代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

社会的共通資本は公共財とは異なる ―岩井克人氏に反論する

2014年11月12日 | 新古典派経済学批判
 宇沢弘文先生の門下生の一人である岩井克人氏が日経新聞の経済教室(2014年9月29日)で、宇沢先生の追悼文章を書いている。文章は非常に格調高く、宇沢先生に対する親愛の情と敬意で満たされているが、どうしても気になるのは、文章の中で宇沢先生の「社会的共通資本」概念を批判している点である。岩井氏のような影響力のある経済学者によって、社会的共通資本を批判する言説が流布されるのは大変に遺憾なことである。こうした評価が社会的に定着してしまうことを私は危惧する。岩井氏の主張内容に違和感を持つ者の一人として、役不足ではあるが岩井氏の社会的共通資本批判をさらに批判させていただくことにする。

 岩井氏は次のように言う。

***『日経新聞』「経済教室」9月24日朝刊より引用****

 (前略)(宇沢)先生が70年代の後半から「社会的共通資本」に関する研究に取り組まれていることを知ります。
 だが、その内容を聞いていていささか失望します。社会的共通資本とは、自然環境やインフラや社会制度の総称でしかない。ストックとしての公共財と言い換えてもよい。それが私有財産制の下では乱用されるか過小供給になることは、新古典派経済学でもよく知られた事実です。すでにその頃から社会主義体制には資本主義以上の矛盾があることは常識になり始めていました。社会主義に陥らずにいかに社会的共通資本を維持し発展させていくかに関して、先生自身、理論的な解答を見いだせていなかったのです。(後略)


***引用終わり******

 社会的共通資本の概念は、公共財の概念とは全く異なる。「ストックとしての公共財」などと言い換えることはできない概念である。宇沢先生による社会的共通資本の提唱の背後には、ポール・サミュエルソンが提示した「公共財」概念への批判がある。「公共財」という概念は、分析装置として全く間違っているから、社会的共通資本の概念を新たに提示する必要があったのである。
 

サミュエルソンの公共財の定義に従う限り万物は民営化される

 サミュエルソンの定義する「公共財」とは、「非排他性」と「非競合性」という二つの性質を持つものである。
 非排他性というのは、誰もがそれを利用することができ、特定の誰かを排除することはできないという性質である。
 非競合性とはさまざまな経済主体が、その公共財をどれだけ利用しても、皆が満足できるだけ利用できるという性質である。つまり誰かがその公共財を利用するという行為が、他の人々の利用を妨げないという性質である。

 考えてみて欲しい。このような性質をもつ公共財などあるのだろうか? 以上のようなサミュエルソンの定義がいかにナンセンスかは、小学生でも少し考えれば分かることである。

 例えば、水道を思い出してみよう。水道水は、利用料金を払わない人には元栓を閉めて供給しないよう排除できる。水道水を誰かが大量に使えば、他の人の使用可能量は減るという点で、競合性ももつ。水道は、排除性と競合性の双方を持つので、公共財ではないことになる。サミュエルソンの定義に従えば、水道は、私有財産として民営化の対象にしてもよいものということになる。実際にそのような理屈によって、世界各国で水道事業の民営化が行われ、日本にもその波は及びつつあるわけだ。

 道路を考えてみよう。道路は、その気になれば入口にゲートを設けて、金を払わない車の入場を排除できる。つまり排除性をもつ。道路は利用者が多くなれば渋滞が発生するので、競合性ももつ。そう、一般の道路も公共財ではないから、その気になれば民営化できるのだ。

 森を考えてみよう。森も、柵で囲って誰かを排除できる。木材にしても薬草にしてもキノコにしても森の産物を多くの人々が採取すれば、当然、量が減って競合する。サミュエルソンの定義によれば、森も公共財ではないことになる。

 このように、送電網も、ガスも、郵便事業も、図書館も、川も、湖も、学校も、病院も、すべて排他性も競合性も持つのでるから、民営化可能である。
 公共財の必要条件として「非排除性」と「非競合性」を置く限り、この地球上のほぼすべてのものは私有化・民営化・商品化可能という理屈になるのだ。

