ふたたび薩長公英陰謀論者さんから赤松小三郎建言書に関するすばらしい論文をいただきました。新しい記事として掲載させていただきます。なぜ赤松小三郎が無視されてきたのかという点を解明しようと、知り合いの学者さんたちにも複数問い合わせをして下さったそうです。本当に頭が下がります。
学者というのは自分の能力に対する自覚もないままにプライドだけ高い人々が多いです。そういう学者に限って研究も大したことはありません。素人から、狭い学者コミュニティが見落としていた盲点について本質的な提起がなされた場合、ばつが悪いためか、「そんなことは自明である」とか、「学問の俎上には乗らない話だ」・・・・といった対応を取ってしまう場合が多いのです。実際、そういう対応をされた憲法学者の方もおられたようです。
本当に優秀な学者ならば、素人からの本質的な提起に対して、自らの不明を恥じ、その問題に誠実に対応しようとするものです。
薩長公英さんの提起に対して、誠実に「その通りだと思う」と回答して下さった議会制度研究者の方もいたそうです。私も知人の議会政治研究者に赤松小三郎のことを伝えたことがありましたが、「いやー、議会政治を研究しているのに全く知りませんでした」とすごく驚いていました。そうした誠実で謙虚な対応を取れる方が、学問を前に進められるのだと思います。
****以下、引用******
あらためて赤松小三郎の建言書について。 (薩長公英陰謀論者)2014-06-16 20:03:16
何かに取り憑かれたような(取り憑いているものが何かはハッキリしているのですが)アベ・シン総統のもとの政府・議会・憲法の状況に目を蔽いつつ、なぜ赤松小三郎の政体構想(社会構想)が水底に沈められたままだったのか、あらためてメモをまとめてみました。
かようなアベ・シン政権を見ると、大久保利通や伊藤博文が国家の担い手としてまだまともだったろうと(あてずっぽうですが)目の先が真っ暗に思えてきます。ま、新聞・メディアにアカデミアは明治時代から相変わらずのようですが。
以下は赤松小三郎の「口上書」を紹介した数人の友人(と、そのまた知人)にあらためて送ったメモです。赤松小三郎について友人から一人の憲法学者に聞いて貰いましたら即座に「岩波の『近代思想体系』9巻にあるから見て」と言われたそうです。学者らしいというか・・・この第9巻『憲法構想』に校注を付した江村栄一氏が赤松「口上書」についてどのように書いたかできれば知りたいと思います(アマゾンの中古書にもアクセスできる図書館にもないのです)。
むろん、赤松小三郎の議会構想に驚き、あちこち大急ぎであたっていただいて関連の専門文献に赤松小三郎」について言及したものがないことを確認された議会制度研究者がいました。「旧帝国憲法の復活がはかられているおりに、明治民権運動期に民間でつくられた私擬憲法に先立つ、いわゆる幕末に、先進的な武士の手によってかように民主主義的、議会主義的な構想が発案されていたことを、法律の専門家・学究が認識し研究すること、また世に広めることは重要な意義があるやに思います」と伝えたことに対して「憲法研究者としてその通りだと思う」とのことです。
何といいますか、専門家には専門家特有の制約といいますか、越えることが困難な枠取りがあって「素人の提起」に思いますように応えていただくことはなかなか期待できないかと思いますが、法律・政治学者に赤松小三郎に対する認識評価が少しずつ深められ広まって行くことを期待しています。
☆☆☆
1.なぜ赤松小三郎と「御改正口上書」が、今日に至るまでほとんど認識を得なかったのか:
逆説的ですが、「公議政体論」とその最も進んだ体系的な表現であり先駆けであった赤松「口上書」が、いわゆる幕末維新期に持った影響力がきわめて大きなものであったがゆえではないかと思います。
つまり「公議政体論」が当時圧倒的な理念的普遍性と影響力を持っていたことに照明をあてることは、明治期にすでに確立された維新観、つまり「尊皇攘夷を掲げた西南雄藩による封建的幕藩体制の打倒と、それによって実現された近代的社会改革」という日本の近代史のパラダイムを大きく揺さぶることになるからであろうと思います。つまり、「公議政体論」を維新の二次的な脇役とし、近代的政治理念へのパラダイム転換を象徴するものとして「五箇条のご誓文」を置くことが必要であったからではないかと思量します。
幕末の公議政体論の先駆けでありかつ最も先進的で、さまざまに引き続く政体論の源泉となった赤松小三郎「口上書」を論議の中心に据えますと、明治憲法を含めて以降のあらゆるものがそこからの大きな後退に見えてしまうからだと思います。
2.「公議政体論」が事実上きわめておおきな役割を果たしたことについて:
私見ですが明治維新までの政治的展開に関するもっともすぐれたサマリィではないかと思います、家近良樹編『もうひとつの明治維新 幕末史の再検討』(有志舎、2006年)所収の高橋裕文論文「武力倒幕方針をめぐる薩摩藩内反対派の動向」の<おわりに>から、その末尾部分を抜粋引用します(前掲書;p256~p257)。
こうした(引用者注:薩長中心の維新政権の形成)の中で、第三勢力としての土佐藩の後藤象二郎らの大政奉還論は・・・内容的には万国対峙のもとでの国民統合と,国家統一のための上下院による公議政体(代議政体)樹立という提起であったため、幕末政治に大きな影響を与えた。薩摩藩内でもこれを支持した高崎正風や洋行派の町田久成、中井弘三(脱藩士)がいたが彼らはその海外知識を持って後藤の公議政体づくりに参画した。・・・薩摩藩兵らが倒幕挙兵の危険性を訴え・・・ついには倒幕派であった小松帯刀までが武力倒幕方針から後藤の代議政体論に転じていった(引用者注:この薩摩藩家老こそが「幕末維新」のキー・パーソンだと思います)。
こうした動きは武力倒幕のストレートな展開を食い止め、大政奉還論や公議政体論に相乗りしなければ運動を継続できなくさせた。結果的には、武力倒幕派は政略により新天皇を確保し軍事的な勝利をおさめたが、反対派の唱えた問題提起は新政権成立後にも国民的課題として新たな運動に引き継がれてゆくこととなった。
3.幕末の公議政体論における、赤松小三郎「御改正口上書」の位置づけについて:
明示維新史学会編『講座 明治維新 第2巻 幕末政治と社会変動』所収の青山忠正論文「慶応三年一二月九日の政変」から抜粋引用します。
(引用者注:赤松「口上書」第二項の)補足文では「江戸・京・大坂・長崎・箱館・新潟等の首府へは大小学校を営み」と見えるのだが、これは、のち土佐の政権奉還建白書の別紙で、都会の地に学校を設けるべきこと、とあるのに対応する。土佐の建白実行以前、学校建設の提言は、この赤松建言書以外には見えないものである。また、(前同;第五項の)軍事に関する条項で、赤松の専門だが、平時の常備兵力は・・・。それらは基本的に志願兵で、庶民をも含み、将来的には武士身分を「減ずべし」と論じている。(前掲書;p229)
この(前同;赤松「口上書」の)内容は、一ヶ月のち、土佐が提案し、薩摩・越前・芸州・尾張以下が賛同する「王政復古」構想と、基本的に矛盾するところがない。具体的に、この赤松建言を、薩摩・越前が、どのように受容したか、また土佐・芸州・尾張などに情報として提供したか、などは判断の直接の手がかりがないが、全く伝えなかったとは考えにくい。土佐側にしても、政体構想の参考に供した可能性が大きい。(前掲書;p229)
(引用者注:政権奉還建白書の)アイディアを後藤(前同;後藤象二郎)はどこから得たか。通説的には・・・いわゆる「船中八策」として構想をまとめたものといわれる。「船中八策」とは、土佐出身の岩崎鏡川が『坂本龍馬関係文書』(日本史籍協会、1926年)に「新政府綱領八策」と題して収録した文書の別名だが、伝存の経過や現所蔵者などが明記されず、内容・体裁とも、きわめて不統一なものである。推測だが、維新史料編纂官岩崎は、赤松小三郎の建言書などを史料として閲覧できる立場にあり、それらをもとに半ば創作した可能性も否定できない。端的に言って、「船中八策」は史料として信頼性の低い文書である。しかし、だからといって、後藤が長崎で、坂本を通じて政権奉還のアイディアを得ることがなかったというわけではない。(前掲書;p231)
以上のように見てくると、この薩土「約定書」は、春嶽建白ー赤松建言ー芸州の計画のラインで具体化され、かつ洗練されてきた新政府設立構想に、土佐の将軍辞職論を付加し、さらに薩摩が兵力行使の可能性を踏まえて賛同し、成立したものと考えられよう。(前掲書;p236)
と、歴史家の青山忠正氏は述べておられます。赤松小三郎は、会津藩士で「管見」の山本覚馬、幕臣で慶喜に政権奉還後の政体構想を提案した西周、と三人親友同士であったとのことで、彼らの間での議論から各自の政体構想が生まれたと考えられます。
最も早いタイミングで構想をまとめた赤松小三郎のものがなぜもっとも先進的だったのか、オランダ語・英語と頭を抜く語学力を持った合理性を重んじる「理系頭脳」という個人的資質に加えて、おそらく彼の出身地である上田の存在が大きいのではないかと思っています。上田は秀吉時代に真田昌幸により検地・刀狩りによる兵農分離を行わなかったという自由闊達な土地柄で、真田氏転封以降その伝統により一揆が頻発するとともに市場経済が発達した土地柄であったやに聞きます。
4.「歴史家の目」に対する赤松小三郎のハンディキャップについて:
