今頃になって昨年の『M‐1グランプリ決勝』のVTRを捜し出して再生しているってことは、月河、自分で思っている以上にトータルテンボスが好きだったってことなのかな。
改めて思うのは最終決戦3組の中で、キングコングだけは優勝あり得なかったですね。中田カウス師匠の評通り、ジェットコースターのようなスピード感と言えば言えるけど、怖いもの、ノリが。笑えるけど、笑いながら怖い。特に西野、要所で目が据わってるし。
たぶん2001年に決勝進出したことでひとつの達成感を得てしまい、以後あまりM‐1に執着が持てなくなっていたんでしょうね。02~04年の早期敗退、05~06年の不参加を経てこれではいかん、自分らに喝!心機一転!の勢いが前面に出過ぎた。
日頃、店屋物とデパ地下惣菜で済ませてる奥さんが急に覚醒して手料理10品“美味しいでしょ攻撃”、返す刀でコンロと換気扇の掃除まで始めちゃったみたいな感じですか。ご本人的には生まれ変わったが如き爽快感に満ちているのでしょうが、出来栄えは別にして周りは息苦しい、落ち着かない、いっそハタ迷惑。
やっぱり、1回戦敗退するぶんでも、05・06年は出場だけはしておくべきだったかな。
お笑いに限らず一般的な職場やサラリーマンの世界でも、士気高い新人若手にこれをわかってもらうのはむずかしいし、言って聞かせにくくもあるのですが、高いパフォーマンスが望めなくても、さほどの熱意もモティベーションもなくても、「この時期はこれをやるのが恒例」という、だらーんとした平準化の流れに乗ってしまう、巻き込まれてしまう、ってのが実は高パフォへの最短経路であることって結構多いのです。
『安宅家の人々』はいよいよというか、漸くというか、明日(28日)最終話というところに。
このドラマ、当初から“嵌まるとしたらココ”というツボが2箇所ありました。
と言うか、2箇所しかない。月河は早い段階で久仁子(遠藤久美子さん)と雅子(小田茜さん)の“頭でっかち理想論合戦”にはいくら付き合っても無駄と思い、ひたすら以下の2点に焦点を絞って観てきたつもりです。
ひとつは宗一(内田滋さん)の境遇や心情に、あるいはもっとイージーにルックスや喋り方に気持ちを沿わせ「かわいい」「かわいそう」「幸せになってほしい」という視線で見つめるポジション。
ここに立てれば、毎話の鑑賞もずいぶんスムーズで快適だったことでしょうが、過去のいくつかの知的障碍者ドラマ(『ピュア』『オンリー・ユー ~愛されて~』『聖者の行進』程度)で、自分はそういう観かたが得手でないとわかっている上、ドラマ上宗一にとって何が幸せなのか、彼が本当に心から熱望するのは何と設定されているのかが、どうにも掴めそうで掴めなかったため、中盤であきらめざるを得ませんでした。
ただ、実母・綾子(一柳みるさん)の死が理解できず、「起きてください」と笑顔で遺骸を揺り動かす場面だけはいまだに、思い出してもかなりグッと来ましたね。彼にとって“母親”は唯一絶対だったのでしょう。
しかしその後は、幼時からの姉的存在・久仁子とベッドも込みの本当の夫婦になることなのか、雅子への異性としての愛慕が受け容れられ男女関係になることなのか、はたまた花や園芸の才能を伸ばすことか、ホテル支配人として客に喜ばれることなのか…「最終話では宗一さんにこうなってほしい」と願わしいゴールを思い描くことがどうしてもできなかった。
恋愛絡みであれ、お仕事や自己実現系のサクセスストーリーであれ、観ていて「この人にこんな結末よ来たれかし」と視聴者が自然に気を乗せて行ける“波”を作れなかったのはこのドラマのいちばん残念なところ。久仁子と連れ添っても、雅子と両想いで結婚しても、宗一にはお似合い感がなかった。
