1998年の暮れ、宇多田ヒカルさんの日本デビュー曲『Automatic』と『Time will tell』が各局でヘビロテされ始めた頃、すでに当地のFM局では宇多田さんのメインDJ番組が週1レギュラーで放送されていました。
ちょっとかすれた少年っぽいヴォイスで、ぶん投げたような、女の子らしくないラフな喋りっぷり、まだ当時16歳のUSA育ちの帰国子女と聞けばああ、だから日本的な敬語とか婉曲表現が不得意なのかなと思ったものですが、藤圭子さんの娘さんという情報をスポ紙で見かけたのは上記のデビュー作にかなり火がついてからで意外でした。こんな強力知名度の親御さんを持つ2世タレントならもっとそっち押しで宣伝かけていってもいいのに・・とも思いました。
そのうち宇多田さんがもうお母さんを引き合いに出す必要ないくらいのビッグブームを自力で起こしていったし、コロンビア大学飛び級入学(中退)の天才R&Bガールと昭和の夜の怨歌の星じゃイメージ的に水と油だからあまり前面に出さないのだろうなと勝手に納得してもいました。
藤さんご自身も過去の大ヒット曲の印税収入がいまだ少なからずおありと思われ、加えて娘さんがビッグマネーメイキングアーティストに成長したとなれば、がつがつ小銭稼がずとも生活安泰だから、日本の懐メロ番組等にも顔を見せないのだろうな、とも。
しかし今般の藤さんの残念な顛末からすると、思うに、もう長年、媒体露出や娘さんのプロモーションに関与できる精神状態ではなかったようです。
“昭和の歌姫”と称される代表的なひとりであることに疑いはないものの、歌手としてかなり振幅が激しく、なおかつ旬(しゅん)の短い人だった印象です。小学生坊主月河が歌手・藤圭子さんを初めて知ったのは1969年の秋か暮れで、夕方のアニメの時間の合間に放送されていた『ビクターレコードいち押し新人・新曲紹介』のミニ番組でした。いまで言うプロモーションビデオの様なしつらえで『新宿の女』が流れる前「こんにちは、藤圭子です。」で始まる自己紹介ナレーションの声が、歌以前に超独特のハスキーヴォイスで、「ふじけいこ」という芸名が非常に聞き取りにくかったのを憶えています。
このデビュー曲は演歌のヒット曲が多くそうであるように、何か月もかけ、同年末を跨いでじわじわと上昇、大阪万博の年=1970年春頃には気がつけば街のそこらじゅうで聞かれる、非常に昭和的なロングヒットになったのですが、藤さんの代表曲はこの70年に集中していて、前川清さんとの電撃結婚で話題をまいた1971年以降の曲は覚えている人が少ないのではないでしょうか。電撃結婚に続くスピード離婚の1972年には、すでに“曲よりも結婚離婚のほうが話題にされる歌手”になりつつありました。
酒場や夜の女性をモチーフにした楽曲とは対照的に風貌は清楚で、おとなしい、逆に言えば表情の乏しい色白美人さんでしたが、気分の変化の激しさはいま思えば確かに窺え、月河がいまも覚えている逸話をひとつ挙げると、1973年の初め頃ぐらいに、デビュー以来のトレードマークだったストレートのセミロングヘアをいきなりばっさりショートにしてしまわれたことがありました。離婚が成立して間もなくでもあり女性らしい心機一転のひとつなのだろうと、世間はそれほど奇異には取り上げませんでしたが、スタッフは何も事前に聞いておらずかなり慌てたようで、「いままでの髪型に合わせて用意していた(パンタロン風の)パンツスーツ中心の衣装がみんな合わなくなって、急いでドレスを作らせている」との報を週刊誌か何かで読んだ記憶もあり。
光あるところに影有りと言いますが、藤さんの出自や少女時代の苦難を考えると、背負って染み着いた影があまりにも濃すぎて、上りつめた場所の光の眩さに耐えるのがつらかったのではないかという気が今更ながらします。結局73年は髪を切った件以上に歌手としての藤さんに注目を引き寄せる話題もなく、74年にかねて危惧されていた声帯ポリープの手術を受けて歌手生命の延命を図るべく休業した頃には、“夜”“新宿”“酒場”“ネオン”等のキーワードが似合う担当は、徐々に、しかし確実に八代亜紀さんにとって代わられていました。
藤さんよりひとつ年長ながらデビューは2年遅く、ブレイクまでにさらに2年要した八代さんが、しかしその後は息長くヒット曲を出し続け、作詞作曲やMCにも進出、趣味として続けてこられた油絵でも評価され、たとえば先週放送のNHK『伝えて!ピカッチ』のゲスト回答者として、アイドルや芸人に囲まれながらおっとり天然大御所キャラで味を出しているのを見るにつけても、これはもう北国生まれと南国生まれの差なのかなとも思います。洒落にならない、ネタにしてガス抜きすることのできない藤さんの世界は、長く娯楽として興がられ続けるには重すぎた。
流行歌とその歌い手は世間の人々の娯楽のための商品ですが、洒落にならない自分の人生を商品として楽曲にし、歌唱し、売りに出すという行為の重さに、幼時から両親について盛り場を流していた少女の繊細な精神が少しずつひしゃげていった可能性は想像が付きます。
旬が短かったわりに“昭和の歌姫”としての存在感がいまも鮮烈なのは、代表曲の『圭子の夢は夜ひらく』というタイトルでしょう。“圭子の”と付いただけで、ストレートセミロングヘアに暗色のパンツスーツの藤さんのイメージしか浮かんでこなくなる。松本伊代さんのデビュー曲の一節 ♪伊代はまだ 16だから・・と同じ。ファーストネームを曲中もしくはタイトル中に入れ込むことは、筆やペンで書き込むなんて生易しいことではなく、焼印を当て込む、鑿で彫り込むくらいのイメージ規定力があるのです。
自分自身を“商売もの”にして達成した成功の苦さ、重さ、痛さに戸惑い呻吟した後半生だったのではないかと思います。苦くても、痛くても光眩き場所を目指さざるを得ない、光に到達できなければ果てしなく無に近いのが人の生でもある。
影と光、両方を知ることができた人生を、ご本人は幸せと感じる時はあったのでしょうか。本意だったのかそうでなかったのか、媒体から遠ざかった後の日々を“後半生”と括ってしまうには短すぎる、急ぎすぎる一生でした。ご冥福をお祈りします。