 かのミルトン・フリードマンさえ、道路や軍隊は公共財だと言っていた。しかし、いまや軍隊も民営化の時代である。万物の市場化・民営化・商品化が行われている現代市場原理主義経済は、その教祖のフリードマンが見たってびっくりな事態に突入しているのである。
 
 

社会的共通資本はたとえ私有財産であっても社会的な網がかかる

 宇沢先生の社会的共通資本の概念は、公共財の概念とは全く異なる。宇沢先生は生前、サミュエルソンの経済学がいかにナンセンスか、その業績に有意味なものが少ないかということをよく話して下さった。サミュエルソンが「要素価格均等化定理」なる定理を「証明した」と主張すれば、宇沢先生はサミュエルソンの定理の数学的な誤りを証明した。サミュエルソンが「公共財」という概念を提唱すれば、宇沢先生はそれを批判し、社会的共通資本の概念を対置させた。

 宇沢先生の「社会的共通資本」概念は、公共財概念とは全く違う。上記の水道、道路、森を例に考えてみよう。

 水道と道路は、公共財の定義は満たさないが、社会的共通資本である。宇沢先生の理論では、生活必需性が高く需要の価格弾力性が低いもの、大きな初期投資が必要なため供給の価格弾力性が低いものは社会的共通資本とせねば社会的不安定性を生むことが示される。価格が上がったからといって消費を減らすわけにはいかないもの、莫大な投資が必要で簡単に供給量を増やせないものは社会的共通資本とせねば社会は安定しないのだ。水道も道路もまさに、生活必需性が高く、また供給を増やすことも簡単にはできない。ゆえにこれらは社会的共通資本なのである。

 森はどうだろうか? 森が社会的共通資本でなければならないのは、社会的費用の発生、複雑性、不可逆性などの諸特徴による。こうした特徴を持つ自然環境は社会的共通資本となる。森林は、それが喪失することによって洪水災害、気温の上昇、降雨の減少・・・など不特定多数に大きな損害を与える「社会的費用」を発生させる。新古典派のいうところの外部不経済効果である。森は、まさに複雑系であり、一たび破壊されると種の絶滅など、取り返しのつかない不可逆的な変化を生む。
 それゆえ、森はたとえ私的所有者がいて、商業目的で木材伐採をしていても、なおその伐採には社会的な規制をかけねばならない社会的共通資本となる。

 社会的共通資本が社会的共通資本である理由は、生活必需性、社会的費用、不可逆性などさまざまな理由による。そして、何が社会的共通資本となるかは、人間の不断の働きかけによって制度的に進化していく。しかし、それらが社会的共通資本とされない限り、マクロな次元で経済的不均衡や社会的不安定性といったさまざまな歪みを発生させる。その歪みを教訓として制度は進化する。社会のバランスを保ち、マクロ経済を均衡させるために、世の中には私的資本と社会的共通資本の二部門がバランスのとれた形で必要となるのである。

 社会的共通資本は、社会主義とは全く違う。社会的共通資本は、国有化とか私有化とか、所有を問う概念ではない。社会的共通資本であれば、たとえ国有であっても官僚が独占してはいけないし、たとえ私有であっても所有者の勝手は許さない。社会各層の関与によって策定された制度にのっとって管理・運営される。そしてその管理の在り方は、歴史的な経路の中で、進化していくものなのだ。

まとめ

 岩井克人氏の社会的共通資本批判は以下の二つの点で間違いである。

※ 社会的共通資本は「ストックとしての公共財」などと言い換えることは不可能な概念である。社会的共通資本は、公共財の概念とは全く違う次元の概念である。

 
※ 社会的共通資本は社会主義に陥らないための概念である。社会的共通資本は「国有化」を意味しない。社会のさまざまなステイクホルダーの関与によって管理・運営されていくものであり、社会主義と市場原理主義の双方のシステムの欠陥の反省の上に構築されたものである。


