先月、私が昨年5月に書いた「拝啓 佐藤優様、マルクスなんか読む必要ないって!」という記事に対し、経済学者の塩沢由典先生(複雑系経済学を切り開いたパイオニア)がコメント下さいました。そのコメントの中で塩沢先生は、丸善の書評誌『学鐙』105(2)(2008年夏号、22-25)に書かれた「マルクス『資本論』 読みなおし・読みなおしの楽しさ」というエッセイを紹介して下さいました。
大変に興味深い論考でした。ぜひ当ブログの読者の皆様にも読んでいただきたいと思って紹介させていただきます。
私は当該記事で、「現行の賃金水準では、マルクスが労働力の価値として規定した「労働力の再生産」も満たせない。現在の資本主義は、『資本論』の想定する純粋な資本主義のロジックからしても異質なものだ」という趣旨のことを書きました。塩沢先生の上記エッセイでは、これに関連する議論も提示されています。塩沢先生の見解は、「市場経済には賃金率の前に利潤率が決められる機構があると考えている」というものです。
私は知らなかったのですが、宇野弘蔵も「マルクスの『資本論』の論理では労働力の価値は決められない」という見解に達していたそうです。私は宇野弘蔵をちゃんと読んではいないので知りませんでした。申し訳ございません。
さて、塩沢先生は、以下のようにコメントしてくださいました。
*********
「わたしは「マルクスを読め」と人に勧めるつもりはありませんが、ああいう本と格闘した時代もあったということだけは、若い世代にも知ってほしいとおもいます。いまも何か、偉大な思想に取り組み格闘することが必要だとおもいますし、またその格闘の無意味さについても自覚していてほしいとおもいうからです」
*********
私は当該記事で「マルクス読めと強制してはいけない」と書きましたので、塩沢先生とは微妙な差があります。といっても、特定個人の思想を崇拝的な態度で信仰することになる危険性を訴えたので、もちろん「あくまで一つの古典として、マルクスを読みたい人はどんどん読みましょう」と付け加えておきたく存じます。
私もマルクスの影響は受けたといえば受けました。そこでこれを契機に、佐藤優氏の『私のマルクス』(文芸春秋社刊)ではないですが、私とマルクスとの関わりについて書きとめておきます。
先に紹介したエッセイで、もともと数学科の学生だった塩沢先生は、マルクスの資本論の論理構成云々よりは弁証法的唯物論に関心があり、武谷三男の「三段階論」に影響を受けたことなどが書かれておりました。
私も、高校時代に武谷三男の『弁証法の諸問題』(勁草書房)やエンゲルスの『自然の弁証法』などを熱心に読んだものでした。武谷と共に自然弁証法の唱道者であった坂田昌一の『原子物理学入門』なども読みましたっけ。
ちなみに私が武谷三男の自然弁証法に関心をもったそもそものきっかけは、科学史家で仮説実験授業の提唱者でもある板倉聖宣氏の書いた自然弁証法に関する諸論考を読んだ影響が大きかったのでした。
私は「マルクス主義」というイデオロギーは否定していますが、マルクスが依拠したところの、「弁証法」という方法論は積極的に擁護しています。私はブログでも論文でも、「アンチテーゼ」や「アウフヘーベン」「量質転化」といった弁証法の概念を多用します(それで、書評で批判されたりもしていますが…)。しかしそれでも使うのは、もちろんそれらが有用な概念だからです。
一般に、自然科学系の学生は、経済法則なんていう人間社会の些細な出来事には関心を持ちません。物質の究極とか、宇宙の始まりと終わりとか、そんな問題に関心があります。言ってしまえば、地球という特殊な惑星の上での経済法則なんて、大宇宙に比べればどうでもよい些細な問題だと思われたのです。ですので、自然系の学生の関心が、『資本論』の経済学よりも自然弁証法に向かうのは当然だったのでしょう。
ちなみに私が経済学に関心を持って勉強しようと思ったのは、新古典派になど知的ヘゲモニーを握られたままでは、自分自身も含めて最低限の生活すら送ることもできなくなってしまうと本気で危機感を抱いてからのことです(それが大学三回生くらいのことでした)。
さて、自然界の弁証法的な見方は、まさに物質や宇宙の諸問題を理解する上で、実際すごく有用なのです。
最近、複雑系の研究が進む中で、「創発性(エマージェンス)」という概念が注目を浴びています。その中で、自然法則は階層ごとに異なり、上の階層の秩序は、下の階層から創発的に決定される、物理定数などもじつは創発的な現象なのではないか、といったことも盛んに議論されているようです。じつは、ああした複雑系の見方は、坂田昌一のような弁証法的な自然観を持つ物理学者がかつて盛んに議論していたことなのです。複雑系における「創発」は、自然弁証法における「量から質への転化」と概念的にほぼ等価なのです。
ちなみに昨年、ノーベル物理学賞を受賞した小林誠氏と益川敏英氏は坂田昌一の弟子です。その益川氏は、『サンデー毎日』の2008年12月28日号に「人生を変えたこの一冊」としてエンゲルスの『自然の弁証法』を挙げていました。「ああ、やはり」と思ったものでした
生粋の左翼物理学者であった坂田昌一は、本来であれば当然にノーベル物理学賞をもらうだけの業績を残してたと思いますが、結局、もらえないままにこの世を去りました。今回、その坂田昌一のお弟子さんが、二人そろって受賞されたのは本当にすばらしいことだったと思います。
最近、政府の教育再生懇談会のメンバーに小林誠氏が選ばれましたが、益川氏には声がかからなかったようです。やはり「人生を変えた一冊」で、「エンゲルスの自然弁証法」と答えるあたりの益川氏の左派性を政府が警戒しているのでしょうか?
