代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

講座派史観・労農派史観とハーバード・ノーマン

2015年07月23日 | 歴史
 薩長公英陰謀論者さんから、長大な「ハーバード・ノーマン論」が投稿されてまいりました。転載させていただきます。薩長公英陰謀論者さんの探究心と分析能力のすごさに脱帽いたします。

 私は、ノーマンの歴史研究は、専制的な手法で上から近代的資本主義国家を形成するのに成功した事例とする明治維新賛美論と記憶していました。この意味では安倍首相のような右派の歴史観とも親和性が高く、明治維新の物語に関しては、「左派と右派の歴史観は基本的に同じ」というテーゼを補強する以上のものはないと思っておりました。薩長公英さんも、ノーマンの歴史観の分析に苦慮しておられるようでしたが、歴史学者としてのノーマンの業績の評価は相当に難しいですね。いま取り組んでいる「長州史観から日本を取り戻す」という課題から見ると、ノーマンは長州史観の側のようにも見えてしまうので・・・・。
 
 ノーマンをご存知ない若い世代の方々のために若干補足説明しておきます。ノーマンは日本生まれ日本育ちのカナダ人歴史家で、同時に外交官としても活躍、戦後はGHQのメンバーとして日本の民主化にも尽力しました。昭和天皇とマッカーサー会談のGHQ側通訳を務めるなど数々の歴史的な舞台に立ち会った人物です。日本人でも忘れていた大思想家・安藤昌益に注目し、昌益の思想を世界に向けて紹介した歴史学者としても知られています。

 GHQの一員として戦後の日本民主化計画にも携わったので、「日本国憲法も戦後の民主化もGHQの押し付け」と主張する安倍晋三首相からしてみたら、「(長州がつくった戦前の)日本を(長州的な)日本でなくした、日本の(=長州の)仇」の一人と思うかもしれません。

 しかし、信州で生まれ育ったノーマンは、自己アイデンティティーの形成を日本の文化と風土の中で行っており、その考え方は、欧米的価値観というよりも、日本で生まれ育った内発的な左派思想だと思います。それゆえ安藤昌益にも注目できたのでしょう。

 日本で生まれ、羽仁五郎や丸山真男など日本の多くの左派的なあるいは進歩的な知識人と交流する中で、戦後の民主化の一翼を担ったノーマンは、欧米の価値観を日本に押し付けたというのでなく、日本で育まれた内発的な民主主義思想を、GHQを利用しながら展開させようとしたといえるのではないでしょうか。ノーマンのような日本人の心情をよく理解した改革者がいたからこそ、日本人の多くは、岸元首相や安倍首相のように「押し付けられた」という印象を持つことなく、GHQの諸改革に順応できたのといえるのではないでしょうか。
 
 ノーマンの最期は悲劇的なもので、いまだに多くの謎に包まれています。後の1957年、マッカーシズムの嵐が吹き荒れる中で、「ソ連のスパイ」の嫌疑をかけられ、赴任先のエジプトで自殺に追い込まれています。
 ウィキペディアには以下のように書かれています。「(ノーマンは)都留重人を取り調べたFBI捜査官によるアメリカ上院における証言によって「共産主義者」との疑いを再度かけられ、1957年4月4日に赴任先のカイロで飛び降り自殺を遂げた」と。きわめて残念なことですが、ノーマンをFBIに売り渡すような証言をしたのが都留重人さんというのは事実のようで、それがなければノーマンは死ななくてすんだかも知れません。宇沢弘文先生は、ノーマンの死について、晩年でも思い出しては「都留さんが余計なことを言わなければ・・・・」と昨日のことのように残念がっておられたものでした。

 もちろんノーマンが左翼であったことは、マッカーシーに言われるまでもなく、彼の著作を読めば明らかです。しかし左翼であることと「ソ連のスパイ」であることは全く別問題です。

