イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

歌姫たちの波濤 追補 ~何もかもすべてが夢心地~

2020-08-23 22:10:53 | 芸能ネタ

 「ごいすー(=“凄い”)だったな」・・

 ・・高齢組が、弘田三枝子さんと森山加代子さんと、ついでのトバッチリの様に坂本九さんの話で盛り上がって、スッキリした顔で寝静まってから、しばらくして非高齢家族が苦笑いしながら言い出しました。

 月河家で、高齢組の昔話攻勢が何の話題であれ本格的に炸裂して、クチ挟むタイミングが見つからないくらいになると、非高齢家族の反応はだいたいこれしかなくなります。

 (ちなみに非高齢家族は月河と同年代ですが、小学生坊主だった頃の興味関心が月河とは大幅に違うところにあった様で、芸能有名人の名前などデフォルトな事を知らなかったり、逆に三面記事的な事件や容疑者の名前を妙に克明に覚えていたりします)

 「“歌うまかったのになぜか消えた歌手”って言えば、そりゃ朱里エイコ、って言いたかったんだけど」・・話がヘンな方向に行きそうなので放置で炸裂するに任せた、とのこと。

 朱里エイコさん。このへんなら月河もリアルタイムで覚えています。1970年代初頭から表舞台に急に出るようになった、小柄に見えるけど脚の線がとても綺麗な人で、いつも深いスリットで脚を強調した、キラキラのスパンコールの衣装を着ていたような。出てきた時からすでに「アメリカのショービズ界(“芸能”界じゃなく)で武者修行してきた」「ラスベガスでショーに連続出演した」「アメリカの高名アーティスト誰某と共演した」「オリジナル曲の提供を受けた」とかなんとか、とにかく“アメリカでうんたらかんたら”の修飾を常にこってり背負っていて、良く言えば叩き上げの実力派感に満ち満ちていたものの、悪く言えばフレッシュさが全然なかった記憶もあります。

 調べたら1948年(昭和23年)生まれで、弘田さん、伊東ゆかりさんらより1コ下なだけ。たぶん弘田さん伊東さんたちが十代で、日本で日本語カヴァーの洋楽でヒットを飛ばしていた昭和40年前後、朱里さんはすでにアメリカに渡り“武者修行”に励んでいたのではないかと思います。最初から日本で売れたいと思わなかったのかな?・・「売れ出したころ、ハーフじゃないまでもアメリカの、特に黒人の血統が入ってる説もあったんだよな。リズム感とか、間奏で歌ってないときでも全身でパーッとアピールする感じとか日本人離れしててさ」

 “日本人離れ”・・やっぱりそこ行きますか。想像ですが、朱里さんの場合、血統や出自が何らか影響していたのかはわかりませんが、“この日本って国、生きづらい”という気持ちが思春期の頃からどこかにあったのではないでしょうかね。アメリカの楽曲に日本語詞をあてて、日本のテレビやラジオで日本人向けに歌ってウケることを目標にしたくなかったのかもしれない。歌手を夢みる日本人少女の中に、そういう方向の野心やコンプレックスを持ち、それをバネにする子は一定数いたはずです。敗戦後約20年という時代背景を考えると少しわかる気もする。

 朱里さんの“アメリカ武者修行帰り”は看板倒れでないことは、子供の月河がテレビだけ見ていてもわかりました。実家母は「バタ臭い」と評していたように思います。非高齢家族が記憶していた“アフロアメリカンの血が入ってた説”は、実家母は知らなかったと思いますが、“日本人離れ”はしているし脚はきれいだけど「見てごらん、頭が大きくて、バスト下からウエストにかけてズーンとしてる(=ずん胴)でしょ、あれは日本人体型だよ」と、洋裁をよくする人らしい着眼でした。

 そして不思議なことに、“アメリカ帰り”をあれだけ鼻高々で強調し喧伝していたのに、日本での初ヒットとなったオリジナル曲は、タイトルからして『北国行きで』と思いっきり昭和歌謡で、曲もサビに入るところの♪ あァ――なンにもあなッたは知らないの と、軽いR&Bばりにイキむところに彼女らしさの片鱗はうかがえるものの、全体的には別に朱里さんでなくても歌えそうな曲なんですよね。

 この1972年(昭和47年)という年は吉田拓郎さんの『旅の宿』や小柳ルミ子さんの『お祭りの夜』『瀬戸の花嫁』等がヒットして、日本全国なんとなく“旅ごころ”“離郷志向”にさそわれつつ、レコードセールス№1は宮史郎とぴんからトリオ『女のみち』とド演歌。たぶん朱里さんを日本で売り出すについてその地合いから浮かないように、“アメリカかぶれ”臭がきつくならないように・・と考えての選曲だったのでしょうし、事実うまいこと紅白歌合戦の選に入るヒットにはなったのですが、朱里さん自身は納得していなかったのではないかとも、ちょっと思います。

 前の記事でも書いた森山加代子さんは1970年の『白い蝶のサンバ』でのカムバックからこの年には再びフェードアウトしており、やがて結婚が報じられました。69年に『人形の家』で変身登場した弘田三枝子さんも、この年からは紅白出場が途絶え、その後一度も出場していません。

