『Yの悲劇』、初読から年月が経って読み返すと、浮き上がるように見えてくる良きB級感の源泉のもう一つは、何と言っても主役=探偵役の、非日常性、浮世離れっぷりでしょう。
その名もドルリー・レーン。中途失聴の全聾者でありながら完璧な読唇術使いで、引退したシェークスピア劇俳優、ニューヨーク郊外のハドソン河に臨む崖上の、中世城館並みの広壮な邸宅“ハムレット荘”で隠遁生活・・という、嬉しくなっちゃうぐらいの虚構感、「いねーよこんなヤツ!」です。
前エントリで触れた、ゴシックロマンと貴族社会の国・英国発ではない、USA製のミステリゆえの即物性(裏返しの“本格”性)を、主役たる探偵の惜しげもないロマンチック設定、クラシカルなインテリ風味で取り返してお釣りを出しました。
初読時の月河は、怪盗アルセーヌ・ルパンから始まってシャーロック・ホームズ、明智小五郎、エルキュール・ポアロぐらいまでは何作も既読だったのですが、レーンの設定やキャラに仰々しさや作り話臭さをほとんど感じなかったのはいま思えば不思議です。
ただ、彼が『Y』作中時点で設定60歳、“頸のあたりまで垂れている雪のような白髪”(田村隆一訳・角川文庫)等という描写から、序盤は、なんだずいぶんなお爺さんの探偵だな・・と幾分興醒め、“ドキドキワクワク”からは距離のある感覚で読み進んだことは覚えています。初読時は確か昭和45年(1970年)の夏休みぐらいですから、日本人男性の平均寿命は69.8歳、会社の定年は55歳か57歳が多く、六十代に入ると(個体差はあるものの)、結構なお年寄りとみなされ扱われ、本人も老人らしいなりをするのが当たり前の時代でした。
設定の中の“シェークスピアに関する造詣”と“全聾”は、『Xの悲劇』に始まる四部作の最終巻『レーン最後の事件』で初めて大きな意味を持ってくるので、作者がそこから逆算して造形したのかは、月河の不勉強で不明です。作者エラリー・クイーンはご存知の様に、従兄弟同士ふたりの書き手の共同筆名ですが、二人とも1905年生まれで『Y』発表の1932年には27歳の若造ですから、60歳がどの程度、どんな風に“老人”なのかよくわかってなかったかもしれない。
「引退した演劇界の大御所」(同訳・同文庫)らしく「背が高く、肉がしまっていて、見るからにピリッとした感じをあたえ」「きびしいくらいの端正な顔には、一本の皺もなく、若さにみちあふれている」「よくとおる声は力にみち・・これもまた、彼の年齢をいつわらせる」(同訳・同文庫)と、なんだかこそばゆくなるくらいのヒーロー感のヴィジュアルに描かれているレーンは、舞台俳優設定ながらむしろすぐれて映像的、映画的な主人公です。
前のエントリで、“途方もない大金持ちの家で起こる事件”という設定そのものが壮大なミスリード・・という意味のことを書きましたが、レーンの背景やキャリアも、ここ『Y』ではほとんど事件解決に直接影響しません。
ただひとつ、レーンが本題の事件=ハッタ―老夫人殺害と実験室火災の後、ハッタ―家に警戒待機させていた警官を全員引き上げさせて、真犯人に油断させ、自分は、別件で警察管理下におかれていたハッタ―家お雇い男性家庭教師そっくりに特殊メイク変装し、持ち前の演技力で彼に成りすまして邸内に潜入し真犯人の動向を探ろうとする計画のくだりがあります。
レーンは家庭教師の声色や所作をまる一日、間近で会話しながら見て身につけ、邸内に住み込む特殊メイクの老職人クェイシーにも会わせて型を取らせますが、変装の出来栄えがあまりに神がかっていたため、家庭教師は思わず「愛する女(=ハッタ―家長女。一族の奇人変人性が、詩の天才という点にだけ集中して現れた幸運な成功作で、唯一の真っ当な常識人)をだますことになる」「彼女にだけはすぐに見破られると思っていたが、こんなに変装がうますぎてはとてもだめだ」と間際で拒否、レーンの計画は不発に終わって、潜入には別の方策がとられることに。
この家庭教師は、長女の詩才の熱烈なファンだったこととは別に、ハッタ―家の面々とは或る因縁があって、思う所あって家庭教師に志願してきた人物で、レーンはすべて了解したうえで変装潜入への協力要請をしたのですが、彼の長女への想いが予想以上に純粋で堅固だったのをレーンも、読者も思い知らされ、このくだりから70数ページ後の厳しい結末を幾許かは救う光明につながるのですが、本作でレーンの“熟練の舞台俳優”設定が意味を持つのはほぼ、ここだけです。
こう見てくるとやはり『最後の事件』のシェークスピアネタに持って行くための、ロングパス設定だった可能性が高いですね。それ以外はむしろ、作家クイーンがどちらかというと、当時上り坂の媒体だった映画・映像にコンシャスな嗜好の、揃って27歳という若さに似合いの新しがりな書き手だったことを表しているように思います。
思い返せば、『Y』に先立つ半年ほど前、クイーンの所謂“国名シリーズ”で月河が初めて通読したのが『フランス白粉の謎』(邦訳題『フランス・デパート殺人事件』石川年訳・角川文庫)で、『Y』より2年早い刊行ですが、これはもうはなから、ニューヨーク五番街カドのデパートメント・ストアの華やかなショーウィンドウ内、電気仕掛けで最新式のベッドが登場すると、なんとデパート社長夫人の血まみれ死体が転がり出る・・という、なんとも映像的と言うか、ストレートにB級外連味たっぷりの幕開け。
クイーンのミステリは本格の中の本格、論理のフェアプレイで読者に挑戦する純粋謎解きモノで、どちらかというと現代の感覚では古典的過ぎて融通の利かないジャンルの作品と見なされているかもしれませんが、最も“本格”として完成度の高い作のひとつとされている『Y』ですら、いきなり“怪屋敷モノ”で“因縁の一族モノ”、しかも探偵役は元・俳優の、“雪のように白い”ロン毛のスーパーシルバーヒーロー。月河がこれに先立つ1年前ぐらいから嵌まっていた怪盗ルパンシリーズや江戸川乱歩の少年探偵シリーズぐらいの、面白おかしいノリで読んでいてよかったんだなぁと、いまにして思います。当時は月河も、意識が未だ背伸びのガキんちょで、ミステリの“本格”=“大人の世界”“高級”と早合点、勘違いしていました。高級どころか、思いっきりわかりやすくB級だったのにね。
ここに気がついていれば、意外にあっさり、残りページ数たっぷりある段階で犯人がわかっちゃったこと自体も、「だはは、しょうもねえな」と楽しめたかもしれません。
(この項続く)