田中県政の後を受けた村井新知事が、期待通り(?)の「脱『脱ダム』宣言」をしたことが大きな話題になっています。この問題に関する私の意見を表明しておきます。この記事の内容は、過去に「緑のダム」のカテゴリーで書いたことと重複する部分も多いです。知っている部分は読み飛ばしてください。
村井知事は、田中前知事が凍結した9河川のダム建設計画の中の一つ、長野市の県営浅川ダムの建設を決定しました。当初計画にあった利水目的は放棄され、ダムの下部には1メートル四方の穴があり、常時、川に水は流しているが、大雨の際には水を貯留して治水機能を発揮するという「穴あきダム」です。これで「環境に配慮した」とされています。ダム本体の建設費用は約100億円とのことです。
この問題に対し、マスコミの論調を見ても環境に配慮した「穴あきダム」ならよいのではないかというニュアンスの報道が結構あります。「穴あきダム」の場合、当初計画の密閉ダムに比べて多少は環境的に好ましいということはあるでしょう。しかし問題の本質は、そんなところにはありません。治水上全く必要のない無駄なコンクリートの固まりに100億円もの血税が投入されることが大問題なのです。
この6年のあいだ、森林の保水機能が強化されることによって洪水時の河川ピーク流量をどれだけ引き下げることができるのかに関して、長野県でも随分と研究が進んできていました。ところが何故かこうした研究成果がほとんどマスコミで報道されておりません。じつに困ったことです。
問題の本質は何か? ―過大に計算された基本高水流量―
国交省は、想定される豪雨の際の洪水ピーク流量を算出し、その数字に基づいてダム建設計画を立てています。これが「基本高水流量」と呼ばれる数値です。ところがこの基本高水流量という数字がきわめて恣意的に高めに設定され、ダム建設の根拠とされている場合がじつに多いのです。
基本高水流量は80年に一度確率とか100年に一度確率で想定される大雨の際の河川ピーク流量のシミュレーションの数値のことであり、この数値に基づいて堤防の高さやダム建設の必要性の有無などの河川計画が決められます。既存の河道が、基本高水流量を流せない場合、ダムを建設したり、堤防を高くしたり、放水路を造ったり、遊水池を造ったりして、河道が基本高水流量を流せる状態にしなければいけないというわけです。
ここで何が問題なのかと言うと、国交省が「基本高水流量」を定めるための貯留関数法のパラメーターは、多くの場合、1960年代から70年代という、天然の広葉樹林の伐採が各地で大規模に行われ、日本の森林が非常に荒廃していた最中に発生した洪水実績から決定されていることです。実際には、それから30年以上の時間が経過しています。そのあいだに人工林が成長して、流域の森林の状態は改善されているのでパラメーターは変化しているはずなのです。1990年代など、より近時における洪水実績から流出モデルの構築を行ってパラメーターを決定していけば、より人工林が成長した状態が反映されるので、洪水ピーク流量(=基本高水流量)はもっと低めに計算されるはずなのです。
何故か学者たちは、これまでこの問題の研究に取り組むことはありませんでした。この問題に日本ではじめて本格的に取り組んだのは吉野川の住民運動だったのです。NPO法人吉野川みんなの会が研究を委託した学際的組織である「吉野川流域ビジョン21委員会(委員長・中根周歩広島大学教授)」は、国交省の算出した数値である2万4000トン/秒という基本高水流量が、上流の森林がもっとも荒れていた1970年代初頭の洪水実績をもとに算出されており、森林の現状を反映していないことを明らかにしました。そして、適正間伐という森林整備の治水代替案によって、基本高水流量は1万8000トン/秒にまで減らすことができる、つまり国交省の値に比べ25%も低い値に下げることができることを明らかにしたのです(注1)。基本高水を25%下げることができるのであれば、吉野川可動堰はもちろん吉野川上流で計画されている4つのダムの建設計画は全て必要ないことになります。
長野県における基本高水流量の水増し方法 ―パラメーターを恣意的に設定―
長野県で重要だった研究は県の林務部が実施した「森と水プロジェクト」の調査でした。吉野川のような大河川の場合、まがりなりにも現実の洪水流量の観測データに基づいて貯留関数法のパラメーターを決定し、その降雨を「150年に一度確率の降雨」に引き伸ばした上で、基本高水流量を算出するというプロセスを踏んでおります。その作業の何が問題なのかと言えば、パラメーターを決定するのに用いられた洪水実績が、広葉樹林が広範に伐採されていた拡大造林の最中、つまり上流の森林がもっとも荒れていた当時の森林の状態を反映しているということでした。
ところが長野県の県営ダム計画のような小規模河川でのダム建設の場合、そのようなプロセスも存在しないことが明らかになりました。長野県で問題になっているような小河川におけるダム建設の場合、そもそも流量の観測データを取らずに基本高水を決定していたのです。パラメーターは適当に決めて流量計算されていました。その結果、基本高水流量はとんでもなく高い値に算出され、その値に基づいてダム計画が立てられていたのです。長野県林務部の「森と水プロジェクト」研究グループの中心にいた加藤英郎氏(現・長野県林務部長)は次のように述べています。