 思うに、GSブーム、エレキサウンドブームを通過して、この時期の日本は、日本人アーティストの“洋楽傾倒”“アメリカ踏襲”に倦んでいたのではないでしょうか。一方でカーペンターズなどカヴァーでない本物の洋楽もベスト50以内に入ってきていますから、外国人が外国人の顔で歌う外国語の曲は、それはそれで受け容れられるようになってきていた。弘田さんの『VACATION』が戦後17年、森山さんの♪ ティンタレラ ディルンナ~『月影のナポリ』は20年。長い様で短い、でも短いようで、敗戦のズタボロからやはり四半世紀余を越えたということは大きかったのです。

 朱里エイコさんがもし十代での歌手としてのスタートを、弘田さんや森山さん、伊東ゆかりさんの様に日本で切り、アメリカ流にこだわらずに日本人に聴かせるポップスを歌っていたら・・と思わずにいられませんが、『北国行きで』の頃日本で喧伝されていた通りの評価と成功をすでにアメリカで獲得していたのであれば、そのままアメリカに居ついてアメリカ国籍取得し、アメリカを拠点に世界規模で活動する道もあったろうに、帰国して日本の芸能界の流行りに合わせて歌謡曲でヒットを狙うということは、どこかで“私は日本人なんだから日本で認められたい、錦を飾りたい”気持ちがあったのかなとも思います。

 いくら実力があって努力もしても、アメリカの1960年代のショービズ界で、敗戦国のアジア人女性歌手が、差別や偏見を浴びせられなかったはずもない。

 日本に居ればアメリカに憧れ渇望し、アメリカに渡れば日本への凱旋を願う。朱里エイコさんは晩年は健康を害して露出が減っていましたが(2004年56歳で死去)、そういう事とは別に、ふたつの相反するベクトルに、溢れる才能と意欲を摩り減らした人生だったような気がしてならないのです。

・・おや、でもウチの非高齢家族は、ちょっと違う事を言いますよ。

 曰く「朱里エイコも、森山加代子とおなじで男マネージャーと結婚したけど、離婚して、離婚したのに事務所は共同で運営してて、結局、例の宗教団体○○△会のトップと衝突して、それでガツンと仕事が減ったんだよ」・・・・ありゃりゃ、それは初耳だわ。訃報もそういえば新聞の扱いが小さかったような。圧かけられてたのかしら。

 ・・・「何で宗教に入ってたのか知らないけど、うまいことやってればあの団体は傘下の興行会社が日本全国にネットワークあるから、ショーとか舞台の仕事回してくれるし切符も売ってくれたのに、よっぽど腹に据えかねることがあったんだろうな」「宗教やめて急に声が出なくなるわけじゃない、歌がヘタになるわけじゃないのに世間は冷たいよな」「歌うまかったのに消えた人、沈んだ人・・で朱里エイコの名前出したら話がヘンな方向に行きそうだなと思ってコレ(=クチにチャック)してたわけよ。宗教ってなると、もう音楽や歌の話じゃなくなるから。問答無用だから」。

 ・・そうか。非高齢家族の話ですから根拠はないですが、彼女が宗教団体に入る様なマインドの人だったなら、アメリカと日本に引き裂かれる上昇志向にも意味があったのかな。あの団体は海外、特に欧米で布教集金の広告塔になり得る芸能人は優遇しますからね。

 実は月河が“朱里エイコ”という字並びと声に初めて接したのは『北国行きで』でも紅白歌合戦でもなく、『アニマル1(ワン)』というスポ根アニメのOP主題歌のクレジットだったりします。調べると1968年(昭和43年)春から秋の放送。アマチュアレスリングでオリンピックを目指す少年が主人公とあって、『いだてん』風の(←既に懐かしい?)ファンファーレ調なイントロ、♪やるッぞいッまにみてッろ バババババンッ!と 日の丸あっげるっのだーー!  と、当時推定20歳の朱里さんの、パワフルかつ澄んだ声が勇ましく気持ちいい。

 たぶん最初の渡米武者修行から帰国して、日本での歌手活動を手探りしていた時期のアニメソングオファーだったのでしょうが、なんとなく、72年の『北国行きで』よりこちらのほうが、朱里さんの“歌いたい!”情熱にフィットしていたようにも響くのです。

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歌姫たちの波濤 ~儚い命 運命(さだめ)なの~

2020-08-22 21:29:47 | 芸能ネタ

 このブログでいっとき「有名知名人の、媒体で伝えられる訃報については“アノ人のときは細々触れたのに(同じ分野もしくは同年代で同程度活躍した)コッチの人のときには無視”とはなりたくないから、原則ぜんぶスルー」(大意)と、勘違いな姿勢を臆面もなく打ち出していた時期があります。

 それをみずから引っ込め「今日は訃報について書く絶対書く書くっつったら書く」と宣言して封印を解いた(←これも勘違い)のが2011年6月の、ピーター・フォークさん逝くのときではなかったかと記憶していますが、それから9年。

 これだけグウタラで目標意識も信念もないブログが2020年、令和のコンニチまで続いていることも不思議かつ万感ものですが、9年も経つと、記事に書こうが書かずにスルーしようが、重ねた齢(よわい)的に、「人間が死ぬ」「この世に存在し活動することをやめる」という報への興味関心、刺激され度合いはより高まってきます。

 ウチの高齢家族、非高齢家族ともにそれぞれの度合いで同じ傾向なようで、先日の弘田三枝子さん急逝の報で、「あの頃よく流れていた曲あれこれ、歌がうまいと思った歌手あの人、この人」の話題にしばらく花が咲きました。