PS 宇沢先生が生前に準備されていた最後の本が『社会的共通資本としての森』という本でした。宇沢先生と私との共編著です。宇沢先生の生前に原稿は出そろっていましたが、生前の出版は間に合いませんでした。痛恨のきわみです。
 ようやく来年の1月に出ることになり、出版元の東大出版会の近刊本として紹介されました。この本は「森」の問題に特化してはいますが、上述のような、社会的共通資本は公共財と違うものであること、社会的共通資本とは人間活動と制度の相互作用によって進化していくものであることなども書かれています。興味のある方、読んでくださると幸いに存じます。
 本の目次は、東大出版会の以下のサイトをご参照ください。
 
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-030252-4.html

 




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9 コメント

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Unknown (12434)
2014-11-12 21:25:49
農村や農地も社会的共通資本なら、農地耕作者主義もこれに基づいた概念といえるかもしれません。宇沢先生も農業生産法人の要件緩和には批判的でしたし。
http://www.jacom.or.jp/proposal/proposal/2011/proposal110223-12621.php

ぶっちゃけ株式会社が農地を自由に所有できても、自然人農家にとって代われるほどの担い手にはなれません。世界中家族経営が主流で、日本だけそうでなくなることはまずありえませんね。法人だと収支管理とかも大変だし。
参入企業の撤退後の問題もあります。オムロン(施設型)や出光(土地利用型)が撤退したあとは、その地域に大きな負担がかかりました。法人だと基本的に、普通の農家に比べて規模が大きいですから、撤退したときの損害もでかいでしょう。

自由貿易を推進する経済学者は、だいたい株式会社の農業参入や農地取得(所有も含む)も進めようとします。それで小規模な兼業農家は排除すべきだとかいうわけですが、どう考えても反対です。
私の家は約23ヘクタールほどの農地を所有しています。規模は大きい方だと思いますが、私や私の家族も小規模な兼業農家が不要だとは考えていません。専業農家だけで、すべての農地をきちんと耕作するのは不可能です。前述した理由で、株式会社がしっかりした担い手になるのも無理ですね。

兼業農家がいなくなったら、最終的には農村がなくなると思います。というより、農村が農村じゃなくて“農場とその跡地”になるといった方が正確でしょうか。住む人が減りすぎたらそうなってもおかしくない。
規制緩和で大手スーパーが進出して、駅前の商店街がシャッター街になったとよくある話ですが、それよりさらに悲惨だと思います。
よくネットとかで、「兼業農家は実は金持ちだ」という意見を目にしますが、必ずしも別の仕事で充分に収入得られているわけではないです。農業できないと生活が苦しくなる人も少なくないです。

前に農民層分解の話をしましたが、やはり極端な自由化で農業やその関連事業の失業者が増えたら、他の労働者も苦しめると思います。総需要が収縮して不況なんですから。

TPP推進派には、「専業農家はみんなTPPに賛成している」という意見もありますが、これは正確ではありません。確かにTPPに利用して儲けられる見込みがある農家も希に存在するでしょうけど、専業農家の大多数はそうじゃないと思います。
「兼業農家を淘汰すれば専業農家の保護が手厚くなる」とかいう人もいますが、それは生産量を大幅に減らしても構わないことになるでしょう。繰り返しますが、専業農家だけではすべての農地を耕作するのは無理だし、株式会社は恒久的な担い手にはなり得ないです。
そもそもアメリカやオーストラリアの大規模に勝てるとは思えないし、勝てるなら重要品目に高関税はかけないでしょう。
むしろ重要品目以外の関税ももっと上げた方がいい気がしますね。
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Unknown (12434)
2014-11-14 11:52:02
https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20141115-31-10123
今月15日の0:00時から、宇沢先生についての特集番組がNHK Eテレで放送されるようです。
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とりとめのない感想 (りくにす)
2014-11-14 15:53:59
公共財」と「社会的共通資本」の分かりやすい説明、ありがとうございます。
冗談めかしていうと「非排他性」と「非競合性」を併せ持つ「公共財」は太陽と夜空の星々だけということですか?月面にも近々開発の手が伸びそうですし。