「ところで、河川工学の分野では、貯留関数法による流出解析においては、森林の機能は織りこみずみだとか、森林の存在を前提にしているという説明がなされているが、この9ダム(注:長野県の治水検討委員会で問題になった9ダム)計画の解析においては、森林の状況はほとんど考慮されていないのではないかという疑問が出てきた。これはどういうことかというと、流出モデル作成の過程では、まずモデルの初期値を決めてそれを検証して最終モデルとするが、9ダム計画で決定されたモデルでは、結果的に初期値をほとんどそのまま最終定数として採用している事例が多かった。このモデルの初期値は本来ならば実績の洪水データから求めることとしているが、実際はすべて経験式によって求められていた。ところがこの経験式においては、河川(流路)の延長と平均勾配のみで数値が決められることになり、森林の状況を表すファクターは全然入っていないのである」(注2)
旧建設省が定めた、「河川砂防防災基準計画編」には、基本高水の決定方法の手法として以下のように述べられています。「基本高水を設定する方法としては、種々の手法があるが、一般的には(所定の治水安全度に対応する超過確率をもつ)対象降雨を選定し、これにより求めることを標準とするものとする」。
この基準に照らし合わせれば、実際の流量観測データに依拠せず、経験値として知られるパラメーターを恣意的に導入して基本高水流量を決めている長野県のやり方は、違反行為なのです。ダムの何百億円を注ぎ込む前に、まず流量観測を行い、その実測値から適正なパラメーターを決めて基本高水を再計算するのは当然のことだといえるでしょう。
そこで長野県林務部の加藤氏らは、過去の観測データの存在した薄川を事例に、建設省河川局が定めたとおり、近年の洪水実測データを尊重し、さらに森林土壌の雨水有効貯留量を評価してパラメーターを再設定し、再計算を実施しました。すると、長野県の薄川における基本高水流量は、従来の方法による計算値よりも40%も低い値になったのです(注3)。
実際の基本高水流量が、ダム計画において採用される数値よりも40%も低いものなのであるとしたら、ダムは必要ないことになります。貯留関数法を用いても、森林の近況を反映している近年の洪水実績を踏まえてちゃんと計算を実施すれば、基本高水流量は大幅に引き下がることが示されたわけです。
浅川の基本高水はじつは6分の1程度?
薄川の研究では、実際の基本高水流量は、ダム計画において採用されている架空の「基本高水流量」よりも40%ほど低くなる可能性が指摘されました。
ところが、河川によっては、基本高水流量の「水増し評価」の実態は、40%どころの騒ぎではないことも明らかになってきました。今回、村井知事が建設を表明した県営浅川ダムの場合、実際の基本高水は6分の1程度であることが、観測の結果明らかになったのです。
長野県では、ダム計画で採用されている基本高水流量が妥当か否かをめぐって、洪水時の流量の観測が行なわれるようになっています。県営浅川ダムの建設計画においては、「100年に一度の確率の雨量」を想定して、基本高水流量が定められています。この100年に一度の想定雨量は、24時間雨量で130ミリというものでした。2004年に長野県を襲った台風23号の際には、ちょうど長野市でこの100年に一度確率の降雨があったのです。
浅川ダム計画では、浅川と千曲川の合流地点での最大ピーク流量は「450立法メートル/秒」というシミュレーション結果がなされ、それに基づいてダム建設が計画されていました。2004年の台風23号では、24時間雨量で125.5ミリという、ほぼ「100年に一度」の想定雨量に匹敵する降雨だったのです。
県のダム計画における洪水シミュレーションでは、百年に一度の降雨がくれば長野市の富竹地区においては260立方メートル/秒が流れるはずでした。ところが、県側の実際の観測結果によれば、台風23号の際の富竹地区でのピーク流量は「43.8立方メートル/秒くらい」だったのです(『信濃毎日新聞』2004年11月30日)。何と、ダム計画のじつに6分の1の値なのでした。観測に基づかないパラメーターの恣意的な設定によって、いかに途方もない数値が捏造されているか分かるでしょう。
住民による高水協議会の発足
他の河川においても、近年の観測の結果から考えると、実際の基本高水は、県の土木部が採用している「公式数値」の半分程度か、それ以下だろうと考えられております。問題になっている9河川のいずれにおいても、基本高水が半分だったらダム建設は必要ないという結論になります。
これを受けて田中知事時代の長野県では2005年9月に、問題となっている9河川の流域協議会の住民たちが「基本高水協議会」を組織し、あまりにも過大に算出されている現行の基本高水の数値を見直そうという取り組みを始めました。