 「弘田三枝子もすごかったけど、うまいと言えば森山加代子」と、思いがけない名前を出してきたのが、月河家でいちばん洋楽との接触が長い高齢家族その2。「女性にしてはふっとい声で声量があってね、少しハスキーで、テレビの時代になって浅かったけどマイク乗りがすごくいい」「♪ティンタレラ ディ ルンナ~(『月影のナポリ』) って、カタカナ歌詞でもはっきり発音するのが良かった」。

 「♪かわいいベイビー ハイハーイ(『可愛いベイビー』) なんて、あとから歌った中尾ミエの持ち曲みたいになっちゃったけど、森山加代子のほうがずっとうまかったよ」・・高齢組ふたりとも、この“はっきりキレイに発音”“聞き取りやすい”は、加齢で聴力が怪しくなるずっと前から、彼らにとっての日本語歌手の最大の基準です。かつての『スター誕生!』の審査員松田トシさん的なところがあり、彼らにかかるとまずサザンオールスターズはほとんど全曲ダメですが、井上陽水さんはOKです。歌詞の意味が不明でも容易に聞き取れて「♪へやのどあーはきんぞくのめたるで」(『リバーサイドホテル』)等と字に起こせるから。

 ・・ところで森山加代子さんと言えば、月河の年代だと『白い蝶のサンバ』の印象が強く、早口言葉の様なリリックで確かに活舌が良く発音も良く、声も伸びがありテレビ画面から前に向かって放出してくる感じだった記憶はありますが、♪ていんたれらでぃるんな~ などの洋楽カヴァーは、『白い蝶~』が売れてからの森山さんが“昔歌っていた曲”として知った程度。1940年生まれですから、バリバリ売り出しの時期が弘田さんよりちょっと前だったので、就学前児童月河の守備範囲に入って来なかったと思われ。

 調べたら、森山さんは惜しくも昨年=2019年3月にすでに鬼籍に入っておられました。78歳。知ってた?と高齢組に訊いたら、なんと知っていました。ただ「去年だっけ?もっとずっと前だった気がするけど」

 「あの子は函館出身でね、札幌の、当時有名なジャズ喫茶で歌っていたところをスカウトされて、NHKの『夢で逢いましょう』で、坂本九ちゃんとコンビで売り出したの。デュエットで紅白歌合戦にも出て、映画も共演して、プライベートでもいい仲で、キューちゃんカヨちゃん“結婚するらしい”“今年じゅうにする”“決まりだ”ってずっと、あの頃はテレビのワイドショーみたいのは無かったから、週刊誌なんかでさかんに言われてたのに、いつの間にか言われなくなったなと思ったら、九ちゃんは出続けてるのに、森山加代子だけ出なくなった」

 「何年も、そうねえ、十年近くテレビに出ないし曲も出なくて、不思議と、あの子が歌って売れた昔の曲までピタッと、懐メロ番組でも流れなくなって。で、久しぶりに出て来て、あーやっぱり歌うまいわと思ったら、なんかヘンな早口言葉みたいな曲を歌ってた」

 ・・『白い蝶のサンバ』は1970年(昭和45年)、大阪万博EXPO’70の年の大ヒットです。ちなみに作詞阿久悠さん。

 弘田三枝子さんが『人形の家』で変身カムバックを果たした翌年ですから、この時期、“洋楽カヴァー全盛時代を支えた歌手たちの転身・模索時代”だったのかもしれません。

 「で、戻って来たなと思ったら、また一年かそこらで出て来なくなって。歌うまいのに一発屋みたいになっちゃってね」

 ・・高齢家族なりの総括は「あの子は坂本九ちゃんの、プロダクションか何かに潰されたんだと思うよ。結婚も、本人たちは本気だったかもしれないけど、周りの偉い人たちがなんだかんだ反対したんだろうね。イメージとか売り上げに影響するから」「ひょっとしたら、カヨちゃんが“結婚しても歌い続けたい”って言ったのに九ちゃん側が“ダメだ引退して家庭に入れ”って言って、譲らなかったから干されたのかもしれない。売れてる芸能人同士が結婚したら、旦那がいっそう稼ぐのはいいけど嫁さんも稼ぐって時代じゃなかったから」「で、あの子がまた出なくなった頃に、九ちゃんは美人の女優さん(=柏木由紀子さん)と結婚した。“やっぱりね”だよ」「短髪でおせんべいみたいな顔して、九ちゃんて隅に置けないヤツだったのよ」

 ・・・・森山さんと地元が近かったせいか、結構、妄想も入って言いたい放題でしたが、この件も調べると、坂本九さんが柏木さんと結婚したのが1971年12月。その翌年1972年に、森山さんも別の男性と結婚しています。そしてその2年後から、森山さんにオリジナル曲のリリースはありません。

 昨年3月の訃報の記事を検索してみたら、旦那さんはかねてからの森山さんの音楽事務所のマネージャーさんで、ライブコンサートやショー出演など晩年まで二人三脚、最期も看取ったそうですから、78歳、まだ歌いたいしやりたいこともあったかもしれませんが、じゅうぶん万々歳なのでは?・・高齢家族「添い遂げたんだからね。でもマネージャーってのは、仕事取ってきて仕事場に送り迎えして歌わせるんでしょ。死ぬまで働かされたわけだよね、旦那にね」・・九ちゃんと結婚させてあげればよかったのにっていまだに思う?「してたら即、引退だったろうね。それも勿体ないし。本当に歌がうまかったから」

 ・・・と、そこで、それまで黙って聞こえない振りか、本当に(聴力的に)聴こえて無いのかと思っていた高齢家族その1が「そうじゃないだろ、森山加代子は」と急に加わってきました。