さて、コンピューターを含む最新技術が農業部門にも応用が進んでいる、というニュースを時々拝見します。農地管理にGPSを利用したり、力のいる作業をサポートするロボットが紹介されたりといまのところは「高齢化した農家を助ける」という意味合いのようです。しかし火星探査車などをみると、土地の個性や土壌を自分で分析できるロボットだって出てきても不思議ではありません。そのロボットが必要な肥料や種子を自分で取り寄せるようになるなら農村に人はいらなくなり、「限界集落」を心配する必要はなくなるでしょう。そして微妙なノウハウを知りたければ江戸時代の農書や日記から21世紀の個人ブログまで収めた膨大なアーカイブに問い合わせてこれまたロボットが自分で解決します。私自身はそんな状況はまだまだ空想的だと思っていますが、「株式会社」は人間嫌いでロボットが好きと見受けられるので案外早く実現するかもしれません。そして作物を作る人よりロボットを修理したり盗まれないように警備する人の方が多くなり、それもそのうちロボットに置き換わり…という感じに人が仕事から排除されていくと「社会的共通資本」としての農地が人よりロボットのために利用され、経営もロボットがやるようになって、ロボットが自分たちの燃料を適正に永続的に作っていくようになったりして・・・
農作業用のパワードスーツの話題から飛躍してしまいました。ジェイン・ジェイコブスも書いていますが、昔から農業技術の向上が農村から貧しい人を追い出してきました。ある作業が楽になったからと言って生活もよくなるとは限らないようです。(脱線すみません)
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Unknown (12434)
2014-11-14 18:12:36
宇沢先生の特集番組は、正確には16日でした。すいません。
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皆様ありがとうございました ()
2014-11-15 21:55:23
12434さま
 番組情報ありがとうございました。今晩視聴いたします。
 

りくにす様

>冗談めかしていうと「非排他性」と「非競合性」を併せ持つ「公共財」は太陽と夜空の星々だけということですか?


 太陽と星は間違いなく公共財ですね。絶妙な例をありがとうございました。
 大気は公共財かっていうと、非排他性は持つかも知れませんが、競合性も持つので、両方の性質をあわせ持つわけではありませんしね。

 片方だけの性質を持つものを公共財と呼ぶにせよ、大抵の公共サービスは、両方の条件をともに満たしません。なぜ新古典派がこんなナンセンスな条件を設定せざるを得ないかに関しては、書きはじめると長くなりそうです・・・。
 

>昔から農業技術の向上が農村から貧しい人を追い出してきました。ある作業が楽になったからと言って生活もよくなるとは限らないようです。


 同感です。機械とコンピューターが人を押しのけていっても、人間は幸せにならないと思います。機械を動かすための資源もエネルギーも有限ですから、その流れはいつか止んで、反転するとは思いますが。
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疑問が1つ氷解しました (たんさいぼう影の会長)
2014-11-17 20:55:09
先月、京大で行われた「コモンズ研究会」で喋っていたのですが、そのときにコモンズを、「公共財」や「クラブ財」として説明することに限界を感じ、「社会的共通資本」を基礎に議論を再構築しようとする思潮を感じました。この記事を読んで、なぜそいういう方向性にならざるをえないのかが、一気に分かったような気がします。
伝統的なコモンズの捉え方は、サミュエルソンの公共財の捉え方に近い。しかしそれは、利用しようとする人が十分に少なく、利用の圧力が十分に低い場合にのみ成り立つ話です。つまり、人口が少なく人の移動能力も低く、しかも大規模な収奪を行うだけの技術力がない場合にのみ成り立つ話なのです。
そして実際には、資源の枯渇を来さないための「共」による自主管理、そして「公」による規制も行われていた。日本でも江戸時代くらいには、そうしなければ多くの自然資源は持続可能な利用が不可能になっていたようです。
本来の意味での公共財=コモンウェルスを「私」=市場から防衛し、「公」による規制と「共」による自主管理により維持していくとすれば、これはまさに社会的共通資本としての扱いということになります。
よし。明後日の講演の初っ端は、これでいこう。実は某大学の市民講座で、水田の多面的機能の話をすることになっているのです。
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コモンズと社会的共通資本 ()
2014-11-19 22:13:00
たんさいぼう影の会長さま