2006年8月25日には、県と住民が組織した「基本高水協議会」の中間報告が発表されました。その報告では、浅川に関して、流域の土壌がどの程度の雨水を吸収するのかという飽和雨量を反映して決定される貯留関数法のパラメーターであるRsaの値が50mmと、森林の機能を全く評価しない非常に低い値になっていたことが問題だと指摘されました。実際、基本高水協議会で、Rsaの値を100mmに変更するなどパラメーターを再設定してシミュレーションしたところ、2004年の台風23号の流出を再現できたそうです(注4)。
第14回の長野県基本高水協議会の議事録には、委員の一人が以下のように発言しておられます。
「基本高水が既に非常に過大なのに、『(県の土木技監は)それを超えて超過洪水が出る』と、そういう形で私たち住民は、ある意味には脅されている・・・・ (中略)河川砂防技術防災基準の中で欠けているのは、森林をどう見るかということで、森林整備の問題である。依然として国土交通省は、森林整備の問題は折込済みだと言っているが、森林の質、この前清水会員の岡谷の(土石流災害の)ところでクルミが一本生き残っていたという話が非常に象徴的だったが、樹種、樹齢がどうなっているかという、今日段階の森林の問題をきちんと評価していない、計算していない、それを無視しているということだ。・・・(中略)・・・例えば、(Rsaの値が)浅川だけはなぜ50mmなのだ・・・・・・」(注5)。
村井知事の驚くべき暴論
さて、これだけ証拠が出揃えば、当然、基本高水を現実にあわせて下方修正せよという意見は社会的コンセンサスを得られそうな気がします。ところが現実はそうなっていないのです。何せ、マスコミの記者の中に基本高水の過大評価のカラクリをちゃんと理解して、報道している人がいないという実に寒い状況なのです。
村井長野県知事は、浅川の基本高水流量が過大すぎるという住民の批判に対し、「(基本高水の数値を)動かす理由がなかなかつくりにくい」と述べ、あくまでも現行の450トン/秒という数字を動かす必要はないと強調しました。さらに「(観測による)検証を10年、20年やったから(高水を)修正するというものでもない」とも述べたそうです。(『信濃毎日新聞』2006年12月9日)。
村井知事によれば、実際の観測で基本高水の6分1しか流れなかったことが明らかになったにも関わらず、それは基本高水を修正する理由にはならないのだそうです。科学的な実験的事実よりも、架空のパラメーターによって恣意的に捏造した数値の方が重いとでもいうのでしょうか。さらに20年間観測して、現在の基本高水が過大であることを実証するどのような結果が出ても、数値を見直す理由にはならないというのです(!!!)。それじゃあ一体、何のために観測データを集めているのかサッパリ分かりません。
科学を根本的に愚弄する暴論だといえるでしょう。申し訳ないですが、知事が本気でそう思っているとしたら小学生以下の知性としか言いようがありません。
そしてさらに驚くべきことは、こうした村井知事の暴論に対し、マスコミは平然とそれを報道するだけで、それを批判できないという事実です。
『毎日新聞』など浅川ではたびたび洪水が発生しているから、穴あきダムなら良いのではないかという論調の記事でした。不勉強きわまりないです。浅川は千曲川の支流なのですが、たびたび発生する洪水は千曲川の水が逆流して発生する内水氾濫です。浅川の上流でいかにダムをつくろうが、下流から水が逆流することによって発生する内水氾濫の対策にはなりません。浅川ダムに100億円というムダ金を投資するよりも、ポンプで千曲川に水を排水するという「排水機場」の設備などにお金を使えば十分なわけです。
おわりに
最近の国交省は、1997年の河川法改正の理念を覆して、各河川の流域委員会から住民を排除する動きを強めています。幸い、不勉強な日本のマスコミも、一応、こうした国交省による住民排除の動きは批判的に報道しております。
最近の国交省がなぜ住民排除を強めているのかお分かりでしょか。長野県のように、住民の研究活動は、基本高水の数値を強引に水増しして住民を脅し、強引にダム建設の根拠にしているという、その国交省のカラクリを見抜いてしまったのです。「森林の機能を折込まないことによって水増し評価された基本高水の数値」というダム問題の本質的な論点に対し、国交省側はきちんと説明責任を果たすことができないからです。科学的な議論では、彼らは負けることを悟ったので、あとは住民を排除して、議論せず、独裁的手法でダムを造るより仕方なくなったというわけです。
おりしも去る2月14日に永田町の衆議院議員会館において、「公共事業チェック議員の会」(会長・鳩山由紀夫議員)の主催する「河川整備基本方針・河川整備計画策定問題に関するシンポジウム」が開かれました。その中の国交省への要請事項の中には、「 従前の工事実施基本計画の基本高水流量を踏襲するのではなく、森林の保水力の向上を評価し、科学的に妥当な基本高水流量を新たに設定すること」という要求が入りました。(ブログ・ダム日記2のこの記事参照)
