年明けもう半月過ぎてからいまさら前の年を振り返るのもなんですが、去年は本当に、稀に見る“テレビを見なかった年”だったなぁと思います。
春先からのステイホーム推奨で、うちの高齢組がTVを占拠し、お任せ降伏状態の期間が長かったせいもありますが、それにしても、それならそれで、十年ほど前の韓国史劇ドラマ渉猟期のように、“脇から横目で見ていて、レコーダーの操作など手伝ってるうちに、誘い込まれて沼”となるコンテンツやジャンルが、ひとつふたつあってもよさそうなもの。
どんだけテレビから低体温になっていたかの証左として、年末年始からのハードディスク録画。高齢組に頼まれて録って編集してブルーレイディスクに焼き中のタイトルのほか、自分で思いつきで録画リストに入れたのもあるのですが、再生せず放置になってるサムネの多いこと多いこと。
中でも、毎年正月恒例NHK『新春テレビ放談』改め『あたらしいテレビ 2021』(1月1日放送)が、焼いたまままるっきり放置。こんなのは近年初めてです。
なんでだろう?ようするに、昨年のテレビがどのジャンルも、どこの局もあまりに逆境過ぎ、苦闘過ぎ、暗中模索の手探り過ぎたことがわかっているので、いち視聴者として“もう振り返りたくない”“振り返ってもらってもどうせシンドイの二乗”という気持ちがどこかにあるんでしょうな。
本当に昨年は、「これだけは絶対見逃さない!」と思える番組が現れない一年でした。
『いだてん ~東京オリムピック噺~』の後を受けて、放送開始直前撮り直しの危機にもめげず2週遅れスタートした『麒麟がくる』だけは未だ高齢組が忘れず見放さずに追尾していますが、誰からも言い出さないけど放送中断を挟んでの8月再開後はシロウト目にも明らかなテンションのばらけようで、湧水が小川になり何本も合流して巨大な流れになるていの“大河”どころか、個々の役者さんたちの“頑張った場面を並べてつないだ”だけの電気紙芝居と化しています。
考えてみればドラマ、特に一本の話を多話数つかって起承転結させて行く連続モノにとって“中断”は、大工殺すにゃ刃物は要らぬ級の致死性です。NHKの組織力と大河ブランドの風圧で、よく役者さんたちを束ね切り集中力をもたせ切ったと、むしろ褒めてあげていいくらい。
月河は完走できませんでしたが手堅く盛り付けた朝ドラ『エール』が、この年の連続ドラマの全局通じての最優秀作でしょう。キャストも演出も隙がなかったし、朝ドラの慣例“一週で一エピ完結”の刈り込んだ見やすさも効き、何より“戦争を生きて乗り越えて、戦後成功したとわかっている人の話”という点が、コロナに翻弄されるお茶の間に底知れない安心感を与えました。この点は、企図不明の謀反の挙句非業の死とわかっている明智光秀主役の『麒麟~』とは対照的。やっぱり、いまの日本人みんな、幸せに終わるお話を見たいんですよ。
コロナで思いもよらず遺作となってしまった志村けんさんの出演もあずかってチカラ大だったと思います。やっぱり、1カットでも多く、動いてしゃべる志村さんを見たいよね、みんな。月河もネットで情報拾って、志村さんの出演回だけは忘れずに見ようと思ったもの。事件を起こして出演作を撮り直しや再編集余儀なくさせたり、お蔵入りにしたりする俳優さんも近年目立つ中、こんな形で作品を照射してくれた志村さんは人徳と言うべきか。
3年前の『探偵が早すぎる』(前後編SPは一昨年)みたいな、人を食ったスマッシュヒットや、はなから半笑いで見始めたら意外や豪胆リメイクだった一昨年のテレビ朝日版『白い巨塔』のような、出合いがしらの拾い物も見当たらなかった一年でした。
10月半ばから始まった『危険なビーナス』は久々に番宣で引っかかるものがあり、東野圭吾原作とは相性悪いんだけど・・の懸念を抱えつつとりあえず最終話まで来ましたが、最終話の録画をCMカット編集しているうちに、どうにも結末が楽しみと思えてない自分に気づいて、一応ダビってそのまま放置。
家族の失跡や事故死の謎など真相探しのミステリ要素、資産家一族の財産を巡る“親の因果が子に報い”的なドロドロ、そして謎の美女に心乱されるラブ・サスペンス要素と盛りだくさんなんだけど、虚構感・非日常感のまぶし方のバランスがいまいちでした。所々に挟まれるコント風なコメディ要素もまったく笑えずに浮いていたし、なんとなくこのドラマの制作陣が、主演の妻夫木聡さん吉高由里子さんはじめキャスト陣に対するほどには、原作のお話に惚れこんでいなかったような気がします。
ドラマ自体がしらしらとしていたわりには、役者さんたちは贅沢なくらい持ち味全開でミスキャストがひとつもなかった。「“謎の”“美女”ってガラじゃないだろう」と一部で不評だった吉高さんの楓も、いちいち先回りで目端が利くところなどぴったりだったと月河は思いました。1話見ただけで“探偵捜査のプロだな”と誰にでもわかるじゃないですか。古い話ですが07年の東海テレビ制作昼帯ドラマ『金色の翼』における、高嶺ふぶきさん扮する自称女流小説家を思い出しました。「演技でトボけてるだけだな」「トボけてるせいでかえって怪しまれてるな」と、劇中の誰にわかられなくても視聴者がわかればいいのです。こういう見え見えの書割り感、虚構臭さを楽しめればそれでいいのですが、どうも最後まで視聴者側の周波数に合ってなかった感。コロナ下でこのTBS日曜劇場枠の放送日程もだいぶ揺れ動いたようで、撮影も三密回避を課されるなど、いろんな意味で熱っつい集中力を掻き集めるのが難しい現場だったかもしれません。長丁場の『麒麟~』のバラけっぷりにも端的にそういう空気が現れていますね。
・・そんなわけで、去年は既視聴作の『刑事コロンボ』シリーズなど、リバイバルものばっかり見ていたような気がします。面白いとわかっているから、絶対裏切られない期待はずれにならないという、盤石の安心感がありますよね。いまやドラマにも、と言うよりドラマにぐらいしか“安心”が期待できない時代になったわけです。続きはこの次。