イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

『Yの悲劇』再読追補 ~to B, or not to B~

2021-10-29 00:23:00 | ミステリ

 『Yの悲劇』、初読から年月が経って読み返すと、浮き上がるように見えてくる良きB級感の源泉のもう一つは、何と言っても主役=探偵役の、非日常性、浮世離れっぷりでしょう。

 その名もドルリー・レーン。中途失聴の全聾者でありながら完璧な読唇術使いで、引退したシェークスピア劇俳優、ニューヨーク郊外のハドソン河に臨む崖上の、中世城館並みの広壮な邸宅“ハムレット荘”で隠遁生活・・という、嬉しくなっちゃうぐらいの虚構感、「いねーよこんなヤツ!」です。

 前エントリで触れた、ゴシックロマンと貴族社会の国・英国発ではない、USA製のミステリゆえの即物性(裏返しの“本格”性)を、主役たる探偵の惜しげもないロマンチック設定、クラシカルなインテリ風味で取り返してお釣りを出しました。

 初読時の月河は、怪盗アルセーヌ・ルパンから始まってシャーロック・ホームズ、明智小五郎、エルキュール・ポアロぐらいまでは何作も既読だったのですが、レーンの設定やキャラに仰々しさや作り話臭さをほとんど感じなかったのはいま思えば不思議です。

 ただ、彼が『Y』作中時点で設定60歳、“頸のあたりまで垂れている雪のような白髪”(田村隆一訳・角川文庫)等という描写から、序盤は、なんだずいぶんなお爺さんの探偵だな・・と幾分興醒め、“ドキドキワクワク”からは距離のある感覚で読み進んだことは覚えています。初読時は確か昭和45年(1970年)の夏休みぐらいですから、日本人男性の平均寿命は69.8歳、会社の定年は55歳か57歳が多く、六十代に入ると(個体差はあるものの)、結構なお年寄りとみなされ扱われ、本人も老人らしいなりをするのが当たり前の時代でした。

 設定の中の“シェークスピアに関する造詣”と“全聾”は、『Xの悲劇』に始まる四部作の最終巻『レーン最後の事件』で初めて大きな意味を持ってくるので、作者がそこから逆算して造形したのかは、月河の不勉強で不明です。作者エラリー・クイーンはご存知の様に、従兄弟同士ふたりの書き手の共同筆名ですが、二人とも1905年生まれで『Y』発表の1932年には27歳の若造ですから、60歳がどの程度、どんな風に“老人”なのかよくわかってなかったかもしれない。

 「引退した演劇界の大御所」(同訳・同文庫)らしく「背が高く、肉がしまっていて、見るからにピリッとした感じをあたえ」「きびしいくらいの端正な顔には、一本の皺もなく、若さにみちあふれている」「よくとおる声は力にみち・・これもまた、彼の年齢をいつわらせる」(同訳・同文庫)と、なんだかこそばゆくなるくらいのヒーロー感のヴィジュアルに描かれているレーンは、舞台俳優設定ながらむしろすぐれて映像的、映画的な主人公です。

 前のエントリで、“途方もない大金持ちの家で起こる事件”という設定そのものが壮大なミスリード・・という意味のことを書きましたが、レーンの背景やキャリアも、ここ『Y』ではほとんど事件解決に直接影響しません。

 ただひとつ、レーンが本題の事件=ハッタ―老夫人殺害と実験室火災の後、ハッタ―家に警戒待機させていた警官を全員引き上げさせて、真犯人に油断させ、自分は、別件で警察管理下におかれていたハッタ―家お雇い男性家庭教師そっくりに特殊メイク変装し、持ち前の演技力で彼に成りすまして邸内に潜入し真犯人の動向を探ろうとする計画のくだりがあります。