 また、ノーマンの歴史理論に対して、「GHQ=コミンテルン史観」というレッテル貼りをしたいであろう「長州=靖国史観」の方々におかれましては、ノーマンによる明治維新の評価は、基本的に長州史観と親和的であることにも言及しておきます。
 
 
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 以下、薩長公英陰謀論者さんの投稿の引用です。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/65a1d5b1b68e20965cca35b4d07d2c61

分類病者による、ノーマンの嫌ったレッテル貼りのこころみ(その1)。 (薩長公英陰謀論者)2015-07-12 01:56:53


 関さん、注意を喚起していただいてありがとうございました。おかげさまで遅ればせながらハーバート・ノーマン著『日本における近代国家の成立』(大窪愿二訳、岩波文庫、1993年)に取り組んでいます。
 
 もともとはハーヴァードの学位論文であったのが転じて、1937年の日本による中国侵略の全面的拡大に相応ずる極東を対象とした調査の一環としてニューヨークの「太平洋問題調査委員会」宛に1939年に提出された調査研究報告であるとのこと(前同書解題;p334)。そこはかとなくクールな見方が非常に興味深く、言葉の端々までこれは英語でどういう表現だったのだろうと気になります。

 気が急かれて駆け足で目をとおしましたところ、ノーマンに関する「ブランディング」は、なるほど、関さんのお考えのとおりであると思いました。
 
 ノーマンの維新論は、いかにも長州左派(講座派)と見えて、その実は、維新の功労者とその業績とを日本の近代化=ブルジョア社会化を切り開いたとして高く評価する、「プレ=ライシャワー」と言うべき近代化論者でマイルドブレンド・インテリとしての労農派であろうと、ノーマンの嫌ったレッテル貼り(ノーマン、『クリオの顔』、岩波文庫、1986年;p68)をいたしました。

 関さんの慧眼に脱帽し、取り急ぎピックアップした興味深いポイントと勝手な感想を報告します:

 ・・・と言いつつ、じつは自分がいかに一知半解で講座派、労農派と言いつのってきたかということに気がついたところです。

01 「講座派ノーマン」の「明治維新の起点=天保改革」論:

 ノーマンは「明治維新の歴史は・・・国家の集権化を達成し国民経済に対する国家統制を強化する企ての記録として始まらなければならない。この記録の出発点は、当然ながら天保改革におかなければならない。水野忠邦のおこなった諸改革が徳川直領内で失敗に終わったのに反して、後年ことに薩摩、土佐、長州で遂行された藩政改革は巧妙であり比較的成功したことが注目される」としています(同;p4)。

 この天保改革起点論は、講座派史観の強い影響によるものであろうと推察します。しかし、明治維新がブルジョア社会への変革であったとする労農派の「幕末」観と対立矛盾するわけではないと思います。

02 「講座派ノーマン」の「開国=てこ」論:

 外圧と「開国」についてノーマンは、「・・われわれは、衰退、反抗の過程と時を同じくして起こった外国の脅威が、幕府の敵によって、どのようにその�莖覆の<てこ>として使われたかに注目しなければならない」としています(同;p67)。

 ここで<倒幕派が外国の脅威を利用した>とノーマンは指摘しているわけで、その視線は<外国が倒幕派を利用した>という視線と隣同士にある、という気がいたします。

 ともあれ、「外圧 → 開国」が維新の主役なのではなく、あくまで日本社会の内発的な変化運動が「変革」の主役であると考えるノーマンに、瓦版・読売(←普通名詞です)ジャーナリストやアカデミック・コピーライターとは本質的に異なるもの、自立した歴史研究者としての面目躍如たるものを感じます。しかし「01」と同じく労農派の維新観と対立矛盾するものではないと思えます。

03 「明治国家による上からの反動的改革」論の「講座派ノーマン」は、明治社会がブルジョア社会であるとする「労農派ノーマン」と表裏一体:

 ノーマンは「(反徳川)の封建貴族の一翼から誕生し、大阪および京都の大商人に支援された」維新指導者たちによる(前同書;p26)・・「徳川封建制の<上からの>打倒は、人民、とくに農民および都市貧民が<下から>の行動によって反封建運動を展開する叛乱の企てを制止することを可能にした」(同;p27)としており、ノーマンの維新観の一要素が「明治維新=予防反革命」論と通底することに驚きました。

 ノーマンは、「大商人の支援」について「武士の政治的・軍事的活躍ほどに劇的ではないが、幕府の�莖覆と新政権の安定を達成するうえにそれよりも深い影響を及ぼしたものは、大町人ー日本の富の70パーセントが集中していたといわれる大坂商人の経済的支援であった」(同;p89)と突っ込んで述べ、明治維新の「実体的」推進者が「ブルジョア大商人」であったことを示しています。

 さすれば、明治維新がつくりだした社会は、上部構造が半封建的、非民主的な、いわゆる絶対主義国家で、下部構造(=生産関係の総体としての経済構造)が資本主義のブルジョア社会であるということになります。

 ノーマンは明治期の土地改革による小作人の出現、労働者予備軍の形成には注目する一方で既に江戸期末期に広汎に存在した寄生地主には目を向けてはいません(同;p214以下「第五章 土地改革とその社会的帰結」)。

 講座派は、この寄生地主を「半封建的天皇制絶対主義=軍国主義」の源泉として考えると思いますから、ノーマンは非・講座派的であり、明治絶対主義政権が上からブルジョア的生産関係の樹立を促進して社会の生産諸力を急激に近代化(西欧化)して向上させたことを強調する点で労農派的です。

 と言いますか、講座派と労農派の革命戦略路線の掛け声上の相違は措くと、講座派は法的・政治的構造としての上部構造のあり方から下部構造を規定してしまっており、労農派は下部構造(生産関係)のみを見て、社会変革において上部構造の問題は副次的なものである、と考えていることになるのではないでしょうか。
 双方まるで「マルクス的」(@『経済学批判』序)ではない!と目をこすり・・・はて、どこかで取り違えをしたのでしょうか?

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分類病者による、ノーマンの嫌ったレッテル貼りのこころみ(その2)。 (薩長公英陰謀論者)2015-07-12 02:00:20
 
04 ノーマンが賞嘆し、むりやり弁護する維新の推進者たちの専制支配:

 ノーマンいわく、「・・指導者たちは同藩人の反対をかえりみず、賢明にも外国の征服の途よりも国内再建の途を取ったのである(時代おくれの幕府政権の執拗な存続がその事業を百倍も困難にした)。・・・もし日本が途を誤っていたとすれば、日本は外国に征服され、後日大きな不幸におちいったかもしれない。1872-73年の征韓問題をめぐる危機に際しての大久保、岩倉、木戸らの政治的経綸は国民の最高の讃辞に値するものである」(同;p164)と、読むと赤面するほどに手放しになるわけは、と考えてしまいます。

 「徳川社会の歴史的遺産は、民主的・人民的革命過程による<下からの>社会的変革を許さず、かえって専制的に<上からの>変革をおこなわしめた。・・・農民の犠牲において資本の蓄積と集中とが遂行された。・・・日本のように極めて突然にしかもおくれて封建的孤立から立ち上がった国が民主的方法を実行しようとすれば、おそらく社会的大騒動をまぬかれなかったであろうが、こうした危険なしに近代化の大事業を成就しえたのは、ひとえに絶対主義国家の力によるものであった」(同;p165)

 ここにある「明治政府が絶対主義専制になったのは、徳川の責任」という維新元勲弁護論は噴飯ものでのけぞります。歴史の女神クリオの顔が曇るのではないでしょうか。最後はひとのせいにする、このような耳に入りやすい開き直りの言い方は、けっこう聞くことが多くはありますが。

05 ノーマンによる歯切れのわるい植民地化の脅威否定論:

 ノーマンは維新指導者が日本を外国の征服から守るために専制政治で奮闘したと言いながら、「日本を開国させた西洋列強の努力を、・・・植民地を樹立するための計画的行動であったと解釈することはおそらく誇張であろう。この植民地化の可能性は、・・・徳川時代の日本にとっては決して侵略の段階にまでは達していなかった。ただ、多年にわたる国力の沈滞と軍事的劣弱からおして、やがて植民地化の可能性が現実の問題となるのは考えられることであった」(同;p79)

 ・・・と、まるで今どきの某党首脳の我田引水の話のもって行き方と変わらないありさまとなっています。何が彼をそうさせたのでしょうか。

06 しかし、ノーマンの名誉のために!?:

 下掲「07」の遠山茂樹氏によるノーマン論の追記に、1946年3月ニューヨークの外交協会での講演の摘要が紹介されています。

 「明治維新における下級武士の排外運動は、民衆の要求をねじまげ、腐敗させ、その結果人民がみずからの努力で封建制の束縛を排除することができなくなった。かくて改革は上から遂行され、立憲性採用以来50年、日本の政治制度を堅固な専制政治の型に凍結することができた。1945年8月の降伏以降も、人民は改革運動をみずから開始することをせず、かえって根源的な力は「上から」つまり占領軍から来た。占領軍の改革政策、この上からの改革がこの程度までしか進まないことは明らかである。どこかその途中で、日本国民自身が自らの民主的な政府をひきうけ強化しなければならない」

 ・・・と。日本国民へのこのエールで、ノーマンの名誉回復をと思いまして。しかし、・・・やはりどこかヘンです。

 文字通り百姓(「百の姓」)による一揆が飢餓暴動ではなく、整然と組織された政治的デモンストレーションであったこと、そして一揆の主たる主張が民衆サイドからの社会的「市場化」の要求であったこと、そして、ノーマンが言うように志士の尊皇攘夷活動によってではなく、当時すでに商業活動に主力を置くようになった大地主(寄生地主)層による謀略である「ええじゃないか」によって民衆の政治運動が全国的に攪乱されつくすタイミングで、長薩下士及び反徳川公家さらに現地英国勢力と長薩派に寝返った特権商人たちの手によって明治維新クーデターと内戦が進行したこと、これに対応する?戦後から今日までの動きとは・・・と、考えるのはまことに手にあまります。

07 「講座派史家」遠山茂樹氏によるノーマン史学の「労農派」・「社会経済史派」との評価:

  同書巻末に付された雑誌『思想』1977年4月号所載の遠山茂樹「ノーマン史学の評価の問題」(同;p353以下)とその追記には、

 「明治維新の性格の規定において、明治政府指導者の役割の理解において、封建遺制の評価において、ノーマンの日本近代史観は、講座派と結論を異にしていた。むしろ労農派、社会経済史派の見方に近いといえるだろう」

 「基本的な契機・性格のみを強調して副次的なそれを切りすてること、変化・発展の解明よりも、構造の析出に力を注いだこと、講座派の学風と一般にうけとられるそのような傾向にたいして、彼の学問の肌あいが違和感を持ったであろうという・・・」

  ・・・と、あります。不思議なことに講座派は新古典派経済学と同様に、ニュートン力学的な書き割りの中に世界を定着させることによって自分のアタマとともに軌道を三次元未満に固定してただ循環し続けるということですね。これが関さんが長州左右両派が共有することとしておっしゃっていることにリンクしていると思えます。

08 最近刊の著作に見た「開国主義長州史観 by the 団塊世代」:

 ごく最近の維新論を参照して、と思いまして『シリーズ日本近世史<5> 幕末から維新へ』(藤田覚著、岩波新書、2015年5月)を手に取りました。

 「近年の幕末維新期の政治史研究」が「経済や地域社会の変動と政治過程との関連がやや稀薄になっている」こと、「登場するのは、武士層が中心で、それ以外では地方の豪農・豪商、知識人レベルまでであることに不満を覚えていた」ことを踏まえた、功成り名遂げた団塊世代歴史専門家(現・東京大学名誉教授)による、1939年のノーマンと変わらぬ江戸公儀徹底蔑視敵視の長州史観と、ノーマンとは距離を置くライシャワー・ラインの原理主義的開国史観に目を瞠りました。

