イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

オリヴィア・デ=ハヴィランド礼賛 ~良き時のみを記憶に留めよ~

2020-07-28 19:22:10 | 映画

 昨日(27日)午後にネット上で一報を目にして、あれッ?“妹さんのほうが先になったか”と思ったのは、ついこの間だったのでは・・と思いましたが、調べるとジョーン・フォンティンさんが旅立ったのはもう7年も前、2013年だったようです。ハリウッドビッグネームの訃報はここのところ毎年少なからず耳にするので、あっという間のような錯覚がある。

 姉のオリヴィア・デ=ハヴィランドさん死去、104歳。長生きもここまで来るとレジェンドの域ですな。妹ジョーン・フォンティンさんも享年96歳でしたから、長寿の血筋なのかもしれません。

 オリヴィアさんと言えば日本では何といっても『風と共に去りぬ』(1939年)のメラニー・ウィルクス役でしょうが、あの映画に年代的にあまり高体温でない月河にとっては別の作品での役のほうが強い印象を持っているんです。

 13年ほど前に、このブログで当時の昼帯ドラマのヒロイン像とのかかわりでも触れた『謎の佳人レイチェル』(1952年)。ここでのオリヴィアさんは謎の美女です。ニュートラルに見ればしとやかで才気ある貴婦人、怪しく思って見れば不詳な過去と、夫殺しの疑惑を秘めるファム・ファタール。

 月河は原作者のダフネ・デュ=モーリアを偏愛しているので原作小説は何度も読みましたが、作中には「絶世の美女だ」という様な短絡的な描写はひとつもないのですけれども、映画のオリヴィアさん(当時36歳)は目いっぱい美しく、過不足なくしとやかで知的で、なおかつ申し分なく怪しくて、物語の主人公で語り手でもあるリチャード・バートンの身になって見れば途方に暮れるほど、悪女っぽさと無垢さの間をスウィングするのです。これはオリヴィアさんの持ち前の美貌と演技力だけでなく、演出と助演陣の力も大きい。

 月河は原作の邦訳初読から約20年余、原語のペーパーバックで読んでからも7~8年後に民放TVの名画劇場で観たのですが、“52年米(=アメリカ制作)”という新聞ラテ欄の番組表を見て、本編を観て、VHSで録画したのをまた観て、「こんなにド嵌まりのキャスティングで映画化されてたんなら、先に観ればよかった」と思ったものです。

ちなみに翌1953年のアメリカ・アカデミー美術賞・撮影賞・衣装デザイン賞と、当時27歳のバートンが助演男優賞の候補になり、オリヴィアさんはこの作品ではオスカーノミニーにはなりませんでしたが(46年『遥かなる我が子』、49年『女相続人』で既に主演賞2回受賞済み)、ゴールデングローブ賞ドラマ部門の女優賞にノミネートされています。

 奇遇なのは、同じデュ=モーリアの長編作で『謎の~』の原作『レイチェル』(初版1951年)よりはるかに人口に膾炙している『レベッカ』(同1939年)の映画化(1940年アルフレッド・ヒッチコック監督)で、オリヴィアの実妹ジョーン・フォンティンが主演していることです。

 作者デュ=モーリアは、ノーブルでたおやかな筆名に似ず一筋縄でいかない作家なので、構想時の意図は必ずしも「『レベッカ』の鏡像もしくは裏焼きを書いてみたい」というような、わかりやすい所には無かったかもしれない。しかし語り手=主人公の男/女を入れ替え、境遇や暮らし向きを対称にし、親しい人の変死にまつわる主体と客体を入れ替え、謎の降りかかり方の受動と能動を入れ替え、すべてが写真のネガとポジのように対照的かつ補完的なこの二篇の、それぞれ初の映像化が、妹と姉、いずれ劣らぬ美貌の人でありながら、姉妹だよと言われなければそうとは判らない強い個性のスター女優二人をそれぞれヒロインに迎えて成立したのですから、小説以上に小説的なめぐり合わせです。

 『レイチェル』の原作映画化権を入手した当初の監督は、レイチェル役にヴィヴィアン・リーを望んでいたのが、少なからぬ(たぶん)曲折あって最終的にオリヴィアさんに決まったようで、これもまた奇遇な話です。月河は断然、「曲折あって良かった」と思う派ですが。