地域における地道な市民の研究活動を通して、国会議員の側もここまで言い切れるほど、理論水準が上がってきました。この要請内容には拍手を送りたいと思います。
最近の国交省による住民排除は、江戸幕府が、倒壊前の最後のあがきとして井伊直弼大老の安政の大獄を行ったようなものだと解釈すればよいでしょう。あと一息で国交省河川局のコンクリートの牙城を攻め落とすことができると私は思います。
注
1)吉野川流域ビジョン21委員会『吉野川可動堰計画に代わる第十堰保全事業案と森林整備事業案の研究成果報告書』2004年3月。なお、報告書の概略版は「吉野川みんなの会」の下記のホームページにもある。http://www.daiju.ne.jp/v21hokoku/hokoku.htm
2)加藤英郎「脱ダムから『緑のダム』整備へ」、蔵治光一郎・保屋野初子編著『緑のダム ―森林・河川・水循環・防災―』築地書館、2004 年:183-184頁
3)加藤英郎、前掲書、185頁。
4)長野県基本高水協議会「諮問9河川の基本高水流量についての中間報告: 今までの手法への問題提起」2006年8月25日。
http://www.pref.nagano.jp/keiei/chisui/takamizu/houkoku/chukanhonbun.pdf
5)長野県基本高水協議会第14回議事録。2006年10月22日。
http://www.pref.nagano.jp/keiei/chisui/takamizu/youshi14.pdf
村井知事は、田中前知事が凍結した9河川のダム建設計画の中の一つ、長野市の県営浅川ダムの建設を決定しました。当初計画にあった利水目的は放棄され、ダムの下部には1メートル四方の穴があり、常時、川に水は流しているが、大雨の際には水を貯留して治水機能を発揮するという「穴あきダム」です。これで「環境に配慮した」とされています。ダム本体の建設費用は約100億円とのことです。
この問題に対し、マスコミの論調を見ても環境に配慮した「穴あきダム」ならよいのではないかというニュアンスの報道が結構あります。「穴あきダム」の場合、当初計画の密閉ダムに比べて多少は環境的に好ましいということはあるでしょう。しかし問題の本質は、そんなところにはありません。治水上全く必要のない無駄なコンクリートの固まりに100億円もの血税が投入されることが大問題なのです。
この6年のあいだ、森林の保水機能が強化されることによって洪水時の河川ピーク流量をどれだけ引き下げることができるのかに関して、長野県でも随分と研究が進んできていました。ところが何故かこうした研究成果がほとんどマスコミで報道されておりません。じつに困ったことです。
問題の本質は何か? ―過大に計算された基本高水流量―
国交省は、想定される豪雨の際の洪水ピーク流量を算出し、その数字に基づいてダム建設計画を立てています。これが「基本高水流量」と呼ばれる数値です。ところがこの基本高水流量という数字がきわめて恣意的に高めに設定され、ダム建設の根拠とされている場合がじつに多いのです。
基本高水流量は80年に一度確率とか100年に一度確率で想定される大雨の際の河川ピーク流量のシミュレーションの数値のことであり、この数値に基づいて堤防の高さやダム建設の必要性の有無などの河川計画が決められます。既存の河道が、基本高水流量を流せない場合、ダムを建設したり、堤防を高くしたり、放水路を造ったり、遊水池を造ったりして、河道が基本高水流量を流せる状態にしなければいけないというわけです。
ここで何が問題なのかと言うと、国交省が「基本高水流量」を定めるための貯留関数法のパラメーターは、多くの場合、1960年代から70年代という、天然の広葉樹林の伐採が各地で大規模に行われ、日本の森林が非常に荒廃していた最中に発生した洪水実績から決定されていることです。実際には、それから30年以上の時間が経過しています。そのあいだに人工林が成長して、流域の森林の状態は改善されているのでパラメーターは変化しているはずなのです。1990年代など、より近時における洪水実績から流出モデルの構築を行ってパラメーターを決定していけば、より人工林が成長した状態が反映されるので、洪水ピーク流量(=基本高水流量)はもっと低めに計算されるはずなのです。
何故か学者たちは、これまでこの問題の研究に取り組むことはありませんでした。この問題に日本ではじめて本格的に取り組んだのは吉野川の住民運動だったのです。NPO法人吉野川みんなの会が研究を委託した学際的組織である「吉野川流域ビジョン21委員会(委員長・中根周歩広島大学教授)」は、国交省の算出した数値である2万4000トン/秒という基本高水流量が、上流の森林がもっとも荒れていた1970年代初頭の洪水実績をもとに算出されており、森林の現状を反映していないことを明らかにしました。そして、適正間伐という森林整備の治水代替案によって、基本高水流量は1万8000トン/秒にまで減らすことができる、つまり国交省の値に比べ25%も低い値に下げることができることを明らかにしたのです(注1)。基本高水を25%下げることができるのであれば、吉野川可動堰はもちろん吉野川上流で計画されている4つのダムの建設計画は全て必要ないことになります。
