コメント欄で、矢部宏司著『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル、2014年)を紹介していただいた。買ったまま時間がなくて読んでいなかったので、さっそく読んでみた。読み始めたら時間を忘れるくらい読みふけってしまった。日本は絶望的状況にあるが、この本が売れていて、そして評価されているというその現象そのものに、一筋の希望の光が射したように思えた。これほど日本人に勇気を与えてくれる本は稀である。右も左も関係なく、すべての日本人に読んで欲しい。高校生でも十分に読める。
私も十分に分からなかった問題であった。日本の今日の惨状をつくり出したのは、米国からの圧力の問題なのか、それとも明治以来の官僚制の問題なのか、どちらがより本質的な問題なのだろう・・・・? と。 脱長州史観キャンペーンを始めたのは、明治維新クーデターによって成立した日本の官僚独裁の方が問題の根としてより深いのではないかと漠然と考えたからであった。
本書はこの難問を、「自発的隷属」という概念で見事に解き明かしている。目からウロコが落ちる思いだった。
日米安全保障条約が、日本を支配する最高法規として日本国憲法の上に君臨しているのは、日本人の選択なのだ。官僚も司法も昭和天皇も望んだ、結局のところ国民自らの選択だったのだ。私たちが、これ以上の宗主国への服従によって引き起こされる惨禍を望まないのであれば、日本人は自らの意志でそれを拒否することは可能なのである。本書はそのことを明快に述べている。
その根拠として、矢部さんが挙げるのが、フィリピンの実例である。「日本はフィリピンから学べ」と。これが本書の結論でもある。この本を読んだ日本人は、「えーっフィリピン!?」と意外に思ったかも知れない。
私は、フィリピンに留学し、フィリピンで研究していた立場から、確信をもって矢部さんに同意する。その通りである。「よくぞ言ってくれました!!」と、本当にうれしかった。
フィリピンは、米国従属のマルコス独裁政権を1986年に打倒し、1987年に憲法を改正し、憲法に基づいて、1991年の米軍基地貸与条約の期限切れに合わせて米軍基地を撤去した。当時のアキノ大統領は新基地条約を結ぼうとしていたが、その新基地条約の批准を拒否するという上院の決断によって、米軍基地撤去を勝ち取った。私はその当時フィリピンにいたので、新基地条約反対のデモに参加し続けていた。上院が新基地条約の批准を拒否する決定をした際にはフィリピン上院を取り囲んだ群衆の中にもいた。米軍基地にNOと言った上院議員たちが評決を終えて外に出てきたときのあの群衆の歓呼の渦は、私にとって生涯忘れられない記憶である。
日本人で、フィリピンの基地撤去のプロセスに関心がある人はほとんどおらず、それを研究した書籍も皆無に近い。私は、当時の基地擁護派と反対派のフィリピンの国内論戦の様子を報じた新聞や雑誌など収取して日本に持ち帰ったが、だれも興味を持ってくれなかったので、発表する機会、活用する機会もないままに埃の中に埋もれたものだった(結局、使う機会のないまま、それらの資料は引っ越しのときに紛失してしまっていた・・・・)
「なぜ日本人は隣の国の快挙に興味をもたないのだろう? 冷戦が終わったのだから、フィリピンの次は日本の番ではないか」と当時思ったものだったが、日本の空気はあまりにも重かった。著者の、この疑問に対する回答は以下のように明快だった。
「(フィリピンにおける米軍基地撤去という)こうした事実もまた、日本の圧倒的主流派である安保村にとって、非常に都合の悪い情報ですので、日本人には絶対に伝わらないようになっているのです」と。(矢部、前掲書、157頁)
「日米安保村」の妨害によって十分に情報が伝わらないから興味を持つ人も少ない・・・・。な~んだ、拍子抜けするような回答だが、この辺りが事実なのだろう。
結局、フィリピンと同じようなことができないのは、日本の官僚機構の「自発的隷属」の問題である。フィリピンの場合、上院の力は官僚の力より強い。上院議員は全国区の直接選挙で選ばれているので、日本よりもはるかに国民の意志を直接体現していた。日本では官僚の力は、議会よりも国民よりも強い。まずはそこを変えなければだめである。
アメリカ人は「法の支配」を厳格に尊重する。自らの力で憲法を改正し、文句のない法的手続きによって米軍に出ていってもらったフィリピン人の行為を、アメリカの知識層は賞賛している。アメリカ的法治主義を、植民地のフィリピンに教え込んだのはアメリカなのだ。米国は旧植民地を不平等条約によって過酷に支配したが、そのフィリピンが、自ら作った憲法による法の支配を盾にして旧宗主国の支配から脱却したのだ。アメリカとしても本望だっただろう。