赤松「口上書」の政体構想における政府は、徳川将軍の地位を温存した「公武合体」とされて、当時の時勢の流れを逸したものと評価されることがあります。行政府のあり方のみに目を当てる「政局主義」の目で見られると、「もっとも先進的な議会政治」であることをコアとする赤松構想の真価が見失われるというハンディキャップがあります。
前項3.で引用しましたすぐれた歴史家である青山忠正氏ですら、「天下の大政を議定する全権は朝廷にあり、・・」ではじまる「薩土盟約書」における公選議会の位置づけが、赤松「口上書」から決定的に後退していることについて引用論文の中では指摘言及されていません。
5.赤松小三郎「御改正口上書」の特質である、理念を背景とした社会構想性について:
赤松「口上書」において、じつは「公議政体構想」は叙述の量的にはごく一部であり、教育、経済、軍事についての問題意識と課題意識による構想がその大半以上を占めています。なかでも、次の抜粋引用に見る社会理念・人間平等感は特記すべきものであると思います。民に対する愛情に溢れる表現は他に類を見ないものではないかと感動を覚えます。
一 人才教育之儀、御國是相立候基本に御座候事
・・・國中に法律學度量學を盛にし、其上漸々諸學校を増し、國中の人民を文明に育て候儀、治國之基礎に可有之候。
一 國中の人民平等に御撫育相成、人々其性に準じ、充分力を盡させ候事
☆☆☆
ということで、日本では歴史論を含めなべて「政局主義」に陥る傾向のもとで、日本の全国民一体の「社会改革構想」であった赤松小三郎の「御改正口上書」が、たんに「公武合体論」の一種で徳川将軍存続容認論と見られてしまい、赤松小三郎に注目なさった歴史作家の桐野作人氏のように、むしろ時代おくれの「反進歩的」なものとされてしまうという憂き目に遭うのであろうと思います。
「大政翼賛」状態となった議会の現状について問題意識を持つ若い世代の人たちが赤松建言を若々しい目で読むことを願わずにおられません。
****引用終わり*******
長文の論文ありがとうございました。
ちなみに江村栄一氏の『日本近代思想体系 憲法構想』(岩波書店)は私の手元にあります。赤松小三郎の建言書は、加藤弘之の「最新論」(文久元年に書かれたが当時は未発表だった)と大久保一翁の公議会論(『続再夢紀事』の慶応2年2月の記事)に次ぐ三番目のものとして掲載されています。
赤松建言書については、江村氏の著者解題として「当時の議会論としてはかなり具体的で、上局下局両議員の選出に公平な選挙を主張したところに革新性が見られる」と簡潔に述べられています。
赤松小三郎の建言書を、歴史学、政治学、憲法学上にどのように位置付けるのかは、その分野の学者が行うべきことで、私などの出る幕ではありません。しかしながら、「なぜ無視されてきたのか。無視されざるを得なかったのか」という問題は、学問分野を超越する研究課題でしょう。複雑系や弁証法的認識論あるいはパラダイム論の観点などから興味深い課題です。
大仏次郎さんが赤松小三郎について書いているのを読んだことがあります。いったいどこに書いていたのか、現物も手元になく思い出せないのですが、『鞍馬天狗』の著者であり熱烈な薩長ファンである大仏さんとしては、見てはいけないものを見てしまったという感じで慌てたのか、「所詮は公武合体論者の佐幕派。当時の時勢には何の影響力もなかった」と口をきわめて赤松小三郎を罵倒していたものでした。
自分の認識にとって不都合なものを目にすると、心も穏やかでいられなくなるためか、何とか理屈をつけて全否定して心を落ち着かせようとするのでしょう。
さて、薩長公英陰謀論者さんには、文中で上田に対しても過大な評価をいただき恐縮しております。実際には、上田の人間が全く赤松小三郎のすごさを認識できていなかったことも、ここまで無視され続けた一因です。その点、お恥ずかしい限りです。
ただ赤松小三郎の政治思想は真田昌幸の市民平等皆兵主義にその源流があるというのは、私もそのように考えるところです。この点は、大河ドラマ「真田丸」で三谷幸喜さんにしっかり描いてもらいたい、また堺雅人さんにしっかり演じていただきたく存じます。
私も高校時代、母校の先生方に赤松小三郎のすごさを自分なりに訴え、「なぜ無視されなければならないのか」と問いかけたものでした。「坂本龍馬の船中八策と同じようなもので、その頃、その手のものを書くのが流行っていたのだろう」とか「言うだけなら誰でもできる。坂本龍馬は実際にやったからこそ偉かったのだ」といった反論を受けた思い出があります。
当時はそれで言い負かされてしまった感じもして、悔しい思いをしたものでした。
上記のような回答は、初歩的な認識間違いなので、まだ良いといえるでしょう。最悪なのは、すごく権威主義的に「専門の歴史学者が評価していないということは、それなりの人物でしかなかったのだろう」といった回答です。
一般の人々がこういう権威主義から抜け出せないから、日本には愚劣きわまりない権威主義御用学者たちがはびこるのです。日本の夜明けは遠い・・・。
もっとも最近は権威に惑わされずに人物を判断できる方々が増えてきて、うれしい限りです。
以下の動画をご覧ください。イラストレーターの永井秀樹さんが歴史人物を描いた作品集です。何と、土方歳三、沖田総司に次いで三番目に赤松小三郎が登場します。小三郎が薩摩藩兵に行っていた練兵の様子を想像力たくましく描いてくださっていて、感動しました。まるで実際に当時の薩摩藩邸に行って見てこられたかのようなリアリティがあります。武士の集団であった薩摩軍は、このようにして近代的陸軍に生まれ変わったのです。
永井秀樹イラストレーションPV 戦国~幕末
https://www.youtube.com/watch?v=ltG851HmGzY
↑ こちらからご覧ください。
学者というのは自分の能力に対する自覚もないままにプライドだけ高い人々が多いです。そういう学者に限って研究も大したことはありません。素人から、狭い学者コミュニティが見落としていた盲点について本質的な提起がなされた場合、ばつが悪いためか、「そんなことは自明である」とか、「学問の俎上には乗らない話だ」・・・・といった対応を取ってしまう場合が多いのです。実際、そういう対応をされた憲法学者の方もおられたようです。
本当に優秀な学者ならば、素人からの本質的な提起に対して、自らの不明を恥じ、その問題に誠実に対応しようとするものです。
薩長公英さんの提起に対して、誠実に「その通りだと思う」と回答して下さった議会制度研究者の方もいたそうです。私も知人の議会政治研究者に赤松小三郎のことを伝えたことがありましたが、「いやー、議会政治を研究しているのに全く知りませんでした」とすごく驚いていました。そうした誠実で謙虚な対応を取れる方が、学問を前に進められるのだと思います。
****以下、引用******
あらためて赤松小三郎の建言書について。 (薩長公英陰謀論者)2014-06-16 20:03:16
何かに取り憑かれたような(取り憑いているものが何かはハッキリしているのですが)アベ・シン総統のもとの政府・議会・憲法の状況に目を蔽いつつ、なぜ赤松小三郎の政体構想(社会構想)が水底に沈められたままだったのか、あらためてメモをまとめてみました。
かようなアベ・シン政権を見ると、大久保利通や伊藤博文が国家の担い手としてまだまともだったろうと(あてずっぽうですが)目の先が真っ暗に思えてきます。ま、新聞・メディアにアカデミアは明治時代から相変わらずのようですが。
以下は赤松小三郎の「口上書」を紹介した数人の友人(と、そのまた知人)にあらためて送ったメモです。赤松小三郎について友人から一人の憲法学者に聞いて貰いましたら即座に「岩波の『近代思想体系』9巻にあるから見て」と言われたそうです。学者らしいというか・・・この第9巻『憲法構想』に校注を付した江村栄一氏が赤松「口上書」についてどのように書いたかできれば知りたいと思います(アマゾンの中古書にもアクセスできる図書館にもないのです)。
むろん、赤松小三郎の議会構想に驚き、あちこち大急ぎであたっていただいて関連の専門文献に赤松小三郎」について言及したものがないことを確認された議会制度研究者がいました。「旧帝国憲法の復活がはかられているおりに、明治民権運動期に民間でつくられた私擬憲法に先立つ、いわゆる幕末に、先進的な武士の手によってかように民主主義的、議会主義的な構想が発案されていたことを、法律の専門家・学究が認識し研究すること、また世に広めることは重要な意義があるやに思います」と伝えたことに対して「憲法研究者としてその通りだと思う」とのことです。
何といいますか、専門家には専門家特有の制約といいますか、越えることが困難な枠取りがあって「素人の提起」に思いますように応えていただくことはなかなか期待できないかと思いますが、法律・政治学者に赤松小三郎に対する認識評価が少しずつ深められ広まって行くことを期待しています。
☆☆☆
1.なぜ赤松小三郎と「御改正口上書」が、今日に至るまでほとんど認識を得なかったのか:
逆説的ですが、「公議政体論」とその最も進んだ体系的な表現であり先駆けであった赤松「口上書」が、いわゆる幕末維新期に持った影響力がきわめて大きなものであったがゆえではないかと思います。
つまり「公議政体論」が当時圧倒的な理念的普遍性と影響力を持っていたことに照明をあてることは、明治期にすでに確立された維新観、つまり「尊皇攘夷を掲げた西南雄藩による封建的幕藩体制の打倒と、それによって実現された近代的社会改革」という日本の近代史のパラダイムを大きく揺さぶることになるからであろうと思います。つまり、「公議政体論」を維新の二次的な脇役とし、近代的政治理念へのパラダイム転換を象徴するものとして「五箇条のご誓文」を置くことが必要であったからではないかと思量します。
