『夏の秘密』最終話でいきなり護(谷田歩さん)が介護福祉士志願に転じていたのは、直接的には自分の身代わりに刺された加賀医師(五代高之さん)の退院後のお世話しているうちに、眠っていたホスピタリティ適性が目覚めたんでしょうな。納豆入り卵焼き。どうもこの町の人たちは、伊織(瀬川亮さん)を筆頭に、納豆に格別の思い入れがあるようで。田舎ではない、さらに西日本でもない、東京の下町の朝には、確かに納豆がよく似合います。
護のような絵に描いたようなコワモテ、好ガタイで、外見的にはもっと荒っぽい職業のほうが合ってそうな屈強男性が、笑顔や親切身上のサービス業やってると、逆に信頼性が高まるかもしれませんね。劇中世界としては、一攫千金の儲け話に釣られる虚しさ、アブク銭をかさに着て偉くなったつもりになる愚かさに気がつき、同時に姉と偽って自分を育て庇って来てくれた母・蔦子(姿晴香さん)の思いに報いたいと遅ればせながら考えるようになった護を“目標を持って学問している”姿で締めくくりたかったのでしょうね。
ドラマ公式サイトの金谷祐子さんのインタヴューでいろいろ興味深い話題が読めます。今作はセレブの匂いのする環境ではなく、あえて下町を舞台にするところから作品を作りはじめたというのがまず面白かったですね。かつて妾宅であった戦後浅い頃からの古アパート“夕顔荘”を中心に立ち上がった、“下町”という名のミクロコスモス。これがドラマの大きな魅力のひとつになりました。
劇中、下町を襲う経済不況や自営業の後継者難、再開発や地上げの話題も出ましたが、一応リアル世界の時事に即しているようで、そこはかとなくファンタジックで浮き世離れした、自己完結なお伽の国として成立していました。言い換えればフィクションとして純度がきわめて高かった。借金苦で家庭崩壊自殺未遂、就職難引きこもり、出資金詐欺商法、違法金利の街金などタイムリーに心ささくれるモチーフも盛り込まれていたけれど、“身につまされて、観てると落ち込む”と思った観客はいないはずです。
終盤、裏に羽村社長(篠田三郎さん)が糸を引いているとも知らず地上げの手先となる雄介(橋爪遼さん)は、一応“不動産屋の若社長として形に残る大きな仕事をしてフキ(小橋めぐみさん)の心を捉え伊織から奪いたい”という動機があっての暗躍なのですが、なんだか“悪い魔法使いの魔法で催眠術かけられてた”みたいでした。
現実世界と隣接しているようで、実はファンタジー世界として独立しているという絶妙な舞台装置には、限られた予算と時間の範囲内で細部に工夫を凝らした美術スタッフさんの頑張りも貢献しているし、ほぼ毎話、下町シーンへの“入り”に、運河の水路や河川敷の遊歩道、橋といった“廊下風景”“流水”遠景を配置した撮影編集のセンスもあずかって力大。あの水路の絵は、毎回ほとんど“ここを越えればファンタジー世界に入る、境界線のお濠”のような役割を果たしていたと思います。
登場するたびに天使のような笑顔と、妖精のような独特の透明感ある台詞発話(←“棒読み”なんて言うヤツは石になれ)を披露してくれた紅夏ちゃん(名波海紅さん)の存在も、ファンタジー世界へのこの上ない水先案内人となってくれた。05~07年の“背徳三部作”で主舞台をなした富豪豪邸やセレブ隠れ家リゾートなどの密室的小宇宙感とはちょっと違う、複数の人々の生活や家庭を抱く“町”“国”としての虚構を立ち上がらせ、最終話まで呼吸させた、これはこのドラマに力があったからこそ。