 光の加減で剛にも柔にも輝いては翳るあのヌメるようなレイチェルの怪しさ、ヴィヴィアン・リーは起用されれば演技力で組み伏せるでしょうけど、なんか違うのです。

 先日、刑事コロンボ『偶像のレクイエム』について書いたとき触れたように、月河の実家母は若い頃メル・ファーラーとオードリー・ヘップバーンの『戦争と平和』に嵌まっていたのですが、もっと若い頃観た映画の中では妹ジョーン・フォンティンさんのほうが贔屓だったそうで、『レベッカ』はもちろん『断崖』(1941年)も、のちにLDを買って何度も観ていました。

 「キュッと片眉を上げると左右非対称な顔になるところがいい」「美人さんってああゆうアンバランスな表情あんまりしないよ、この人ぐらい」とよく言っていたので、月河が「歌手の荻野目洋子ちゃんがいつも少し眉を段違いに引いててこんな顔するね」「剃らないで自眉なりにかいてるからああなるのかも」とジャケ写を見せたら、荻野目ちゃんも贔屓になって『コーヒー・ルンバ』のカヴァーなどよく聴いていました(期せずして彼女も姉・慶子さんと美人姉妹)。

 「お姉さん(=オリヴィアさん)は妹よりととのった顔立ちだけど、ちょっとエラが張っててケンのある顔だ」「メラニー役はアレ、演技でしょう。きっと地の性格はキツイはず」とも。さらに「そもそもあのメラニーってオンナがぶりっ子で好きじゃないし」と、最後は月河も同感でした。

 オリヴィアさんの、彼女曰く“ケンがある”ところがうまく引き出された作品として、月河は『謎の~』と、やはり当時のTV名画劇場から録画した『暗い鏡』(1946年)を見せたのですが、彼女の感想「・・やっぱり妹さんのほうが綺麗」。

 この『暗い鏡』も、オリヴィアさんが一卵性双生児の姉妹、どちらか一方がサイコ連続殺人犯・・という難役の二役をこなす、オスカー主演賞持ちの女優さんとしてはなかなかの冒険作で、“女性の持つ二面~多面性”表現に、この時期彼女自身演技者としてかなり意欲を燃やしていたのではないかと思われるふしもあります。

 104歳大往生、『謎の~』ともどもこの機会にリマスターしてDVDなりBDなり今様の技術でパッケージソフト化、ぶりっ子メラニー役でしかオリヴィア・デ=ハヴィランドを知らない現代のファンにも観賞可能にしてもらえないかな・・と切に望みます。

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JK vs. JC ~年齢不相応キャラ合戦~

2020-07-26 22:35:18 | グッズ

 おウチ時間の累積もかれこれ四か月。棚や物入れの“プチ断捨離”が進んで、スペースが空いてくるのは良い傾向なんですが、空いたら空いたで空いたことによって重石が取れたかのように、この三週間ほどでぐでたまに続いて、サンリオはぴだんぶいのグッズやアパレルが目覚ましく増殖しつつあり、それにともなって月河に向けられる家庭内の視線が、限りなくソーシャル・ディスタンスを通り越して“イタい人ディスタンス”“白眼視ディスタンス”に近づいてまいりました。

 就中最近の推しメン=あひるのペックルと、タキシードサムの増殖率は目覚ましいものがあり、掃除機がけやフライパン仕事のあとで着替えるたびに、サムとペックルくんのTシャツを循環している気がする。

 この二人(“人”?)、メインカラーがブルー(ペックルはコバルト、サムはスカイブルー)とホワイトイエローで、目に涼しいんですよね。

 こうなるとつねづね「年恰好相応のモノを身に着けるべき」との信条で月河のキャラ趣味にはシビアな高齢家族その2の視線が、季節に逆行して厳冬の様にシビアになりまさるのも致し方がない。

 彼女の脳内ヒエラルキーでは“年齢相応のファッション”の頂点は、ウン十年の長きにわたって揺るぎなく“着物”でありまして、着物こそが年齢・TPO・身の丈(=財力)の三元連立方程式を一気に解する唯一無二の方法論なのです。

 月河も一応、着物には一つ紋、五つ紋とか、柄物より無地が格が高いとか柄物でも絵羽柄が格上で、訪問着でも付け下げ柄はくだけているから改まった席にはバツとか、染めの着物に織りの帯とか、その程度の情報は別の調査研究の過程でつかんでいますが、高齢家族その2にしてみれば「くだけた柄物でもどの程度くだけた相手と同席するかで柄選びが違うのだ」と言うくらいの微妙な皮膚感覚で移項代入して正解が出るらしい。