長野県における基本高水流量の水増し方法 ―パラメーターを恣意的に設定―
長野県で重要だった研究は県の林務部が実施した「森と水プロジェクト」の調査でした。吉野川のような大河川の場合、まがりなりにも現実の洪水流量の観測データに基づいて貯留関数法のパラメーターを決定し、その降雨を「150年に一度確率の降雨」に引き伸ばした上で、基本高水流量を算出するというプロセスを踏んでおります。その作業の何が問題なのかと言えば、パラメーターを決定するのに用いられた洪水実績が、広葉樹林が広範に伐採されていた拡大造林の最中、つまり上流の森林がもっとも荒れていた当時の森林の状態を反映しているということでした。
ところが長野県の県営ダム計画のような小規模河川でのダム建設の場合、そのようなプロセスも存在しないことが明らかになりました。長野県で問題になっているような小河川におけるダム建設の場合、そもそも流量の観測データを取らずに基本高水を決定していたのです。パラメーターは適当に決めて流量計算されていました。その結果、基本高水流量はとんでもなく高い値に算出され、その値に基づいてダム計画が立てられていたのです。長野県林務部の「森と水プロジェクト」研究グループの中心にいた加藤英郎氏(現・長野県林務部長)は次のように述べています。
「ところで、河川工学の分野では、貯留関数法による流出解析においては、森林の機能は織りこみずみだとか、森林の存在を前提にしているという説明がなされているが、この9ダム(注:長野県の治水検討委員会で問題になった9ダム)計画の解析においては、森林の状況はほとんど考慮されていないのではないかという疑問が出てきた。これはどういうことかというと、流出モデル作成の過程では、まずモデルの初期値を決めてそれを検証して最終モデルとするが、9ダム計画で決定されたモデルでは、結果的に初期値をほとんどそのまま最終定数として採用している事例が多かった。このモデルの初期値は本来ならば実績の洪水データから求めることとしているが、実際はすべて経験式によって求められていた。ところがこの経験式においては、河川(流路)の延長と平均勾配のみで数値が決められることになり、森林の状況を表すファクターは全然入っていないのである」(注2)
旧建設省が定めた、「河川砂防防災基準計画編」には、基本高水の決定方法の手法として以下のように述べられています。「基本高水を設定する方法としては、種々の手法があるが、一般的には(所定の治水安全度に対応する超過確率をもつ)対象降雨を選定し、これにより求めることを標準とするものとする」。
この基準に照らし合わせれば、実際の流量観測データに依拠せず、経験値として知られるパラメーターを恣意的に導入して基本高水流量を決めている長野県のやり方は、違反行為なのです。ダムの何百億円を注ぎ込む前に、まず流量観測を行い、その実測値から適正なパラメーターを決めて基本高水を再計算するのは当然のことだといえるでしょう。
そこで長野県林務部の加藤氏らは、過去の観測データの存在した薄川を事例に、建設省河川局が定めたとおり、近年の洪水実測データを尊重し、さらに森林土壌の雨水有効貯留量を評価してパラメーターを再設定し、再計算を実施しました。すると、長野県の薄川における基本高水流量は、従来の方法による計算値よりも40%も低い値になったのです(注3)。
実際の基本高水流量が、ダム計画において採用される数値よりも40%も低いものなのであるとしたら、ダムは必要ないことになります。貯留関数法を用いても、森林の近況を反映している近年の洪水実績を踏まえてちゃんと計算を実施すれば、基本高水流量は大幅に引き下がることが示されたわけです。
浅川の基本高水はじつは6分の1程度?
薄川の研究では、実際の基本高水流量は、ダム計画において採用されている架空の「基本高水流量」よりも40%ほど低くなる可能性が指摘されました。
ところが、河川によっては、基本高水流量の「水増し評価」の実態は、40%どころの騒ぎではないことも明らかになってきました。今回、村井知事が建設を表明した県営浅川ダムの場合、実際の基本高水は6分の1程度であることが、観測の結果明らかになったのです。
長野県では、ダム計画で採用されている基本高水流量が妥当か否かをめぐって、洪水時の流量の観測が行なわれるようになっています。県営浅川ダムの建設計画においては、「100年に一度の確率の雨量」を想定して、基本高水流量が定められています。この100年に一度の想定雨量は、24時間雨量で130ミリというものでした。2004年に長野県を襲った台風23号の際には、ちょうど長野市でこの100年に一度確率の降雨があったのです。
浅川ダム計画では、浅川と千曲川の合流地点での最大ピーク流量は「450立法メートル/秒」というシミュレーション結果がなされ、それに基づいてダム建設が計画されていました。2004年の台風23号では、24時間雨量で125.5ミリという、ほぼ「100年に一度」の想定雨量に匹敵する降雨だったのです。