 「さすが団塊世代!」と喝采してよいものかどうか・・・

 「・・16、7世紀の大航海時代のヨーロッパ諸国とは、どのような関係を持つのかを日本側で選択することが可能だったが、19世紀半ばでは、そのような主体的な選択を許されなかった。・・・国と民族の自立の危機は、国内の幅広い階層に強烈な危機意識を生み出した。この未曾有の対外的危機を打開し、国家の対外的独立、国民的独立を守るため、幕藩体制にかわる新たな国家体制、政治体制の樹立に向けた模索と必死の政治闘争が始まり、明治維新に帰結した」(前同書;piv)。

 「幕藩体制という江戸時代の政治体制、あるいは江戸幕府は」、1853年のペリー来日から始まる強度の外圧がなければ、あれほどの短時日で解体することはなく、まだまだ100年でも続いたのではないかと推測している」(前同書;p215)。

 同書著者の団塊の世代が少年期を脱して青年期になりはじめたころに日本の社会的意識諸形態(@マルクス「経済学批判」序)を形成したケネディ・ライシャワー路線と、この開国原理主義長州史観はみごとに対応していると思えます。


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分類病者による、ノーマンの嫌ったレッテル貼りのこころみ(その3)。 (薩長公英陰謀論者)2015-07-12 02:04:15
 09 そういえば、この団塊というゾンビ: 

 関さんによる、2008年3月30日の「世代間闘争論、あるいは団塊の世代の精神的病理について」という、読む都度心を打たれる記事を折に触れてはながめています。

 その記事に多数寄せられたコメントの始めの方にあった「既存の利益層への政治闘争より無党派層をゆるくまとめるような政治的に共感できる言葉ってないものですかね? それこそが、現状を創造的に乗り越えるすべかなぁと思っていたりするのですが」という言葉を忘れることができません。

 いま、不幸にして切実な現実味を帯びている言葉が存在します。たったいま眼前に見ている、そして世代を越えつつある『戦争反対!』。

 アベ・シン官邸が採決を力ずくで押し切れば「戦争法案反対」運動が「倒閣&派兵反対」運動へ、そしてさらに泥沼となれば米国のベトナム戦争末期を想起させる大規模な反戦運動に発展していかざるを得ないでしょう!?。
 あるいは新幹線とか国会とか放火事件の類からヤスクニ・ファシズムへ?

 就活を控えた国会前の若者に、団塊の世代のオジサンたちが自己責任をいうことは、まだ街に出てくることができない若者たちに対する無慈悲な抑圧になります。屈強な男たちに守られて向こう側にいる人たちは別として、既に団塊のオジサンたち気づけば毎日オモテに出て縛られているわけではなく・・・まだそこまで認知に障害を来しているとは思えません。
 しかし、若いころから浸みついた知的懈怠という団塊の宿痾は救いようがないのでしょうか。往時は長髪だったのにアタマの中はいまだにショートカットばかりだと。

10 ふと思いますこと: 

 関さん、投稿を書きながら内心で、じつのところ、歴史を学んだり、歴史から学んだりして考えているのではなく、大げさに言ってさまざまのレベルの謀略、陰謀・陽謀を含めて、自分が市井の民のひとりとして身辺・周囲で経験・見聞した発見を、同時代の世の中、大きくは世界に投影し、それをさらに「幕末維新」という歴史に投影しているにすぎない、という感じがいたします。