政権が変わったら、ぜひ新政権は、益川氏を文科省にアドバイザーか何かで送りこんで欲しいものです。そして、現行のように官僚主義的な形式主義で研究者や教育者を書類漬けにして縛り付けて科学と教育の発展を妨害するのではなく、創造性をサポートするための教育・科学行政のあり方を模索していって欲しいものです。あ、話が逸れました。
さて、小学生の頃から天文オタクであった私は宇宙の究極の真理を知りたいと強く願っていました。しかし、そういう願いの中で、高校生から浪人生、大学教養課程の頃、ニュートンの力学的世界観、クラウジウスの熱力学的世界観、ボルツマンの統計力学的世界観、ボーアやハイゼンベルクの量子力学的世界観、ダーウィンの進化論的世界観・・・・と勉強してったところ、際限のない謎と悩みは大きくなるばかりでした。だって、それぞれの世界観が相互に、根本的に矛盾しているからです。宇宙の究極的真理が一つであれば、既存の科学モデルが相互に矛盾しているのはオカシイからです。
こうした諸学説の矛盾の原因を解きほぐしてくれるだろうと思えたのが、「量から質への転化」つまり自然の階層性を説く弁証法だったのです。
また、古典力学的な世界観では決して解明できないのが、突発的に発生する不連続な変化です。これは自然界でも起こりますし、人間社会の歴史の中でも「革命」という形で起こります。なぜ自然でも社会でも、変化は漸次的なものばかりではなく、あるとき突発的に変わることがあるのか? 「対立物の相互作用」そしてアウフヘーベンという弁証法の考え方で、その理由は理解できると思ったわけです。
アメリカはマルクス主義が御法度の国で、マルクスの影響が他国に比べて低いので、それがアメリカの知的貧困を生み出していると、内田樹氏などは主張しています。確かに、その見解には私もある程度同意します。実際、アメリカにおける複雑系研究が、欧州でのそれに比べて哲学的に陳腐なのは、アメリカの科学界における弁証法に対する理解不足に起因するように思えます。
しかしそのアメリカにおいてすら、「マルクス主義」などとは名乗らなくても、弁証法的な発想法によってよい業績を出している知識人は少なからずいるように思えます。また、本当に弁証法が分かっている人は、恥ずかしくて「○×主義」などという非弁証法的な呼び方はできなくなるはずですから・・・・・。
たとえば、アメリカの著名な生物学者で、生物進化の「断続平衡説」を唱えたスティーブン・J・グールドなど、自分の学説が自然弁証法的な見方に由来することを隠そうとしませんでした。
社会科学の方面では、アルビン・トフラーなども弁証法への関心を隠そうとはしません。私はトフラーの『第三の波』を読んだとき、「この人は本当に弁証法をよく理解しているなあ」と思ったものでした。本当に歴史の弁証法が分かれば、マルクス主義によって歪められた「史的唯物論」の公式的イデオロギーとは違った見方ができるはずなのです。
また変わったところでは、反共・反マルクス主義の権化のように思われているジョージ・ソロスも、自分の理論と弁証法との関係性を隠そうとはしません。ソロスの師匠のカール・ポパーがあれほど弁証法を批判したのに、弟子のソロスは師匠を批判してでも弁証法を擁護しています。ソロスの言う、経済現象における「再帰性」「相互作用性」の理論は、実際、まさに弁証法的な見方そのものです。
さて、といってもエンゲルスの『自然弁証法』は間違いだらけですし、単なる覚書の書き殴りに過ぎないので、まとまった著作としても完成していません。とても若い人に推薦できるような著作ではありません。
私が「これこそ現代の『自然の弁証法』」としていち押しする本は、複雑系研究の始祖イリヤ・プリゴジンらの著書である『混沌からの秩序』(みすず書房)です。
私は大学教養部のときに『混沌からの秩序』読んで、「ああこれこそが自分の追い求めていた弁証法的唯物論・自然の弁証法なのだ」と思ったものでした。
ちなみに、私は自著の『複雑適応系における熱帯林の再生』(御茶の水書房)の中で、プリゴジンとマルクス、エンゲルスの関係について以下のように書いています。ちょっと長いですが引用いたします。
***<引用開始>*****
複雑系研究が登場する以前に、人間の認識や社会システムの非連続な発展を包括的に理解しようと努めていた哲学は弁証法であるといってよいだろう。複雑系の理論は、弁証法が哲学的・思弁的にしか記述し得なかった変化の理論を、より自然科学的な実態に即して理解しようとしているのである。
フリードリッヒ・エンゲルスは、ヘーゲルにおける認識論レベルの弁証法を、自然現象にまで拡大して『自然の弁証法』を著そうと試み、未完のままに挫折した。エンゲルスは弁証法を法則定立的に窮屈に解釈しようとしすぎ、それが失敗につながったように思える。しかし、自然現象に弁証法を持ち込もうという挫折したエンゲルスの試みは、プリゴジンらによって成し遂げられたといえるのかもしれない。プリゴジン自身、古典力学と非平衡熱力学の世界観の対立を、機械的唯物論と弁証法的唯物論の対立と相似させて論じて、弁証法を評価している[プリゴジン、スタンジェール 1987:331-332]。