県のダム計画における洪水シミュレーションでは、百年に一度の降雨がくれば長野市の富竹地区においては260立方メートル/秒が流れるはずでした。ところが、県側の実際の観測結果によれば、台風23号の際の富竹地区でのピーク流量は「43.8立方メートル/秒くらい」だったのです(『信濃毎日新聞』2004年11月30日)。何と、ダム計画のじつに6分の1の値なのでした。観測に基づかないパラメーターの恣意的な設定によって、いかに途方もない数値が捏造されているか分かるでしょう。
住民による高水協議会の発足
他の河川においても、近年の観測の結果から考えると、実際の基本高水は、県の土木部が採用している「公式数値」の半分程度か、それ以下だろうと考えられております。問題になっている9河川のいずれにおいても、基本高水が半分だったらダム建設は必要ないという結論になります。
これを受けて田中知事時代の長野県では2005年9月に、問題となっている9河川の流域協議会の住民たちが「基本高水協議会」を組織し、あまりにも過大に算出されている現行の基本高水の数値を見直そうという取り組みを始めました。
2006年8月25日には、県と住民が組織した「基本高水協議会」の中間報告が発表されました。その報告では、浅川に関して、流域の土壌がどの程度の雨水を吸収するのかという飽和雨量を反映して決定される貯留関数法のパラメーターであるRsaの値が50mmと、森林の機能を全く評価しない非常に低い値になっていたことが問題だと指摘されました。実際、基本高水協議会で、Rsaの値を100mmに変更するなどパラメーターを再設定してシミュレーションしたところ、2004年の台風23号の流出を再現できたそうです(注4)。
第14回の長野県基本高水協議会の議事録には、委員の一人が以下のように発言しておられます。
「基本高水が既に非常に過大なのに、『(県の土木技監は)それを超えて超過洪水が出る』と、そういう形で私たち住民は、ある意味には脅されている・・・・ (中略)河川砂防技術防災基準の中で欠けているのは、森林をどう見るかということで、森林整備の問題である。依然として国土交通省は、森林整備の問題は折込済みだと言っているが、森林の質、この前清水会員の岡谷の(土石流災害の)ところでクルミが一本生き残っていたという話が非常に象徴的だったが、樹種、樹齢がどうなっているかという、今日段階の森林の問題をきちんと評価していない、計算していない、それを無視しているということだ。・・・(中略)・・・例えば、(Rsaの値が)浅川だけはなぜ50mmなのだ・・・・・・」(注5)。
村井知事の驚くべき暴論
さて、これだけ証拠が出揃えば、当然、基本高水を現実にあわせて下方修正せよという意見は社会的コンセンサスを得られそうな気がします。ところが現実はそうなっていないのです。何せ、マスコミの記者の中に基本高水の過大評価のカラクリをちゃんと理解して、報道している人がいないという実に寒い状況なのです。
村井長野県知事は、浅川の基本高水流量が過大すぎるという住民の批判に対し、「(基本高水の数値を)動かす理由がなかなかつくりにくい」と述べ、あくまでも現行の450トン/秒という数字を動かす必要はないと強調しました。さらに「(観測による)検証を10年、20年やったから(高水を)修正するというものでもない」とも述べたそうです。(『信濃毎日新聞』2006年12月9日)。
村井知事によれば、実際の観測で基本高水の6分1しか流れなかったことが明らかになったにも関わらず、それは基本高水を修正する理由にはならないのだそうです。科学的な実験的事実よりも、架空のパラメーターによって恣意的に捏造した数値の方が重いとでもいうのでしょうか。さらに20年間観測して、現在の基本高水が過大であることを実証するどのような結果が出ても、数値を見直す理由にはならないというのです(!!!)。それじゃあ一体、何のために観測データを集めているのかサッパリ分かりません。
科学を根本的に愚弄する暴論だといえるでしょう。申し訳ないですが、知事が本気でそう思っているとしたら小学生以下の知性としか言いようがありません。
そしてさらに驚くべきことは、こうした村井知事の暴論に対し、マスコミは平然とそれを報道するだけで、それを批判できないという事実です。
『毎日新聞』など浅川ではたびたび洪水が発生しているから、穴あきダムなら良いのではないかという論調の記事でした。不勉強きわまりないです。浅川は千曲川の支流なのですが、たびたび発生する洪水は千曲川の水が逆流して発生する内水氾濫です。浅川の上流でいかにダムをつくろうが、下流から水が逆流することによって発生する内水氾濫の対策にはなりません。浅川ダムに100億円というムダ金を投資するよりも、ポンプで千曲川に水を排水するという「排水機場」の設備などにお金を使えば十分なわけです。
おわりに
最近の国交省は、1997年の河川法改正の理念を覆して、各河川の流域委員会から住民を排除する動きを強めています。幸い、不勉強な日本のマスコミも、一応、こうした国交省による住民排除の動きは批判的に報道しております。
