本日(2021年3月7日)の大河ドラマ「青天を衝け」、あっというまに日米和親条約が結ばれてしまいました。本日も私の研究してる松平忠固との関係で、本当のところを補足しています。本日は松平忠固が登場するかなと思っていたのですが、登場せずでした。残念。
本日のストーリーでは、何か日米和親条約で開国になったかのようなニュアンスでした。和親条約は従来の長崎に加えて新たに下田、箱館を開いて外国船の寄港を認め、石炭や水、食糧を供給するなど人道的な措置のみで、交易通商は認めていない条約です。この段階では、まだ「開国」とは言えません。また、ドラマでは、阿部正弘が斉昭を無視して条約を調印したかのように描かれていましたが、実際には違います。阿部は斉昭の顔色をうかがって交易を認めず、斉昭の主張が通ってしまったというのが史実です。
徳川斉昭は頑迷な攘夷論で、開国を決して許さないというスタンスのように描かれていました。実際には二度目のペリー来航時には「出交易なら良い」と主張していました。「出交易」とは、外国船の来航は許さないが、日本が大船を建造して、外国に日本の物産を売りにいくというスタイルの貿易のことです。ですから斉昭は、「夷狄」に「神州」を汚されてはならないと主張していましたが、交易によって利益が生じることそのものを否定していたわけではなかったのです。
本日のドラマでは、斉昭に対抗して開国やむなしと主張した人物として堀田正睦と井伊直弼が登場しました。アメリカを恐れて「やむなし」という消極的なニュアンスでの登場の仕方でした。
実際には、ここで松平忠固を登場させねばならないのです。当時、徳川斉昭に対抗して、積極開国論の急先鋒だったのが松平忠固です(当時の名前はまだ忠優ですが、忠固で通します)。閣内で、もっとも明確な交易・通商の方針を立てて、それで日本を豊かにすることができると主張していたのが忠固でした。
ペリーとの交渉方針を決める嘉永7年2月2日の城中の評議の後、斉昭が家臣の戸田逢軒と藤田東湖に宛てた手紙には次のように書かれています。
つまりこのときの対立点は、斉昭の出交易論に対して、老中の松平忠固(上田藩主)と久世広周(関宿藩主)は、3~5年の準備期間をおいて内交易も含めて通商・交易を開始するという条文をペリーとの条約に含めるべきだと主張していたのです。忠固と久世は、日本は3年の準備期間もあれば、十分に港をつくって、輸出の準備をし、輸出で世界に打って出ることができると考えていたのです。
交易の是非をめぐる2月4日の城中評議では、斉昭本人の手記によれば、以下のように斉昭と忠固のあいだで激論が展開されたのです。
夜8時まで行われたこの日の評議では、忠固と斉昭が激論して、最終的に忠固が斉昭を押し切って、交易開始の方針で合意させたのです。ペリーとの交渉の2月の月番老中は忠固なので、会議を仕切ることができる権限がありました。しかし従来の史書で、この事実を指摘したもの皆無です。
これで忠固の勝利!と思いきや、この後、斉昭が辞任するとダダをこね、阿部正弘が手のひらをかえして、斉昭に忖度して、交易不許可の決定をしてしまったのでした。これが史実です。もしもこのとき、阿部が決定を覆すことがなかったら、日米和親条約で通商が約束されることになり、もっと順調に交易は開始されていたはずであり、国内が争乱状態になることもなかったはずであり、その後の日本史はずいぶんと変わったものになったことでしょう。
この間、忠固と徳川斉昭のあいだには、じつにスリリングな攻防が展開され、お互いに相手を出し抜こうと諜報戦・謀略戦まで展開されます。まさに事実は小説よりも奇なり、なのですが、詳しく知りたい方、ぜひ拙著『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)をご参照ください。
本日のストーリーでは、何か日米和親条約で開国になったかのようなニュアンスでした。和親条約は従来の長崎に加えて新たに下田、箱館を開いて外国船の寄港を認め、石炭や水、食糧を供給するなど人道的な措置のみで、交易通商は認めていない条約です。この段階では、まだ「開国」とは言えません。また、ドラマでは、阿部正弘が斉昭を無視して条約を調印したかのように描かれていましたが、実際には違います。阿部は斉昭の顔色をうかがって交易を認めず、斉昭の主張が通ってしまったというのが史実です。
徳川斉昭は頑迷な攘夷論で、開国を決して許さないというスタンスのように描かれていました。実際には二度目のペリー来航時には「出交易なら良い」と主張していました。「出交易」とは、外国船の来航は許さないが、日本が大船を建造して、外国に日本の物産を売りにいくというスタイルの貿易のことです。ですから斉昭は、「夷狄」に「神州」を汚されてはならないと主張していましたが、交易によって利益が生じることそのものを否定していたわけではなかったのです。
本日のドラマでは、斉昭に対抗して開国やむなしと主張した人物として堀田正睦と井伊直弼が登場しました。アメリカを恐れて「やむなし」という消極的なニュアンスでの登場の仕方でした。