 洋装における昼~日没後~夜の正装、礼装、略礼装ドレス・コードと共通するスジもありながら、もっと日本的な風土とか、人的交流の積み重ねでできたものではないかと思います。そういうものに沿って、重心かけて乗って人生送ってきていない月河にとっては想像だけの世界ですが、なんとなくわからないでもない。

 “ユニクロのパンツにアベイルのトップスにNIKEのシューズにカルバンクラインのサンバイザーで、無印良品のバックパック背負ってすみッコぐらしのチャームつけて”、野球の試合でも見に行くのかと思ったら画廊喫茶でお茶、なんてわけのわからんお出かけは彼女にはあり得ないわけです。

 彼女にしてみれば、おウチ時間で作業中も、外で待ち合わせでも全身の何処かしらにペックルがいたりサムがいたりの最近の月河の服装は「女学生じゃないんだから」という所感しか出ないのもわかる。

わかるけどやめられない。着心地が、というより居心地がいいし。

 コッチは確かに女学生ではないけど、JC(=女子中年)だもんね、ソッチはJK(=女子高齢者)だろうに・・とは、元からの説明が面倒なので言わないでおく。

 ちょっと前にもここで書きましたが、嵌まっているときのキャラクター物というのは、一種の心理的マーキングみたいな効果がありまして、たとえばタオルでもポーチでも、ペンケースでもどこ製の何色の何柄のを買ってもいいんですけど、その時点でのおなじみのキャラが付いてると「あぁ自分の世界だ」という安心感があって選びやすいんですよね。モノを買うときになるべく迷いたくない、メンドくさがりっぺには都合がいいんです。

 まぁ月河の年頃のマダムともなれば、普通はそれがCャネルやGッチやPラダやⅤィトン等なんでしょうな。精神年齢が本物JCどころか、小4~小5ぐらいのところで止まっているおかげで相対的に安上がりに済んでいます。

 JK(=女子高齢者)(←しつこい):「んなのドコがいいの、もっとカッコいいのないの」

 :「この小っさい目がいいじゃない、あとこの、短くてガニな足(←ペックル)、クビレのないもわんとした体形(←サム)も」

 ・・・つい最近まで、スーパー戦隊のシャープでスマートかつ洗練され計算されたフォルムを毎年偏愛してきた反動ですかね。二次元二頭身の安定感。

 “小っさい目”“みじかい足”“クビレがない”と三発、至近距離をかすめられて、そーーーっと逃げ去って行ったのが、ウチの非高齢家族である、という事実は伏せておこう。

 とは言え“年相応原理主義者”の高齢家族その2も、月河のパソコンのフタに貼ったはぴだんぶい整列のシールや、デスク周りに増殖するクリアファイルをしょっちゅう目にしているうちに、「このいっつも耳がハネてるワンコのが可愛くない?」「このコ一人(“人”?)だけクチが無いのもかわいいし」等と、譲歩の姿勢を見せて来たので、今度のセールでポチャッコの耳付きパーカーか何か買ってきて着せてみようと思います。斯くして家庭内平均精神年齢がどんどん下がって行く。

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刑事コロンボ『偶像のレクイエム』 ~ハリウッド、“ファ”ーラウェイ~

2020-07-24 21:52:10 | 海外ドラマ

 月河の年代だと『刑事コロンボ』の日本初放送時はまだ中学生程度の子供ですから、大体実家で、家族と一緒に視聴しているので、ドラマ自体の印象に当時の家族の反応が乗っかって記憶に残っていることも多い。

 7月1日放送(NHKBSプレミアム)の『偶像のレクイエム』は、ストーリーの記憶が、同じハリウッドOG主人公の『忘れられたスター』とかぶっているところもあって、序盤ちょっと戸惑ったのですが、1973年のNHK初放送当時、実家母がメル・ファーラーが出てる!とえらい高テンションだったのを思い出し、そこからだんだん芋づる式になってきました。

 「オードリー・ヘップバーンの旦那さんだったんだよ」という豆知識もこのとき実家母から。彼女の年代だと、ヘップバーン&メル・ファーラー夫婦共演のハリウッド版『戦争と平和』(1956年)が、独身時代に観た大作恋愛映画の中でも白眉だったらしいんですね。別の或る年代にとっての『ある愛の詩』や『ゴースト』、或いは『タイタニック』ぐらい強烈だったらしい。