>コモンズを、「公共財」や「クラブ財」として説明することに限界を感じ、「社会的共通資本」を基礎に議論を再構築しようとする思潮を感じました。

 すばらしい! 会長さんにそのように思っていただけてうれしいことです。
 社会的共通資本の概念はコモンズ論の射程よりももっと広範な議論の枠組みを提供します。万物の商品化を追求してきたグローバル資本主義が壊後した後の社会制度を展望した際、鍵となってくるであろう概念だと思います。
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「インチキで人をまるめこむ計算」 (りくにす)
2014-11-27 12:07:58
宇沢先生と岩井氏をめぐるやり取りを見ていると、ミヒャエル・エンデの『モモ』の灰色の男が「無駄遣いした」人生の時間を次々合計するやり方が思い出されてしまいます。これで陽気なイタリアの床屋さんがあっという間につまらなそうに仕事をする時間節約家に変貌してしまいます。怖いことに床屋さんは灰色の男にあったことを覚えておらず、自分で時間の節約を選択したと信じているのです。
宇沢先生は数学から経済学に進んだとのことですから、フリードマンたちの誤りを数学的に指摘してもよかったと思います。。しかし宇沢先生は苦しめられている人々に寄りそう方を選びました。それをドロップアウトしたとみる経済学っていったい何、と思わずにはいられません。
さて、エンデはその作品の中で資本主義の病理を何度も描きましたが、そういうことを知ってか知らずか企業人が将来を考える集まりに招かれたことがありました。
例の床屋と灰色の男のところを朗読すると、企業家たちは困惑し、しばらくすると何事もなかったように「年3パーセントの成長を続けるにはどうしたらいいか」の話をつづけたのだそうです。
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「インチキで人をまるめこむ計算」続き (りくにす)
2014-11-27 22:36:48
PCの具合が悪かったので途中で切りました。
バッジ氏あたりに付け込まれると嫌なので先に明かしておきますが、エンデは非マルクス社会主義と神秘思想を背景にもっていました。彼は労働者より利子生活者の方が大きな収入にありつくことをおかしいと思い、お金の不滅性に疑問を抱いていました。またマルクスについて「個々の資本家を、国家という唯一の資本家にとって代えれば資本主義が克服できると考えたが、資本主義を変えようとしなかった」と述べています。
河邑厚徳+グループ現代『エンデの遺言 根源からお金を問うこと』NHK出版(文庫もありますが、図書館でリクエストすれば読めると思います)には、20世紀初めに活躍した社会運動家のシルビオ・ゲゼルが「貨幣は減価するべきだ」といって裏にスタンプを貼らないと使用できなくなる紙幣を提案したことが紹介されています。定常的にインフレがあるのと同様ですが、昨日100円でパンを買い、今日110円でパンを買うようなことは避けられます。ゲゼルという人は貨幣と利子について考え抜いたのでした。
『エンデの遺言』はNHKの特集番組として制作され、のちの本として出版されて地域通貨ブームを引き起こしたのですが、いまは話題に上ることも少なくなりました。この本には資本主義でもマルクス主義でもない経済を考察した人々がえっと思うほど多く登場するのですが、私の読書は『エンデの遺言』を理解するところで止まっています。岩井克人氏の貨幣論の本も手には取ったはずですが・・・

ところで(関さまには申し上げるまでもないことですが)「科学的」という言葉で葬り去られる大事なものが多いのですね。教条的に押しつけられる「科学」は科学といえるのでしょうか。

なお、貨幣が減価した方がいいという話は、生まれ変わりや天使を信じなくてもわかると私は信じていますが。
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