エンゲルスは、宇宙がエントロピーの増大により熱的死で終わるという熱力学第二法則の悲観的解釈に不満であった。『自然の弁証法』において彼は、クラウジウスに反論しようと苦闘している。「開かれた」弁証法的世界を信じるエンゲルスにあって、「熱的死」というクラウジウス流の運命論は耐えられないものがあったのであろう。
プリゴジンらのブリュッセル学派は、開いた系における非平衡・非線形現象の解明によってエントロピー概念を刷新し、熱的死ではなく新しい構造の生成を論じたのである。エンゲルスが、このプリゴジンらによる非平衡熱力学の建設を知り得たとすれば、飛び上がって喜んだに違いない。
(中略)
マルクスの学位論文は「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の相違」というものであった。マルクスは学位論文において、デモクリトスの原子論が陥っていた機械主義的・決定論主義的な傾向を批判し、人間の自由意志を論じるエピクロスの原子論の持つ開かれた可能性を高く評価した。マルクスが弁証法的唯物論にたどりついたのは、エピクロスの原子論をつきつめていった結果であろう。
プリゴジンらも、次のように述べて、自らがエピクロスとルクレチウスの理論の継承者であることを強調するのである。
「ルクレチウスはクリナメンを、考古学上の遺跡が『発明』されたと同じように発明したと言ってよかろう。掘り出す前にそこに遺跡があると『推定』するのである。もし一様で可逆な軌跡だけしないとすると、われわれが作ったり経験したりする不可逆過程はいったいどこから来るのだろうか。軌跡が決定されるのをやめる点、決定論的変化の秩序だった単調な世界を支配する運命の法則が破れる点が自然の始まりを表す。それはまた、自然の存在の誕生や増殖や死を記述する新しい科学の始まりを表す。(中略)こうしてルクレチウスの物理学の中に、われわれが現代の知識の中で発見したのと同じきずなを再び見つけた[プリゴジン、スタンジェール 1987: 392]」。
丸山孫郎における「逸脱」や、プリゴジンにおける「ゆらぎ」は、ルクレチウスにおける「クリナメン」と基本的に同じ概念である。デモクリトスvsエピクロスの対立は、古典力学・新古典派経済学vs複雑系の世界観の対立構造と同質なのである。
***関良基『複雑適応系における熱帯林の再生』御茶の水書房:38-41頁***
ああ、長くなりすぎました。肝心の経済学の話がまったくできませんでした。また時間ができたら続きを書きます。
(つづく)
大変に興味深い論考でした。ぜひ当ブログの読者の皆様にも読んでいただきたいと思って紹介させていただきます。
私は当該記事で、「現行の賃金水準では、マルクスが労働力の価値として規定した「労働力の再生産」も満たせない。現在の資本主義は、『資本論』の想定する純粋な資本主義のロジックからしても異質なものだ」という趣旨のことを書きました。塩沢先生の上記エッセイでは、これに関連する議論も提示されています。塩沢先生の見解は、「市場経済には賃金率の前に利潤率が決められる機構があると考えている」というものです。
私は知らなかったのですが、宇野弘蔵も「マルクスの『資本論』の論理では労働力の価値は決められない」という見解に達していたそうです。私は宇野弘蔵をちゃんと読んではいないので知りませんでした。申し訳ございません。
さて、塩沢先生は、以下のようにコメントしてくださいました。
*********
「わたしは「マルクスを読め」と人に勧めるつもりはありませんが、ああいう本と格闘した時代もあったということだけは、若い世代にも知ってほしいとおもいます。いまも何か、偉大な思想に取り組み格闘することが必要だとおもいますし、またその格闘の無意味さについても自覚していてほしいとおもいうからです」
*********
私は当該記事で「マルクス読めと強制してはいけない」と書きましたので、塩沢先生とは微妙な差があります。といっても、特定個人の思想を崇拝的な態度で信仰することになる危険性を訴えたので、もちろん「あくまで一つの古典として、マルクスを読みたい人はどんどん読みましょう」と付け加えておきたく存じます。
私もマルクスの影響は受けたといえば受けました。そこでこれを契機に、佐藤優氏の『私のマルクス』(文芸春秋社刊)ではないですが、私とマルクスとの関わりについて書きとめておきます。
先に紹介したエッセイで、もともと数学科の学生だった塩沢先生は、マルクスの資本論の論理構成云々よりは弁証法的唯物論に関心があり、武谷三男の「三段階論」に影響を受けたことなどが書かれておりました。
私も、高校時代に武谷三男の『弁証法の諸問題』(勁草書房)やエンゲルスの『自然の弁証法』などを熱心に読んだものでした。武谷と共に自然弁証法の唱道者であった坂田昌一の『原子物理学入門』なども読みましたっけ。
ちなみに私が武谷三男の自然弁証法に関心をもったそもそものきっかけは、科学史家で仮説実験授業の提唱者でもある板倉聖宣氏の書いた自然弁証法に関する諸論考を読んだ影響が大きかったのでした。
私は「マルクス主義」というイデオロギーは否定していますが、マルクスが依拠したところの、「弁証法」という方法論は積極的に擁護しています。私はブログでも論文でも、「アンチテーゼ」や「アウフヘーベン」「量質転化」といった弁証法の概念を多用します(それで、書評で批判されたりもしていますが…)。しかしそれでも使うのは、もちろんそれらが有用な概念だからです。