で、もうひとつの嵌まりポイントは、宗一の異母弟・譲二(小林高鹿さん)の屈折した悪役ぶりです。06年『偽りの花園』で小林さんのクセのある演技力は確認済みだし、実は、ドラマ開始前はここにいちばん期待していました。TVドラマに限らず映画でも、小説でも漫画アニメでも、悪役・仇役・憎まれ担当に惚れることができれば“勝ったも同然”ですからね。
ところが、こっちも序盤からなんか頼りないんだな。譲二、結構手放しにデレなのです。雅子には出会ったときから直球ベタ惚れを隠そうともせず、仁美(宮下ともみさん)帰国時にはあからさまに気弱さや優柔不断さを露呈、宗一に蔑みの言葉を投げつけている場面でも、憎憎しさよりむしろ“弱い犬ほどよく吼える”という言葉がぴったり。
小林さんの風貌が細おもてで神経質な文学青年タイプで、骨太な悪辣さや、世知にたけたギラギラした感じと程遠かったこともあるでしょう。吉屋信子さんの原作小説では、クチばかり達者で、いい加減な起業しては負債雪だるまで安宅家にたかる軽薄才子の譲二は、世間的な出世や名声・財力至上主義の“男性原理”の卑しい部分を象徴する重要なキャラクターだったに違いないのですが、吉屋さん得意の“女同士の精神の交流こそ崇高、男が入ると汚濁して邪魔”という世界観は昼ドラにそぐわないため、翻案脚色する過程で骨抜きにされバラバラ死体になってしまったと思しい。
53話で片脚の機能を失って杖の手放せない身体になってからは、もうノーズロでデレ。“手負いのワル”ってヴィジュアル的にもいちばん危ない色気を湛えていなきゃおかしいのに。前半を中途半端に軟弱な人物に描いてしまったため、ただの“逆境に負けた痛い人”になってしまった。56話では久仁子の胸で、今日59話では母・佳恵(奈美悦子さん)に抱きついて、泣きすぎだろう。泣きが安い。悪役なら泣くのは1回だけ、それも視聴者しか見てないところで泣けと。
「“悪いだけの人”は出て来ない」という売り文句を、「単純な善玉悪玉、勧善懲悪のお話ではない」の意味で使い、「だからひとりひとりの人物の、善いところも悪いところも両面描いた、人間洞察の深いドラマなんだよ」と持って行くのが昨今の昼ドラでは常道になっているようですが、「悪いだけの人が出て来ない」「善玉悪玉の話ではない」ってことと、「悪役仇役が骨抜きで魅力がない」ってことは全然違うのです。
舞台を高原のホテルに設定したこともあまり意味がなかった。宗一の支配人就任直後に、知的障害ゆえに善意でしたことが客を驚かせたり迷惑をかけたり(1話中であっさり誤解が解けるが)という描写があったぐらい。どれも「こういう人にこんな仕事させたら、こんなことが起きるの当たり前だろ」というレベルの、サプライズもエキサイトもセンチメントもなんにもない、ドラマ的挿話にすらならない描写。
昨年の『金色の翼』もホテルが主舞台でしたが、こちらはおもに女主人役・剣幸さんと、支配人夫妻役・佐々木勝彦さん増子倭文江さんの頑張りで、かなり想像力でゲタ履かなければならないまでも、とりあえずホテルとしての機能、成り立ちが窺い知れたし、放送が終了して秋になり冬になっても「いまごろ空と海のホテルはどうなっているかな」とふと脳裏によぎるぐらいの“人格”のキャラ立ちがありました。安宅高原ホテルは、よそながらどんな形であれ盛業をと祈りたくなるような、愛をこめた描き込まれ方がされなかった。
「舞台がホテルだったからこそこんなお話が生まれたのね」と自然に頷ける場面があまりにも少なすぎた。これも残念な点のひとつです。
意地悪な見かたをすれば、『金色の翼』から1作挟んだだけのまたもやなホテル設定、セット流用して安く上げようとしたんじゃないか?と思われても仕方がない。
まぁ、ダメ出しばっかりしていてもつまらないし、明日最終話は、いつもOPクレジットで流れる主題歌・新妻聖子さんの『ヴァージン・ロード』が、フルコーラス聴けるのをせめてもの楽しみにしましょうか。
♪ 貴女が歩くはずだった 運命のヴァージンロード …を行く“親友”と“恋人”は空から見守られるのか、はたまた天罰(?)が下るのか。