 月河は未見ですが、あのトルストイのロシア文学重厚長大作をアメリカのハリウッド俳優がロシア語の役名名乗って、英語で芝居する映画なんて、原作冒涜とまでは行かなくても噴飯ものじゃないかと思うんですけど、調べると日本初公開が1956年(昭和31年)ですから、日本のいち地方在住のうら若き未婚女性にはじゅうぶんロマンチックで見ごたえがあったのかもしれません。

 メル・ファーラーは1954年に37歳で当時25歳『ローマの休日』『麗しのサブリナ』と当たりに当たるキラキラのオードリー・ヘップバーンと結婚していますが、これが実に4回めの結婚。1回めと2回めの結婚ですでに4児がいて、1回めのお相手と復縁して3回めをやってまたまた離婚したあと。んで、ヘップバーンとの間に1児もうけて1968年に離婚したのち、5回めの結婚もしています。艶福家というか懲りないというか、そういう男性ハリウッドならずともときどきいますけど、オードリー・ヘップバーンというのもよくわからない趣味の人ではあります。日本流に言えば一回り上の年の差婚だし、ほかになんぼでも選択肢あったろうと。

 ・・さて『偶像のレクイエム』ですが、このメル・ファーラーがハリウッドの手練れゴシップライターに扮し、あらかたかつての栄光の遺産に生きる大女優役アン・バクスターと繰り広げる、ある種の持ちつ持たれつ共依存しつつの腐れ縁駆け引きは、映画界バックステージネタとしても結構興趣深いものでした。初見時は(しつこいけど)子供だったので、このへんの醍醐味がよくわかっていなかったと思います。

 そもそもこのエピ、いつもの『コロンボ』流に倒叙方式で冒頭にプレゼンされる殺人はそこそこ派手なんですが、本当の、眼目の犯罪は物語が始まる前に、すでに終わっている構成なんですね。初見の印象がいまいち弱くて記憶に鮮明でなかった理由はそれもある。

 『コロンボ』のルーティンである、犯人の犯行手口手順の冒頭のプレゼンが一部省略(車のタイヤをパンクさせるなど)されている点でも、やや他の秀作エピに比べると倒叙ミステリーとしてスマートさを欠くきらいも。

 月河はメル・ファーラーより、再放送時に知った、ハリウッド映画衣装界の巨頭イーディス・ヘッド女史のご本人役出演でのけぞりましたね。たぶん80年代後半に集中的に観ていたアルフレッド・ヒッチコック監督の一連の作品のクレジットで知ったビッグネーム。アン・バクスター扮する大女優ノーラが、わざわざコロンボにブラフをかけて圧倒するため、ヘッド女史のオフィスに招び入れるシーンで、女史のデスクに金色に輝くオスカー像が7体。これはこのエピ放送の1973年1月時点で、彼女が実際に獲得していた数です。この1年後、『スティング』で8個めのオスカーがここに並んだはず。

 ハリウッド服飾界女ボスのワイドなワーキングデスクとはいえ、オスカー、間隔がちょっと密だ時節柄心配。

 この件も含めて若干、“オールド・シネマファンのためのサービス回”色が濃かったエピですが、狙いがわかって見返すとやっぱり味があります。

 かつてのスター女優ノーラ・チャンドラーは大手映画会社の撮影所初代所長アル・カンバーランドの未亡人で、現在もテレビドラマと深夜名画劇場で健在ぶりをアピールしてはいますが、資金難で全盛期の様な大作の企画は立たず、経営再建のため実業家フランク・シモンズに取り入り出資者のご機嫌伺いに忙殺されている。

 そんな中、ファーラー扮するベテラン映画ライターのジェリー・パークスがニューヨークから舞い戻ってきた。彼はノーラの、主演作製作費200万ドル横領の証拠をつかみ「シモンズらが知ったら出資話が壊れるだろう、書かないでおく代わりに、取材費と費やした年月分の金額を」と要求する。

 しかも彼はノーラの18年来の忠実な秘書ジーン・デイビスを口説いて婚約したという。ノーラはジーンから横領の秘密が漏れたと思い問い詰めるが、パークスに鼻毛を抜かれているジーンは「何も話していない」「パークスさんは立派な記者。ノーラさんを尊敬している」と言い張るのみで埒があかない。思い余ったノーラはパークスの帰宅を待ち伏せ、駐車スペースにガソリンをまき点火、車ごと爆殺してしまう。

