いまブログ界では、ベストセラーになった『国家の品格』をめぐって議論が盛り上がっているみたいです。私はこの本を正月に買って、それなりに面白く読みました。とくに取り上げて書評するまでもないなと思っていましたが、あちこちのブログでこの本に対する議論が盛り上がっていて、それらを読んでいる内に何か書きたくなってきました。ちなみに、私がよく訪れるブロガーの方々は、この本の否定派が多いです。
この本の面白さは、数学者である著者が、数学的思考をまったく放棄してしまっているところにあります。「数学者である著者が、どのような論理で市場原理主義を批判するのだろう」と期待を持って読んだ人があれば、中味を読んで腹を立てるでしょう。「数学屋のメガネ」さんは、数理論理学を学んできた立場から、数学者・藤原正彦の主張をじつに5回シリーズで批判しています。何せ藤原氏は「論理なんかいらない」と主張しているのですから。
藤原氏流にいえば、株主主権を楯にした敵対的買収が何故いけないかといえば、それは「卑怯だから」の一言になります。私のブログではこれまで、市場原理主義に対して、それこそ何万語という言葉を費やして、何故いけないのかを説明しようとしてきました。それが藤原流では「卑怯なり」の一言でよいというのです! 「おお、この批判が可能ならば、それは素晴らしいことだ」と思わず感嘆してしまいました。
敵対的買収やデリバティブなどを、皆が「卑怯」と思ってくれるのなら楽ですね。実際は、日本人でもそう思わない人々がどんどん増えてしまったので困っているわけですが……。「卑怯」などという概念がそもそも存在しない英語圏の人々に対してはなおさらです。米国人に「力の強い者が弱い者を吸収するのは卑怯なり」と言ったところで、彼らの価値観では「力が正義」なのですから、まったく「馬の耳に念仏」でしょう。ですので、反市場原理主義的立場の人でも、この本の著者の「理屈」には不満のある人々が相当に多いでしょう。
その上でなおかつ、日本という文化圏においては、理屈抜きに「卑怯なり」と教えてしまうという藤原氏流の戦略は、有効かも知れません。少なくともこの本が売れたことを通して、敵対的買収やデリバティブを「卑怯」と考えてくれる人が増えたとすれば、それは日本にとって良いことだと思います。
イスラム圏には、利子収入を得ることが不道徳だという教えがあるので、それが市場原理主義の浸透に対する有効な防壁として機能してきました。ある文化圏における道徳的規範というものは、論理ではなく刷り込みによって伝達されるものです。良い悪いは別として、世の中そういうものです。
米国人がどうして論理が好きなのかといえば、彼らが新大陸に渡ってきた時点で、道徳的規範の継承に断絶があるからでしょう。新大陸で頼れるものは、力(武力)の他には論理のみだったのでしょう。
新大陸以外の地域において、何百年にわたって刷り込みによって継承されてきた文化的規範を根本的に壊して、市場原理主義という新大陸的価値観を植えつけようとすれば、それこそ小泉純一郎の「構造改革」大革命のような、過激な政治的煽動が必要になるわけです。
市場原理主義者たちの過激な政治的煽動に対して、武士道の倫理で対抗するというのは日本における一つの戦術として有効かも知れません。私は、保守から革新までを巻き込んだ「市場原理主義がイヤだ」と思う人々の大連合を形成する必要があると考えています。市場原理主義に反対する理由は、各人それぞれ多様であっていいわけです。市場原理主義に反対する理由は、マルクス的なものかも知れませんし、ケインズ的なものかも知れません。さらには、儒教道徳に反するという理由かも知れませんし、武士道に反するという理由かも知れません。各人それぞれでよいのです。一つ言えることは、そうした人々の連帯を抜きにして、市場原理主義の猛威に対抗するのは難しいだろうということです。
この本の面白さは、数学者である著者が、数学的思考をまったく放棄してしまっているところにあります。「数学者である著者が、どのような論理で市場原理主義を批判するのだろう」と期待を持って読んだ人があれば、中味を読んで腹を立てるでしょう。「数学屋のメガネ」さんは、数理論理学を学んできた立場から、数学者・藤原正彦の主張をじつに5回シリーズで批判しています。何せ藤原氏は「論理なんかいらない」と主張しているのですから。