一般に、自然科学系の学生は、経済法則なんていう人間社会の些細な出来事には関心を持ちません。物質の究極とか、宇宙の始まりと終わりとか、そんな問題に関心があります。言ってしまえば、地球という特殊な惑星の上での経済法則なんて、大宇宙に比べればどうでもよい些細な問題だと思われたのです。ですので、自然系の学生の関心が、『資本論』の経済学よりも自然弁証法に向かうのは当然だったのでしょう。
ちなみに私が経済学に関心を持って勉強しようと思ったのは、新古典派になど知的ヘゲモニーを握られたままでは、自分自身も含めて最低限の生活すら送ることもできなくなってしまうと本気で危機感を抱いてからのことです(それが大学三回生くらいのことでした)。
さて、自然界の弁証法的な見方は、まさに物質や宇宙の諸問題を理解する上で、実際すごく有用なのです。
最近、複雑系の研究が進む中で、「創発性(エマージェンス)」という概念が注目を浴びています。その中で、自然法則は階層ごとに異なり、上の階層の秩序は、下の階層から創発的に決定される、物理定数などもじつは創発的な現象なのではないか、といったことも盛んに議論されているようです。じつは、ああした複雑系の見方は、坂田昌一のような弁証法的な自然観を持つ物理学者がかつて盛んに議論していたことなのです。複雑系における「創発」は、自然弁証法における「量から質への転化」と概念的にほぼ等価なのです。
ちなみに昨年、ノーベル物理学賞を受賞した小林誠氏と益川敏英氏は坂田昌一の弟子です。その益川氏は、『サンデー毎日』の2008年12月28日号に「人生を変えたこの一冊」としてエンゲルスの『自然の弁証法』を挙げていました。「ああ、やはり」と思ったものでした
生粋の左翼物理学者であった坂田昌一は、本来であれば当然にノーベル物理学賞をもらうだけの業績を残してたと思いますが、結局、もらえないままにこの世を去りました。今回、その坂田昌一のお弟子さんが、二人そろって受賞されたのは本当にすばらしいことだったと思います。
最近、政府の教育再生懇談会のメンバーに小林誠氏が選ばれましたが、益川氏には声がかからなかったようです。やはり「人生を変えた一冊」で、「エンゲルスの自然弁証法」と答えるあたりの益川氏の左派性を政府が警戒しているのでしょうか?
政権が変わったら、ぜひ新政権は、益川氏を文科省にアドバイザーか何かで送りこんで欲しいものです。そして、現行のように官僚主義的な形式主義で研究者や教育者を書類漬けにして縛り付けて科学と教育の発展を妨害するのではなく、創造性をサポートするための教育・科学行政のあり方を模索していって欲しいものです。あ、話が逸れました。
さて、小学生の頃から天文オタクであった私は宇宙の究極の真理を知りたいと強く願っていました。しかし、そういう願いの中で、高校生から浪人生、大学教養課程の頃、ニュートンの力学的世界観、クラウジウスの熱力学的世界観、ボルツマンの統計力学的世界観、ボーアやハイゼンベルクの量子力学的世界観、ダーウィンの進化論的世界観・・・・と勉強してったところ、際限のない謎と悩みは大きくなるばかりでした。だって、それぞれの世界観が相互に、根本的に矛盾しているからです。宇宙の究極的真理が一つであれば、既存の科学モデルが相互に矛盾しているのはオカシイからです。
こうした諸学説の矛盾の原因を解きほぐしてくれるだろうと思えたのが、「量から質への転化」つまり自然の階層性を説く弁証法だったのです。
また、古典力学的な世界観では決して解明できないのが、突発的に発生する不連続な変化です。これは自然界でも起こりますし、人間社会の歴史の中でも「革命」という形で起こります。なぜ自然でも社会でも、変化は漸次的なものばかりではなく、あるとき突発的に変わることがあるのか? 「対立物の相互作用」そしてアウフヘーベンという弁証法の考え方で、その理由は理解できると思ったわけです。
アメリカはマルクス主義が御法度の国で、マルクスの影響が他国に比べて低いので、それがアメリカの知的貧困を生み出していると、内田樹氏などは主張しています。確かに、その見解には私もある程度同意します。実際、アメリカにおける複雑系研究が、欧州でのそれに比べて哲学的に陳腐なのは、アメリカの科学界における弁証法に対する理解不足に起因するように思えます。
しかしそのアメリカにおいてすら、「マルクス主義」などとは名乗らなくても、弁証法的な発想法によってよい業績を出している知識人は少なからずいるように思えます。また、本当に弁証法が分かっている人は、恥ずかしくて「○×主義」などという非弁証法的な呼び方はできなくなるはずですから・・・・・。
たとえば、アメリカの著名な生物学者で、生物進化の「断続平衡説」を唱えたスティーブン・J・グールドなど、自分の学説が自然弁証法的な見方に由来することを隠そうとしませんでした。
社会科学の方面では、アルビン・トフラーなども弁証法への関心を隠そうとはしません。私はトフラーの『第三の波』を読んだとき、「この人は本当に弁証法をよく理解しているなあ」と思ったものでした。本当に歴史の弁証法が分かれば、マルクス主義によって歪められた「史的唯物論」の公式的イデオロギーとは違った見方ができるはずなのです。