 しかしこのときパークスの車を運転していたのはジーンだった。ジーンはノーラにお使いを頼まれたために夜会えなくなったとパークスに伝えに行ったが、その話をしている間にジーンの車のタイヤがなぜかパンクして帰れなくなったため、パークスが自分の車をジーンに貸したのだ。ノーラはシモンズらと会食の席で、急遽警察と訪れたパークス自身のクチからジーンの死の知らせを聞き、ショックで昏倒する。

 当初パンクは偶発的なアクシデントと見られ、警察はパークスに恨みを持つ者がパークスの車を狙って放火、ジーンは人違いで殺されたと思われた。しかしコロンボは例によって丹念な聞き込みと実地検証で、現場から猛スピードで走り去る小型車が目撃されていること、同型車が撮影所サウンドステージに常時何十台も即発進可能な状態で駐められていること、ジーンの車は点検を済ませたばかり、パンクも釘等のアクシデントや路上ギャングの仕業らしくもなく栓が抜かれてのものだったことを確かめた。人違い殺人と見せかけて、実際はジーンが最初から標的だったのではないか。そして事件の夜、ジーンが用事を頼まれたら、パークスの仕事先に真っ先に駆け付けるであろうことを知っていたのはノーラ一人なのだ。

 ノーラは表向き気丈にテレビミステリーの撮影を続けながら動揺していた。実はノーラが何としても隠したい致命的な秘密は、パークスが強請りをかけて来た200万ドル横領の件などではなかったのだ。18年前から彼女の身の回りで働いてきたジーンだけが知っている。

 コロンボは撮影所の若い現所長から、ノーラの夫アルのリゾート先での失踪と死亡認定の事情、夫から相続した撮影所敷地内の広壮な邸宅を、資金工面のため売却するよう再三交渉されているにもかかわらずノーラが頑として応じず、庭にすら手を付けさせないことも聴取した。

 焦ったノーラは再度、パークスが強請りの件で何者かに狙われていると偽装すべく撮影現場を抜け出して、パークスの帰途を襲い車で当て逃げを試みるが・・・・

 ・・『コロンボ』諸作の例にもれず、疑惑が迫ると急ごしらえのミスリード策で自分の首を絞めていく犯人ですが、本当のところノーラが慌て出すよりずっと前の時点、ノーラ邸への初訪問時に、豪華な庭園を誉めながら「カミさんに大スターのお宅の記念品を」と一輪の花を摘んだとき、水の出ない大理石の噴水の礎石のプレートを読んで、すでにコロンボは真相への鍵の一端をつかんでいました。ノーラは「若い頃撮った映画のセットの一部だった」と言ったが、コロンボは現所長からノーラの邸と庭への執着を聴取したあと、撮影所の美術資材部で、すべての道具の受注日付を記録してあることを調べ上げた。噴水の日付は、亡夫アルが失踪した翌日のものだった。・・・

 ・・・全編を通じて、現在は斜陽の色をかくせないものの、ハリウッド映画と当該撮影所最盛期の象徴的存在であるノーラ・チャンドラーに対して、「カミさんも義弟もアナタの大ファンで。お出になった映画はぜんぶ観てます」「アタシにとっては青春のシンボル」と言うコロンボを筆頭に、ほぼすべての登場人物が(若干の皮肉や呆れ、お追従などをそれぞれ含みつつも)リスペクトを失っておらず、衰えぬ演技力やプライドを根本のところで尊重していて、ノーラに“ハッタリだけのダニ”と罵られるパークスでさえも「落ちぶれればいいのに」「陥れてやる、ザマア見ろ」といった素振りは無く、むしろ掴んだネタの出し入れ、ほのめかしを楽しんでいる風さえあるのが、このエピをやや冗漫ながら味わいのあるものにしています。

 この点、同じ落日のスター女優を主人公に設定しても、時代から取り残され、脳の病気で心身の機能も崩壊しつつありながら現実を把握できない哀しさ、痛々しさが前面に出た『忘れられたスター』とは対照的。

 パークスがノーラもしくは他のスターの不都合なネタを掴んで強請るなり、そのために恨まれるなりしていたのではと睨んだコロンボに遠回しに訊かれて、パークスは「いいですか?有名人はゴシップを嫌がらないものだ、むしろ宣伝になると喜んでる」と言い放ちます。シロウトの読者やファンが喜ぶ罪のないこぼれ話、裏話は本に書いて儲け、スターの社会的生命にかかわるような本当に深刻なネタは“書かないこと”で恩に着せて利得を得る、きわどい綱渡りで映画界の裏オモテを渡り歩いてきた男なりの“プロ”根性がある。