最近の国交省がなぜ住民排除を強めているのかお分かりでしょか。長野県のように、住民の研究活動は、基本高水の数値を強引に水増しして住民を脅し、強引にダム建設の根拠にしているという、その国交省のカラクリを見抜いてしまったのです。「森林の機能を折込まないことによって水増し評価された基本高水の数値」というダム問題の本質的な論点に対し、国交省側はきちんと説明責任を果たすことができないからです。科学的な議論では、彼らは負けることを悟ったので、あとは住民を排除して、議論せず、独裁的手法でダムを造るより仕方なくなったというわけです。
おりしも去る2月14日に永田町の衆議院議員会館において、「公共事業チェック議員の会」(会長・鳩山由紀夫議員)の主催する「河川整備基本方針・河川整備計画策定問題に関するシンポジウム」が開かれました。その中の国交省への要請事項の中には、「 従前の工事実施基本計画の基本高水流量を踏襲するのではなく、森林の保水力の向上を評価し、科学的に妥当な基本高水流量を新たに設定すること」という要求が入りました。(ブログ・ダム日記2のこの記事参照)
地域における地道な市民の研究活動を通して、国会議員の側もここまで言い切れるほど、理論水準が上がってきました。この要請内容には拍手を送りたいと思います。
最近の国交省による住民排除は、江戸幕府が、倒壊前の最後のあがきとして井伊直弼大老の安政の大獄を行ったようなものだと解釈すればよいでしょう。あと一息で国交省河川局のコンクリートの牙城を攻め落とすことができると私は思います。
注
1)吉野川流域ビジョン21委員会『吉野川可動堰計画に代わる第十堰保全事業案と森林整備事業案の研究成果報告書』2004年3月。なお、報告書の概略版は「吉野川みんなの会」の下記のホームページにもある。http://www.daiju.ne.jp/v21hokoku/hokoku.htm
2)加藤英郎「脱ダムから『緑のダム』整備へ」、蔵治光一郎・保屋野初子編著『緑のダム ―森林・河川・水循環・防災―』築地書館、2004 年:183-184頁
3)加藤英郎、前掲書、185頁。
4)長野県基本高水協議会「諮問9河川の基本高水流量についての中間報告: 今までの手法への問題提起」2006年8月25日。
http://www.pref.nagano.jp/keiei/chisui/takamizu/houkoku/chukanhonbun.pdf
5)長野県基本高水協議会第14回議事録。2006年10月22日。
http://www.pref.nagano.jp/keiei/chisui/takamizu/youshi14.pdf
> たぶん100億じゃすまないだろうね。
私も日本全国で何億かかるか分かりませんが、かりに100億としても大した額とは思えません。
かりに国交省のプラン通りに今後も日本全国で300以上のダムを建設したとすれば、一個の建設費用を平均500億円としても、全部で15兆円になります。
この15兆円がムダだと私は主張しているのです。100億円の投資で15兆円のムダを失くすことができれば安いものですね。1500分の1です。
> もし、基本高水流量の見直しを全国で行った場合、
> たぶん100億じゃすまないだろうね。
私もどれほど費用がかかるかは全くわかりませんが、仮に全国の一級河川のデータをupdateするのに二百億円かかかるとしても、河川一本あたりでは二億円です。
そのデータによって、約百億円のダム建設や 1kmあたり三十億や四十億とかかる洪水対策用の下水トンネルの建設をするかどうかの判断が左右されるならば、それぐらいの投資は大いに価値があると思います。
シロウトながら、ちょっと気になりましたので。
はじめましてさんが言っておられるほど、再調査・計画再策定というのは、それほど大変なことなのです?
私、シロウトながら、少なくとも調査は人工衛星で大まかなところを押さえられると思ってました……。
まだ研究もされてなかったのなら、当時の技術者が森林考慮してなかったことは仕方が無いのでは?
あくまでも30年前より技術が進歩したことで、分かり始めた問題なのでは?
30年前には分からなかったけど、今分かり始めたことってたくさんあるよね。
でも、30年前に分からなかった技術者は悪いのかな?
「そもそも流量の観測データを取らずに基本高水を決定していたのです。」
流量観測所の無い河川は全国にたくさんある。
流量観測所をすべての河川に設置するのは、費用的無理だとしたら、
流量観測所の無い河川では、仕方なく経験的なパラメーター設定したのでは?
その際、洪水時の安全性を考えて、大きめに設定したのでは?
技術が進歩し、より正確な基本高水流量が出せるようになったのだから、その手法は取り入れるべきだと僕も思う。
でも、
現在、全国の河川で30年程前に決められた、基本高水流量で各種河川整備(堤防、護岸など)の検討が進んでいる。
もし、基本高水流量の見直しを全国で行った場合、
ここ30年行われてきた、ほとんど検討は水泡に帰し、再検討しなくてはなら無い。
いったいいくら掛かるのだろう???