実際には、ここで松平忠固を登場させねばならないのです。当時、徳川斉昭に対抗して、積極開国論の急先鋒だったのが松平忠固です(当時の名前はまだ忠優ですが、忠固で通します)。閣内で、もっとも明確な交易・通商の方針を立てて、それで日本を豊かにすることができると主張していたのが忠固でした。
ペリーとの交渉方針を決める嘉永7年2月2日の城中の評議の後、斉昭が家臣の戸田逢軒と藤田東湖に宛てた手紙には次のように書かれています。
出交易にて承知致し候へば、此の上なく候へども、中々承知致し申すまじくと、伊賀(忠固)、大和(久世広周)は心配にて色々申し聞け候へども、内地交易の義は必ず後患これ有りとて、我等は同心致さず候。尤も伊賀・大和も、右を済ませ候にはこれ無く、三、五年立つと、其の中に内地交易をも済ませ申す可き様子に申し聞け候はば然る可しとの計策に候へども、我等は夫以て同心致さず候 。(出所: 徳富蘇峰『近世日本国民史 開国日本(三)』講談社学術文庫、138頁)
【現代語訳】(斉昭が主張する)出交易のみで先方が承知してくれればよいが、なかなか承知しないでしょうと、伊賀(忠固)と大和(久世)がいろいろ心配して申し立てた。しかし内地交易を認めてしまえば、きっと後々災いが起こるに違いないと、我等は反対した。それでも伊賀と大和は、それで済まそうとはせず、三~五年後には内地交易も開始するように持っていこうと計画している様子であったので、我等は決して同意しなかった。
【現代語訳】(斉昭が主張する)出交易のみで先方が承知してくれればよいが、なかなか承知しないでしょうと、伊賀(忠固)と大和(久世)がいろいろ心配して申し立てた。しかし内地交易を認めてしまえば、きっと後々災いが起こるに違いないと、我等は反対した。それでも伊賀と大和は、それで済まそうとはせず、三~五年後には内地交易も開始するように持っていこうと計画している様子であったので、我等は決して同意しなかった。
つまりこのときの対立点は、斉昭の出交易論に対して、老中の松平忠固(上田藩主)と久世広周(関宿藩主)は、3~5年の準備期間をおいて内交易も含めて通商・交易を開始するという条文をペリーとの条約に含めるべきだと主張していたのです。忠固と久世は、日本は3年の準備期間もあれば、十分に港をつくって、輸出の準備をし、輸出で世界に打って出ることができると考えていたのです。
交易の是非をめぐる2月4日の城中評議では、斉昭本人の手記によれば、以下のように斉昭と忠固のあいだで激論が展開されたのです。
四日登城、両度老中へ逢候処、当月は伊賀守海防月番歟にて、同人のみ頻りに談判いたし、伊勢守は黙止いたし居候。伊賀守専ら和議を唱え候。林大学・井戸対馬にも逢候處、両人共墨夷を畏るる事虎の如く、奮発の様子毫髪も無之、夜五ツ時迄営中に居候へ共、廟議少しも振ひ不申、いたづらに切歯するのみ 。
(出所『水戸藩史料』上編乾巻6、263頁)
【現代語訳】四日に登城。再度老中に面会に行くと、今月は伊賀守(忠固)が海防月番老中であったため、彼と専ら談判した。伊勢守(阿部正弘)は黙ってばかりいる。伊賀守は和議を唱えるばかりであった。林(復斎)と井戸(覚弘)の両名は、アメリカを虎のように恐れるばかりで、発奮する様子は毛頭なかった。夜八時くらいまで城内でねばったが、評議は全く振るうことなく、切歯して悔しがるのみであった。
(出所『水戸藩史料』上編乾巻6、263頁)
【現代語訳】四日に登城。再度老中に面会に行くと、今月は伊賀守(忠固)が海防月番老中であったため、彼と専ら談判した。伊勢守(阿部正弘)は黙ってばかりいる。伊賀守は和議を唱えるばかりであった。林(復斎)と井戸(覚弘)の両名は、アメリカを虎のように恐れるばかりで、発奮する様子は毛頭なかった。夜八時くらいまで城内でねばったが、評議は全く振るうことなく、切歯して悔しがるのみであった。
夜8時まで行われたこの日の評議では、忠固と斉昭が激論して、最終的に忠固が斉昭を押し切って、交易開始の方針で合意させたのです。ペリーとの交渉の2月の月番老中は忠固なので、会議を仕切ることができる権限がありました。しかし従来の史書で、この事実を指摘したもの皆無です。
これで忠固の勝利!と思いきや、この後、斉昭が辞任するとダダをこね、阿部正弘が手のひらをかえして、斉昭に忖度して、交易不許可の決定をしてしまったのでした。これが史実です。もしもこのとき、阿部が決定を覆すことがなかったら、日米和親条約で通商が約束されることになり、もっと順調に交易は開始されていたはずであり、国内が争乱状態になることもなかったはずであり、その後の日本史はずいぶんと変わったものになったことでしょう。
この間、忠固と徳川斉昭のあいだには、じつにスリリングな攻防が展開され、お互いに相手を出し抜こうと諜報戦・謀略戦まで展開されます。まさに事実は小説よりも奇なり、なのですが、詳しく知りたい方、ぜひ拙著『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)をご参照ください。