 これはまことに視野の狭い、あやういことです。しかし、ノーマンのクリオ・フェチシズムにはいささか疎外感を感じながら、
 「・・彼女は、煽動的な新聞やデマゴーグがまきちらす劣悪な通貨である常套語や符牒に理解力を曇らされないきわめて平凡な市民にも、また人間が作った制度はいずれも不変なものでなく・・・たえまない歴史の大きな変動そのものの一部として微妙に変動し変質するものであることと見ることを学んだ学徒にも、ひとしく彼女の愛らしい物思わしげな顔を現すであろう」(ノーマン『クリオの顔』、岩波文庫、1986年;p72)
 というところを素知らぬ顔をして横目でじっと見ております。

 ・・・しかし、関与者にしてはじめてわかる内情と、それとは打って変わる外貌との、「暗黙知的」距離感覚など無用になるまでに、世の中のはかりごとが稚拙で露骨になりまして、それについてゆくのが大変です。

00 最後に。ノーマンの「歴史の”IF”」から想起する赤松小三郎:

 「今日明治史を研究する者は、人民の政治参加に対してもっと思い切って同情的な政治思想、立憲思想があったならば、もっと自由な社会が今日築かれていたと考えて、さしつかえないであろうか」とノーマンは1953年3月付けの「日本語新版への序」で提起しています(同;p8)。

 彼は、この「歴史の”IF”の問題」を歴史研究者としてきわめて抑制的に扱い、この問題提起が歴史上のさまざまな側面的な論点につながることを通じて(不平等条約体制からの国民的独立解放の闘いから出た国家主義感情が大陸侵略の道に流れ込むのは不可避であったのか、とか)明治権力とは何であったのか、を問う取り組みにつながることを喚起するにとどめています(同;p9参照)。

 しかし、ノーマンが歴史研究者をこえる存在であったことをあざやかに示す、この問題提起から、関さんによってはじめて知った赤松小三郎を想起せざるを得ません。

 ノーマンはあきらかに赤松小三郎の存在を知らなかったと推測します。しかし、上掲のノーマンの言葉は、赤松小三郎に対するあまりに適切な讃辞となっており、同時に最善の痛切な追悼の辞となっているのではないでしょうか。


 
     

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3 コメント

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「近代の呪い」と「国民」 (りくにす)
2015-07-23 23:30:51
どの記事にコメントしようかと迷いましたが、無理やりこちらにコメントします。

「そもそもフランス革命はブルジョア革命なのか」という話が1950年代からある、と渡辺京二『近代の呪い』(平凡社新書)に紹介されています。
彼らリビジョニスト(「ナチスの犯罪はなかった」という連中は、この説の存在を悪用している?)が突き止めたところによると、フランス革命を推進したのはインテリ、法曹、三文文士らで、ブルジョア資本家といえるのはむしろ地方の貴族だったとのことです。さてこの本を最初から読み返すと、近代化とは人びとがギルドや農村や教会の信者組織など(日本風に言うと「一揆」?)から切り離されて「個人」にされ、その個人が国家の運命に結び付けられていく過程だと述べています。右寄りでも、左寄りでも、社会主義でもそれほど大きな違いは
ないというのです。いま国会周辺では「憲法を守れ」「戦争する国にするな」との声が高くなっていますが、近代国家に物申そうという「国民」は、その国家が強く豊かになることを望んでそうするのだ、と言います。この本を読みながら国会前で「民主主義ってな・ん・だ!」と叫んだりすると変な気分になります。なんで反戦運動しているのだろう。

そんななかでかねてから気になっていた宇加治新八についてやっと調べ始めたました。広瀬隆『文明開化は長崎から』(集英社)に「主権在民」「民選議会の設立」「男女平等の投票権」を訴えた建白書を出す人物として登場しますが、長崎とはあまり関係なさそうで、むしろ慶應義塾で自由思想を学んだようです。広瀬さんは植木枝盛が好きなのですが、彼も慶應義塾などの演説会に入り浸っていたらしい。でも福沢は自由思想を「伝えた」だけであったようです。
福沢諭吉に幻想を持っていられたなら「主権在民」のシンボルを歓迎できるのですが、福沢は次第に国家と財界の代弁者という正体をあらわにし始め、植木枝盛から「法螺を福沢 嘘をゆう吉」と非難されます。そんなのお構いなしで福沢は日清戦争を円滑にするために朝鮮・清国へのヘイトスピーチを『時事新報』紙上で盛んにやりました。広瀬さんが福沢を嫌うのは別な理由もあるようですが、宇加治や植木が慶應義塾と関わりがあったことはちゃんと書いてほしい(ぷんぷん)。
参考までに、雁屋哲の美味しんぼ日記http://kakaue.web.fc2.com/1/ganntetu.html