また変わったところでは、反共・反マルクス主義の権化のように思われているジョージ・ソロスも、自分の理論と弁証法との関係性を隠そうとはしません。ソロスの師匠のカール・ポパーがあれほど弁証法を批判したのに、弟子のソロスは師匠を批判してでも弁証法を擁護しています。ソロスの言う、経済現象における「再帰性」「相互作用性」の理論は、実際、まさに弁証法的な見方そのものです。
さて、といってもエンゲルスの『自然弁証法』は間違いだらけですし、単なる覚書の書き殴りに過ぎないので、まとまった著作としても完成していません。とても若い人に推薦できるような著作ではありません。
私が「これこそ現代の『自然の弁証法』」としていち押しする本は、複雑系研究の始祖イリヤ・プリゴジンらの著書である『混沌からの秩序』(みすず書房)です。
私は大学教養部のときに『混沌からの秩序』読んで、「ああこれこそが自分の追い求めていた弁証法的唯物論・自然の弁証法なのだ」と思ったものでした。
ちなみに、私は自著の『複雑適応系における熱帯林の再生』(御茶の水書房)の中で、プリゴジンとマルクス、エンゲルスの関係について以下のように書いています。ちょっと長いですが引用いたします。
***<引用開始>*****
複雑系研究が登場する以前に、人間の認識や社会システムの非連続な発展を包括的に理解しようと努めていた哲学は弁証法であるといってよいだろう。複雑系の理論は、弁証法が哲学的・思弁的にしか記述し得なかった変化の理論を、より自然科学的な実態に即して理解しようとしているのである。
フリードリッヒ・エンゲルスは、ヘーゲルにおける認識論レベルの弁証法を、自然現象にまで拡大して『自然の弁証法』を著そうと試み、未完のままに挫折した。エンゲルスは弁証法を法則定立的に窮屈に解釈しようとしすぎ、それが失敗につながったように思える。しかし、自然現象に弁証法を持ち込もうという挫折したエンゲルスの試みは、プリゴジンらによって成し遂げられたといえるのかもしれない。プリゴジン自身、古典力学と非平衡熱力学の世界観の対立を、機械的唯物論と弁証法的唯物論の対立と相似させて論じて、弁証法を評価している[プリゴジン、スタンジェール 1987:331-332]。
エンゲルスは、宇宙がエントロピーの増大により熱的死で終わるという熱力学第二法則の悲観的解釈に不満であった。『自然の弁証法』において彼は、クラウジウスに反論しようと苦闘している。「開かれた」弁証法的世界を信じるエンゲルスにあって、「熱的死」というクラウジウス流の運命論は耐えられないものがあったのであろう。
プリゴジンらのブリュッセル学派は、開いた系における非平衡・非線形現象の解明によってエントロピー概念を刷新し、熱的死ではなく新しい構造の生成を論じたのである。エンゲルスが、このプリゴジンらによる非平衡熱力学の建設を知り得たとすれば、飛び上がって喜んだに違いない。
(中略)
マルクスの学位論文は「デモクリトスとエピクロスの自然哲学の相違」というものであった。マルクスは学位論文において、デモクリトスの原子論が陥っていた機械主義的・決定論主義的な傾向を批判し、人間の自由意志を論じるエピクロスの原子論の持つ開かれた可能性を高く評価した。マルクスが弁証法的唯物論にたどりついたのは、エピクロスの原子論をつきつめていった結果であろう。
プリゴジンらも、次のように述べて、自らがエピクロスとルクレチウスの理論の継承者であることを強調するのである。
「ルクレチウスはクリナメンを、考古学上の遺跡が『発明』されたと同じように発明したと言ってよかろう。掘り出す前にそこに遺跡があると『推定』するのである。もし一様で可逆な軌跡だけしないとすると、われわれが作ったり経験したりする不可逆過程はいったいどこから来るのだろうか。軌跡が決定されるのをやめる点、決定論的変化の秩序だった単調な世界を支配する運命の法則が破れる点が自然の始まりを表す。それはまた、自然の存在の誕生や増殖や死を記述する新しい科学の始まりを表す。(中略)こうしてルクレチウスの物理学の中に、われわれが現代の知識の中で発見したのと同じきずなを再び見つけた[プリゴジン、スタンジェール 1987: 392]」。
丸山孫郎における「逸脱」や、プリゴジンにおける「ゆらぎ」は、ルクレチウスにおける「クリナメン」と基本的に同じ概念である。デモクリトスvsエピクロスの対立は、古典力学・新古典派経済学vs複雑系の世界観の対立構造と同質なのである。
***関良基『複雑適応系における熱帯林の再生』御茶の水書房:38-41頁***
ああ、長くなりすぎました。肝心の経済学の話がまったくできませんでした。また時間ができたら続きを書きます。
(つづく)
ちなみに私はたまたま立ち寄った下記のサイトで奮闘していました(笑)
http://policywatch.jp/hottopic/20090126/782/#comments
竹中氏のビデオを視聴した後、コメント欄を覗くと、竹中氏礼賛ばかりで、つい反論を書き込んだところ、短時間で多くの反論を頂戴しました。それでついついそれに応えてさらに駄文を連ねました。後で気づいたのですがこのサイトは新自由主義の砦のような所で、そこへ竹中氏を批判するコメントをアップするという無謀なことをしたようです。まあ自己責任です。お時間とお暇があれば一度覗いてみてください。
