リビアのカダフィ大佐はたいそうな暴虐オレ様ぶりですが、国民の手で夫婦揃って公開処刑されたかつての友邦ルーマニアのチャウシェスク大統領や、古くは愛人と一緒に銃殺されて広場で逆さ吊りにされたイタリアのムッソリーニ元帥や、いっそのこと、足場から千切られてクレーンで釣られたレーニン像のイメージが、一瞬でも脳裏をよぎったりはしないのでしょうかね。歴史上、自分と親族のみに権力を集中させ、かつ暴力を伴う独裁を貫き通して、成功裡に全うした例はない。例外なく悲惨な末路をたどっています。
最悪でもエジプトのムバラク前大統領のように、粘ってみたけど適当なところで見切りつけて、抜き差しならなくなる前に白旗揚げて下りれば、とりあえず殺されずには済むし、ギリで「功績もあった、いいところもあった」という名誉も保たれるのに。
カダフィさんも1969年の無血革命のリーダーとして政権を奪取した当初は、「リビアを変える」「新しい時代だ」と目をキラキラさせて語る27歳の陸軍将校だったそうですが、今朝(27日)の『サンデーモーニング』で浅井慎平さんが写真家らしい視点で指摘されていたように、革命後にはき違えて独裁化して行く指導者の例にもれず、カリスマ性やナショナリズムを強調するためかだんだん怪しい民族コスチュームをまとうようになり、いまや“砂漠の狂犬”というキャッチコピー(?)すらなまやさしく思えるほどの、単なる裸の暴君、暴走殺人鬼と化してしまいました。
1960年代前半、陸軍の僚友たちとともに王政打倒を企てた若い頃は、イギリスに留学したりして、どうやったら政権転覆、革命が遂行できるか?先人はどうやったか?と政治史を学んだこともきっとあるはず。どんなに出発点の理念が純粋で高邁であっても、数々の皇帝や王が身をもって示した通り、独裁の道に未来はないことぐらい、アタマではわかっていると思うのですが、人間、陥穽があるのですねえ。どこかで「歴史がどうでも、前例がどうでも、世間一般がどうでも、自分だけは違う」という思い込みが。
窃盗や殺人、あるいは横領などの重い犯罪を犯した人でも、「自分だけはバレない、捕まらない」バレても「こういう事をして当然な、許される事情が、自分にだけはある」と思い込み、言い張るといいます。法に触れるまでではないけれど、所謂不倫をしている人なども、「自分は悪くない」「彼も本気」「私たちの関係は夫婦なんかより純粋で薄汚れていない」と勘違い上等な主張をよくする。第三者からすれば、単なるそこらの汚い野良動物の野合以下にしか見えようがないのに。
自分がどんなに愚かで醜悪か、恥晒しか、みずからかえりみて悟ることができないだけでなく、できないときに忌憚なく「醜悪だよ」「恥ずかしいよ」と指摘して諌めてくれる友やアドヴァイザーも周りに皆無。最高権力と言う名の、尖った一点の先端にひとり踏ん張ることの恐ろしさ。踏ん張れば踏ん張るほど先端は高く雲を貫き、視界は霞み、360°周囲は誰もいない、無です。この人はすでに、判明しているだけでも数百人の自国民を殺めて、いまだ気がついていないのでしょうか。