先日、さる歴史関係のオンライン・シンポジウムに参加したところ、日米修好通商条約の関税自主権問題が議論になった。私は、近著の『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)において、日米修好通商条約においては、日本に関税自主権は存在したと論じた。同条約で日本に関税自主権はなかったとする、歴史教科書を書き換える必要がある。
歴史学者はそう簡単に認めないだろうとは思っていたが、先日のシンポジウムで、複数の歴史研究者に私の解釈を言下に否定された。どうやら長い闘いになりそうだ。しかし、このまま誤った解釈を放置しておくことはできないので、国際的な議論にしてでも誤りを修正させなければならないと思った次第である。読者の皆さまにも、この問題に対する関心を広く呼び掛けたい。
問題は、日米修好通商条約の付属文書である「貿易章程」の末尾にある次の文章である。和文と英文で意味が異なり、私は和文が誤訳であり、アメリカは日本の関税自主権を認めていたのだと論じた。
和文正文
右(注:関税率規定)は神奈川開港の後五年に至り日本役人より談判次第入港出港の税則を再議すへし
英文正文
Five years after the opening of Kanagawa, the import and export duties shall be subject to revision, if the Japanese government desires it.
和文では、5年後には日本側が提起次第、関税率規定を再議すべしとなっていて、関税率の改訂には再交渉が必要という意味に読める。とすれば、日本が関税率を変えることができるか否かは日米間の交渉次第になる。確かにこの和訳だと、歴史学者たちの解釈の通り、日本に関税自主権があるとは言えないことになる。
しかし英文の方を見て欲しい。条約などの法律文書で使用される「shall」は法的義務として「~すべき」「~するものとする」という意味である。「subject to」も法律の条文で出てくるときなどは、「(承認・認可されることを)必要とする」という意味である。
英文の方を訳せば、「神奈川開港から5年の後、日本政府が望めば、輸入・輸出税は改訂される必要がある」という意味になる。つまり日本が関税率を改訂する(revision)と希望すれば、法的義務としてアメリカ側はそれを承認せねばならないのだ。すなわち、関税率を決める権利は日本側にのみ帰属するのであるから、日本に関税自主権はあることになる。
私も、日米修好通商条約の和文しか読んでいなかったので、従来通りの解釈でよいのだろうと思っていたのだが、本を出版するに当たって英文も参照したら、和文と英文の意味が違っていて、誤訳に気づいた次第である。
先日のシンポジウムではさる歴史研究者が、「subject to revision だから再交渉を意味する」と言っていて、びっくりしてしまった。従来の「幕府無能史観・不平等条約史観・薩長史観」を守りたいという動機は分かるが、そのために英文法の解釈を捻じ曲げてよいわけがない。英文のどこにも「再交渉」のニュアンスなどない。アメリカ人100人に尋ねたとすれば100人全員が、再交渉は不要で、日本が提起すればその原案をアメリカは承認せねばならないと答えるだろう。
ちなみに、ハリスは自分の日記において、「この関税は、神奈川が開港されてから五年後において、日本人がそれを欲するならば、改訂を行うべきものとする」(ハリス、坂田精一訳『日本滞在記』中巻、岩波文庫、 p.190)と明記している。アメリカ代表のハリス自身が、日本が関税率改訂を提起すれば、それに従うと述べている。
アメリカは日本が関税を自主的に決める権利を認めなかったと日本の教科書に堂々と書かれているとすれば、アメリカとしても国家の名誉にかかわることであろう。国際問題にしてでも、日本の教科書の誤った解釈を修正せねばならない。
歴史学者はそう簡単に認めないだろうとは思っていたが、先日のシンポジウムで、複数の歴史研究者に私の解釈を言下に否定された。どうやら長い闘いになりそうだ。しかし、このまま誤った解釈を放置しておくことはできないので、国際的な議論にしてでも誤りを修正させなければならないと思った次第である。読者の皆さまにも、この問題に対する関心を広く呼び掛けたい。
問題は、日米修好通商条約の付属文書である「貿易章程」の末尾にある次の文章である。和文と英文で意味が異なり、私は和文が誤訳であり、アメリカは日本の関税自主権を認めていたのだと論じた。
和文正文
右(注:関税率規定)は神奈川開港の後五年に至り日本役人より談判次第入港出港の税則を再議すへし
英文正文
Five years after the opening of Kanagawa, the import and export duties shall be subject to revision, if the Japanese government desires it.
和文では、5年後には日本側が提起次第、関税率規定を再議すべしとなっていて、関税率の改訂には再交渉が必要という意味に読める。とすれば、日本が関税率を変えることができるか否かは日米間の交渉次第になる。確かにこの和訳だと、歴史学者たちの解釈の通り、日本に関税自主権があるとは言えないことになる。
しかし英文の方を見て欲しい。条約などの法律文書で使用される「shall」は法的義務として「~すべき」「~するものとする」という意味である。「subject to」も法律の条文で出てくるときなどは、「(承認・認可されることを)必要とする」という意味である。
英文の方を訳せば、「神奈川開港から5年の後、日本政府が望めば、輸入・輸出税は改訂される必要がある」という意味になる。つまり日本が関税率を改訂する(revision)と希望すれば、法的義務としてアメリカ側はそれを承認せねばならないのだ。すなわち、関税率を決める権利は日本側にのみ帰属するのであるから、日本に関税自主権はあることになる。
私も、日米修好通商条約の和文しか読んでいなかったので、従来通りの解釈でよいのだろうと思っていたのだが、本を出版するに当たって英文も参照したら、和文と英文の意味が違っていて、誤訳に気づいた次第である。
先日のシンポジウムではさる歴史研究者が、「subject to revision だから再交渉を意味する」と言っていて、びっくりしてしまった。従来の「幕府無能史観・不平等条約史観・薩長史観」を守りたいという動機は分かるが、そのために英文法の解釈を捻じ曲げてよいわけがない。英文のどこにも「再交渉」のニュアンスなどない。アメリカ人100人に尋ねたとすれば100人全員が、再交渉は不要で、日本が提起すればその原案をアメリカは承認せねばならないと答えるだろう。
ちなみに、ハリスは自分の日記において、「この関税は、神奈川が開港されてから五年後において、日本人がそれを欲するならば、改訂を行うべきものとする」(ハリス、坂田精一訳『日本滞在記』中巻、岩波文庫、 p.190)と明記している。アメリカ代表のハリス自身が、日本が関税率改訂を提起すれば、それに従うと述べている。
アメリカは日本が関税を自主的に決める権利を認めなかったと日本の教科書に堂々と書かれているとすれば、アメリカとしても国家の名誉にかかわることであろう。国際問題にしてでも、日本の教科書の誤った解釈を修正せねばならない。
今の政治・権力・経済の主流は、「明治維新の勝ち組の子孫とそれの追従者」が多い。
その「神話」を壊すことを、きっと「厭う」のでしょう。
それが山河や日本人や国を壊すことになっても、たぶん「死守したい」かも。
なにか無駄な感想ですけど。
この問題に関心をもってくださってありがとうございます。従来の歴史学者たちの解釈の誤りは明らかですが、なにせ教科書すべての書き換えを要するため、文科省にもそれを受け入れさせねばならないという大問題に発展する問題です。私ごときが一人でさわいでも、どうにもならないと思われます。私には、過去にも森林の治水機能の問題で、国交省にウソをホントと言いくるめられてしまった痛い経験があります。
アメリカの研究者を味方につけて国際的議論にでも発展させるしかないと考えています。
関心のある方が増えるのが大きな力になりますので、よろしくお願いします。