ところで、古典力学と熱力学の相性の悪さについてですが、私は古典力学が基本的に静的宇宙に立脚しているためであろうと推測(邪推)しています。
つまり現実の宇宙は膨張しており、座標が伸びているいるために必然的に必然的に不可逆過程になっているととらえています。数学的には4次元座標xをx→x(τ)と膨張パラメータを導入したらどうかと考えています。そうすれば拡散方程式をたてれば必然的に不可逆過程の解が出てくるはずです。エントロピーの概念もより具体的になるでしょう。また統計力学の結果から出てくるエントロピーの式と比較することで、物理現象における確率の概念にも面白いものが見つかる可能性もあると思います。ただ問題はパラメーターは当然微少量となりますので、それが実際の物理現象と適合するのかというとかなり無理があります。1/τのようなものが現れないと現実的なものにならないのですがちょっと式をいじくったところ、見通しはありませんでした。
この発想の元は重力による光の赤方変位です。エネルギーは普遍であるとすれば、光子数が増えることになり光子が分裂したようなイメージが成り立って不可逆過程が自然に成り立つのではないかと思ったのです。
ただ、以前、時空間の微少なゆがみでも重力加速度9.8m/s^2とつなぐことができますので、100%不可能ではないと今も思っています。
ちなみに今回のノーベル賞でも話題となった自発的対称性の破れもこれが原因なのではないかと想像しています。まあ数学的には行列の積AB≠BAからきているようなのですが…
あ!言っておきますが、素粒子論は基礎的知識は持っています(いた)が私の専門ではありません。
熱・統計力学と古典力学や相対論と相性の悪さについて伏見康治氏という熱統計力学の大家が相対性理論について批判している本(ブルーバックス)を読んだ記憶があります。その中で特に印象に残ったのは、遠隔力である引力やクーロン力についてそういった場がある空間にはそのエネルギーに相当する等価質量を考えるべきだと萎えていたことです。この相性の悪さは相当に根深いのではないかと思います。
等価質量の概念はとても面白いのですが、もしこれがあるのなら空間は引力だけでなく静電場や静磁場でも時空間は曲がるはずです。この検証は重力場方程式を解けばわかるのですが、とても解けるような代物ではありません。そこで一般相対性原理と等価原理から考えてみましたが、ちょっと無理なようです。ただ変動電場や磁場ならば時空間の振動と結びつく可能性があります。つまり振動する等価質量は可能性があると言うことです。ただ、これは熱統計力学との接点は見られません。
戦時中、広島大学で波動幾何学と名付けたものを研究していました。これはディラックが相対論と量子力学を結びつけるディラック方程式をたてたのですが、その手法をそのまま使って時空間を演算子化し、宇宙論を展開しました。その結果、ドジッター型宇宙モデルまで打ち立てたそうです。しかしそれも原爆とともに基本的な論文が消失しました。時空間が演算子ですから不可逆過程と結びつく可能性もあるのではないかと想像しています。(かなり無理がありますがw)
おっと哲学の論議ができませんでした。私は物理学と形而上学の接点に興味があります。その意味で関様とは立場が異なります。
最後に、こんな話をしていたら仕事を辞めたくなります。まあそういうわけにもいきませんので、また愚痴めいた話をさせてください。長文失礼しました。
ミクロの「競争力強化」にばかり思考を囚われている人たちが、バクさんを「ミクロばかりでマクロがない」と批判しているのはなかなか笑えました。構造改革礼賛論者の方々は、「合成の誤謬」が全く分かっていないのが致命的です。ミクロの競争力ばかり求めていると需要不足に陥って、けっきょくふつうに競争力のある企業まで潰れてしまうのに、それが分かっていない。
オリックスの宮内の場合はもうそれ以前の論外ですね。
私は「かんぽの宿」問題は追っかけていないので、詳しくは分からないのですが、あれだけ政府の委員会の役職を歴任した「公的」な人間は、政府資産を売却する競争入札には初めから参加してはいけないというのが、当然のルールであるべきだと思います。そもそもルール以前のモラルの問題だと思うのですが。
私的利益を求める私人が公的部門に入り込むと、公的資産の簒奪が起こる。こんなの歴史の鉄則です。ソ連が崩壊した後にオリガーキーが国有資産を簒奪したのがまさにそれでしたっけ。ハリバートンという私企業を代表してホワイトハウスに乗り込んだチェイニーが国民の血税をハリバートンのために注ぎ込んだのもこれと同じでした。宮内も全くチェイニーと同類な人間ですね。
時間の不可逆過程は、系を構成する要素に「ゆらぎ」があり、要素間に非線形な相互作用性があれば発生すると思います。ここで紹介したプリゴジンが、まさにこの問題を研究しておりました。膨張宇宙は、この宇宙が熱的死というエントロピー増大則の規律から逃れている理由なのかなと思って無理やり自分を納得させていました。
でも、膨張パラメーターから不可逆性を導くというアイディア、すごく興味深いです。私は、社会科学分野の研究者なので、こうした問題を考える力はないです。具体的にコメントできないです。すいません。また、等価質量を組み込んだ重力場方程式の議論にも、すごく知的好奇心は刺激されますが、具体的にはとてもついていけません。すいません。でもバクさん、こんな問題を考えていたのですね。すごいです。