 200万ドル横領の件を持ち出す前、パークスはかねてからノーラに「伝記を書かせてくれないか」と提案していました。「その時は自分で書きたいの」と却下されましたが、パークスにとっては“実入りになるネタ元”である以上に、やはり栄光のスター=ノーラは耀いていて美味しく、惹きつけられる存在なのです。コロンボに「落ち目になった女優のことを書いても仕方がない」とうそぶいてはいても、本音は違った。劇中でははっきり示されませんでしたが、彼女の夫に関する致命的な秘密についても、彼なりの嗅覚である程度、ハッタリでなく探り当てて、輪郭ができるまでそれこそ脳内にしまってあり、彼女に「悔しいけどこの人が味方側でよかった」と言わせるまで温めておくつもりだったのかも。

 ノーラに当て逃げ未遂されたあとのパークスは「かすり傷だけ」と警官に言及されただけで、顛末は出てきませんでしたが、コロンボに連行される前にノーラは「パークスさんは怪我してないのね?」と呟きます。腐れ縁もとことん腐れると別のものが醸し出されて、それはどこか“友情”に似るのかもしれない。

 そう思わせるのは、もうこの時点ではやや薄めのロマンス・グレーになってはいても(放送時55歳)、ヘップバーンを含む5回の結婚歴を誇る(?)メル・ファーラーに、どことなくヨーロッパ伊達男的色気があるからでしょう。

 蛇足ですが、実家母からこの放送初見時に聞いたメル・ファーラーエピソードをもう一つ。実家母が二十代独身の頃、実家祖父と地元の薬屋さんが親しかった縁で、当時田舎ではなかなか買えなかったマックス・ファクター(=当時“ハリウッド女優御用達”との触れ込みでステータスが高かった)の白粉を使っていたら、後輩の女の子が「おねえさんのコンパクト素敵、どこの化粧品?」と訊いてきたので、「マックス・ファクターよ」と答えると「ワタシもそれ欲しい、買ってくる」と、速攻薬屋さんに走って行き「メル・ファーラーの化粧品ください!」と言ったそうです。

 ・・・“ファ”しか合ってませんが。ビートたけしさんがラジオでよくネタにしていたB&B島田洋七さんの「斎藤寝具店」「山田ふとん店」みたいなもんですかね。時代、年代を問わずカタカナに弱い人っているもんです。

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刑事コロンボ『黒のエチュード』追記 ~諸般の事情で~

2020-07-18 15:00:53 | 海外ドラマ

 そんなわけで先月(もう月があらたまってました)、初見気分で『刑事コロンボ』“黒のエチュード”を録画視聴していたら、コロンボが修理工場に先回り、車の運転席をちゃっかり占領していて、引き取りに来たアレックス大イライラ・・辺りで、高齢家族その2が「この(犯人の)人(=演ジョン・カサヴェテス)、西村(康稔)コロナ大臣に似てんね」と思いもよらないことを言い出しました。

 ・・ふむ。似てるか、似てないかの二者択一に無理やり当てはめるとしたら、6:4ぐらいで似てるほうに入れても大方の反対は少ないと思います西村逆ギレ大臣。爬虫類系というか、オオカミ顔というか、お顔の骨格が前下に向かって鋭角で収斂していく感じ。

 カサヴェテスも1965年『ローズマリーの赤ちゃん』のヒロインのミア・ファローの頼りない(のちに怪しい)旦那役の頃はギリシャ系の二枚目顔だったんですが、この人は映画界の中でも自主映画製作に生涯をささげたような立場で、ハリウッドメジャー作やテレビシリーズへの役者としての出演オファーに対しては、自主製作の資金稼ぎと割り切って、“イメージのいい役”“カッコいい役”にはこだわらなかったようです。日本でも、舞台演劇をメインに活動している人で、そんなスタンスでテレビ出演をこなしている俳優兼監督・脚本家さん、劇団主宰さん、結構いますよね。

 宮藤官九郎さんが2003年のNHKドラマ版『蝉しぐれ』に主人公(内野聖陽さん)の旧友役で出たのは、いくらか舞台の足しになったのだろうか。

 三谷幸喜さんが『いだてん ~東京オリムピック噺~』に市川崑監督役で出たのは‥・足しというよりウラがありそうだ。

 西村大臣も、もう少し言葉と目線(←いろんな意味で)に気をつければ、“シベリアンハスキー系の精悍な顔”と好意的に見られたかもしれないのにね。安倍総理も例によって、頼みやすい人に、難しい、重い役回りを安直に頼むから大概ウツワがもたない。