調査したともいえないけど、とりあえず分かったことは
・藩主家の墓所(祖父の家の近くだ)の警護についていた。『龍馬伝』で龍馬の父が同様の役についていたが、それって偉いのか?
・慶應義塾を卒業後、明治7年に新政府の求めに応じて建白書を提出。
・同じ明治7年には、板垣退助も建白書を提出していた。
・明治22年に米沢出身者の子弟のための「有為会」が設立された時、私学の教師として参加。
・没年不詳。歴史家の鈴木由紀子さんが本気を出せば、判明するでしょうか。
・少なくとも2013年と14年の秋の米沢市のお祭りの時代行列に登場している。今年の時代行列にも出ていたら行けない私の代わりに応援してやってください。
・インターネット上の情報は少なく、2回以上登場しているブログをまだ見ていない。

明治7年に建白書を提出した宇加治と、明治22年に「有為会」の設立集会に現れた宇加治は同一人物なのでしょうか。この会は少年たちの学費を援助する会なので、ある程度財産がないと参加できないと思われます。転向してしまったらしたと言ってほしい。
行方不明になっておらず、ファンも沢山いる赤松小三郎は幸せだなあと思います。彼が明治7年まで生きていたらどんな建白書を出したでしょう。

板垣退助は戊辰戦争で会津領に入った時に新政府軍に協力を申し出る領民が現れたのに驚いたそうですが(多分侵略軍ならみんなそういう連中に出合っていると思う)
板垣という人は、維新成功後薩長に対抗して諸藩士と連合したりとちょっと生臭いところがありますが、危機感は本当だったぽい。民権運動が政党運動になって最後には大政翼賛会になるのも動機がそこだからでしょうか。そして「非国民」という言葉が現れる。

時代が下って60年安保になると岸首相が「サイレント・マジョリティ」論を展開して甲子園球場で野球を観戦したり、銀座でショッピングしたりしている人々を岸首相は勝手に味方とみなしましたが、翌日「俺はプロ野球ファンだが安保には反対だ」とか「安保反対声なき声の会」といったプラカードが登場したそうです(井上静さんのツイートより)。
で、60年安保当時に戻ると、野球を見たり銀座にいる人は「近代の呪い」にかかっていない、条件次第で敵にまわりかねない人々だ、という見方もできなくはない、と言えるのかなと変なところをぐるぐるまわっています。議事堂に人が集まるようなら「日本」はまだ見放されていないといえるかも。

「強い国家を求めているはずの市民が、反戦運動に走るのはなぜか」を考えてきましたが、そこは「総力戦」の恐れなのか、近代兵器への恐れなのか。ヒューマニズムの進歩なのか、わからないです。

日露戦争は第0次世界大戦というべき、総力戦の走りのはずなのですが、イギリスから戦艦を仕入れて勝利したのでちょっと違うかも。それとは別に、鉄砲が普及したことで日本人に厭戦気分が広がったという人もいますね。
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ノーマンと明治維新にあらためて取り組むにあたっての仮説を報告します。 (薩長公英陰謀論者)
2015-07-26 13:41:33

 関良基さま:

 関さん、御ウェブログ記事への転載と、いただいた勁い励ましの言葉に心からお礼を申し上げます。
 関さんのハーバート・ノーマンに関するコメント、若い世代のための補足説明、に強い示唆を受けました。ありがとうございます。