幕末の公議政体論の先駆けでありかつ最も先進的で、さまざまに引き続く政体論の源泉となった赤松小三郎「口上書」を論議の中心に据えますと、明治憲法を含めて以降のあらゆるものがそこからの大きな後退に見えてしまうからだと思います。
2.「公議政体論」が事実上きわめておおきな役割を果たしたことについて:
私見ですが明治維新までの政治的展開に関するもっともすぐれたサマリィではないかと思います、家近良樹編『もうひとつの明治維新 幕末史の再検討』(有志舎、2006年)所収の高橋裕文論文「武力倒幕方針をめぐる薩摩藩内反対派の動向」の<おわりに>から、その末尾部分を抜粋引用します(前掲書;p256~p257)。
こうした(引用者注:薩長中心の維新政権の形成)の中で、第三勢力としての土佐藩の後藤象二郎らの大政奉還論は・・・内容的には万国対峙のもとでの国民統合と,国家統一のための上下院による公議政体(代議政体)樹立という提起であったため、幕末政治に大きな影響を与えた。薩摩藩内でもこれを支持した高崎正風や洋行派の町田久成、中井弘三(脱藩士)がいたが彼らはその海外知識を持って後藤の公議政体づくりに参画した。・・・薩摩藩兵らが倒幕挙兵の危険性を訴え・・・ついには倒幕派であった小松帯刀までが武力倒幕方針から後藤の代議政体論に転じていった(引用者注:この薩摩藩家老こそが「幕末維新」のキー・パーソンだと思います)。
こうした動きは武力倒幕のストレートな展開を食い止め、大政奉還論や公議政体論に相乗りしなければ運動を継続できなくさせた。結果的には、武力倒幕派は政略により新天皇を確保し軍事的な勝利をおさめたが、反対派の唱えた問題提起は新政権成立後にも国民的課題として新たな運動に引き継がれてゆくこととなった。
3.幕末の公議政体論における、赤松小三郎「御改正口上書」の位置づけについて:
明示維新史学会編『講座 明治維新 第2巻 幕末政治と社会変動』所収の青山忠正論文「慶応三年一二月九日の政変」から抜粋引用します。
(引用者注:赤松「口上書」第二項の)補足文では「江戸・京・大坂・長崎・箱館・新潟等の首府へは大小学校を営み」と見えるのだが、これは、のち土佐の政権奉還建白書の別紙で、都会の地に学校を設けるべきこと、とあるのに対応する。土佐の建白実行以前、学校建設の提言は、この赤松建言書以外には見えないものである。また、(前同;第五項の)軍事に関する条項で、赤松の専門だが、平時の常備兵力は・・・。それらは基本的に志願兵で、庶民をも含み、将来的には武士身分を「減ずべし」と論じている。(前掲書;p229)
この(前同;赤松「口上書」の)内容は、一ヶ月のち、土佐が提案し、薩摩・越前・芸州・尾張以下が賛同する「王政復古」構想と、基本的に矛盾するところがない。具体的に、この赤松建言を、薩摩・越前が、どのように受容したか、また土佐・芸州・尾張などに情報として提供したか、などは判断の直接の手がかりがないが、全く伝えなかったとは考えにくい。土佐側にしても、政体構想の参考に供した可能性が大きい。(前掲書;p229)
(引用者注:政権奉還建白書の)アイディアを後藤(前同;後藤象二郎)はどこから得たか。通説的には・・・いわゆる「船中八策」として構想をまとめたものといわれる。「船中八策」とは、土佐出身の岩崎鏡川が『坂本龍馬関係文書』(日本史籍協会、1926年)に「新政府綱領八策」と題して収録した文書の別名だが、伝存の経過や現所蔵者などが明記されず、内容・体裁とも、きわめて不統一なものである。推測だが、維新史料編纂官岩崎は、赤松小三郎の建言書などを史料として閲覧できる立場にあり、それらをもとに半ば創作した可能性も否定できない。端的に言って、「船中八策」は史料として信頼性の低い文書である。しかし、だからといって、後藤が長崎で、坂本を通じて政権奉還のアイディアを得ることがなかったというわけではない。(前掲書;p231)
以上のように見てくると、この薩土「約定書」は、春嶽建白ー赤松建言ー芸州の計画のラインで具体化され、かつ洗練されてきた新政府設立構想に、土佐の将軍辞職論を付加し、さらに薩摩が兵力行使の可能性を踏まえて賛同し、成立したものと考えられよう。(前掲書;p236)
と、歴史家の青山忠正氏は述べておられます。赤松小三郎は、会津藩士で「管見」の山本覚馬、幕臣で慶喜に政権奉還後の政体構想を提案した西周、と三人親友同士であったとのことで、彼らの間での議論から各自の政体構想が生まれたと考えられます。
最も早いタイミングで構想をまとめた赤松小三郎のものがなぜもっとも先進的だったのか、オランダ語・英語と頭を抜く語学力を持った合理性を重んじる「理系頭脳」という個人的資質に加えて、おそらく彼の出身地である上田の存在が大きいのではないかと思っています。上田は秀吉時代に真田昌幸により検地・刀狩りによる兵農分離を行わなかったという自由闊達な土地柄で、真田氏転封以降その伝統により一揆が頻発するとともに市場経済が発達した土地柄であったやに聞きます。
4.「歴史家の目」に対する赤松小三郎のハンディキャップについて:
赤松「口上書」の政体構想における政府は、徳川将軍の地位を温存した「公武合体」とされて、当時の時勢の流れを逸したものと評価されることがあります。行政府のあり方のみに目を当てる「政局主義」の目で見られると、「もっとも先進的な議会政治」であることをコアとする赤松構想の真価が見失われるというハンディキャップがあります。
前項3.で引用しましたすぐれた歴史家である青山忠正氏ですら、「天下の大政を議定する全権は朝廷にあり、・・」ではじまる「薩土盟約書」における公選議会の位置づけが、赤松「口上書」から決定的に後退していることについて引用論文の中では指摘言及されていません。
5.赤松小三郎「御改正口上書」の特質である、理念を背景とした社会構想性について:
赤松「口上書」において、じつは「公議政体構想」は叙述の量的にはごく一部であり、教育、経済、軍事についての問題意識と課題意識による構想がその大半以上を占めています。なかでも、次の抜粋引用に見る社会理念・人間平等感は特記すべきものであると思います。民に対する愛情に溢れる表現は他に類を見ないものではないかと感動を覚えます。
一 人才教育之儀、御國是相立候基本に御座候事
・・・國中に法律學度量學を盛にし、其上漸々諸學校を増し、國中の人民を文明に育て候儀、治國之基礎に可有之候。
一 國中の人民平等に御撫育相成、人々其性に準じ、充分力を盡させ候事
☆☆☆
ということで、日本では歴史論を含めなべて「政局主義」に陥る傾向のもとで、日本の全国民一体の「社会改革構想」であった赤松小三郎の「御改正口上書」が、たんに「公武合体論」の一種で徳川将軍存続容認論と見られてしまい、赤松小三郎に注目なさった歴史作家の桐野作人氏のように、むしろ時代おくれの「反進歩的」なものとされてしまうという憂き目に遭うのであろうと思います。
「大政翼賛」状態となった議会の現状について問題意識を持つ若い世代の人たちが赤松建言を若々しい目で読むことを願わずにおられません。
****引用終わり*******
長文の論文ありがとうございました。
ちなみに江村栄一氏の『日本近代思想体系 憲法構想』(岩波書店)は私の手元にあります。赤松小三郎の建言書は、加藤弘之の「最新論」(文久元年に書かれたが当時は未発表だった)と大久保一翁の公議会論(『続再夢紀事』の慶応2年2月の記事)に次ぐ三番目のものとして掲載されています。
赤松建言書については、江村氏の著者解題として「当時の議会論としてはかなり具体的で、上局下局両議員の選出に公平な選挙を主張したところに革新性が見られる」と簡潔に述べられています。
赤松小三郎の建言書を、歴史学、政治学、憲法学上にどのように位置付けるのかは、その分野の学者が行うべきことで、私などの出る幕ではありません。しかしながら、「なぜ無視されてきたのか。無視されざるを得なかったのか」という問題は、学問分野を超越する研究課題でしょう。複雑系や弁証法的認識論あるいはパラダイム論の観点などから興味深い課題です。
大仏次郎さんが赤松小三郎について書いているのを読んだことがあります。いったいどこに書いていたのか、現物も手元になく思い出せないのですが、『鞍馬天狗』の著者であり熱烈な薩長ファンである大仏さんとしては、見てはいけないものを見てしまったという感じで慌てたのか、「所詮は公武合体論者の佐幕派。当時の時勢には何の影響力もなかった」と口をきわめて赤松小三郎を罵倒していたものでした。
自分の認識にとって不都合なものを目にすると、心も穏やかでいられなくなるためか、何とか理屈をつけて全否定して心を落ち着かせようとするのでしょう。
さて、薩長公英陰謀論者さんには、文中で上田に対しても過大な評価をいただき恐縮しております。実際には、上田の人間が全く赤松小三郎のすごさを認識できていなかったことも、ここまで無視され続けた一因です。その点、お恥ずかしい限りです。
ただ赤松小三郎の政治思想は真田昌幸の市民平等皆兵主義にその源流があるというのは、私もそのように考えるところです。この点は、大河ドラマ「真田丸」で三谷幸喜さんにしっかり描いてもらいたい、また堺雅人さんにしっかり演じていただきたく存じます。
私も高校時代、母校の先生方に赤松小三郎のすごさを自分なりに訴え、「なぜ無視されなければならないのか」と問いかけたものでした。「坂本龍馬の船中八策と同じようなもので、その頃、その手のものを書くのが流行っていたのだろう」とか「言うだけなら誰でもできる。坂本龍馬は実際にやったからこそ偉かったのだ」といった反論を受けた思い出があります。