 レーンは家庭教師の声色や所作をまる一日、間近で会話しながら見て身につけ、邸内に住み込む特殊メイクの老職人クェイシーにも会わせて型を取らせますが、変装の出来栄えがあまりに神がかっていたため、家庭教師は思わず「愛する女(=ハッタ―家長女。一族の奇人変人性が、詩の天才という点にだけ集中して現れた幸運な成功作で、唯一の真っ当な常識人)をだますことになる」「彼女にだけはすぐに見破られると思っていたが、こんなに変装がうますぎてはとてもだめだ」と間際で拒否、レーンの計画は不発に終わって、潜入には別の方策がとられることに。

 この家庭教師は、長女の詩才の熱烈なファンだったこととは別に、ハッタ―家の面々とは或る因縁があって、思う所あって家庭教師に志願してきた人物で、レーンはすべて了解したうえで変装潜入への協力要請をしたのですが、彼の長女への想いが予想以上に純粋で堅固だったのをレーンも、読者も思い知らされ、このくだりから70数ページ後の厳しい結末を幾許かは救う光明につながるのですが、本作でレーンの“熟練の舞台俳優”設定が意味を持つのはほぼ、ここだけです。

 こう見てくるとやはり『最後の事件』のシェークスピアネタに持って行くための、ロングパス設定だった可能性が高いですね。それ以外はむしろ、作家クイーンがどちらかというと、当時上り坂の媒体だった映画・映像にコンシャスな嗜好の、揃って27歳という若さに似合いの新しがりな書き手だったことを表しているように思います。

 思い返せば、『Y』に先立つ半年ほど前、クイーンの所謂“国名シリーズ”で月河が初めて通読したのが『フランス白粉の謎』(邦訳題『フランス・デパート殺人事件』石川年訳・角川文庫)で、『Y』より2年早い刊行ですが、これはもうはなから、ニューヨーク五番街カドのデパートメント・ストアの華やかなショーウィンドウ内、電気仕掛けで最新式のベッドが登場すると、なんとデパート社長夫人の血まみれ死体が転がり出る・・という、なんとも映像的と言うか、ストレートにB級外連味たっぷりの幕開け。

 クイーンのミステリは本格の中の本格、論理のフェアプレイで読者に挑戦する純粋謎解きモノで、どちらかというと現代の感覚では古典的過ぎて融通の利かないジャンルの作品と見なされているかもしれませんが、最も“本格”として完成度の高い作のひとつとされている『Y』ですら、いきなり“怪屋敷モノ”で“因縁の一族モノ”、しかも探偵役は元・俳優の、“雪のように白い”ロン毛のスーパーシルバーヒーロー。月河がこれに先立つ1年前ぐらいから嵌まっていた怪盗ルパンシリーズや江戸川乱歩の少年探偵シリーズぐらいの、面白おかしいノリで読んでいてよかったんだなぁと、いまにして思います。当時は月河も、意識が未だ背伸びのガキんちょで、ミステリの“本格”=“大人の世界”“高級”と早合点、勘違いしていました。高級どころか、思いっきりわかりやすくB級だったのにね。

 ここに気がついていれば、意外にあっさり、残りページ数たっぷりある段階で犯人がわかっちゃったこと自体も、「だはは、しょうもねえな」と楽しめたかもしれません。

 (この項続く)

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クイーン『Yの悲劇』再読 ~ハッタりも謎のうち~

2021-10-21 21:24:55 | ミステリ

 エラリー・クイーン『Yの悲劇』は、古典本格ミステリの中では、エドガー=アラン・ポー『モルグ街の殺人』やアガサ・クリスティ『アクロイド殺し』等と系譜を同じくする“意外な犯人モノ”とされていますが、月河は初読時、全441頁(田村隆一訳・角川文庫版)の残り100頁少々で犯人がわかりました。