何より、事件の被害者であり第一当事者である“吉川みのり”という女性の容姿を、叙述上一度も正面顔で画面に登場させなかったのみならず、誰も彼もがカメラつき携帯持って、何を見た誰と会ったとかしゃかしゃ撮りまくっている時代に、「みのりさんって、どんな人だったの、顔のわかる写真はある?」という言葉、疑問を、紀保(山田麻衣子さん)からも誰からも発せしめず、「これがみのりの、いついつ頃どこで撮った写真だよ」と伊織に言わせることもなく、遺影どころか近影スナップの一葉も部屋にもアルバムにも掲示しておかなかった。
あたかも“それはもうわかっていることだから、コッチにおいといて”という文脈で貫き通した。
これ一つで、ものすごい強力なファンタジー、スーパーリアル感です。
殺害と思われる事件、それもエリート弁護士が容疑者ということで週刊誌ダネにもなった事件の、若い独身女性被害者です。伊織からも(←兄妹発覚前まで)柏木(坂田俊さん)からも、異性として慕われ、フキからは「伊織さんの心はあのひとのもの」と嫉妬され、しかも加賀医師の証言では「顔を変えることに執着して、まずチャームポイントの泣きボクロを取った」というみのり。第2部からは「奪われた自分の人生を取り戻すべく、羽村令嬢たる紀保にならんと、服装や髪型、持ち物や行きつけの店、食べ物の好みまで調べ上げ真似ようとしていた」というみのり。“どんな外見の娘だったのか”に、まともな知性のある人間なら関心を掻きたてられて当然の契機がテンコ盛りなのに、少なくとも紀保が「みのりさんってもともとどんな容姿で、私になろうと努力してどう変わったのかしら」と知りたがらず、伊織や近隣住民や、検死したであろう警察に「みのりさんの顔かたちがわかる写真はない?」と訊き回らないのは“ファンタジー世界だから”以外の何ものでもありません。
以前にもここで書いたかもしれませんが、フィクションにおいて読者観客を虚構に乗せる、うまいウソのつき方にはふたつあって、ひとつは“ちょっと違うような気もするけど、まあアリか”という程度の些細な、砂粒石っころくらいの小っさいウソを丹念に積み重ねて行って、気かつけばゴシック教会建築の如き精緻なウソの構造に隙間なく取り囲まれている…という方法。
もうひとつは、「絶対あり得ねえーー!」と圧倒させる、岩のカタマリの様などでかいウソで出会いがしら頬っぺた一発二発往復ビンタ食らわして、草むらに押し倒しガツン昏倒させてしまい、正気を取り戻したらすっかりウソに洗脳されていてビンタも押し倒しも記憶がなく、絶対あり得ねえと思ったことすら忘却の彼方…というやり方。
両手法の併用がいちばん強力ですが、今作『夏の秘密』は、“最大当事者のルックスに誰も好奇心を持たず追及せず、提示せしめない”という、さり気なく大いなるウソを通奏低音のように、息継ぎなしにつき続けて、結果的に“静かにファンタジック”なミクロコスモスを成立させ切った。
登場人物でもう1人、井口不動産の現社長=雄介父にして和美(山口美也子さん)夫、彼女曰く「うちのタヌキ」を最終話までついに画面に登場させなかったのも、みのりの外見を伏せ通すという形でのファンタジーを“下支え”する策だったかも。
昨日の記事に書いた様に、謎解きゆえに相愛のヒロインカップルの仲が逆風に翻弄されるストーリーならば、65話にわたって“(或る時点まで)叙述マスキングした回想内で謎解きが完結する”のではない物語が見たかったという思いは、最終話再生から24時間を経過したいまも強いですが、その物語、及び物語の主語となる人物たちを丹念に彫琢し動かし、接点を持たせ情動を起こさせるという姿勢において、ここまでやりきったドラマはやはり稀有。
目を惹く派手な場面や、ユニークな台詞、突拍子もない人物単体をご披露してウケて事足れりではなく、物語を“考えてこしらえ切る”ぞ!というハラが据わっているんですね。
改めて自分はこの枠の昼帯の、このスタッフの作品が好きなんだなあと実感を新たにしました。
次作までまた一年。なんだか、七夕の織姫彦星の逢引のようだなあ。