当時はそれで言い負かされてしまった感じもして、悔しい思いをしたものでした。
上記のような回答は、初歩的な認識間違いなので、まだ良いといえるでしょう。最悪なのは、すごく権威主義的に「専門の歴史学者が評価していないということは、それなりの人物でしかなかったのだろう」といった回答です。
一般の人々がこういう権威主義から抜け出せないから、日本には愚劣きわまりない権威主義御用学者たちがはびこるのです。日本の夜明けは遠い・・・。
もっとも最近は権威に惑わされずに人物を判断できる方々が増えてきて、うれしい限りです。
以下の動画をご覧ください。イラストレーターの永井秀樹さんが歴史人物を描いた作品集です。何と、土方歳三、沖田総司に次いで三番目に赤松小三郎が登場します。小三郎が薩摩藩兵に行っていた練兵の様子を想像力たくましく描いてくださっていて、感動しました。まるで実際に当時の薩摩藩邸に行って見てこられたかのようなリアリティがあります。武士の集団であった薩摩軍は、このようにして近代的陸軍に生まれ変わったのです。
永井秀樹イラストレーションPV 戦国~幕末
https://www.youtube.com/watch?v=ltG851HmGzY
↑ こちらからご覧ください。
関様、貴ウェブログ2014年05月23日御記事の胸を揺すぶるタイトル「赤松小三郎の夢はこれから叶う」に強く触発され、自分なりの思いに駆られて投稿いたしました赤松小三郎に関する「法学者の友人・知人たちへのメモ書き」に対して身に余るお言葉をいただき本当に感謝に堪えません。
関様宛の投稿にはやはりいささか以上の緊張感を持って臨んでおりますが、じつはその投稿時につけ加えるべきであったことを失念したことに内心忸怩といたしておりまして「学術論文」レベルという評言ご激励をいただきすっかり赤面汗顔の至りとなりました。
長州のお隣、津和野の御殿医の家に生まれ徳川慶喜のブレーンになった西周、薩摩の連中の政治思想に大きな影響をあたえた会津の山本覚馬、そしてかの上田の赤松小三郎、この三人が親友で常々議論をたたかわせていたという重要な事実は、本ウェヴログにおける関様の叙述からの受け売りです。また真田家の治世が上田に先進的な気風と伝統をつくりだしたということはおなじく本ウェブログの歴史カテゴリーの御記事から学んだことです。
友人・知人たちへの私信メモにおいては、それが関様からの受け売りであるとの明記を割愛しておりましたが(もともと赤松小三郎の存在自体が関様によって知ったものなのですが・・)本ウェブログへの投稿においてはその旨つけ加えるべきであることを失念いたし、大変な失礼をいたしました。反省して本投稿にて追記とさせていただき、後ればせながら伏してお詫びを申し上げます。
週に9コマ!の講義が、学生たちに対するさまざまなケアと学内の諸事にかぶさりますと、それは尋常ではないであろうこと、大学に籍をもつ友人たちの話をいろいろ聞いておりまして想像することができます。そのご多用の中で、弊投稿から「なぜ赤松小三郎は無視され続けたのか?」という新たな記事を立てていただき、まことにまことに恐縮しております。そして、付していただいた鋭く秀逸なコメントに深く思うところがありました。
我々素人は素人なりに、知的な品性と真理・真実のために孤立をおそれない真の誇りを持つ「専門家」を見抜き、共感することができるはずで、そうなければならないと思うのですが、メディアのメディア・サイド自身をも対象とした心理誘導操作の威力はすさまじいですね(ため息・・いや必ずや夜明けを!)。
親切にご紹介いただいた江村栄一氏による赤松小三郎建言に対する校注解題のいささか木でハナをくくったような素っ気なさと、薩長倒幕近代化史観の畸形、アベイズム長州史観が権威権力金力拝跪の風に乗って津々浦々に蔓延することむべなるかな、と思いをいたしてしまう関様の高校時代のエピソードは、じつはその底に深く通じるところがあると感じました。
すなわち「明治維新による上からの近代化」とそのあり方を既成事実として思考の前提に置くといいますか、否定すべからざる「善」として無条件に認識の出発点にして、そのいきおいで「江戸公儀側」といいますか明治維新以前の非・薩長土側のものをことごとく否定蔑視することになるという(おそらくカントやヘーゲル的な意味での)批判的精神を放棄した「現状・結果肯定(阿諂)」の姿勢です。「俗物性」と言うと、不適切で語弊がありますでしょうが。
赤松小三郎と彼が究めた公議政体論が当時の歴史の展開の真の中心的ドライバーであったことが歴史の筐底に埋められたと、いう問題の解明を「複雑系や弁証法的認識論あるいはパラダイム論の観点などから興味深い課題」であるとされた関様の重大な示唆には汲み尽くすことのできないものがあるとひしひしと感じます。しかし、口惜しいことにその井戸を掘り開ける力がありません。しかしその複雑系思考を歴史学に取り入れる立場を表明しておられる三谷博氏と、おそらく複雑系的な考え方をとっておられると感じるところがある家近良樹氏の次のような認識・表白には不満を感じるのですが(三谷博氏のほうにより強く。家近良樹氏にはむしろ強い親近感を):
「明治維新には、目立った『原因』らしい『原因』は見あたらない。・・・しかし、明治維新は貴族身分を廃止し、大胆な改革の連発を導いた点からみて、近代史上稀な大革命の一つであったことは疑えない。・・・では、この目立った原因が特定できない大変革をどう理解すべきか。すでに一つの解法を提示したが、より一般的な別の解き方を試してみよう。複雑系の参照である」(三谷博『明治維新を考える』岩波現代文庫、2012年;p11)
「・・・世の中では、いずれ天皇の下に公議を実現する政体をつくらざるをえないであろうとの見方が浸透してゆきます。広い意味での王政復古は不可避で、その下に大大名を政権に参画させ、『公議』を行うなら、政界の安定は取り戻せるのではないか。そういう観測が、少なくとも、西国の大名の間には拡がってゆきます。・・・ただし、そうした将来構想の中でも、中心は徳川であるべきだと考えられていました。・・・・『王政』と『公議』を掲げる政体には、いろんなタイプがありえましたが、実際には徳川を排除したものが成立します。これはそれこそ成り行き次第、政治的かけひきがどう進むかに経路依存していて、当時は誰もどっちに転ぶか分からないというのが実情だったでしょう徳川を排除した王政復古になるとは限らないという状況だったのではないかと思います」(三谷博『愛国・革命・民主 日本史から世界を考える』筑摩選書、2013年;p301-302)
「・・・薩長両藩が藩を挙げて一貫して武力倒幕をめざす運動を展開した結果が、倒幕に直接つながったわけではない。・・・倒幕は『僥倖』の結果といってよいかもしれない。・・・薩長両藩がはたした役割よりも、もっと大きな功績をあげた何物かが他にあったとみざるをえない。それが何かといえば、いままでの政治体制では駄目だという多くの人びとの思いであった。・・・一会桑三者による朝廷上層部と結びついた支配のあり方が崩壊したのも、それが諸藩の多くや、一般の公家、それに民衆の声を、軽視または無視して、ごく一部の者の考えのみでやってゆこうとした、それが否定された結果であろう。また、一会桑三者などが中心となって推し進めた長州再征がうまくいかなかったのも、日本全国に内輪もめはやめておけという意見が非常に強かったことがやはり要因としては大きい。だから幕府や朝廷から命じられても諸藩の多くは長州再征に熱心に取り組まなかった。そして結局、これが幕府政治の崩壊にとって致命傷となった」(家近良樹『孝明天皇と「一会桑」 幕末・維新の新視点』文春新書、平成14年;p216ー217。同著は2014年に講談社学術文庫として再刊)
なお、三谷博氏は五箇条誓文についてこのように述べています:
「この『広く会議を興し、万機公論に決すべし』という言葉は、幕末の政治で最も重要だった政治的主張を集約したものだったのです。・・・したがって、私は誓文第一条は真に受けていいと思います。天皇の下に『公論』あるいは『公議』を実現する政体として、明治政府は出発したのです」(三谷博『愛国・革命・民主 日本史から世界を考える』筑摩選書、2013年;p308)
他方で、家近良樹氏は薩長倒幕史観(=長州史観)の成立についてこのように:
「・・・結果的に幕府を倒していったのは、いままでの政治体制では駄目だという多くの人たちの意思であった。それを明治以後、薩長などやがて藩閥政治を築く側の政治勢力が不当に覆いをかけて、西南雄藩倒幕派史観を強調することで手柄を独り占めした。あわせて近代天皇制国家を薩長等が支える根拠づけに利用し、自分たちの思う方向に国家を引っ張っていった。こう考えている」(家近良樹『孝明天皇と「一会桑」 幕末・維新の新視点』文春新書、平成14年;p218。同著は2014年に講談社学術文庫として再刊)
じつは内心で、歴史専門家の青山忠正氏に後世のねつ造であるという考察のある「船中八策」や「五箇条のご誓文」とは別次元の先進性と体系的思考をそなえた、赤松小三郎の政体&社会構想が生まれた、その背景には、当時の上田が持っていた政治経済的文化と伝統があるのではないかという問題意識をさらにいろいろな意味で敷衍することができるのではないかと考えはじめております。その鍵は松平伊賀守忠固について関様から学んだことにあります。それによって上記の三谷博氏の肯定的明治維新観と家近良樹氏の否定的明治維新観の背後にある「複雑系的またおそらく弁証法的な考え方」をよりストレートに(理論的に?科学的に?結果追認的にではなく)生かすことができる可能性がありそうに思えまして(素人が言うべきことではありませんが。ご容赦を)、つい・・・あらためて考えまとめなおしてみなければならないポイントを勇気をふるって生硬ながら羅列しますと:
(1)松平伊賀守忠固が、日米通商条約の締結には勅許不要と主張して敢然と締結を実行したのは「(中小)譜代大名による公儀(幕閣)運営」にこだわったのではなく、勅許を強引に求めるのは親藩(水戸)・外様(薩長土)の政権奪取行程の中の策謀であり、その背景には、「企業化した外様大大藩、それと結びついたアジアを支配する特権的外国商人(ジャーディン・マセソン商会)及び国内の大都市特権商人」による、日本の貿易と経済の支配権を握るという意図・計画がある、ことを見抜いていたからではないだろうか。
(2)松平伊賀守忠固の治国である上田は、上記の勢力の目ざすものとは対極的な、下からの市場経済の発展による自由主義的・民主主義的なというべき動きの最先端にあり、その意味で「少数の特権的強者の差配する政治経済社会」に反対することになる社会改革への意識が強く息づいていたのではないだろうか。松平伊賀守忠固と赤松小三郎の先進的な思想と行動はそこから生まれた、ということになる。重要なことは上田は当時において例外的存在ではなく典型を示していたということである。
(3)そのような下からの市場経済発展の盛り上がりが、江戸公儀が「地方分権連合政権」としてもともと持っていた、ある意味での寛容さや政治的開明性と相まって、公議政体論をドライバーとして自由主義的・民主主義的・平等主義的な全国的社会改革に進んでゆく可能性があり、それは「企業化した外様大大藩、それと結びついたアジアを支配する特権的外国商人(ジャーディン・マセソン商会)及び国内の大都市特権商人」の独占的利益に対して決定的に打撃をあたえるものとなることが明らかであった。
と・・・。かような文脈で「結果的に倒幕維新」と不幸にしてなっていったと考えますと、三谷博氏の意図的な勘違い(畏れおおいことを。すみません)のみならず、家近良樹氏の良心に充ちた認識・思考の軌道には入り込まずに、「幕末維新近代化」についての関曠野氏による「明治維新=無思想でスキャンダラスなクーデター」論を弁証法的な提起と受けとめて、止揚することができそうに思えます。
それにあわせて、赤松小三郎の建言書の意義と価値をありのまま認めることが持つ重大な意味を、赤松小三郎とその建言が隠されなければならなかった理由と表裏一体のものとして、あきらかにすることができるのではないかと思います。
上の三つのポイントは本ウェブログ5月23日御記事「赤松小三郎の夢はこれから叶う」に取り上げていただきました弊拙コメントの末尾部分に対応するものです。温めないままの卵をあわてて割ってしまったような感じがいたしますが、関様へのお礼とお詫びがついここまで逸走いたしましたこと、書きなぐりの素人拙文と思考の乱雑さとともにどうかお赦しください。
仮説を検証、反証、あるいは改良することには、もちろんその分野の知識にも、研究時間にも恵まれている「学者」の方が優れているでしょう。
しかし、新しい仮説を立てる発想力については、その学問体系の外部からやってきた「アマチュア研究者」の方が優れていることが多々あります。今ある学問体系の内部に安住し、その改良に腐心する者に、発想の女神は(めったに)微笑まないのです。
ならばどうするか。「素人」の発想の面白さを買ってくれる専門家を探して、議論の詰めをさせ、共著で論文を公表していくのです。
私は自分の専門の「珪藻」で、その寸法で業績を稼いでいます。異分野からやってきたアマチュア研究者を主著者とする共著論文を、すでに10本以上書いています。
実は私自身がだんだん議論についていけなくなってきたので、一度議論を整理し直して細部を詰めたものを読んでみたいというのも、こうして論文執筆をたきつける動機です。
たんさいぼう影の会長様、なるほどそのような、驚くべき珪藻の大家でいらっしゃるのかと、お名前を含めて得心いたしました。そのような方に身に余るお言葉をいただきまことに恐縮いたしております。
考えますと「そういえば長らくつきあっている分野において(たんなる実務のですが)、そのようなことに通じるようなことがある」と思いあたり、気持ちがおちつきました。ありがとうございます。免罪符やセーフ・ハーバー、言い訳プロテクションのように素人を連呼いたしまして申しわけありませんでした。自重いたします。
おっしゃっていただいたように、有為ないわゆる若手の方でそのような、奇特な方がいらっしゃれば本当にさいわいです。
その方のヒントや素材の一つにしていただいて、所論に多少なりと利用いただくとか、ある部分の「隠し味」に使っていただくとか、そのようなことで「影の協力」をすることができればと存じます(むろん惜しみなく)。
「ゆらぎ」の誘因の一つになる陰謀論者に徹したいと思う方が、むしろあつかましくて無責任なのでしょうか。臨機応変、状況に応じて(?)であるべきなのでしょうか。
たんさいぼう影の会長様には、ジャズやロックのジャム・セッションのような「陰謀論的提起の同心円的連鎖(のつもりなのですが)」を我慢づよくトレースし続けていただき、心から感謝しております。いささか度をすごしまして申しわけありません。
「細部を詰めたもの」ということには、はるかに力およびませんが(「神は細部に宿る」という言葉がさらにプレッシャーに・・)腹案にありますものを含めて論点を整理構成し、まとめて報告いたします。どうかご容赦ください。
これからちょっと遠方に出かけることがあり、また、いま一応の担当分野(実務のですが)で「仮説」を取りまとめることに難儀しておりまして、いささか時間を頂戴いたしたく、よろしくお願いいたします。
☆☆☆
あ、「ど・アマチュア社会&経済学者」またはその取り巻きにはなりたいと思います(従前からの問題意識またはテーマがありまして)。夢のような話です。卒論を含めて論文を書く訓練をまったく欠いておりますし。
諸般の輻輳に無様に手足がもつれ難儀したまま、意図した報告にすっかり手間取っております。身の置きどころがありません。「『幕末維新』に関する仮説の着想とその根拠のとりまとめ報告」にあたって、歴史における仮説について、またそれに関連して歴史専門家と非専門家のあいだのちがいについて考えましたことをまず報告いたします。
竜頭蛇尾であればまだしも、文字どおり尻切れトンボだと嗤われるであろう手探りメモにすぎないものです。目に余る愚かな拘泥と錯誤、ならびに思考の欠如に対して忌憚ないご指摘とご指導をいただくことができましたら大変にさいわいに存じます。
さて、歴史における仮説の問題について「(1)歴史的事実それ自体」についての仮説(「新史実=真実」の発見)と「(2)歴史的事実の認識」にかかわる仮説とに区分して考えてみました。
しかし「歴史学」における決定的な困難は(1)が(2)に吸収されていることです。歴史学においておそらく最も重視されるソースであろう当事者および目撃者の「証言・叙述」は、その人の認識の言語による表現であって事実それ自体ではありませんし、事実のごく一部を反映したものであろうと思います。まして、このソースを対象とした研究が乗数効果で事実から離れることは当然のことです。
とりわけ21世紀になってから(そのように意識して見るようになったためでしょうか。最近とくに極端になったような気がしますが)報道の記事・テロップ・ナレーションのみならず画像や映像が事実・真相の追求のためのものではなく「権威側からの特定の認識の流布」となっていることを痛感するようになりました。これらを主たる一次史料とするであろう将来の歴史学的記述が現在の時代をどう描き出すかを想像すると、翻って、現在までの歴史叙述についても絶望感を抱いてしまいます。
おそらく「理系」における仮説は、原理や法則、またその現れ方に関するものであり、事象をその仮説によっていかに理論的に説明することができるか、また、事象の再現において、つまり実験や観察・観測によって、その仮説の有効性を検証することができるかということが問題になるのではないだろうかと思います。さらにまたその仮説を理論として応用したり、より大きな領域に適合するものに発展させることができるか、ということが重要になるのだろうと推察します。
しかし、科学を自称する経済学はともかく(自己の理論が仮説であり検証されるべきものであることを認めない経済学を関良基先生はカルトとお呼びになっているのではないかと思います)自然史は措くとして少なくとも人間社会の歴史、つまり社会の変化は、不可逆であることは当然として(誰かのようにこれを認めないこともカルトですね)自然現象におけるような再現性がまったくないものだと思います(「自然=宇宙」の歴史は再現性はないものなのかもしれませんが)。
ただし、歴史における「原理や法則」として、かっては史的唯物論による「生産力と生産関係の変化としての社会発展」史観が大きな影響力を持ち、またそれに代わって現代の支配的理念となっている「自由主義・民主主義・グローバリズムへの改革原理」というものがあります。後者は「歴史の終わり」というように、歴史不在というよりむしろ歴史を否定する特質・思考方法を持っていますが、両方とも普遍性・再現性・原理的永遠性を謳っているわけで、そのような決定論は歴史学における仮説の存在を許さないものだと思えます。
