仮面ライダーの造形(彩色込み)と言えば、個人的に初見でいちばん衝撃を受けたのはどの作品の何ライダーだっただろう?とふり返ってみました。
個体数としては、劇場版も入れると触れ込み通り13体のライダーが入れ替わり立ち代わりした『龍騎』が圧倒的ですが、あらかじめ明らかに正義ではないライダー、性悪なライダーとして登場したヤツらもいて、“仮面ライダーらしくなくてむしろ当たり前”感があり、造形的にそんなに暴走していた印象はありません。
襟足に尻尾風のお下げがついてたライア、肩からにょっきりツノが生えてたガイ、胸当てや肩が毛皮仕立てだったインペラー、マスクの上アゴにヒゲヒゲのタイガなど、基本的に戦隊の動物モチーフ怪人でも使えそうな着眼点でなかなか愛くるしいヤツばかり。いずれも、シリーズ主役で唯一無二の正義のライダーとして出てきたらさすがに違和感があったかもしれませんが、元祖仮面ライダーのような改造人間ではなく、そこらにいる普通の、いろんな欲や願望を持つ若者たちが“モンスターと契約して得た、かりそめの変身能力”のヴィジュアル化としてはうまくいっていたと思います。
ガイやタイガ、TVSPのベルデなど、立ち居から戦法から何からあからさまに敵性というか、“正義なるものに背反”感に満ちていました。カメレオンの舌先で空中ブランコして敵を地面にアタマからぶっ刺したり、虎にズリズリ引きずって来させて、自分は立って待ってて爪ぐっさり突き立てたりする正義のライダーなんかいるわけがない。「綺麗事の正義や世のため人のために戦ってるんじゃない、オレはオレの欲しい物、叶えたい夢のために戦うんだ」という、正統派ライダーとは違った切実感があって、カッコいいとか強そうとかを超えた魅力がありました。『龍騎』はヒーロー物語としての異色性が、造形の異色性とうまいこと地続きになって、両方が成功した好例と言っていいと思います。
放送前の紙媒体で見て、いちばん驚いたのは翌年の『555』でしょうね。TV誌の白黒写真で偶然目にしたのですが、“先端企業(スマートブレイン社)が開発した超性能工業製品”という設定解説がなかったら、「もうコレ仮面ライダーじゃないし」と脱力して視聴しなかったかもしれません。
1号ライダーからずっと、“含有量”を匙加減しつつ継承されてきた“昆虫モチーフ”“動物っぽさ”が完全に払拭され、ギリシャ文字のΦから発想されたという無機的な工業性全開のルックス。そのため期せずして“無機的な工業製品が、人間を愛する心を持って、人間らしい動きで人間のために戦っている”という特異な構図が生まれ、これまた異色の魅力作、魅力キャラになりました。
しかも敵対する怪物群=オルフェノクは、ファイズたちライダーの無機性とは対極的に、思いきり動植物っぽい有機性を湛えつつ、彩色は遺灰を思わせる基調のモノトーンで“命あるものの終焉、衰亡”を体現していました。人として一旦死し、人に敵対する者、人の滅亡をもくろむ者として再生する存在をヴィジュアル化したら、生々しい彩色を持たないああいう形になるのは自然。『龍騎』とはまた少し違った意味で、造形の冒険が奏功した作品と言えるでしょう。
こうして見てくると、平成ライダーの歴史は、“もともと異形の者として設定された‘仮面ライダー’を、異形という前提からさらに踏み出して異形化することで、どれだけの物語を紡ぎ出し得るか”の挑戦の歴史のように思えます。
始まったばかりの今作『ディケイド』は「あらかじめすべてを失った者」と設定されています。言い換えれば、『クウガ』から『キバ』までの9ライダーは、すべて門矢士である可能性があった。士=ディケイドはそれぞれのライダーの“世界”で、“自分だったかもしれない”ライダーと共闘したり援護したり、揉めたり敵対したりしなければならないのです。
言わば“敵も味方ももうひとりの自分”。