ところで、伏見康治さん昨年亡くなりましたね。私がこの記事で紹介した『混沌からの秩序』を訳出したのも伏見さんでした。物理学界における巨大な知性だったと思います。謹んでお悔やみを申し上げます。
>時間の不可逆過程は、…「ゆらぎ」があり…非線形な相互作用性があれば発生
なるほど!と思いました。わたしはそこまで思いたませんでした。
ゆらぎと非線形な相互作用は確かにA→Bの不可逆性を持つのは言われてみれば当たり前ですね。ただ疑問点が残ります。ゆらぎ自体に不可逆性を内包しているはずです。するとこのゆらぎはエントロピーを減少させる場合も考えられます。実際、星の生成、生命の誕生などは宇宙全体がエントロピーが増大する流れの中の微少部分におけるゆらぎによるエントロピーの減少であると捉えることができると思います。
私は時間の一方的な流れはエントロピーの増大によるものだと考えています。この考えを関様のモデルに当てはめるとすればエントロピーを増大させる因子を組み込まなければなりません。それを相互作用で必然的に出てくるのだろうかという疑問が残ります。おそらくなんらかの人為的に挿入させることになるような気がします。もしそうであってもこのような現象論的議論の中で新しい発見ができるかも知れません。
>伏見康治さん…物理学界における巨大な知性
私もそう思います。その知性は物理学でなく思想面でも偉大だったと思います。小泉-竹中の侠客-バイキング的思想がもてはやされる昨今、伏見先生のような重厚な思想家の出現が望まれます。
さてその伏見さんが唱えた「等価質量」ですが、昨今話題となっているダークマター(暗黒物質)の説明に使えないかと思っています。この巨大な質量はE=mc^2より巨大なエネルギーでもあり、このエネルギーがエントロピー増大の法則に伴って拡散していく。それが膨張宇宙である。と言うような妄想を抱いたことがありました。
ただ熱力学は時間変化に関する定量的計算とは相性が悪く、手がかりさえつかめていません。
余計なことかも知れませんが、ご参考になればと思い
http://homepage2.nifty.com/eman/
を紹介します。
物理学について、私が勝手にライバル視しているサイトでいつの日か対抗して自分も!と思っているところです。彼の専門に対する思いや境遇は似たようなものです。
数式に囚われず物理的解釈を重視していますが、数式も丁寧です。電磁気が一番完成度が高いです。
ところであのサイトですが、昨日、最後の書き込みをしました。もう足を洗うつもりです。
私は宗教・哲学と物理学の関わりについて興味を持っています。ただし弁証法は全く知りません。それもあって関様の記事を楽しみさせていただきます。
時間不可逆な数学モデルをつくろうとすると、どこかに「不可逆性の公理」を導入するしかないですね。
これは「自然そのものがそうなのだから仕方がない」と割り切ればよいのだと思います。
>私は時間の一方的な流れはエントロピーの増大によるものだと考えています。
エントロピーが増大していても減少してても不可逆現象であれば、時間は正の方向に流れていると考えるしかないと思います。地球など局所的にエントロピーが減少する系の時間方向を定義できなくなってしまいますので・・・・。
ああ、でもこれを考えだすと、泥沼にはまりそうです・・・・。
しかし社会人になっても研究への旺盛な知識欲を失っていないバクさんはすごいです。アマチュアであっても、楽しく研究できればすばらしいですね。
関さん>>昨年、ノーベル物理学賞を受賞した小林誠氏と益川敏英氏は坂田昌一の弟子です。その益川氏は、『サンデー毎日』の2008年12月28日号に「人生を変えたこの一冊」としてエンゲルスの『自然の弁証法』を挙げていました。「ああ、やはり」と思ったものでした
バクさん>>(バクさん?伏見康治は?)戦時中、広島大学で波動幾何学と名付けたものを研究していました。これはディラックが相対論と量子力学を結びつけるディラック方程式をたてたのですが、その手法をそのまま使って時空間を演算子化し、宇宙論を展開しました。その結果、ドジッター型宇宙モデルまで打ち立てたそうです。
なにか懐かしい名前と話が出てきていますね。生年が10年、20年違っても、結構、おなじような思想的遍歴をしている人がいるものだなとの感慨一入でした。
バクさんの書き込みは、だれが主語なのか良く分かりませんが、年代から考えて、バクさんご自身が「戦時中、広島大学で波動幾何学と名付けたものを研究していました。」というのは、不可能でしょうね。そうとしたら90歳近いはずですから。
それはともかく、宇宙の構造について考えている人が二人もいるプログサイトもすごいとおもいます。たまたま昨日読んでいた本にちょっとおもいろい記事がありましたので紹介します。これは、その方面では有名な話しなのでしょうか。
プリンストン大の宇宙物理学者J.リチャード・ゴットⅢによれば、宇宙の大構造(銀河の希薄な泡と銀河の集積している壁の配置)は、スポンジないし海綿とみればよいそうでです。
そのスポンジですが、これは平準な密度の媒質に小さな揺らぎがおこった結果だそうです。揺らぎがプラス・マイナス双方に同じような構造で起こるとき、プラスの方のみを見ると海綿の実質で、泡の方が空洞になります。