 ・・まぁその話は別の機会にするとしまして(その頃には政権の配置図もだいぶ変わってるかもしれない)、アレックス・ベネディクトの手口は結構杜撰でコロンボの敵ではありませんでしたが、ドラマとしては演出や見せ方にいい塩梅にフックがあって、正味1時間35分、見飽きることがありませんでした。

 ジェニファー・ウェルズの自宅のペット=愛鳥のショパンの鳴き声にビビったのは劇中のアレックスよりも視聴者のほうではないでしょうか。劇中では隣家のオードリーちゃんが「ボタンインコ」と言及していましたが、そんななまやさしカワイイもんじゃないだろうアレ。あのめらめらトサカといい、キバタンとかクルマサカオウムのえげつないヤツだわ。愛のピアノ曲をたくさん作った“しょぱん”よりは、“どぼるざぁく”とかさ、“すくりゃーびん”のほうが合ってないか。ろくに曲知らないで語感で書いてますが。

 生演奏中継が迫る会場=野外音楽堂の楽屋を脱出してアレックスがどこに向かったのか?当然これから手にかけようとする相手のはず・・と視聴者が見守る流れで、最初にフレームいっぱいに映ったのがこのショパン。

 コイツ(トサカの堂々っぷりからしてオスでしょう)、ご主人様=ジェニファーとアレックスがイチャついてた間はおとなしかったんだけど、いよいよアレックスが計画通り、リクエストして彼女に演奏させてる間に手袋はめて用意した布で灰皿を包んで背後から一撃!くれた瞬間の鳴き声の、まぁー不吉にけたたましいこと。被害者自身は突然の殴打に悲鳴も呻き声も上げる間もなく息絶えたかもしれませんが、アレックスがのびた彼女をキッチンに運び、オーブンのガスを全開にして椅子からくずおれオーブン扉のフチに後頭部を強打したかのように偽装する間も、ピアノの脇に吊るされた鳥かごから、人間の生娘だってこんなすさまじい声量音程で叫ばないわというレベルの絶叫と、赤ん坊の戯れ声にも似たからかうような哄笑をかわるがわる放ち、キッチンのあとは書き物デスクで(アレックス夫妻の75万ドル豪邸ほどではありませんが、こちらも若手ながら国際的スター演奏家らしく、かなりリッチな住まいです)、用意したニセ遺書をタイプライターにはさんで、何日も脳内で練ったであろう渾身の工作を続けるアレックスが、よく「うるせーこのバカ鳥!」とブチ切れて絞め殺さなかったなと思うほど。

 オウムはモノマネ、声マネをする鳥として知られていますから、このショパンがアップで映され鳴き声で存在を主張するたびに、「さてはあの鳥がアレックスのセリフを真似てコロンボに聞かせ万事休するのでは?」と視聴者は一沫思ったはずです。当のアレックスは音楽家のわりにはショパン君の耳障りきわまる絶唱を気に懸けた様子もなく、キッチンのドアを閉めて退散、抜け出してきた演奏会場の楽屋に戻る。

 しかしアレックスの致命的なミスはまさに此処。妻ジャニスが手ずから育ててくれている演奏会専用ラペルピンの花を、ピアノの下に落として出て来てしまった。この花はわざわざピアノの脚元に寄ったアップで強調されるので、視聴者は劇中の誰よりも先に「あーあコイツやっちまった」と情報を得ます。

 いよいよコンサートが始まり指揮台で一心不乱にベートーベンの棒を振るアレックスが、胸に花がないことに気がつく瞬間にも、ショパンの不吉な絶叫がエコー付きでリプレイされ、切迫感溢れるシンフォニーに重なります。曲想と人物の内面の動揺、そして脳内ノイズを同調させたこの演出もなかなかですが、視聴者が思わずアレックスの身になってヒヤッとした←『コロンボ』では大抵のエピで、結構利己的で同情余地ない動機の犯人でも、視聴者は局面、局面で必ず犯人と同化して、コロンボの追及にひそかに怯えたりイラついたりします次のカットで、今度はモーツァルトの華やかに軽快な曲を、余裕の表情で指揮するアレックスをテレビ画像として映し出します。視聴者は「コイツ動転したろうに、何食わぬ顔で振り続けてんだな」と微量拍子抜けしつつ、どこかホッとするのです。

