自民党杉田水脈議員の「女性はいくらでもウソをつける」発言。ここまで家父長主義、男尊女卑思想に迎合できるウルトラ右翼でない限り、女性が自民党の公認を得るのは難しいということのようだ。安倍政権が進めた「女性活躍」とは、男権主義者の提灯持ちになって、同性を貶める右翼女たちを跳梁跋扈させることだったのか?
江戸時代の政治状況は全く違った。むしろ男たちの方が、女性権力者を恐れていたくらいなのだ。renqingさんから紹介していただいた、関口すみ子著『御一新とジェンダー』(東京大学出版会、2005年)を読んでいる。その中に紹介されていた江戸時代の大奥の女権を象徴する画を一つ紹介する。嘉永2年(1849)の歌川国芳の浮世絵「きたい(稀代)なめい医難病療治」である。
関口氏の同書では、この画の持つ意味が深く考察されていなかったのが惜しかった。
岩下哲典先生の名著『幕末日本の情報活動』(雄山閣、2000年、普及版は2018年)にこの画の意味について詳細に解説されている。詳しく知りたい方は是非参照されたい。
これは江戸城内の権力者たちの風刺画なのだ。発売されてしばらくして、この画は実際の権力者たちを風刺したものであると評判になり、どの人物が実在の誰に対応しているのかと、江戸の庶民たちが面白がって、皆が買い求めて推理するようになり、飛ぶように売れたのである。
中央に鎮座している「稀代な名医」が大奥の最高権力者である上臈御年寄の姉小路局である。歌川は、江戸城の実質的な最高権力者は姉小路局であると認識し、病気を抱えて問題のある男たちを治療しながら適材適所で配置して、なんとか政権を切り盛りしているという様子を風刺している。
諸役人の人事を指揮するのは(現在でいえば内閣人事局)、大奥の姉小路だというのは、当時の江戸市中では評判だった。
では表向きの男の権力者たちは、どのように描かれているのだろうか?
以下は、江戸の蘭方医坪井信良が解読した人物の特定である。
図の一番右上に女中の服装をして釜の湯気に顔を当てているのは「あばた」と書かれ、これが他ならぬ12代将軍の徳川家慶であるという。
「あばた」(家慶)の下につけ鼻を付けて天狗のようにしているのが図中で「はななし」と書かれ、老中・松平和泉守乗全(西尾藩主)のことであるという。姉小路と結びついて権勢をふるって天狗のようになっている様子を風刺しているのだとか。
その一つ下で眼鏡を当てているのが「近眼」で、これは老中首座の阿部正弘であるという。阿部はそもその近眼とのことであるが、風刺の趣旨として、鼻先ばかりが見え、遠くが見えないとのこと。姉小路は、遠くが見えない阿部正弘に対し、遠眼鏡をかけて遠くを見ろと指示している。この風刺など傑作だと思う。
最近の大河ドラマなどの影響で、阿部正弘といえば聡明で皆の意見をよく聞き、バランスの取れた幕末の名宰相というイメージを抱く人も多かろう。ところが、当時の江戸市中の人びとは、その場しのぎの近視眼的対応ばかりで、遠くが見えないと評価していたのだ。
手前味噌で恐縮であるが、拙著『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)では、当時の江戸市中の人びとの評価が正しいことを裏付けている。日米和親条約の段階で、「5年後の通商開始」を条文に盛り込むべきという結論を導いた松平伊賀守忠優(のちの忠固)の決定を覆し、交易不許可の決定を下してしまったのは阿部であった。阿部のその場しのぎの対応で、後の世に重大な禍根を残すことになった。
画面の左端上で、高下駄を履いて背を高く見せているのが「一寸法師」で、これは老中牧野備前守忠雅(越後長岡藩主)であるという。その心は「万事心が小さき」とのこと。何事にも慎重で周囲の目を気にしていたのは事実であり、江戸市中の評価はここでも妥当なのではないかと思われる。
他の人物たちについては省略したい。詳しくは是非、岩下哲典先生の『幕末日本の情報活動』を参照されたい。
いずれにしても、当時の大奥の権力がいかに強大だったかを象徴する浮世絵である。男たちが総じて小物に描かれ、姉小路がキリっとして頼りになる美人に描かれている。江戸の庶民たちの評価はこうだったのだ。
男権主義者たちの腰巾着になって、女性蔑視発言をする自民党の女性議員とはえらい違いなのだ。
大奥が老中人事を多大な影響力を及ぼしていたことについては、拙著『日本を開国させた男、松平忠固』でも論じた。忠固を罷免しようとする井伊直弼に対して、懸命に忠固を守っていたのが大奥だったのだ。
ちなみに老中5人中4人は描かれているのだが、直近の嘉永元年に老中になったばかりの松平忠優(忠固)のみは描かれていないとされる。しかし「誰か不明」という人物もいるので、忠固もいるのかも知れない。眼鏡をかけた阿部の左隣にいて「才子」とされているのがもしかしたら忠優か?と思ったりする。
江戸時代の政治状況は全く違った。むしろ男たちの方が、女性権力者を恐れていたくらいなのだ。renqingさんから紹介していただいた、関口すみ子著『御一新とジェンダー』(東京大学出版会、2005年)を読んでいる。その中に紹介されていた江戸時代の大奥の女権を象徴する画を一つ紹介する。嘉永2年(1849)の歌川国芳の浮世絵「きたい(稀代)なめい医難病療治」である。
関口氏の同書では、この画の持つ意味が深く考察されていなかったのが惜しかった。
岩下哲典先生の名著『幕末日本の情報活動』(雄山閣、2000年、普及版は2018年)にこの画の意味について詳細に解説されている。詳しく知りたい方は是非参照されたい。
これは江戸城内の権力者たちの風刺画なのだ。発売されてしばらくして、この画は実際の権力者たちを風刺したものであると評判になり、どの人物が実在の誰に対応しているのかと、江戸の庶民たちが面白がって、皆が買い求めて推理するようになり、飛ぶように売れたのである。
中央に鎮座している「稀代な名医」が大奥の最高権力者である上臈御年寄の姉小路局である。歌川は、江戸城の実質的な最高権力者は姉小路局であると認識し、病気を抱えて問題のある男たちを治療しながら適材適所で配置して、なんとか政権を切り盛りしているという様子を風刺している。
諸役人の人事を指揮するのは(現在でいえば内閣人事局)、大奥の姉小路だというのは、当時の江戸市中では評判だった。
では表向きの男の権力者たちは、どのように描かれているのだろうか?
