しかし、河清を待つわけには。
「王子さま」ことサン・テグジュペリは本人の主観では女性たちからハラスメントを受けていて、客観的に見れば実は魅力的な異邦人を傷つけていて、そういう「下世話」な話をしたくないという向きからは、「花」は崇高な精神文化的な何かだと主張され…なるほど、だから「バオバブの小さいの」はバラにそっくりなのですね。ここに「祖国愛」とか「戦争」という要素がからんでくると女性関係やハラスメントはどうでもよくなり…
宮沢賢治とサン・テグジュペリの違うところは職業選択で、サン・テグジュペリにとっては教師になったり石材や肥料のセールスをすることは眼中になかったと思われます。勤め人をするなら軍人(士官)か高級官僚で、フランス貴族は武士階級より融通が利かないようです。原田伊織氏が絶賛するにちがいありません。あと、何があっても狩猟は必須。きりえ様が考えるほどリッチな生活ができるわけではなさそうですけど。
ピケティ・ブームについては「広瀬隆さんが『赤い楯』で『フランスには自由はない』『フランスの社会主義なんて嘘ばっかり』と言ってたよ」と本当は書きたかったのですが、それではあまりにも唐突で無責任で迫力もありませんね。しかしピケティさんが新設されたパリ経済大学の学長であると知れば、なんとなく資本家寄りなんだと疑いたくなります。
一般人(主に中の上流と思われる女性?)の反応の一端:発言小町
ピケティ『21世紀の資本』についてどう思いますか
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2015/0210/700605.htm?g=01
だれも政府の「再配分」の働きなんか期待していないかんじですね。無価値な本ではないと思いますけど、「上の下から中の上くらいの階層に増税して貧困層からの不満をそらす気なんだ。その理論的裏付けだ」と言う方もいます。
その広瀬さんですが、『文明開化は長崎から』を読むと社会のことを書くより発明・発見話を書く方が向いていると思う。科学技術の話が絡むと人物評価が甘くなる気がします。『赤い楯』のほうがよかったような。
で、ミヒャエル・エンデですが、実は非マルクスの社会主義なんですね。資本の自己増殖のモチーフは、「時間貯蓄銀行」が登場する『モモ』をはじめ『鏡の中の鏡―迷宮』の駅カテドラルなどに反映されています。怪しいトランクを置いていく女、いつまでも来ない列車、繰り返されるおかしな連祷、祭壇からあふれる紙幣、時限爆弾らしいカチカチする音…
『鏡の中の鏡』は「難解」ですが好きです。
ファンタジーではない現実的な解決策としては、シルビオ・ゲゼルの「減価する貨幣」と無利子経済を考えていました。今からは考えられないかもしれませんが、エンデが亡くなる1995年には減価する貨幣と、地域通貨としての実践例をNHKが紹介していたのです。同じころイスラム経済も紹介していました。
因みに、イスラム銀行では前もって利子を決めることをせず、銀行が提案する投資先を選んで金を預け、後に配当を受け取るそうです。前もって儲かるかどうか予想するのは神の意志をおもんばかることであり不遜だからです。
それとは別に水野和夫氏は「資本主義の終焉」を予言しています。われわれは世界のどこにも高利回りの投資先を見つけられなくなるだろう、と。ひょっとすると贈与社会とポトラッチの復活が起こる、いや、戦争による破壊と再建が起こるだろう、と。無利子経済に移行したり気前の良さを競う社会にはなりそうにありません。貧しい人を助けなければならないと言ったら今や「封建時代が懐かしいんだ」とか「宗教への回帰だ」と非難されますし。
先日NHK-BSの「判事マツケン」でデカルト、ジャン・ジャック・ルソーとともにニーチェが取り上げられていました。「世間が受け取った『超人』はこんな感じ」それに対して「ニーチェが言いたかったのはこう」という説明です。ニーチェの「真意」は古い道徳や掟に縛られるのではなく、自分たちで新しい価値を作っていかなくてはならない、ということらしいのですが、これでは判事は被告を有罪にも無罪にもできず、踊るしかありません。そうでなかったら月並みなお説教でその場をしのぐことになります。マツケンサンバ、皆さんご一緒に!
さて、薩長公英さんご紹介の博物館の入場者数ですが、歴史博物館だけ伸びていますね。世の中の「右傾化」を考えると悪い想像をしてしまいます。日本人は好戦的な歴史のみを求めているのではないかと。大河ドラマが低調なのは首相のお手盛りが忌避されているだけではなく、日本人に真の歴史的な好奇心がないからだと思えます。普段なら妹から見る吉田松陰って面白そうですが、伊勢谷友介は勘弁してほしい。
ネオコンと長州に通底するものは分かりませんが、「カルヴァン派と浄土真宗の共通点」は以前触れたことのある礫川全次『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書)で取り上げていました。この本では近世日本人の勤勉さを形作ったのは実は宗教で、おそらく浄土真宗だろう(「勤勉革命」は宗教と無関係に起こったというのが従来の説)」と述べていて、親鸞の教えがどう解釈されると「骨惜しみ働け」という話になるのかまでは追い切れていません。それでマックス・ウェーバーの入門書に手を出したところですが、まだとても分かったとは言えません。
吉田松陰については、本人が浄土真宗であったこと、交流のあった勤王僧の月性と黙霖がやはり浄土真宗だったことが示されています。この本の主題は「働きすぎ」らしく、明治から戦後までカバーするつもりなので松陰にばかりかまけるわけにいかなかったようです。
トロツキストの話はネット上でどこかで読んだような気もしますが。