 「・・なーんだ」って感じの解でした。別に自慢でもなんでもなく、多いと思いますよ、この作品には、そんな読者。

 ・・本格ミステリで、ミステリファンなら最低限タイトルと著者だけは知らない人がないだろうというド古典の作品で、いまさらネタバレ厳禁もないもんだろうと思いつつ書くのが難しいのですが、ホレ、あの、“計画犯”の“計画書”が、探偵に発見され写しを取られ(コピー機なんかない1930年代ですから手書き書写です)作中全文紹介されると、最初の卵酒毒殺未遂を計画書通りの体当たりなやり方で“阻止”した人物、ああアレが“実行犯”だったんだな・・と誰でも察しが付くはずです。

 だからそれに続く、探偵による犯人の(低)身長割り出し、ミスリードのためのニセ証拠の辻褄合わなさなど、謎解きの眼目のパートはかなり体温が引いた状態で読んでいた記憶があります。

 当時は海外ミステリの沼に嵌まり始めてまだ浅かった月河、“冒頭からラストまで、謎の提示・展開と謎解きっきりで全編”“それ以外のオハナシ一切無し”という、すがすがしいまでの“本格”っぷりに惚れていたクイーン作品の白眉ですが、あらためて久々に読み直してみると、“意外な犯人モノ”でありながらそれこそ意外に早い段階であっさり犯人特定できてしまう奥行きの浅さをはじめ、いろんなところでわりとあからさまに“B級感”の漂う、いい意味でも悪い意味でもツッコミどころの多い娯楽作だったことがわかります。

 ちょっと前のエントリでも書いたように、この作品はいきなり“お屋敷”モノ“因縁の一族”モノです。横溝正史さん『犬神家の一族』や『悪魔が来りて笛を吹く』等の、“親の因果が子に報い”式お約束満載ストーリーの一連の作品とも通底するし、いまの感覚で言えば非常に2サス的な、「いねーよこんなヤツら」の中で自己循環、自己完結する世界観です。

 とはいえあくまでUSA製のミステリですから、フロム英国的なゴシック・ロマン性はほとんどありません。お屋敷モノではあっても幽霊屋敷ではない。ゴーストは出ないし、呪いも祟りもありません。

 ミステリビギナーの月河が魅了された新鮮さはここも大きかったと思う。舞台となるハッタ―家は、当時の、新聞中心のマスコミから『不思議の国のアリス』の人物にちなんで“マッド(気狂い)・ハッタ―”と仇名され、「つねにグリニッチ・ヴィレッジの上流社会の境界から一インチだけはみ出している」「いやな連中」(同訳・同文庫版)とささやきかわされる奇矯な一族ですが、なにしろ舞台は英国でもフランスでもなくアメリカ合衆国です。“中世”という歴史のページを持たず、皇帝も王妃も、王侯貴族も存在したことのない国ですから、貴顕の人々同士が血で血を洗う継承権争いや内戦の記憶はない。ハッタ―家の社会的な磁場の強さは「富裕でけちんぼうのオランダ人の先祖から代々受けついできた巨額の資産」「顧問弁護士ですら、財産がいったいいくらあるか、正確に知るものはいない」と、ひたすらカネがもたらすもので、しかも、あろうことか、作中殺害される当主たるハッタ―老夫人の遺言状が(横溝作品のように)紹介されて、その異様な分割条件が一同に動揺を惹き起こすくだりもあるのに、これが事件解明にまったく影響しないときています。

 腐るほどカネがあり、カネで社会的重きをなしているという設定の家と家族を舞台にしていながら、事件はビタ一文カネと関係ないまま起こり、収束するのです。

 言わば、“ものすごい大金持ちの一族で起きた事件”という設定自体が、壮大なミスリードになっている。

 また、“親の因果が子に報い”的な恨みつらみや呪い祟りの連鎖の代わりに、老夫人が二度の結婚を通じて配偶者とその間にもうけた子供たちにもたらした“病毒”=性感染症が設定され、その影響で、家族全員がなんらかの形で心身に異常をきたしているというのもかなり大胆というか、ご無体なB級路線です。1930年代前半の初刊だったから通用したのか、現代だったら当該疾病の患者団体や、専門医の学会から“実態と違う”“患者と家族を貶める”と非難囂々だったでしょう。

(この項続く)

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