逆に、それができない日本人はアメリカ人から軽蔑されている。アメリカの知識人たちは、解釈改憲などという、法治主義を公然と踏みにじる暴挙を平気でできる後進国を侮蔑している。日本の官僚たちが、自発的隷属を続ければ続けるほど、ますます私たち日本人が米国の知識人たちから文明人とは見做されず、差別的な扱いを受けるようになるだけなのだ。本当に悔しい。もうこれ以上バカにされ続けるのは止めにしよう。アメリカとは対等な立場で友人として付き合えるようになろう。
日本がフィリピンのような選択をするためにも、矢部さんは、憲法改正が必要だという。日米安保条約の下位に位置づけられてしまった現行憲法に替え、安保条約の上に位置づける民定憲法を国民の力で制定する。
これに関して、私の中にも迷いがあったが、本書を読んで、矢部さんの意見に同意することを宣言する。安倍復古改憲案に対抗するには下からの民定憲法を対置させるしかない。私も憲法改正案に関しては「赤松小三郎の構想に学んで、GHQの押し付けと言われないような憲法をつくろう」と、以下のような記事を書いたことがあった。リンクしておく。
慶応3年の赤松小三郎の建白書の議会政治の精神を活かし、行政府(官僚)から政策・法案・予算案策定に関与する権限を奪い、その権限は立法府にのみ帰属することを憲法に明記する。議員に対する企業、団体、個人献金も全面的に禁止するよう憲法に明記する。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/83492eee1127a7faf90efa96f9dbb4c0
赤松小三郎の提起した民兵制度に沿って憲法9条に加筆し、自衛力の保持と、かりに外国から侵略を受けた場合は全国民が民兵として国土防衛の任に就くことを明記する(これは徴兵制とは違う)。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/41a2510d630fbb8f75c98025826fb19e
私はその記事中に以下のように書いた。一部再掲する。
「以上のような憲法「加筆」案によって、最終的に目指すのは日米安全保障条約の廃棄である。日米安保と在日米軍の存在を前提として、米軍の抑止力に期待しながら憲法9条をそのままにという意見は卑怯である。日米安保と在日米軍がある限り、日本は決して平和にはならない。アメリカからの要求は強まり、いずれは米軍の侵略戦争に自衛隊も加担させられていく事は明らかだ。現行憲法に規定する国際平和を希求するのであれば、日米安保条約は不要である。私たちは、日米安保条約が最高法規として憲法の上にも君臨するような状態を拒否せねばならない」
わかき矢部さんの、全体を見とほした成熟した論考に一読三嘆しました。再読して記憶にとどめなければなりませんね。
もちろん関様の全うなご意見にも全面的に賛成します。
国民の権利に「過酷な労働を受けない権利」「核エネルギーと共存しなくていい権利」「自然環境と身体的健康を損なわれない権利」なども書き加えられれば夢も広がりますね。
さて、赤松小三郎の防衛プランが不人気な理由を勝手に考えてみますと、上陸してきた敵を罠に誘い込んで殲滅するということは国土を敵に歩かせなくてはならないことが考え当たります。攘夷運動が盛んになった理由のひとつがコレラなど疫病の蔓だそうです。兵士が病気を持っていなくても毒を使うかもしれません。また、アメリカなど技術にたけた国は艦砲射撃だけして上陸してくれないかもしれません。現代人なら沖縄戦の悲惨さを持ち出して反対するかもしれません。もっとも沖縄戦のときは防空能力が失われていましたから、それがある場合は展開が違うと思います。また、国民皆兵だから「民間人です」という言い訳ができない。
それから、中立国というのは情報管理社会になるものだと佐藤優氏の本に書いてありました。スイスの実態は私が高校生の頃『理想国家スイス』という本がありましたが読んだかどうかも覚えておりません。要するにその国が真に「中立」かどうか誰にも明白でなくてはならないからだそうです。永世中立国への道は遠い。
戦後日本人が自発的従属をしたことでアメリカが道を誤ったことが人類に対する罪ではないか、とちょっと前から予感しておりましたが、家や学校や職場で「自発的従属」を叩き込まれるようでは難しいでしょう。