 彼曰く「(坂本)九と、何でもカップル、セットで出されるのに嫌気がさして、事務所をおん出て独立したから、いっとき干されてたんじゃないのか。九と結婚するって噂も宣伝部が流してただけで、本人は引いてたらしいぞ」「九のスキヤキ(『上を向いて歩こう』)が大ヒットしたから、自分も九とセットじゃなくソロで売れたかったのに、事務所が本腰入れなかったから。結婚した旦那はそのとき独立させた縁で、あの頃、マネージャーが商売もの(=担当する歌手)とデキるのは大反則だから干されたんだろう」

 ・・・てことは、九ちゃんが柏木由紀子さんと結婚したので、森山さんも安心して翌年、そのジャーマネさんと結婚できたのかな?・・「そのへんはわからん」。シロウトがわかるわけないですわね。芸能記者とかレポーターがいたとして、当時の事情を知る年代の人はそれこそもう故人かもしれないし、存命でも記憶が確かかどうか。

 「歌はうまかった。洋ものの曲も良かったけど、早口言葉みたいなアレも悪くなかった」・・高齢家族その1は、その2ほど洋楽好きではなく、昭和ものでは当時社用族で賑わう夜の街で流れていた系の、歌謡曲寄りです。「歌がうまくても、時代の流行りに乗るかどうかってところがあるし、女の歌手は特に、男(おとこ)運にも左右されるわな」

 高齢家族その2もそこは異議無し。“歌唱力はあるのに男運どうこう”で、月河の年代だと、最初に思い出すのは中森明菜さんですが、“男”運と言うより、歌の人芸能の人を輝かせるのも萎ませるのも、家族、親族や裏方さんを含めた“人間関係運”“出会いと別れ運”次第という気がしないでもない。

 それにしても、弘田三枝子さんといい森山加代子さんといい、もう半世紀以上も前の歌手の活躍と浮沈、楽曲の流行りについて、ウチの高齢組がこんなに記憶が(正確かどうかは別にして)濃厚で、言いたいこと豊富だったとは意外でしかありません。有名芸能人と言えども、物故した人についてだと、新事実や新ゴシップが出ないので、思い込み・妄想で修飾し放題という気楽さもありましょう。

 高齢組の発言をこれだけそっくりポンとこのブログに転載したのも初めてかもしれない。

 ・・そう言えば坂本九さんの命を奪った日航機御巣鷹山墜落事故からももう満三十五年になったそうです(そっちで締めるか)。

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アナザー『VACATION』 ~輝く太陽背にうけて~

2020-08-15 19:23:54 | 音楽

 弘田三枝子さんの訃報で、歌手、特に女性の歌手にとっての“歌がうまい”は、どれくらい強力で、加点が高いのか・・というようなことを考えているうちに、当時「弘田三枝子、歌うまいよねぇ」とベタ褒めだった大人たちのうち、少なからぬ割合で「でも私は、オレは、伊東ゆかりのほうが好きだなあ」という声があったことを思い出しました。

 時は昭和40年=1965年になったかならないかぐらいで、月河は小学校上がったか、来年上がるかというぐらい。近所や親戚のおねえさんたちが遊びに来るとき持参の『少女フレンド』『週刊マーガレット』『なかよし』『りぼん』等を拾い読みしてはオトナ文化の摂取吸収(?)に余念ないさかりでした。

 前の記事でも触れた『VACATION』は、1960年代初期に複数の日本人歌手が日本語でカヴァーして歌っていましたが、いちばん耳にする機会が多かったのが弘田さんで、その次が伊東ゆかりさんヴァージョンだったように思います。ちなみに日本語歌詞はどちらも同じ。

 オリヴィア・デ=ハヴィランドよりジョーン・フォンティンが好きだった実家母も、伊東さん派のひとりでした。

 「声量とかパンチは弘田三枝子すごいけど、伊東ゆかりのほうが、声が低めでなんか可愛げがあるのがいい」みたいなことをよく言っていました。いま思えば、オリヴィアさんよりジョーン・フォンティンさんに好感を持ったのと通底する、彼女独特のアンテナだったなと思います。ちょっと地味め、と言って悪ければおっとりして、女子としては早熟か晩生かで言えばオクテな感じが、親近感がわいて好みだったみたい。

 弘田さんについては、「歌はうまいけどおテンバだねあの子は」「男の子に話しかけるとき“ねぇ”じゃなく“おぅ”とか“よお”とか言いそうなタイプだわ」とも言っていました。

 伊東さんも弘田さんと同じ1947年=昭和22年生まれで10代前半でデビュー、『VACATION』の頃には結構なプロ歴を持っていました。どちらのヴァージョンもいま動画サイトで聴けますが、伊東さんの歌唱版もリリース時15歳とは思えない、実家母の好んだちょっと低めの甘いヴォイスで堂々たるもので、かりに弘田さん版と二つ並べて「どちらがより“歌がうまい”ですか」と訊けば、それこそパンチと声量と、♪ ま゛っちぃどっうぉおしひぃのわぁ あ゛っきやすふぅみ~と、第一音節に濁点が付くかのようなド迫力の唸りシャウトで圧倒する弘田さんが水をあけるでしょうが、「どちらが“好き”ですか」と質問を変えたら、かなり拮抗すると思います。

 当時の日本の流行音楽シーンで、元来日本土着の演歌や唱歌の流れに属さない、洋楽ポップス、カヴァーチューン、洋楽“風”和製ポップスを歌う歌手は、お手本がアメリカヨーロッパにあるわけですから、「日本人離れしてる」が最高の誉め言葉でした。