つまり歴史学における仮説は再現性をめぐって両翼から挟み撃ちにあっているわけです。そこで、歴史学における仮説とは何であり、またどのように形成され、また検証されうるのかと、途方に暮れました。が、かの「長州史観」や「司馬史観」のように歴史認識をカルト化させないために、歴史における事実と認識との関係、またこの双方における仮説と検証について非力ながら考えざるを得ませんでした。
この間に、以下の「比叡山焼討ち」問題に目を惹かれて触発されたことから、歴史における仮説ならびに専門家と非専門家の違いについて考えた「仮説的結論」を、早とちりではあれ、まず記しますと:
01 「(1)歴史的事実それ自体」については、仮説の設定(「新史実=真実」の発見)とその検証を含めて非専門家には手におえるものではない。
02 「(2)歴史的事実の認識」については、非専門家にとって現在における同時代的連関を意識した仮説の設定のみが可能である。
03 「(2)歴史的事実の認識」に関する専門家の検討・検証は、同時代的問題意識や同時代の感覚による人間観・社会観が直接影響しないように、対象となる当時の一次史料に厳格に準拠して行われる。
04 「(2)歴史的事実の認識」に関する非専門家による仮説は、同時代における「生きるスタンス」つまり将来に関する問題意識にリンクするために、歴史専門家の手による検証・検討・批判にはなじまない。
ということになるかと思います。
推察しますに歴史専門家の目は、その歴史家の生活のあり方、それに大きな影響を及ぼした事件、その中で形成された人間と社会に対する洞察を基礎としていると思います。アカデミックな訓練を受け教育・研究機関の中で一貫して生活する専門家と、それとはまったく異なる生活・社会体験を持つ非専門家との相違は、理系の仮説設定とその検証において可能である専門家と非専門家の連携を挫くものであろうと思います。
この困難を克服するには、中国での長期間の豊富なフィールド・ワークの経験に培われた人びとの暮らしの営みに対する深い感覚、またダム建設問題への取り組みでナマの世の中のダイナミズムと渉りあうことで否応なく得られる、あられもないスノビッシュな社会力学に対するリアルな感覚をお持ちの関良基先生がそうであるように、アカデミックな歴史専門家のサイドで同時代的問題意識を明確に掲げ、将来を見出そうと見つめる目でそのまま現在と「歴史」を見るということが可能でなければならないと思えます。
そのようなことがアカデミズムと歴史「業界」の中の歴史専門家にありうることなのか、門前の小僧にもなることができない素人には推し量ることができません。
<その2>へ続く。
<その1>から続く。
なお上述の仮設は、下述の「比叡山焼討ち」問題に加えて、キューバ大使、ウクライナ大使を経験されて防衛大学教授となった馬渕睦夫という方に対する、ウクライナ問題への関心から見ましたインタビューの後記にあった、同氏の次のような言葉に深く強く触発されたことにもとづいています。
http://chizai-tank.com/interview/interview201405.htm
「私は特別な情報ソースを持っているわけではありません。寧ろ特別な情報ソースを持っているという人は、反対にそのソースから操られている可能性も高いものです。だから我々は、まず今起こっていることを自分で考え、過去に起ったことを実体験と結び付け、公開情報をもとに自らの世界観で解釈していくことが大切、そうすれば隠されている本当に重要な事も見えてきます」
さて、「(2)歴史的事実の認識」にリンクした「(1)歴史的事実それ自体」について挑戦をした興味深い例があります。織田信長による比叡山焼き討ち事件に関する兼康保明氏の報告です。
兼康氏は1949年生まれで大学の史学科を卒業後、滋賀県教育委員会に所属して遺跡調査を専門となさった方で、比叡山延暦寺の史跡地内での発掘調査に直接携わっておられます。氏の報告は「織田信長比叡山焼き討ちの考古学的検討」(『滋賀考古学論叢第1集』、滋賀考古学論叢刊行会、1981年)にまとめられているとのことですが、私にはアクセスを含めて手におえないと思われますので、この論文をもとにして兼康氏が書かれた「比叡山焼き討ちの真相」(兼坂保明『考古学推理帖』大巧社、1996年;p130~142)から抜粋引用しつつ弊見を付してみます。
> ・・・東塔で現在まで約二〇カ所ほどの堂、坊跡を調査しているが、遺構や遺物から元亀の焼き討ちを証明できるのは、根本中堂と大講堂の二カ所だけである。・・・西塔も・・・常行堂の北部で伴出遺物から元亀の焼討ちの焼土層ではないかと考えられるものが発見されているだけで、他の場所で発掘された遺構や遺物は、室町時代以前のものと江戸時代のものばかりである。
<弊見> 平安貴族仏教のメッカであり、また禅宗や浄土宗の母ともなった比叡山延暦寺の権威の象徴であった根本中堂と大講堂だけを焼くだけで十分であり、しかもそれはきわめて容易なこと、しかし、その政治的・心理戦略的効果は絶大だったと。
比叡山各所の発掘調査は比叡山縦走ドライブウェイの建設という全山調査に絶好の機会を含め、建物の建て替えや修理にあたって繰り返し行われ、発掘調査において「元亀の比叡山焼き討ち」は一貫して強い関心の対象であったと調査に参加した兼康氏は証言しています。
「なかった」ということを物証的に確認するのは容易ではないと思いますが、文献資料にあたりながら発掘調査を実地に行った専門家の兼康保明氏の仕事から、語り継がれた「比叡全山炎上大虐殺」がフィクションであるのは明らかではないでしょうか。
> ・・・三塔各所の発掘調査の結果から結論づけるなら、元亀二年の織田信長による延暦寺焼討ちのさい、比叡山に所在した堂舎の数は少なく、また16世紀代の遺物の少ないことから『多聞院日記』などにみられるように、僧衆の多くは坂本に降り、生活の場もすでに山を離れていたと考えざるをえないのである。つまり、山上においては、全山数百の諸堂が紅蓮の炎に包まれ、大殺戮がくりひろげられたとするイメージを生み出すのとはうって変わった、閑散たる光景しか存在しなかったのが現実である。このことは、山上の放火、掃討がわずか二~三日ときわめて短期間であったことからもうかがえよう。
<弊見> 先のコメントで先回りしてしまいましたが、「比叡山全山炎上と炎の中での数千人の虐殺」は、延暦寺に体現された貴族的天台宗から浄土宗系の庶民仏教、すなわち「旧体制支配者側」の政治文化と、同時に「反体制民衆側」の精神的支柱を一挙に否定し葬り去るための「神話の創出」であったということになります。
> ・・・信長の右筆、太田牛一が自らの見聞をもとに記したとしてよく引用される『信長公記』の「叡山御退治の事」をよく注意して読むと、比叡山上をも攻めてはいるが具体的な戦いの様子は、実は山麓にある坂本のできごとである。有名な虐殺については・・・坂本の日吉社の神体山で標高380メートルほどの八王子山でのできごとで、峻険な比叡山上の・・・山腹にある諸堂でのできごとではない。
<弊見> 兼康保明氏は、信長の事績についての基準的文献とされている『信長公記』の該当箇所が意図的に比叡山上と山麓の坂本での出来事を混同させるように書かれていることを、発掘調査にもとづいて指摘しています。
比叡山焼き討ちのイメージ形成において『信長公記』よりむしろ決定的な役割を果たしたと思われる『言継卿記』の元亀二年九月一二日の伝聞体の叙述を見てみます。小和田哲男著『歴史ドラマと時代考証』(中経出版、2010年・中経文庫、2012年)の電子版から抜粋転載しますと:
>> ・・・織田弾正忠、暁天より上坂本を破られ火を放つ。次いで日吉社残さず、山上東塔、西塔、無童子(寺)残さず火を放つ。山衆悉く討死と云々。・・・講堂以下諸堂に火を放ち、僧俗男女三四千人を伐り捨て、堅田等に火を放つ。・・・大講堂、中堂、谷々伽藍一宇も残さず火を放つと云々。
と、あるとのことです。山麓にある坂本の里坊と日吉大社、さらに北東にJRで二駅離れた琵琶湖岸の港町堅田と、標高800mを越える比叡山全域が境内の延暦寺とをすっかり一体にしながら(西塔下のケーブルカーの駅は標高654m、山麓の駅との高低差は484mだとか)、強いイメージを畳みかけ重ねて、伝聞「云々」を多用しつつ、3~4千人もの虐殺をともなう全面焼き討ちが比叡山上の延暦寺において行われたように印象づけられています。
> 信長の真のねらいは、弱体化しながらも伝統的な権威を保持していた延暦寺を攻めることによって、労せずして天下に自らの力を誇示することにあったのである。今日われわれが抱いている焼討ちのイメージは、四百年前に信長が考えた戦略的効果のなかに、時を越えてなお呪縛されていたのである。
<兼康保明氏引用と弊見以上>
当然に抱く「なぜ当事者の一方である比叡山延暦寺側の記録証言がまったくないのか」ということが疑問なまま、比叡山延暦寺のサイト「歴史」のところを見ましたら「織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました」とあって、天井を仰ぎました。
<その3>へ続く。
たんさいぼう影の会長様:
<その2>から続く。
Wikipedia「比叡山焼き討ち」を見ますと、最初の概要部分に「なお一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている」という一文が挿入されています。紀伊國屋書店(新宿本店ではありません)で、比叡山焼き討ちを取り上げている歴史関係の本を見てゆきましたところ、三分の一くらいが兼康氏の発見を認識して叙述に取り入れているように思われました。