他にももやもやしていることはありますが、いったんここで終わります。
衆議院解散直後の11月28日のものでした。
そういうタイミングだったからこの選挙は違憲か、最高裁が介入できないか、あるいは「集団自衛権で何が起こるか」も話されたのですが憲法9条の改正案は次のようなものでした。
1項 二度と侵略戦争はしないと明記
2項 侵略行為をしなかったにかかわらず侵略を受けた場合の自衛戦争は放棄しない
3項 専守防衛のための自衛軍を持つ
4項 自衛軍は国会と国連安保理決議の承認を得れば国際貢献に行くことができる
小林教授は法的な根拠から現行憲法に疑問を持ったそうです。なるほど、自民党とアメリカが憲法9条をそのままにしていたのは「解釈による軍事力保持をやろうと思ったらできる」からだったのですね(いや「バックドア」か)。「侵略戦争はしない」と書かれていたらとても窮屈なことになってしまう。(それって「飲酒運転ができないと不便でいかん」みたいだ)それで自民党に誘われては話をしてがっかりされるということを繰り返してきたそうです。
私はずっと戦争放棄賛成派だったし改憲すると「基本的人権」までアメリカからの押し付けとして葬られることを恐れておりました。
再稼働反対のデモに参加した右翼なら「国益」で説得できるかもしれませんが嫌韓嫌中運動に取り込み済みでしょうか『なぜ日本は…』を読んでしまうとそんなことやっている場合ではないと思います。
保守の運動らしい装いで進めていくのがいいように思いますが(だからこれが保守だってば)
護憲派には「支配層ではない日本の知識人は民主主義を求めてきた」歴史を発掘してみせるのがいいのでしょうか。
以前「人権保護法」反対騒ぎがあった時は反対している人を信用することができませんでした。右も左も同じことを言うとかえって不気味なんですね。
ご無沙汰しております。生きているうちに米軍基地が日本から消える日を見たいものですね。がんばって参りましょう。
>赤松小三郎の防衛プランが不人気な理由
日本人のほとんど誰もが赤松小三郎の防衛プランの内容を知りませんので、まずは紹介することから始めようという趣旨です。詳しい具体策は練っていかないと。
>中立国というのは情報管理社会になるものだと佐藤優氏の本に書いてありました。
民兵制度を持つ永世中立国のスイスにも問題は多かろうとは思いますが、日本の惨状と比べると、スイスの方がどれだけマシかと思わざるを得ません。私は佐藤優さんの言っていることはあまり信じられなくなってきました。
もっとも、スイスの制度、ちゃんと勉強しないといけませんね。私はスイス事情に疎いので、迂闊なことは言えません。勉強します。
小林節教授の改憲案にはおおむね賛成です。ただ、どこからどこまでを「侵略」と定義するかが非常に難しいですね。
これから明治時代の私擬憲法よろしく、議論がたくさん出てくることを期待いたします。
最終的に安倍復古改憲案に対抗する民定憲法案を出し、対決するということが必要になると思います。
しかし、民定憲法案を一本化してまとめあげる政治勢力がいまの日本にはない・・・・・。これが最大の問題ですね。
小林教授の話を視聴して、一晩たってみると、「侵略戦争」の定義も結構あいまいだなと思い当りました。
『坂の上の雲』の内容を全部覚えている人なら「そうやって『自衛』といいつつ他国を攻撃してるのはアメリカだろ」といいそうです。種々の策謀で密室における完全犯罪のように戦争を準備するのと、堂々と宣戦布告するのとどっちがましなのでしょう。
また、自衛戦争をするにあたって「国境」をはっきりさせておく必要もあるでしょう。尖閣の話とか私は苦手です。国連敵国条項という「保護観察処分」を逆手に取る戦略だと「主権在民」「基本的人権」は後退しなくてよさそうですが、国境を確定することはできるのでしょうか。
「国際社会」をダシに使うと「国際社会でいい子にしている」ことに敗北感を覚える連中は耳を貸してくれそうにないし、反原発デモにやってきた右翼の何割かはすでに「民主党は在日がやっている」と主張する勢力に取り込まれていて当てにできないのではないかと思えてまいりました。自民党政権下での大事故なら騒がなかったのではないかと。
「最低限の軍備」に核兵器が含まれるかも気になります。
個人的には民兵訓練の場がハラスメント天国になりはしないか、ということを恐れています。要領の悪い人は