いままで、自分を含む人類を脅かす敵と戦って勝利するのがデフォルトだった正義のヒーローとして、これ以上の“異形性”はありません。前の記事でピンクメインカラーにグリーンアイズの、カラーリングの突飛さに注目してみましたが、今後は物語として“自分がネイティヴヒーローだったかもしれない世界”で“通りすがり(=どこかから来てどこかへ去る第三者)の仮面ライダー”として戦うディケイドが、どれだけ膨らみ、味を出してくれるかを見守りたいと思います。
最後に駆け足になりますが今日はこれに触れないわけには行かない、と言うより今日しか触れる機会はないと思うので書いときます。不倫交際から23年ぶり復縁入籍の玉置浩二さん石原真理子さん。第一報聞いての感想は「大丈夫か玉置」。
芸能記者に詰め寄られて涙の会見やってた頃の石原さん、「痛いから本当にやめて」と訴えながら膝裏蹴られて階段転落、救急搬送された頃の石原さんではなくなっていることに、玉置さん、気づいているのかどうか。あの後の23年少々、玉置さんはバンド解散や俳優業への転身、再婚→離婚→再々婚→再々離婚、その間には腸憩室で入院など芸能人なるがゆえのプレッシャーを数々こうむってきましたが、石原さんは、ご本人の自覚はいざ知らず、傍目からはまったく矯正も抑圧もされることなく、青天井でここまで来ています。
月河のカラオケテリトリーの中に結構な曲数があるので、いまだにPVなど観る機会が多いのですが、80年代中盤のナル全開で、アイラインに肩パッド衣装でブイブイ言わしてた頃の玉置さんならともかく、五十路を迎え体調も万全でなく、新譜の報もついぞ聞かない玉置さんに、“DV後青天井23年”の石原さんを制御する、あるいはせめて伴走するエネルギーが残っているかどうか。
なんとなく、高齢家族の近似年代女友達のうち、少なくない人数の皆さんが冗談めかして「ウチの旦那にはわがまま放題、女遊びに賭け事好き勝手されて泣かされたたから、定年後介護が必要になっても絶対面倒見てやらない、カタキとってやる」と笑っていたのを思い出してしまった。玉置さん、よもや女を舐めちゃいないか。本気で惚れた相手だからこそ、煮え湯飲まされた経験は、女は(それこそオルフェノクじゃないけど)灰になるまで忘れないからね。
それにしても、この足かけ二日で85年頃の、不倫交際時代のお二人それぞれのVTRをずいぶん見せられましたが、熱いなあ。お二人ご自身じゃなくて、映り込む芸能レポーター、カメラマン、インタヴュアー等等の体温が。ほとんどのVが夜中、マンション玄関口前やテレビラジオ局の駐車場か通路と思われる狭い空間で、ご本人の周りに押し合いへし合い、「どうなんですか」「どうするんですか」「退いて!」「開けて!」とかなんとか口々に叫んでいるんだけど、当時のカメラの夜間撮影で粒子が粗くて明暗のコントラストがきついので、いや増しの殺気と切迫感。
交際も妊娠も入籍もFAX一枚、メール一本、せいぜいブログの一エントリで公表を済ませるのが当たり前になった当節の芸能界、芸能マスコミ界に比べると、あの頃は取材するほうもされるほうも、アナログな、肉感的な熱気に満ちていたものですね。不倫となじり熱愛と持ち上げつつ、“生々しさ、人間くささへの希求”とでも言いますか。
当時の玉置さんぐらいのミーハー人気の既婚ミュージシャン(そもそも、居るのか)と、石原さんぐらいの美人お嬢さま女優の不倫交際の噂が立っても、いまのマスコミはあれだけ生身で肉弾突撃はしないでしょう。代わりに誰もがレポーター、カメラマンになれるネットというものがあるし、盗撮投稿サイト的なものもいくらもある。
23年を経て再び渦中の当事者となったお二人をよそに、世の中の“体温”“血圧”がずいぶん低下したものだなぁと思います。もう、あまり人間が人間を好きにならなくなった、人間に興味を持たなくなったのかもしれません。みんな自分のことだけでじゅうぶん忙しいし。
そんな時代だからこそ、“23年もたっていまさら復縁”のお二人には希少感があって騒がれるのでしょうね。