藤原氏流にいえば、株主主権を楯にした敵対的買収が何故いけないかといえば、それは「卑怯だから」の一言になります。私のブログではこれまで、市場原理主義に対して、それこそ何万語という言葉を費やして、何故いけないのかを説明しようとしてきました。それが藤原流では「卑怯なり」の一言でよいというのです! 「おお、この批判が可能ならば、それは素晴らしいことだ」と思わず感嘆してしまいました。
敵対的買収やデリバティブなどを、皆が「卑怯」と思ってくれるのなら楽ですね。実際は、日本人でもそう思わない人々がどんどん増えてしまったので困っているわけですが……。「卑怯」などという概念がそもそも存在しない英語圏の人々に対してはなおさらです。米国人に「力の強い者が弱い者を吸収するのは卑怯なり」と言ったところで、彼らの価値観では「力が正義」なのですから、まったく「馬の耳に念仏」でしょう。ですので、反市場原理主義的立場の人でも、この本の著者の「理屈」には不満のある人々が相当に多いでしょう。
その上でなおかつ、日本という文化圏においては、理屈抜きに「卑怯なり」と教えてしまうという藤原氏流の戦略は、有効かも知れません。少なくともこの本が売れたことを通して、敵対的買収やデリバティブを「卑怯」と考えてくれる人が増えたとすれば、それは日本にとって良いことだと思います。
イスラム圏には、利子収入を得ることが不道徳だという教えがあるので、それが市場原理主義の浸透に対する有効な防壁として機能してきました。ある文化圏における道徳的規範というものは、論理ではなく刷り込みによって伝達されるものです。良い悪いは別として、世の中そういうものです。
米国人がどうして論理が好きなのかといえば、彼らが新大陸に渡ってきた時点で、道徳的規範の継承に断絶があるからでしょう。新大陸で頼れるものは、力(武力)の他には論理のみだったのでしょう。
新大陸以外の地域において、何百年にわたって刷り込みによって継承されてきた文化的規範を根本的に壊して、市場原理主義という新大陸的価値観を植えつけようとすれば、それこそ小泉純一郎の「構造改革」大革命のような、過激な政治的煽動が必要になるわけです。
市場原理主義者たちの過激な政治的煽動に対して、武士道の倫理で対抗するというのは日本における一つの戦術として有効かも知れません。私は、保守から革新までを巻き込んだ「市場原理主義がイヤだ」と思う人々の大連合を形成する必要があると考えています。市場原理主義に反対する理由は、各人それぞれ多様であっていいわけです。市場原理主義に反対する理由は、マルクス的なものかも知れませんし、ケインズ的なものかも知れません。さらには、儒教道徳に反するという理由かも知れませんし、武士道に反するという理由かも知れません。各人それぞれでよいのです。一つ言えることは、そうした人々の連帯を抜きにして、市場原理主義の猛威に対抗するのは難しいだろうということです。
僕は、心情的な正しさは証明出来ないと思うので、やはり正しさは論理的に考えて欲しいと思います。そうでないと途中で方向転換するのが難しくなるのではないかと思うからです。軍国主義の日本も、破綻した社会主義国家も、論理的な正当性よりも、心情的な正当性に寄りかかって、完全な破壊を迎えるまでその間違いを認められなかったのではないかと思うからです。
大衆的動員の正当性に関しては、僕の尊敬する三浦つとむさんでさえも、扇動家の必要性というもので理論的に正当化しています。扇動家の基礎には論理的な正しさがあるので、少々正確さを欠いても、大衆的動員をするのは正しいという考え方です。
僕は、このことの正しさを、三浦さんほど確信することが出来ません。たとえ二流の言説であろうとも、大衆的動員が可能なものであれば、目的の正当性から手段の正当性が導かれると考えるのは危険な感じがします。手段が目的からはずれていないと言う保証は難しいのではないかという気がするからです。
藤原さんは、論理の前提を情緒で選ぶと言っています。その情緒が結果的に正しいものを選べば被害は少ないのですが、間違った前提を選んでしまったときの被害の大きさは、歴史が教訓として教えてくれるのではないでしょうか。そういう二流性の問題からの関心として僕は『国家の品格』を読んでいます。