たぶん100億じゃすまないだろうね。
デルタ様
このご時世にあえて「新自由主義者」を自称するデルタ様は、さすがに筋が入っていると感心しております。
世の中には、自分の頭でよく考えないで、「規制緩和」や「構造改革」が流行れば、新古典派経済学がどんなイデオロギーかもよく知らないのに、右へ倣えでそれを唱和し、逆に格差社会批判の声が大きくなったらいつのまにかそれに倣えで市場原理主義批判をしているという人々が多いので困ったものです。
しかも「知識人」を自称する人の中にも、そういう「自分の頭で考える力」が弱い人々が多い・・・。困ったものです。
やはり、業界側の逆襲が起こりましたね。官需圧縮から、彼らも需要を作り出すのに必死です。穴あきダムというごまかしをマスコミが正当化した二重の間違いがまかり通ってしまったようです。そして、それをあたかも少しはましだと感じてしまった視聴者、読者。
利権(私権)第一という旧い統合様式では、もはや問題は進行するだけです。市場が臨界点に達しているいま、国家によるばら撒き(補助金、交付金を含めて)に需要を頼らざるを得ないならば、何のために使うのか?それがみんなのための問題解決になるのか?その使途こそを審査、評価する段階に来ていると思います。いまだにそこが根本的にずれているという端的な出来事だと思いました。
私が書いた内容、紛らわしかったかもしれません。
すれ違いになるのも悲しいので、書かせて下さい。
私は、個々のケース;長野の浅川ダムについて正確なことを知るわけでないですが、一般論として、「ダムを用いた治水」が経済的にも多くの場合ペイしないことは把握してます。そして(それだけが理由でないですが)、それを根拠にダムを避ける工夫が必要、という立場にあります。
このご時世にあえて市場原理主義者を名乗るほど、「経済的合理性」を重視する人間ですもん(苦笑)、データを前に抗弁することはできません。
が、そういう「市場原理主義者」が実際には社会で異端とされているのもこの社会の現実、……つまり、”合理性”や”データ”だけで、割り切ることができない人たちが、多数派……、というのも現実です。
かつての都知事美濃部さんが、反対するひとがひとりでもいれば、その橋を架けない」と言われたように、「”合理性”だけでごり押ししない」という合意形成の手段が問われるようになってきてる、と私は思っておりましたわけです。
……データを握っている側は「強者」です、いろいろな意味で。だからこそ、データを知り得ない「情報弱者」に単なる「啓蒙」でない、態度上の歩み寄りが必要でないでしょうか?(「譲歩」ではありません、念のため)
〉なっている、といえませんでしょうか。
いえ、浅川ダムに関しては、もう、それは立派な純然たる利権ダムです。何せ長野市長はコンクリート会社の所有者ですから・・・・。コンクリートの使用量を意図的に高くしています。穴あきダムに方針転換されたのも、市長から見れば、コンクリートさえ使えればそれでよいからというのがホンネでしょう。
詳しくは下記の記事をご参照ください。
http://d.hatena.ne.jp/komachan/20070222/p1#seemore
デルタ様の「新自由主義」的立場からは決して許すことはできないシロモノと存じます。
また、私は限られた財政の中で、洪水と土砂災害の災害リスクを減らす最善の方法を訴えています。それが森林整備です。ダムよりも、森林整備に資金を投じることの方が、何倍もはるかに災害対策に寄与するからです。
工学的な裏付けもさることながら、社会情勢に決定的な変化があって、議論が複雑化しているように感じています。水害訴訟……訴訟を起こすこと自体を非難する気になれませんが、「希なケースで費用対効果が合わない」という判断であっても、対策が打たれず実際に災害が起こると、最高裁までいくような大きな行政訴訟に発展する……。「個人」が尊重される”正しい”行為であるだけに困り果てるのですが、この種の”訴訟リスク”も考えて行政側が神経質になっている、といえませんでしょうか。
不確実性にどう備えていくか、そしてその際、「声を挙げられない少数者、弱者を切り捨てない」ことをも考慮し、説明責任といいますか、納得を得ることがたいせつなんですけど……うう~ん。
ダムの顔をした100億円の金であることです。
建設業者、地権者に金が行きます。
そして、県にも事務費として金が行くのです。
ダムを作ればとの条件の金なのです。
もし、100億円で治水を考えるならば、まず荒れた森林、特に間伐遅れの人工林を整備します。
治水にも良く環境にも良くそして将来の木材資源にも良く、何も悪いことがないのですから、まして安くできるのですからこれを最初に行うのは当たり前でしょう。
次に、洪水は川が氾濫することですから、治水の鉄則である川下側から改善していきます。
そしてそれでもあふれる可能性のある水は、農地にあふれさす手だてで行うのか、上流にダムを作るかの選択になります。
何十年に1回の被害をダムの建設予算にみあう金の一部で、あふれた農地に補償すれば、極めて安上がりであり、半永久的に継続できる制度となります。
ダムを作ってもそれ以上の雨が降れば洪水は起こります。そしてその洪水は被害が大きくなる傾向があります。被害のあった住民には何も補償はないのです。
どちらがベターかは判るでしょう。
大変に残念です。嘉田さん、この記事で書いた基本高水過大評価のカラクリをちゃんと理解しておられないのだと思います。もっとも、まだまだ挽回のチャンスはあると思います。市民・住民がしっかりしていれば。
>ニュースでちらっと聞いただけですが、地質に問題
>があるとか。
浅川ダムは地すべり地帯に建設されます。本当に、そちらの方も大変に心配です。
このダム、奈良県の大滝ダムの二の舞になるんじゃないかと危惧しています。
ニュースでちらっと聞いただけですが、地質に問題があるとか。
大滝ダム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%BB%9D%E3%83%80%E3%83%A0
これは本当に嘉田知事の言うように”ダムに代わる治水対策は難しい”のでしょうか?
”やもえない決断”なのか、それとの”愚行”なのか、私自身は判断ができませんが、どのようにお考えでしょうか?