 昨日、ノーマンの「 JAPAN’S EMERGENCE As A Modern State / Political and Economic Problems of The Meiji Period 」が届きました。
 これからおもむろに紐解くにあたり、ノーマンについて難儀しておりましたことが関さんの指摘されたことによって氷解してゆきつつあることを感じて感謝いたしております。

 これからノーマンについてじっくり手間ひまをかけて見てゆこうとして、思いあたりました「仮説」は:

<仮説01>
 ノーマンの安藤昌益の生き方と思想への親和性によっておそらく示されているだろうように、彼のもっともおおもとにあったのは、40年間にわたり信州の農村に入り込んで伝道に挺身した宣教師の家庭に育ったことに根ざす(遠山茂樹「ノーマン史学の評価の問題(追記)」@岩波文庫『日本における近代国家の成立』;p376)封建時代から明治、そして戦後に至るまでの時代を通しての、日本の人民民衆の生活とその苦しみに対する共感、そしてそれと一体のものとしての、人民民衆に対するそれぞれの時代の支配者に対する一貫した鋭い視線であったと考えることができるのではないでしょうか。

<仮説02>
 ノーマンが安藤昌益を世に知らしめた『忘れられた思想家』において「いかに日本封建制といっても歴史家はそれを『人民』対『専制権力』というような単純な図式で割り切らないように気をつけなければならない」(遠山茂樹、孫引き、前同;p360)と述べたように、
 講座派流の教条主義史観から一線を画した歴史に対する柔軟な視線を持つがゆえに、「封建的地方割拠主義」から「全国的市場」への移行という民衆の要求をきわめて困難な条件から出発して文字どおり「曲がりなりに」であれ実現した明治維新の推進者に対してノーマンは<その限りで>賛嘆を惜しまなかったということなのではないでしょうか。

<仮説03>
 人民民衆の生活への共感というノーマンのコアが、関さんが指摘される「日本で生まれ育った内発的な左派思想」を彼のなかにおのずから形成し、それが戦後にGHQニューディーラー派の民主化路線と響きあって、民衆の生活の感覚と要求に響きあうかたちでの、軍国主義的特権官僚専制の解体、朝鮮戦争勃発前後までかと思われる日本の非・長州化の推進への尽力となったと考えることができるのではないでしょうか。

 ・・・・と、いうことで、ノーマンの史観のコア(本質)は「人民民衆の生活への身の丈目線での共感」であろうと考えます。これは左右をとわず長州史観が致命的に欠いているものであると思います。

 地を這う視線で身分制社会、武士支配を弾劾する安藤昌益の憤怒と同期同調するノーマンの史論をドライブするテーマである「近代的資本主義化」が、如何に長州史観の歴史視線と交錯しようが、講座派流・労農派流をとわず上から目線オンリーの夜郎自大と言うべき長州史観とは截然として異なるのではないかと。

 すみません、考えてみればあたりまえのことであったと臍を噛みつつ、関さんのお考えを煩わせてしまったことをお詫びするとともに、それはまことに幸運であったと思います。

 これから、ノーマンの視線が映し出した「日本」の像を彼の言葉でたどりながら、明治維新近代化について蝸牛の歩みであらためて考えます。
返信する
近代史はまだまだ闇の中 ()
2015-07-26 21:00:34
りくにす様

 宇加治新八の紹介ありがとうございました。
 いやー、これだけの人物も歴史の中に埋もれたまま、没年も不詳のままとは、近代史の闇は深いとあらためて思いました。

 長州=靖国史観系の人々は、左派史観を批判しながら「汚辱の近現代史」とかおっしゃいます。
しかし、実際には左右両派結託して、当然に光をあてるべき人物をろくに調べようともせず、その功績を隠蔽し続けたわけです。「パンドラの箱の中に閉じ込められた近現代史」がありそうですね。

 江村栄一氏の『憲法構想』(岩波書店)の中に宇加治新八の私擬憲法的な建言書もありましたので、読んでみました。りくにすさんのコメントともども新記事としてアップさせていただきます。
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