 そしてそのテレビは、ここでこのエピ初顔出しのコロンボが受診中の、クリニックの診察室に設置のもの。何故コロンボが深刻な面持ちで医者に?と思わせるその理由も、ほどなく署から呼び出しの電話がかかってきて、カメラが診察室内のロングショットに引いたところで明らかになります。ここの絵的な叙述もトボけていてなかなかいい。

 さて、トゥーマッチな鳴き声で重要な役割を果たすかと思わせたショパンですが、意外にもこれで退場。警察が現場入りしコロンボも後から到着したときには、ショパンはキッチンドアの隙間から漏れたガスに当たったのかすでにこと切れ、鳥籠には布が被せられていました。

 なんだ声マネで犯人を告げるとかは無しか、大袈裟な鳴き方のわりにはあっけなかったな・・と視聴者はショパンくんの最期に若干の同情はしつつも若干拍子抜けしますが、どっこいコロンボはスルーはしませんでした。「よほど好きな人でないと飼わない、手のかかる種類の鳥。自殺ならガス栓をひねる前に、鳥を助ける手を打ったはず」と、後頭部の打撲痕や不自然なタイプライターの遺書と合せ技で、自殺ではなく他殺と目星をつけた。

 彼女が演奏旅行で長期不在にする間に「ショパンの世話を頼まれていた」と言う隣家のおしゃまな少女オードリーから、頻繁にかよって来ていた恋人の存在を聴取、さらにはその恋人=トランペット奏者ポール・リフキンから「3か月前、彼女が別の“もっと重要な”男と恋に落ちたおかげで振られた。男の名を訊いたが秘密だと教えてくれなかった」との告白も引き出し真相に迫る手がかりとなりました。ショパンが間接的に突破口となったわけです。

 大袈裟に鳴かせて何度もリプレイし、重要な手掛かりになりそうと見せて、あっさり退場させ、しかし存在と退場そのものが状況証拠となって水路をひらき真相へと導いていくという流れ。客をひっかけておいて外し、外れだったと見せて、実は別角度からひっかかっていたことがわかる。単話完結事件モノのこういうショートで歯切れのいいミスリーディング、やっぱり『コロンボ』って、締まった良ドラマだったんだなと改めて感じました。

 事件そのものは、2020年のいま見たら「音楽堂の楽屋通路、外車専門修理工場のガレージ、セレブ女性独り暮らしの自宅玄関、防犯カメラが付いてたら終わりだし、今日びなら付いてないわけがないし」で片付いちゃうケースでしたけどね。

 ミスリードと言えば、このエピの最大のミスリードは、殺人犯をクラシックの天才指揮者、被害者を新進スターピアニスト、背景をオーケストラとコンサート会場に設定しておきながら、トリックにも謎解きにも“音楽”がひとっつもからまずに終わるところではないでしょうか。アレックスのたとえば絶対音感や楽典の知識、指揮棒の振り方やジェニファーのピアノの奏法、曲目選定などが何ひとつ事件に重きをなしていないという。物語構築にあずかってチカラあったのは“個々の演奏家はもちろん、天才指揮者といえども、地位は雇ってくれる楽団の経営者に気に入られるかどうか次第”という、すぐれて“芸術経済学”的側面のほうでした。

 劇中、ジェニファーを手にかけおおせて楽屋に忍んで戻ったアレックスが、開演前の挨拶に立ち寄った義母(=妻ジャニスの金持ちの母親にしてオケ理事長)リジーに「チャイコフスキーは開演前不安になりすぎて、頭がもげて落ちる幻覚にとらわれ、指揮の間じゅう左手で頭を支えていたそうですよ」と冗談交じりに話して平静を装う場面がありますが、実はまさに“さっきやってきた事が露見したら絞首刑だ”というアレックスの潜在的な恐怖を直球で表現している。

 この場面の直前、リジーが娘ジャニスに、

「俳優連中も来るの?アレックスは派手好きなのね、役者なんかに音楽がわかるのかしら

ジャニス「役者だって人間ですもの

リジー「ふふん、どうだか」

なんてやりとりもあり、これなどは“ピーター・フォークの主演看板作に、親交深いジョン・カサヴェテス客演”と来たので脚本家さんが遊び心で入れたくなったセリフかもしれません。月河は朝ドラ『あまちゃん』で、古田新太さん扮する太巻こと荒巻太一ハートフル・プロダクション社長が事業構想をトクトクと語る場面で「小劇場?下北(沢)?ダサいね」と鼻で笑ったのをちょっと思い出しました。

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