 この理不尽なスタンダードは、戦後長く日本の音楽土壌に根を生やし続け、洋楽(“っぽい”)曲を歌う歌手はリズム感であれ歌いまわしであれ、地声の声量であれマイクの使い方であれ、振り付けアクションであれ、衣装デザイン着こなし、体型や髪型、メイクに至るまで「日本人離れしてる」とどこかで言われなければ「歌がうまい」うちに数えてもらえないみたいな縛りがありました。

 伊東さん版の『VACATION』は、何と言うかそういう縛りから自由なんですね。アメリカからの輸入物のカヴァー曲ではあるんだけど、当時の日本語の、日本人のティーンエイジャーの、ガール・ポップとして成立しているんです。

 ♪冬は楽しく スキーに行きましょう の“しょう”を「いきましょおー」と、煮え切らない彼氏にハッパかける掛け声のように伸ばして抛り出す歌い方。

 ♪寒さなんか忘れ すべるの の後は、弘田さんが♪Go Go  Go  Go!と、仮名表記すれば「がうがうがうがうッ!」になりそうなバタ臭いシャウト四拍で次節につなげているのに対し、伊東さんは♪hi  hi  hiと三拍、声で手拍子取る感じ。「アラ、一拍余るわ」と気がついたのか、セカンドコーラスでは四拍めを「・・はい」と小さめに合いの手のように入れていて、ガール・ポップというより“トレッキング部の女子マネポップ”みたいな、こそばゆい味わいがあります。これこそ弘田さん版にはないもので、当時の伊東さん自身や制作スタッフがどんな意識だったかはわかりませんが、2020年令和のいま、当時の世相や流行りを振り返りながら聴くと、「曲はアメリカものでも、日本人に聴いてもらうために日本人が歌うんだから」という、開き直りというか、誇りにも似たものが感じられるのが不思議です。

 一方で♪hi  hi  hiの直後、 ♪マッシュポテトを水辺で あの人と踊ろう と続くところ、弘田さんが「ッシュポテトをみずべで」と、カタカナ英語ふうに第一音節の“マ”にアクセントをおいて、平均に譜割りして歌っているのに対し、伊東さんのほうが「マシュポてぃとをぅみずべぃで」と、よりオリジナル寄りの譜割りで歌っているのも面白い。

(ちなみにここでの“マッシュポテト”は、「母親なら自分で作れ」と通りすがりのおっさんに言われるアレのたぐいではなく、当時アメリカで流行したダンスステップのひとつだそうです。これも動画サイトで検索すれば見られるらしいですが、月河の任ではないのでここはここまで)

 弘田さんも伊東さんも団塊世代ですから、幼い頃、昭和30年代から洋楽ポップスをむさぼるように聴いて、あちらの歌手の真似してみたりしながら咀嚼吸収して、おそらくはおもに進駐軍キャンプをオーディエンスとして現場で磨きながら自分のスタイルを形づくっていったのでしょう。

 伊東さんも昭和40年代、自身が二十歳を過ぎたあたりから歌謡曲調にシフトして、『小指の思い出』(作曲鈴木淳さん)『恋のしずく』『知らなかったの』(同平尾昌晃さん)など、洋楽ブームをくぐり抜けた日本人作曲家の手になる、良く言えばしっとりとオンナらしく洋物ビートやファンクとは距離を置いた曲が代表ヒットになりましたが、いい意味で唱法にも、容姿、存在感にもアクが少なかった分、弘田さんよりは摩擦抵抗少なく、広く好感持って受け入れられる大人の歌手に着地したように思います。

 お若い頃から、当時所属していた渡辺プロのタレント顔見世みたいなドラマ『S・Hは恋のイニシァル』でマドンナ役を演じたり、歌唱以外でも、いい意味でツブしのきく力量があり、月河が未だ記憶に鮮明なのは2011年のNHK朝ドラ『おひさま』での、ヒロイン(井上真央さん)の国民学校教諭時代の教え子の“成人後”役。なんでここで懐かしい伊東ゆかりさん?ひょっとして挿入歌とか歌ってくれるのかしら?と思いましたがそれはナシでした。

 本業でも、やはりナベプロ時代に人気を分けた“三人娘”の中尾ミエさん園まりさんと、精力的にライブ出演など続けておられるようです。

 個性で勝負する世界ですから比べるものじゃありませんが、『VACATION』の頃、あれほど「歌がうまい」一本でのして歩いている感のあった弘田三枝子さんが、売れ筋のうつろいに合わせて舵を切り模索しながら、結果的にはその、“「日本人離れ」してこその「歌のうまさ」”に殉じたように見えるのに対し、伊東ゆかりさんは「歌がうまい」では競作フィールドで一歩譲った分、あとが粘り腰だったなと思います。よく言われる渡辺プロの庇護と独立後の荒波など“芸能人”としての環境変化の得失プラスマイナスも関係なくはないのでしょう。

 改めて歌い手さんにおける「歌のうまさ」の意味というか、意外なほどの“万能でなさ”を思います。・・なんだか一周して結局前回の記事と同じ場所に戻ってしまいましたが、要するにそういうことです。

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弘田三枝子さん永遠のVACATION ~あれはかりそめの~ 