それだけで愛国心がないことにされそうだし、訓練に出られないとすごく肩身が狭くなりそうです。
ちなみに佐藤優さんの本『サバイバル宗教学』に出てきたのはスウェーデンでした。スイスは長岡藩の河合継之助にも影響を与えた、と言われているので気になってはおります。
この手の問題を議論しますと、保守派からは「大平戦争において日本軍は侵略行為はしていない。自衛のためだった」とよくいわれます。
そのとき私は次のような意見を述べます。
「仮にもし本当に旧日本軍が侵略をしていなかっとしても、これから日本が侵略をしない保証はありません。だから海外派兵には厳しい条件をつけるべきでしょう。それに、自衛隊も派遣されたイラク戦争は明らかに侵略戦争だったので、すでに日本は侵略に加担したともいえます。あの戦争はアメリカの同盟国でも軍隊を派兵しなかった国もあるので、日本もそうなるべきです」
ちなみにあの改憲案は、もしかすると復古ですらないかもしれません。
かの伊藤博文でさえ、「憲法とはまず第一に君権を制限すること、第二に市民の権利を守るもの」といってましたから。
安部総理は現行憲法を押し付けといいながら、その改正要件が明治憲法と変わらないことを黙殺してますからね。
これに関して、私の中にも迷いがあったが、本書を読んで、矢部さんの意見に同意することを宣言する。
初めまして。(でもないのですが)
米軍基地を撤去するのに、なぜハードルを上げるのでしょうか。
過去記事「戦争が避けられぬのならせめてアメリカと戦って死にたい」にも「日米安保の破棄を通告し、期限以内に米軍の全面撤退を要求します。」と書かれているように、安保条約10条には、条約は一方的に通告して終了できると書かれています。
まともな政権が通告すればいいだけの話ではないでしょうか。
「日米安保条約の下位に位置づけられてしまった現行憲法」というのも理解できません。
Wikipediaによれば、憲法と条約の優劣関係については、判例・通説は憲法優位説のようです。
条約が優位なら、砂川事件判決が統治行為論をひねり出す必要はなかったということだと思います。
「米軍は日本政府の直接の指揮下にない」のでその行動を自由にさせている、というのは第三者行為論ですが、なぜそんな自由を日本政府は与えるのでしょう。(ここでも「自発的従属」)
たしかに「まともな政府」が騒音を差し止めしてもよさそうですね。自由な訓練ができる環境を求めるアメリカがシナリオを描いて日本の官僚がそれに従っているとしか思えません。
「改憲が必要」と思える理由は憲法の制定過程にあり、日本人が書こうが宇宙人が書こうが「占領期にアメリカが押しつけた」ことには変わりがありません。だからオープンな場で民主主義的な憲法を採用してみせる必要があるでしょう。しかし占領下での種々の改革(財閥は復活してしまいましたが)もまたもとに戻ってしまうのではないか、も改憲に反対する理由の一つであろうと思います。アメリカの「デモクラシーを与えてやった」に対して民権運動や江戸時代の民衆運動を発掘する試みもあると思いますが、「個人」が尊重されている感じはしません。大正デモクラシーの時代に戻ってもいい、という覚悟が必要なのでしょうか。
さて、安倍首相の迷走によって日本はイスラム国の敵になってしまいました。戦時には憲法を改正してはいけない、という法慣行はないんですよね。
>安保条約10条には、条約は一方的に通告して終了できると書かれています。まともな政権が通告すればいいだけの話ではないでしょうか。
私もそう考えておりました。しかし、鳩山内閣は、ただ一つの基地でしかない普天間基地の国外移設を求めただけで簡単につぶされてしまいました。
首相よりも米国に忠誠を誓う官僚たちの自発的従属の問題が大きかったのですが・・・。
フィリピンの場合、憲法改正によって「比米基地条約の期限切れの後には、新たな基地条約を上院が批准しない限り、米軍の駐留を認めない」と宣言して、撤去に成功しました。
やはりそのくらい大がかりな事業をしない限り、日米安保の破棄はできないと思います。
法の支配を重んじるアメリカ人は、国民が結束し、文句のない正当な法的手続きを経れば、引き下がるしかありません。
官僚も裁判所も米軍に自発的に隷属してしまっている以上、国民が結束して新憲法に、「○○年を期限に外国軍基地を日本の領土内に置かない」と明記するくらいのことをせねばならないと思います。
それを経て初めて、米国人も日本人に敬意を払うようになりますし、恫喝で従わせようとするのを止めるのではないでしょうか。