氏の「比叡山焼き討ち」検証が知られるようになったのは1980年代以降であると思われますが、現在になってようやく兼康氏の発見が定着し始めているように思えます。
ともあれ、織田信長が「革命の寵児」として徹底的な近代的合理主義者、既成権威=アンシャン・レジームの破壊者であることを謳うには「比叡山焼討ち」は最高の演出です。そのようなイメージで信長が注目されたのは戦後のことで、とりわけ例によって司馬遼太郎が、『国盗り物語』で描いた信長像が決定的と言えるインパクトを持ったと思われます。司馬遼太郎は、信長と、そして坂本龍馬を「時代に先駆けた悲劇の革命児」に謳いあげたわけです。
先の引用の最後にある兼康保明氏の結論的コメントにうなづきながら、幾日かあとになって肩をおとしました。まさに専門家でしかできない「(1)歴史的事実それ自体」の発見、しかも史料文献を現場の発掘結果によって吟味検証したもので、文献学によらないものであるという意味で特異と言える成果が、おそらく当時(1960年代から70年代)の日本史学の発展段階に制約されて、当時の「国家統一をめざした最強の革命児」としての信長の像に取り込まれていると気がついたからです。
歴史専門家の兼康保明氏は発掘を武器とする歴史専門家ならではの「(1)歴史的事実それ自体」の発見を果敢に行いながら、「(2)歴史的事実の認識」においては、司馬遼太郎が商品化した既定の信長像を裏書きすることになっています。近年の研究の発展によって「宗教的権威の破壊者でもあった近代的合理主義者、国家統一をめざした革命児」という信長像は(戦後につくられたイメージであって)信長の実像とは異なるものであることが明らかにされているようです。兼康保明氏が信長神話を見破る物証をつかみながら、手の上に乗った物証を地に落としてその音を聴くことができなかったのはなぜだろうかと考えてしまいます。
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-4.htm
「信長は『旧体制』の再編強化を図ったー『旧体制』の破壊者という信長像の誤り」という記事に、2000年前後の信長研究の成果がまとめられており、大変参考になりました。ただし内容はこのタイトルそのままではないように思えます。機会をあらためて突っ込んで考えて(「倒幕維新」を対比して考えるために)報告することができればよいのですが。
前述の勝手な仮説01~04のようにひとりですくんでしまっていますが、さらに考えますに次のような仮説を立てることができるかもしれないと思っております。
05 アカデミックな歴史学(日本史学)はあらたな発展段階にあり、徐々に時代にキャッチアップしてゆきはじめる段階にある。
06 時代そのものが深く混迷・閉塞しているなかで時代の先に出ることができるかどうかが歴史学の躓きの石になると思われる。
07 それゆえにこそ、時代の先に出ようとする、あるいは、近代的な見方(その裏返しに思える「ポスト・モダン」系思考を含めて)の先に出ようとする歴史研究者が存在する、あるいは現れるのではないだろうか。
成田龍一著『近現代日本史と歴史学』(中公新書、2012年)によれば、日本史研究は1980年前後から氏が戦後第3期に区分するあらたな段階に入ったとされています(同書p3~p14)。成田龍一氏の言う第3期、その終わりであろう21世紀に入ってから、少なくとも近世から近代を対象とする日本史研究はさらにあらたな展開に入っているという感じがします。
そのなかでいわゆる「司馬史観」と、かの「長州史観」的な見方は、少なくとも専門的な日本史研究においてはまったく問題にされなくなったと思えます。このことと、関様がいまウェブログで「長州史観」を問題にせざるを得ないという現実との奇妙なほどの乖離が「歴史学のあり方」の重大な問題ではないかと思いますが。
以上の報告をあらかたまとめたところで、歴史家(家近良樹氏)による著作と、歴史家(成田龍一氏)と社会哲学者(大澤真幸氏)の対談を知りました。
「薩長中心史観」の枠組みを取り払って幕末政治史を再構築することを追求して来られた家近良樹氏は『老いと病でみる幕末維新(人びとはどのように生きたか)』(人文書院、2014年)の<まえがき>において、氏が直面した大事故(日航機撃墜事件)と甚大災害(阪神・淡路大震災)、それに若い頃にぶつかった東大の入試中止が、氏の歴史を見る目の形成に大きな影響を与えたこと、さらに近年に重大な疾患を体験したことが、本書『老いと病でみる幕末維新(人びとはどのように生きたか)』を書く視点ときっかけをもたらしたことを述べておられます。
大澤真幸氏と成田龍一氏の対談『現代思想の時代 <歴史の読み方>を問う 』(青土社、2014年)の大澤真幸氏による「あとがき」によれば、成田龍一氏は「・・・一般の歴史学者とは少し違って・・・歴史学者として歴史を記述すると同時に、まさにその歴史(学)そのものがどのような意味で成り立ちうるのか、をつねに問い続けている人である」とのことです。
この対談において、同時代の問題(具体的には「3・11」)から歴史認識の転換をはかるべきこと、また未来(「未来の他者」)を契機に過去がまったく違って見えてくるということが提起されており、意を強くしました。
両氏による「3・11」の歴史と歴史観に対する措定が当惑するほどに哲学的といいますか思弁的で、肩すかしを喰らった感じがすることにかえって力づけられました。
かようなことで、たんさいぼう影の会長様に勝手に約しました「同時代的感覚と将来に対する問題意識による明治維新に関する仮説」を追って遅からずとりまとめ報告すべく、浅草十二階からの飛び降りを踏み切ることにいたします。
以上、お目よごしの冗長な投稿をひらにお詫びいたします。ここまでご覧いただいたご忍耐とご寛容に心から感謝いたします。本当にありがとうございました。
ワンロット5千字ということで先刻の投稿から削りましたものを、赤松小三郎研究会@10.21における鏡川伊一郎氏の演題細目を拝見して、思い立って補足として追投稿させていただきます。
山本博文ほか『こんなに変わった歴史教科書』(新潮文庫、2011年)という面白い本があります。「比叡山焼き討ち」のことが何かあるかと立ち読みし、それは期待はずれでしたが、二つのことが強く記憶に残りました。うろ覚えをご容赦ください。
<「鎖国」という言い方が消えた>
平成の中学歴史教科書になってから、江戸時代に外交・貿易についての「鎖国」という言葉が消えたそうです。これは、歴史研究者の目が欧米一辺倒から東アジアを重視するように向きを変え始めたことを反映するものであるとのことです。関良基先生が膝を打たれる話ではないかと思いますが・・・。
<「倒幕の偽勅」に目が向けられるようになった>
平成の中学歴史教科書になってから、薩長に交付された徳川慶喜追討の密勅が薩長と結託した公家のねつ造であったこと、そしてそれが重要な役割を果たしたことに、80年代以降の日本史研究の進展によって目を向けられるようになったことの反映であるとのことです。
中学教科書の文を見ますと、やわらかな表現ではあれ、倒幕の偽勅が薩長の謀略によるものであったことが示されています。
!むかしナマかじりした「法的思考(リーガル・マインド)」的に考えますに、偽勅、これはきわめて重大な問題だろうと思います。それ自体が天皇の公的な権威を決定的に蹂躙するものであり、さらに、この偽勅を正当性の根拠として正統性のある政権を暴力で打倒したわけですから、明治維新はまがいもなく法的には「犯罪」以外の何ものでもないことになります。このような「犯罪」を唯一法的に正当化する「暴政に対する人民の抵抗権(革命権)」というのは薩長の軍事クーデターには到底該当しません。
と、いうことで、明治維新は薩長による強引な武力クーデターであったこと(その背後の存在についてはともかく)、そこまでもう一歩です、中学歴史教科書において!驚くべきことでは。
教科書の執筆者を含めた歴史研究者の方々の真摯な姿勢と誠実なご努力に敬意を表します。
深遠な内容の論文をご寄稿くださり、まことにありがとうございました。
歴史学あるいはもっと広く経済学を含めた社会科学全般における理論、仮説、実証の問題、専門家と非専門家を問わず、国民的な議論が必要と思っています。
とくに実験概念のない市場の原理主義者による横暴が吹き荒れている現在においては、非専門家も無関心でいられませんから。
また追って、薩長公英陰謀論者さまの論文を新記事としてアップさせていただきます。
関良基先生:
深更に、またさぞかしお疲れのところを、あたたかく、また深く重い激励をいただき、思わず心の中で合掌しました。
考えあぐね書きあぐねたあげく未熟な歴史仮説考をようやく投稿させていただいたすぐあとに、一連の赤松小三郎に関する最新の御記事を拝見いたしまして瞑目して夜をすごし、あわただしい日中のあと取り急ぎと思いまして、推敲の行き届かぬ投稿を重ねさせていただきます。
まず、大急ぎで、弊前投稿の仮説01「『(1)歴史的事実それ自体』については、仮説の設定(「新史実=真実」の発見)とその検証を含めて非専門家には手におえるものではない」を次のように訂正させていただきます。
01改 「(1)歴史的事実それ自体」については、専門家の注目を得ていない重要な事実に関する非専門家による仮説の設定(「新史実=真実」の発見)はきわめて意義のあるものである。専門家がやがてその仮説(新史実)の検証に注力し、歴史認識の変革を実現することを含めて。