さらに面白いのは、海綿の泡は、すべてつながっていて、海面の中に樹脂を流しこませて泡を充填したのち、海綿の方を酸で溶かして取り出すと、樹脂の構造も、スポンジに近いものだというのです。いままで、スポンジの実質の方ばかり見ていて、空洞の方がどういう構造なのか考えたことがありませんでしたが、これは多いに驚くべきこととおもいました。
宇宙の始め小さな揺らぎが均質な空間におこり、それが次第に拡大されて現在の宇宙の大構造になったとすれば、プラスの部分(銀河の密度の高いところ)とマイナスの部分(銀河の密度の薄い部分)とが、ほぼ同一の(確率的ないし揺らぎとしての)構造をもっているというのは、考えてみればそうあるべきことですよね。でも、これはなかなか気がつかないことではないでしょうか。
この記事は、シュボーン・ロバーツの『多面体と宇宙の謎に迫った幾何学者』(原題:King of Infinite Space Donald Coxeter, The Man Who Saved Geometry)の日本語版309-311ページあたりにあります。そこにはスポンジの代表として「ねじれ正多面体」という用語が使われているのですが、スポンジの構造の定義は、別にいるのではないかとおもいます。
>それはともかく、宇宙の構造について考えている人が二人もいる
私の場合、大学で宇宙物理学科に入りたかったのですが、受験勉強が大嫌いだった私は英語の偏差値が低すぎて入れず、けっきょく宇宙の探究はあきらめたという経緯があります。物理学や天文学に関する興味や研究能力とは関係のないところの、英語能力の低さなどで、自分の夢がかなえられないというのは本当に不本意で、悔しかったのを思い出します。その意味でも、英語が大嫌いという益川敏英氏のノーベル賞受賞は本当にうれしいことでした。英語重視の文科省には、この意味を真剣に考えてもらいたいと思います。
私の場合、半分は仕方なく進路を変更して、宇宙ではなく足元の地球について研究しようと、林学科に入ったのでした。宇宙をあきらめて以降は、宇宙の構造についてほとんど何も考えておりません。
> ったのですが、受験勉強が大嫌いだった私
> は英語の偏差値が低すぎて入れず、けっき
> ょく宇宙の探究はあきらめたという経緯が
> あります。
日本の宇宙物理は、あたらひとりの優秀な才能を逃して、大損をしましたね。
多数の科目のどれでも点がよくなければならないなんて、現在の選抜制度はめちゃくちゃです。益川さんの場合も、名大に坂田さんがいて、物理学に興味をもち、名大に志望し、それで名大に受かた。よい組み合わせができて良かったですね。
大阪市立大学時代、たぶん入試委員会かなにかで理学部の先生と話す機会がありました。その先生は、「物理学をやるには、英語もできなければならないし、数学も出なければならない」、「物理では学部学生でも、英語の論文を読まなければならない」というのです。私が言ったのは、こういうことです。
「たしかにそうかもしれないけれど、もしそんな学生がいて、物理のセンスもあるとなったら、大阪市立大学には来ませんよ。たぶん、東大か京大に行ってしまうでしょう。大阪市大のチャンスは、英語はできないけれども、物理は抜群という学生を見つけて国際的に活躍できるように伸ばしてやることでしょう。」
反論はありませんでしたが、あまり賛同もしてもらえませんでした。益川さんのような例があれぱ、わたしの意見にも真実さと迫力があったのでしょうに、残念でした。
益川さんが教育会議にお呼びがかからなかったのは、政治スタンスの問題より
「英語なんとか必要な人がやればよい、そうでない人はやらなくてもよい」
などという発言が怖かったのではないでしょうか。
> 先生が経済学研究の傍ら、最新の宇宙論の動
> 向にもアンテナを張っているというのは、
> 本当に凄いことです。
これは事実に反します。たまたまこういう記事に出くわしたというだけです。読んでいたのは、コクセターという数学者の伝記で、しかもかなり主流から離れた学者の伝記です。それでも、どこ科で最先端の宇宙物理とつながるところがあったということなのでしょう。
しかし、一般論としては、英語のできない学生を排除するいまの選抜制度はひどいと思います。語学能力は、自然科学分野での知的生産能力とはまったく別の次元のものですので・・・・。語学能力を強制することで、すごく多くの人材が失われていると思います。
経済学でも、森嶋通夫先生なんか英語大嫌いで、「英語の能力と経済学の研究能力は反比例する」なんて言っていたという話を聞きました。(直接面識がなかったので、その話が本当かどうかは知りませんが)。
日本語で深く考え、思索し、日本語で考えた概念を翻訳したとき、国際的にも面白がってもらえる知見が生まれるように思えます。英語ペラペラの学者って、翻訳して日本に紹介して喜んでいるだけで、思索が深い研究者は少ないように思えます。
森嶋さんというとイギリス社民(サッチャー以前)が大好きな方だというイメージ(そりゃもう「かぶれ」と呼んでよいほど)がありましたが、英語嫌いだったんですね。意外です。
森嶋さんも亡くなる直前に、東アジア共同体の必要性と、そのためにも日本の歴史の総括の必要性を説いていましたっけ。