いま敵の側が、人々を煽動によって決定的に誤った方向に駆り立てています(経済的には市場原理主義、政治的には排外主義的ナショナリズムという、およそ考えられる範囲で最悪のイデオロギー)。その誤りを自覚している側がインテリ向けの「論理」で語っていても、政治的には敗北してしまうでしょう。煽動には煽動をもって対抗するということは、必要悪としてやむをえない局面もあると思います。その運動を指導する側が、その危うさを自覚しながら、あくまでも戦術として実行する分には正当化できると思います。三浦つとむさんの考えもそうだったのだと思います。
牧衷さんは、1956年の「米軍砂川基地拡張阻止闘争に全学連は勝てそうだ」という見通しを、当時の国際情勢と鳩山内閣の外交方針を論理的に分析して、事前に得ていました。しかし実際に現地闘争の現場で学生たちを鼓舞する際には、小難しい話は抜きにして煽動してしまってよいのだと言っていました。
しかし砂川闘争勝利の後、全学連の執行部の中で、論理的な牧さんの思考は、情緒的煽動派の森田実氏と衝突して、政治的に牧さんは敗北してしまったのでした。実際には、「論理派」が「煽動派」に勝つのは非常に難しいと思います。目的のために、あえて耳障りのよい二流の言説を使うということもあり得るのではないでしょうか。
即効性という点で、論理派が煽動派に負けると言うことはよく理解出来ます。ベストセラーになる本がほとんど二流のものばかりだと言うことにそれが象徴されていると思います。
しかし、牧さんの友人で仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、「真理は10年にして勝つ」というような格言を語っています。真理を目指す人間は、10年くらい待つ覚悟がいるのだというような意味だろうと僕は理解しています。
今すぐ勝たなければならないのか、それとも10年たっても正しさを守るべきなのかは、実践の指針としてはどちらを選ぶかは難しいと思います。
今もっとも注目している宮台真司氏は、人間は思い知るような経験をしないとなかなか理解しないものだ、というようなことを語っています。真理が勝つためには、多くの人がそれが真理であることを思い知る衝撃的な経験が必要だというわけです。郵政民営化が間違いであることを知るには、それによってもたらされる大きな被害を経験しなければならないと言うようなものかなと思っています。
このような言い方は、第三者的な言い方で、自分は高みにいて眺めているような印象を与えます。しかし、客観的判断というのは、そもそもベタな世界を越えて上から眺める視点がなければ出来ないものだと思います。第三者にならなければ客観性を持ち得ないということが言えると思います。
そういう意味では、先見性のある言説は、いつでも現在を飛び越えて理解しがたい言説になるのかも知れません。アンポピュラーになる運命で、決してベストセラーにはならないものかも知れません。しかし、真理が大事だという基本を持っているものは、たとえアンポピュラーであってもこちらの道を選ばざるを得ないのではないかとも感じます。
三浦さんは、理論家と扇動家を別々にするべきで、両者を兼ねることは出来ないと語っていました。理論家に大きな信頼を寄せて、理論家の基本線をはずれない優れた扇動家というのが必要なんだろうなと思います。
これは、一般論としてその通りだと思います。科学的認識は、仮説実験的に成立するという板倉聖宣さんの立場もそうなのでしょう。
しかしながら、このまま誤ったイデオロギーに洗脳された日本が1930年代のように突き進んでいくと、その破局的実験結果を知る前に、もう自分自身が生きていられないのではないだろうかと思えます。
『諸君!』だの『正論』だのの恐るべき人々の煽動を今止められなければ、実際に戦争に突入してしまう可能性があります。そうなったら私などまず生き残れないでしょう。
藤原さんの「武士道精神」は、とりあえず戦争を抑止する「論理」としては機能しそうです。彼の言説は愛国主義的ですが、排外主義的ではないので、戦争に導きそうな性格のものではありません。その意味では、『諸君!』なんかの煽動に対するアンチテーゼとして機能して欲しいという期待を抱いてしまうのです。
>理論家の基本線をはずれない優れた扇動家というのが必要なんだろうなと思います。
同意します。理論家が同時に煽動家になるのはきわめて難しいようです。マルクスなんか理論家としては優れていたかも知れませんが、実際の政治的煽動はきわめて無能力でした。一人で両方やろうとする人はだいたい失敗するのではないでしょうか。
今進行中の「市場原理主義革命」は、理論家の竹中と煽動家の小泉という二人のタッグが上手く組み合わさって成し遂げられたのかも知れません。