最新の御記事に取り上げられている鳥取藩京都留守居役の報告に「家老の小松帯刀が必死に小三郎を引き留めていた」こと、さらに「小三郎と申す者は諸藩士にても惜しがりおり申し候」と記されていたことに胸を突かれ、やがて震えを感じました。
赤松小三が当時、世の将来を託すことができる存在であると心ある人びとに認識されていたこと、そして現実に小三郎にはその期待を実現する可能性があったこと、それゆえに、赤松小三郎によって人びとと世の中から見限られ乗り越えられること必定と怖れた大久保と西郷、薩摩藩下士武闘覇権派のテロに遭ったこと、そしてやがて彼らが英国筋と特権豪商筋の思惑によって全土的な権力を握ったために、彼らより遙かに先にいた小三郎は歴史という名のもとに練り上げられた藁と漆喰の壁に塗り込められたこと、
それゆえに、そのことの発見による真実の露見はやがて幕末維新史を書きかえるであろうと・・・。
じつは「薩長による維新」といいながら、結局のところ「長州史観」と言わざるをえないようになることが示唆するように、明治以降の「近代」は長州に簒奪され(現代、現在にしてなお・・)、それに対応してでしょう、日本史学において長州関係の研究及び史料は汗牛充棟でありながら薩摩に関する研究および史料はきわめて乏しいうこと(これをどこで読んだのか・・・追報いたします)を思い出しました。じつはそれゆえにこそ、じつは薩摩の方に維新の鍵があるのではないでしょうか。そして、その鍵は赤松小三郎と小松帯刀では・・・
あらためて思いますに、小松帯刀と赤松小三郎という、時代を越える資質を持ったこの二人と、その間の関係に歴史の鍵があるような気がいたします。あのアーネスト・サトウによって「知っている日本人の中で最も魅力的」とされた薩摩藩家老小松帯刀が、倒幕派から代議政体論に転じたことについては(家近良樹編『もうひとつの明治維新 幕末史の再検討』有志舎、2006年;p257)見ますと Wikipedia「小松帯刀」に言及がありません。
維新史は、歴史専門家の「もうあらかたは・・・」という感覚(典型的には三谷博氏)とは裏腹に「まさにこれから」です。藩という枠を乗り越えた実践行動を行い、時代の制約を越えた驚くべき民主制への洞察を背景に民を大切にする真の国民国家を目ざした(「薩長国家」ではなく)赤松小三郎と薩摩公議政体派にこそ維新を解く鍵があり、彼らが往時果たせなかったことをさらに絶望的に見える今こそという含意をこめて、現在のこの時代を先に進める鍵があるのではないかと思います。
たんさいぼう影の会長様、この10年来掻き混ぜて来ました、「経済政治論議としての維新近代化」に関する仮説に、赤松小三郎と松平伊賀守忠固への言及を織り込むことが必要です。力及びませんが無謀にこころみますので、いささかのご猶予をお願いいたします。
いつもながら拙速な思考と投稿をお詫びします。捲土重来を期して。
たんさいぼう影の会長様、この6月の赤松小三郎記事への御コメントにおいてまことに温かいご示唆をいただきましてありがとうございました。あわてふためきまして勝手なことをひとり合点で約しまして既に5ヶ月、拙速と言いわけができる時期ではなくなりました。いまだ煮詰めるに至っていないこと、関良基先生の本ウェブログとご著書からさまざまに学び考えるべきことがあまりに大きく、小さな容量のアタマでは収拾がつかなくなったためとご寛恕ください。
目の前の事態を見ますと気ばかり急きまして、いささか長文になりますが「明治維新はいま振り返ると何か」という小作業仮説を報告します。これに先だって幾度かお邪魔したコメント欄にて既にこころみました骨子のままで同工異曲にすらなっていないことをお詫びします。
いざ書いてみますといささか拍子抜けしましたこの作業仮説の一部に、ご関心をいささかなりと喚起するようなものがありましたらまことにうれしく思います。
たんさいぼう影の会長様の温かいご示唆に心から感謝しつつ、もし何かヒントになるようなことが含まれておりましたら呵責なく換骨奪胎いただいて、ご知見に何らかのかたちで生かしていただくことがもしできれば望外の幸いでございます。
☆☆☆
この作業仮説を以下につぎの構成にて報告します。
・ 歴史家、三谷博氏による<明治維新の謎解き>について考える。
・ 想定した作業仮説による三谷氏とは異なる謎解き。
・ 作業仮説想定のもとになった資料のポイント。
・ 維新後150年に近づく現在への暗澹たる絶望感と、松平伊賀守忠固と赤松小三郎が年月を越えてあたえる未来への希望について。
☆☆☆
近世・近代史を専門とされる三谷博氏は著書『明治維新を考える』(有志舎、2006年)の序章「明治維新の謎 ー 社会的激変の普遍的理解を求めて」において三つの謎かけと謎解きを提示されています。本書は2012年に岩波現代文庫(G274)となりましたが、その「あとがき」で氏は「改訂版を作るため読み返してみると、維新に関しては、その後、大して考えが変わっていないことが分かった」と顧みておられます。
この間に三谷氏の関心は「日本史」の枠組みから脱して東アジア史と比較史、政治モデル構成に移っていたとのことで、そのような視野・観点から振り返って見てなお、氏の「明治維新 三つの謎」を核とする維新観は威力のあるものと再認識されたということであろうと思います。
三谷氏の謎かけには「明治維新は大きな変革となったにかかわらず犠牲者が非常に少数であった」という「平和革命の謎」というべき提起が基底にあります。明治維新はきわめて小さな犠牲によって、五箇条のご誓文の第一『 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ』という文言が象徴するように、明治維新は幕末の最重要の政治課題であった「公議政体」を実現し身分制社会を「天皇以外万人平等な」社会に変革した世界史で稀な革命であるという認識が三谷氏の明治維新観の核であるわけです。
氏は、「明治維新が生み出した大日本帝国が近隣諸国を侵略し米英と戦って敗北した」という結果をもって明治維新の進歩性・革命性を否定することを排し、現在の「資本増殖の自己運動を止められない、保守化し進歩観を見失った世界」を平和裏に変革するために、明治維新の経験を生かすべきである、というお考えでおられます。
同時代的問題意識にしっかりとサオをさして歴史を考えるという氏の姿勢に心から共感し、専門的歴史家としてのそのような氏のあり方に敬意を表します。その上で、不遜な蟷螂の斧に終わることを承知で、あえて三谷氏の「維新の謎と謎解き」のトリックをほどき、三谷氏の維新観に「代替案」を提出することをこころみます。
<第一の謎>は「なぜ武士が武士を廃したのかという謎」、支配階級が自己の支配的地位・社会的特権をみずから解消するというありえない事態が生じたという謎です。
三谷氏の謎解きは、武士たちが「外様大大名の国政関与の要求 → 王政復古の着想 → 中央集権化のための藩権力削減構想 → 王政復古の実現のための倒幕(本書で幕府を徳川公儀と呼ばれる三谷氏は倒幕ではなく内戦の勝利と言っておられます)」と、目の前の課題を次々に追いかけてきて最後に王の親政による中央集権支配を確立した途端、地方分権体制と一体の封建武士階級の解体を一瞬にして導いた、ということです。
長薩(長州・薩摩)藩士を中心に武士の多くが廃藩・家禄廃止を想像さえしないまま改革のために夢中で走りに走り、維新による近代的中央集権国家を実現し、その結果として武士自体の廃止に追い込まれたというわけです。
じつはしかし、三谷氏が言われているように「維新の改革者たち」が武士を廃したのであり、それを「武士が武士を廃した」という司馬遼太郎と軌を一にした言い方にすることによって、第一の「謎かけ」になっていると思います。
三谷氏の謎かけの出発点である明治維新の性格づけ、すなわち「被支配階級が支配階級を打倒するという『階級革命モデル』が当てはまらない」という事実が示すものは何なのか、「維新の改革者たち」がいったい何ものであったのか、それが重要な問題ではないかと考えて、作業仮説の想定をしました。
<第二の謎>は「原因のない結果の謎」というべきもので「当初は内外にだれも体制の根本的変革の必要に迫られた者はいなかったのに、なぜ巨大な変革が起きたのか」という謎です。
三谷氏の謎解きは;戦国大名間の相互作用が生んだ上位権力のもとで形成された秩序が200年以上の平和を経るなかで、様々な方向へのズレを内包するようになった。そこに世界レヴェルでの環境変化に直面して生まれた水戸の尊攘論に典型的な秩序破壊的な思考とともに、ペリー来航までの鎖国政策の強化という徳川公儀の硬直化した外交政策が体制破壊的な影響をもたらした。そこで人びとの秩序観が一気に流動化し思考と行動の自由が解放されたことが、偶然を含む複雑系的発展として明治維新を導いた、ということです。
三谷氏がいまだ発展途上と言われる複雑系の革命現象への適用とにはとうてい視力が及びませんが、三谷氏を含む現在の日本史専門家の明治維新観が既に「自覚的勢力による反動的封建権力の打倒による近代的独立国家の樹立」という、政治的プロパガンダとしての明治官製「長州史観」からすでに遠くはなれていることが示されていると思います。
「原因と結果というフォーマットで要素と関係を単純化して特定しようとする」非・複雑系思考から自由になることができないまま、明治維新の「隠された原因と目的」、「それらがなぜ隠されたのか」が鍵になるであろうと想定して作業仮説を考えました。