2020-08-10 22:43:54 | 音楽

 弘田三枝子さんの訃報は先月の末、新聞か、ネットニュースサイトで拾って脳内にありました。

 ここのところの情勢から、ひょっとしてコロナ?それほどご高齢じゃないはずだけど、でも団塊世代ではあるよね?志村けんさん岡江久美子さんの例もあったし、70歳代ならあるいは・・と思いましたが、報道によれば前日まで変わったところもなく、心不全で救急搬送、ほとんど突然死のような最期だったようです。

 報道後一日、二日経ってから、現役の同年代ベテラン歌手さんたち、もう少し若い、邦楽ポップス界クリエイターの皆さん、山下達郎さんや桑田佳祐さんらからも惜しむ声が数々上がって、こんなに幅広い層にリスペクトされていた人だったんだ・・と驚いた向きも多かったのではないでしょうか。

 近年はマス媒体への露出がほとんどなかったので、いまのアラフォーより下で弘田さんの名前を聞いて、楽曲と歌声が一致する人はいないでしょう。ヴィジュアルはなおのこと。

 しかし1960年代初頭、というより昭和30年代中盤から40年頃にかけて、日本でジャズやアメリカンポップスを好んで聴いて憧れていた人なら、歌手弘田三枝子に惚れない人はいなかったのではないでしょうか。月河はリアルタイムではまだ子供だったし、弘田さんの歌のすごさが実感できるほどの観賞力もなく、レコードプレーヤーもスピーカーも縁遠く、テレビさえ白黒、あまつさえ受信状態が悪くてNHKしか映らないような環境にいましたから「弘田三枝子ってすごかったんだよ」と実感をもって語ることはできません。

 ただ、周囲の大人たちの「弘田三枝子、歌うまいねえ」「パンチきいてるねえ」「声量あるよねえ」という絶賛、定評がすごかった記憶が鮮明なのです。この人歌うまいなアと自分が思うより、「歌がうまい」と褒められている、そのベクトルがすごかった。熱量ではなく、「弘田三枝子と言えば→歌がうまい」への、まっしぐらな一直線収斂のし方がすごかったのです。

(月河が、1947年生まれ弘田さんを含む団塊世代ベビーブームが終わって「世の中静まってから」の生まれなことが大きいと思う。前にも何かの話題でここに書きましたが、何でも月河が認識して好きになったり、あんまり好きになれなかったり態度を決める頃には“固体化”“客体化”していて、ワーワーキャーキャー、熱っちっちでなく、おおかたから冷静に評価され整理順列されているのがつねでした)

 月河が物心ついて初めて知った弘田さんの歌唱曲は『VACATION』、次いで『夢みるシャンソン人形』。どちらも洋楽ヒット曲の日本語歌詞カヴァーで、この分野に関しては弘田さんは、同年代(『VACATION』日本盤リリース時15歳)はもちろん、同時代のほかの歌手の追随を許さない、前人未到の野を駆けるパイオニアでした。

 いまでも動画サイトなどで他の彼女の代表曲とともに聴くことができますが、歌い出しの有名な♪う゛いえいすぃえいてぃあぃおえん~ がすごいだけじゃなく、ここと同じメロディーで♪待っちぃどっうぉうしひぃのわぁ~ と、原曲にはもちろん無い日本語詞を歌うリフレイン箇所の、それこそ“パンチ”のきき方が、日本人の女性歌手離れしていると言うより、ほとんど人間離れしているのです。これは弘田さんの、原曲の音程を聴き取る耳の良さであり、日本語歌詞を外来の音程に沿わせてはじけさせる、歌いこなしの才でもある。あの時代、日本的歌謡曲や演歌に飽き足らず、新来の洋楽にふるいつきコードやビートをスポンジのように吸収していた世代にとって、弘田さんという天才が切りひらいて見せ、歌って聞かせてくれた世界の広さ高さ輝きは唯一無二のものでしょう。たとえば桑田佳祐さんは、自身80年代にリスペクトソング『Mico』(ミコ=三枝子さんの愛称)で歌っておられたように、弘田さんがいなければ恐らくサザンオールスターズをやらなかったしシンガーソングライターにならなかった、少なくともああいう一連の曲想でああいう歌詞の当て方歌いまわし方で世にうって出ることはなかったはずです。

 だからむしろ60年代中盤以降、若者の洋楽志向が英国発のビートルズに接し、GSブームが起きて、世の中猫も杓子もの勢いでエレキギター・サウンドに傾斜していった時代からの弘田さんが、音楽的には大人しくなり、筒美京平さんや川口真さんの和製オリジナル曲を専らにして歌謡曲寄りになって行ったのは物足りない気がするのです。

 1969年=昭和44年リリースの『人形の家』は彼女にとって久々の大ヒットになったのですが、これ以降の弘田さんはどちらかというとダイエット本ベストセラーや美容整形イメチェンのほうで世の興味関心を惹く“タレント”“芸能誌物件”化して、「弘田三枝子と言えば→歌がうまい」のベクトルの明晰さは色あせていきました。ヒットチャートは日本人作詞家作曲家のオリジナル作品中心になり、彼女の稀有な日本語洋楽歌いまわしのテクがもてはやされる時代ではなくなっていたし、そうでなくても彼女が「歌がうまい」ことはもう十年来既定の事実になりすぎて、砂にめり込んで飽きられてしまっていたのかもしれません。