以下は、江戸の蘭方医坪井信良が解読した人物の特定である。
図の一番右上に女中の服装をして釜の湯気に顔を当てているのは「あばた」と書かれ、これが他ならぬ12代将軍の徳川家慶であるという。
「あばた」(家慶)の下につけ鼻を付けて天狗のようにしているのが図中で「はななし」と書かれ、老中・松平和泉守乗全(西尾藩主)のことであるという。姉小路と結びついて権勢をふるって天狗のようになっている様子を風刺しているのだとか。
その一つ下で眼鏡を当てているのが「近眼」で、これは老中首座の阿部正弘であるという。阿部はそもその近眼とのことであるが、風刺の趣旨として、鼻先ばかりが見え、遠くが見えないとのこと。姉小路は、遠くが見えない阿部正弘に対し、遠眼鏡をかけて遠くを見ろと指示している。この風刺など傑作だと思う。
最近の大河ドラマなどの影響で、阿部正弘といえば聡明で皆の意見をよく聞き、バランスの取れた幕末の名宰相というイメージを抱く人も多かろう。ところが、当時の江戸市中の人びとは、その場しのぎの近視眼的対応ばかりで、遠くが見えないと評価していたのだ。
手前味噌で恐縮であるが、拙著『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)では、当時の江戸市中の人びとの評価が正しいことを裏付けている。日米和親条約の段階で、「5年後の通商開始」を条文に盛り込むべきという結論を導いた松平伊賀守忠優(のちの忠固)の決定を覆し、交易不許可の決定を下してしまったのは阿部であった。阿部のその場しのぎの対応で、後の世に重大な禍根を残すことになった。
画面の左端上で、高下駄を履いて背を高く見せているのが「一寸法師」で、これは老中牧野備前守忠雅(越後長岡藩主)であるという。その心は「万事心が小さき」とのこと。何事にも慎重で周囲の目を気にしていたのは事実であり、江戸市中の評価はここでも妥当なのではないかと思われる。
他の人物たちについては省略したい。詳しくは是非、岩下哲典先生の『幕末日本の情報活動』を参照されたい。
いずれにしても、当時の大奥の権力がいかに強大だったかを象徴する浮世絵である。男たちが総じて小物に描かれ、姉小路がキリっとして頼りになる美人に描かれている。江戸の庶民たちの評価はこうだったのだ。
男権主義者たちの腰巾着になって、女性蔑視発言をする自民党の女性議員とはえらい違いなのだ。
大奥が老中人事を多大な影響力を及ぼしていたことについては、拙著『日本を開国させた男、松平忠固』でも論じた。忠固を罷免しようとする井伊直弼に対して、懸命に忠固を守っていたのが大奥だったのだ。
ちなみに老中5人中4人は描かれているのだが、直近の嘉永元年に老中になったばかりの松平忠優(忠固)のみは描かれていないとされる。しかし「誰か不明」という人物もいるので、忠固もいるのかも知れない。眼鏡をかけた阿部の左隣にいて「才子」とされているのがもしかしたら忠優か?と思ったりする。
私、以前から不思議に思っていることがあります。公儀権力の君主である「徳川将軍」を決めるのは誰か、と。なにしろ、江戸時代史の概説書等を読んでも、「将軍の選ばれ方」を明確に記述したものに出くわしたことがないからです。
無論、現当主である現「将軍」が次期「将軍」を決定するのでしょう。しかし、現「将軍」が「次」を未決定の段階で、「将軍」が急死することもあるはずです。また、ブログ主様の「松平忠固」本でご紹介して頂いていたように、その現「将軍」に影響力を与えることが出来れば、実質的に次期「将軍」決定に影響を与えることが可能となります。
それからしますと、次期将軍候補者は、必ずや「大奥」or 「奥」に育てられますから、現「将軍」の生母、あるいは乳母は、相当の影響力を持たざるを得ません(ex.家光に対する春日局)。つまり、「徳川将軍」の後継選抜には、生母、乳母を中心とする、幼少の将軍候補者を常時取り囲む「大奥」はかなりの確度で影響力を行使できたと考えるのが合理的です。そして「王位継承」という王朝の最重要事項に関与可能ならば、通常の政治にも、現「将軍」を育てた「おばちゃんたち」が常時、影響力を行使できたと想定することは無理ではありません。
すなわち、武家貴族たちに、「奥」or「大奥」という制度慣習がある限り、《女権》から逃れる術はない、という結論に達しそうですね。そして、徳川日本では女性は大抵、仏教を厚く信仰していました。
この「女」と「仏教」の、「殺生」を忌避するリンケージこそが、徳川二百五十年の平和の基礎だった、と考えることはあながち荒唐無稽とは言えないと思われます。「女権」と「仏教」を喪失した「明治体制」は、十年に一度のペースで、身の程知らずの大戦争をし、国力を疲弊させ、最終的には亡国に至っていた訳ですから。