 『人形の家』でのあまりに瞠目すぎた変身イメチェンについてはいまだによくわかりません。1968年頃のジャケ写から、前髪を下ろしアイラインと付け睫毛を強調したバービー人形風メイクになってきているので、あるいはその少し前に渡米しジャズフェスに参加したことが心境の変化につながったのかな、とも想像します。言っては何ですが日本は敗戦国ですから、60年代はまだアーティストでも海外、特に欧米へのハードルは高く、カルチャーギャップも大きかったようで、短期でも欧米滞在経験がきっかけとなってイデタチが一変する人は少なくなかったように思います。

 そうでなくても、60年代の所得倍増時代、中学生でデビューして、休みもなく、(たぶん)ほとんどまともな学校生活もなく歌い続けて二十歳を迎える頃には、「自分を変えたい」「このままじゃいけない」的なことを考えるには違いない。「→歌がうまい」の直球一本鎗な呪縛、まるで歌がうまい事以外何も長所がないかのような見られ方に嫌気がさしてきて、「歌がうまい、だけじゃなくて美人でもある」にしたかったのかもしれません。

 ただ歌唱法まで変える必要はなかったのではないかと、陰に陽に「イメチェン前のほうが良かったのに」という意味の論評も、当時から聞こえてはいました。前述の桑田さんのリスペクト・ソングも歌詞ではっきりそう言っています。

 しかしこればっかりはなんとも。音楽シーンの変遷ははやく、十代の弘田さんの唱法での洋ものカヴァーに往時の需要が無くなっていたのだし、弘田さん本人の自分史、ダイエット等も含めた“芸能人”キャリアも、巻き戻すことはできなくなっていましたから。

 先週、8月7日にBSテレ東で追悼番組が放送され、何とか滑り込みで“最後のシングルリリース曲”だけ聴けましたが、ロマンティックバラード調の、訃報のあとで聴くと一層“乙女な老女の晩年感”に満ちた楽曲ではありながら、♪おンもいひぃっでへェだっけをぉ~ と、ともすれば歌いまわしのオカズ満載にする気満々なのは弘田さん、変わっていませんでした。最盛期を大人たちの会話からの仄聞で知ったレベルの月河が聴いてさえ、切なくなるくらい変わっていなかった。ヒットした楽曲だけ拾えば大人しく、コンサバ寄りになっていたとしても、晩年まで、“攻めて歌う”情熱は失っておられなかったのです。

 月河も一応(一応かい)女性なので、外観の“造作替え”イメチェンにネガティヴなことはあまり言いたくありません。令和のいまでこそ美容整形の敷居は低く、芸能有名人だけでなく一般の勤め人や主婦でもカジュアルに選べる選択肢になっていますが、1960年代の一般常識の中で、当時の外科技術レベルでの造作です。二十代前半で一度ガツンと直したとしてそれで“一生モノ”になるわけもなく、二度も三度もそれ以上も手を加える必要が加齢とともに絶えず生じたはずです。

 あれが無ければ、晩年いま少し露出して歌声、歌魂(だましい)を、『VACATION』時代を知らない皆さんにも伝えられる機会があったのではないかと、そこだけは残念です。皮肉にもいまは、放送画質も60年代の比ではなくリアルに、鮮明になっている。歌声を披露しても、往時を知る視聴者の、お茶の間からの視線や所感が“顔”“造作”にどうしても行ってしまい、歌を聴くことに集中できない事態は、番組制作側より視聴者より、誰より弘田さん本人が望まなかったでしょう。

 「歌がうまい」ということは間違いなくギフト、幸福な天賦であるには違いないのだけれど、それ単独では意外に儚く、流されたり飽きられたり、摩耗したり埋没したりしやすいものなのかなとも思います。

 ナマ身、あるいは近影を晒さずとも、盛りの頃の画像と音源で堪能可能なサイト、アプリ、サブスク・・等々が行きわたった時代に旅立てたことだけは弘田さんラッキーでした。あの歌唱は不老にして永遠です。ご冥福をお祈りいたします。

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はぴだんぶい諜報本部 ~そこで今回の使命だが~

2020-08-07 18:30:46 | グッズ

 先月買ったサンリオはぴだんぶいの“ハピネスエージェントデザインシリーズ”クリアファイルセットが、最近の自分内ヒット商品です。

 オンラインショップで、発売初日にまず1組買っておいたのはよかったんですが、どうせならもう3組ぐらい一気に買えばよかった。絵がきれいで、地色のブルーグレーが良い感じに半透明。

 ・・リンク貼ろうと思ったら、オンラインショップではもう品切れらしく、ページ削除されてました(早)。当地のサンリオ取扱い実店舗でも再入荷は期待薄なようで。

 月河も今年のキャラクター大賞が始まった頃から本腰入れてネットでアミ張って新発売情報逃がさないようにしてるんですけど、こういう企画シリーズモノのアイテムって、本当にリリース即日ソールドアウトが多いですよね。当地の様な地方の弱小ショップだと逆に盲点になって、買えるチャンスが多いかと思いきや、1~2日遅れで店頭に並んで→3日遅れでディスプレイ品だけ残して完売、ぐらいのサイクル。

 長く製造販売され続ける定番品と違って、こういう企画モノは、第一弾ドンと店頭に並んだら大体そこで終了なのを見越して、それこそ希少価値でプレミア付くのを狙った転売ヤーが暗躍してんじゃないかと思うくらいのハケの早さです。Amazonマケプレなんか覗くと、1~2年前リリースの単発アイテムが桁違いの価格で、タグはついてるけど透明フィルムは包み直しっぽい画像で出品されてることがありますよね。他の所謂フリマアプリでも似たような出品、あるんじゃないかな。

 ま、需要が多いアイテム、欲しくて欲しくてたまらない人が世間にいっぱいいる品ならば、それなりの価格で売られるのは自然で、悪いことじゃないし、それこそ“感染症流行期におけるマスク”みたいに、公衆の衛生健康を守るための必需品ではなく、欲しい人は熱烈に欲しい、けど興味ない人はとことん興味ない、のがこのテのグッズ。

 でも、地方在住でとかくネット販売に頼りがちな客の一人として、できれば、即日ペースでハケて行った先が“本当に欲しい人”の所であってほしいな、とは思います。 

 さて、はぴだんぶい“ハピネスエージェントデザイン”、ユニット結成時のバンドスタイルデザインに続いて、一種のコスプレ企画みたいなもんなんですけど、エージェント、つまり諜報局員ですわ。エスピオナージです。スパイ大作戦です。ミッション・インポッシブルです。全員サンリオキャラなのに。2頭身なのに。きゃー。

 クリアファイルセットの大きいほう=A4に各メンバーの担当ポジション説明もありますから読んでみましょう。・・・

 ハンギョドン:いつでも大切な人を守れる準備ができている。頼りになるアニキ的存在。

 けろけろけろっぴ:日々がんばっている人を応援している。あなたの気持ちに寄り添ってくれる親友的存在。

 ポチャッコ:つねにハッピーのタネを見つけて楽しめる自由人。ハッピーを引き寄せる達人。

 あひるのペックル:少年のような心を持ったピュア男子。ピンチも降参するほど最強なポジティブ能力を持っている。

 タキシードサム:人をハッピーにするためにあらゆる道具やツテを自在にあやつる戦術家

 バッドばつ丸:危険と隣り合わせの人生を楽しめるチャレンジャー!敵をつくりやすいが、オレ的正義感にあふれたオトコマエ男子。

 

 ・・・このキャッチ、現物ではぜんぶローマ字で書いてある(太字部分は大きめフォント)んですけど、何だろう、脳内で若山弦蔵さんヴォイスに変換すればいいのかな。小山田宗徳さんかな。やっぱり芥川隆行さんか。

 こういうメンバー紹介みたいのって、チームヒーローもの、スーパー戦隊ウォッチャーとしては燃えるんですよ。

 ドラマの設定に移植するとこんな感じか。・・・

・・・・・

 ハンギョドン:ボス担当。“リーダー”じゃなく“ボス”。ときどきブラインドびろーんとして外を覗く。『はぐれ刑事純情派』の横溝署長のように、なんもかんも解決してから「今回の事件はこれこれこんなんだったな。みんなよくやってくれた」とざっくりまとめつつ、こだわりのコーヒーを飲むときにいちばん存在感を発揮する。

 けろけろけろっぴ:人情担当。職質と、取り調べにおける落としの名手。「あのねー・・」と話しかけるとだいたいみんな油断してバラしてしまう。

 ポチャッコ:ユーモア&軟派担当。タラシでもなんでもないのに女性が寄ってくる。『特攻野郎Aチーム』のフェイスマンよろしく、なんだかんだでミサイルからブラジャーまで調達する。

 あひるのペックル:天然担当。子供、ご老人、小動物になつかれる。ゲームの相手などしてるとついマジになってガサ入れ撤収したのに気がつかなかったりする。

 ☆タキシードサム:紳士担当。高学歴のプリンスっぽいので、諸外国VIPとの接触もお任せ。接触されたほうはあとになって「そういえばなんでペンギンだったんだろう」と思うが後の祭り。

 バッドばつ丸:はみ出し担当。ギャンブルと酒場をこよなく愛するハードボイルド・・と見せて、つまみはいつもポリポリラーメン。

 ・・・

 ・・・このハピネスエージェントデザインは、春先のバンドデザインのようにメンバーごとの担当カラーは決まっていないようなので、商品タグの色で付けてみました。こういう色分けもスーパー戦隊ゴコロをくすぐります。

 個人的には、クリアファイルのイラストで、でっかいヘッドホン装着で盗聴ミッション中?のけろっぴが、手に持ってるタブレットのシンボルマーク、リアル世界に普及してる“リンゴ”でも“窓”でもなく“ハスの葉”型なのがツボです。けろっぴ特注なのねきっと。

 ・・・あとは“敵組織”ができれば完璧ですけど、彼ら“ハピネス”エージェントなので、敵対するとなると“アンハッピー”をマンエンさせるコンセプトになるわけで、これはサンリオさんの守備範囲じゃないか。

シナモロールに対抗意識を燃やして何かと張り合うルロロマニックが結局かわいい小悪魔デュオキャラになっているように、サンリオがやるとやっぱり癒し系とか、のんびり腰抜けおマヌケ系の組織になるような気もします。

 「ヤツらが引き寄せたハッピーを塗りつぶしてアトカタも無くする、もっと巨大なハッピーを我らが・・ムフフフ」と目論む“黒いグッドはな丸団、とかどうかな。回り回って、結局良い事しかしてない、悪の組織失格なヤツら。

 そう言えば今日8月7日は、グッドはな丸のお誕生日だそうです。ハッピーバースデイはな丸。

 ・・もひとつ。『スパイ大作戦』と言えば、TV『スパイ大作戦』の初期の女性メンバーは“シナモン”・カーターって役名でしたね。演じるバーバラ・ベインさんが変装の名人ローラン・ハンド役のマーティン・ランド―さんとのちに結婚しました。のちに離婚もしました。豆知識。

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