昨日、『相棒Season 8』第6話『フェンスの町で』を再見していたら、沖縄うるま市での中2男子同級生いじめ暴行死が、ちょっと違う角度で見えてきたような気がしました。沖縄と言えば、ゴーヤもラフテーもちんすこうも美味しいけれど、やはり第一に来るのは米軍基地のメッカだということです。
うるま市がどの程度“フェンスの町”な佇まいのロケーションか見聞したことはないのですが、報じられたいじめ同級生たちのあまりに人命を、倫理を、社会規範をなめ切った、衣服や現場の偽装隠蔽、口裏合わせ。“大人の親も学校も、役所も議会もアンタッチャブルのフェンスがある”地域ゆえに、自分の国の警察司法や公権力を軽んじ侮る姿勢が定着してしまっているとは言えないでしょうか。
「偉い人、威張っている人でも、悪いことをすれば捕まり罰せられる、嘘をついても必ずバレるし逃げ切れない」という認識って、ある年代までの子供に絶対に刷り込まなければいけないと思うのです。沖縄の子供たちが全員そうだというわけではもちろんないでしょうが、“自分たちに校則や規律を強要する大人たちが、なぜか何をされても黙認か泣き寝入りする”得体の知れないものの存在がどれだけ幼い心をスポイルするか。自分らの目から見て、何かに対し理不尽に卑屈で腰抜けに思える大人や、そういう大人たちが押し付けるシステムを、子供は決して敬わないし畏れません。
劇中、郵便局強盗で先に逮捕された公平(森田直幸さん)の「親にも学校にも、僕らは何も期待していません」という言葉がはしなくも現実の一端を象徴しました。フェンスもキャンプも敗戦の爪跡であり置き土産だとしたら、“敗戦国となってなお、自国の子供たちを自国民の手で誇らしく育て得る国”は、焼け跡を摩天楼に作りかえるようには成らないのだということが痛感されます。
もうひとつ、『相棒』のこのエピソードと現実の事件を考え合わせているうちに思い出したことがあります。
両親ともに教師で自分も教師になった知人が、もう10年近く前になりますが「学級を取りまとめて行くには“いじめられ役”の生徒がひとり居ると都合がいい」という意味のことを言っていたことがあるのです。
当時の会話の文脈から言って、いじめられ役と言うより、野村克也監督時代のヤクルトスワローズにおける古田敦也捕手のような叱られ役、「こういうの(=行動、成績、服装など)はダメ出しされるんだな」と他の生徒が見て我が振り直すための“見せしめにされ役”ぐらいの意味だと月河は理解していたのですが、高年俸で好成績を期待されるプロ野球選手たちではなく、心のやわらかい傷つきやすい小中学生相手の話とすれば、それだけでもかなり差し障りある思考であり表現です。
しかし、さらに広く“ピエロ役”“からかわれ笑われ役”の範疇すら超えて、いまや本当に“寄ってたかっていじめられる以外、学校の中で居場所も、果たす役割もない”生徒が、全国の学校に存在するらしいのです。
いじめが原因で悲惨な事件が起きると、どこの学校の校長からも開口一番「いじめはなかったと認識している」「いじめの報告は聞いていない」という言葉が聞かれますが、彼ら管理者にとっては“誰かがいじめられている”状態こそがデフォルトなのかもしれません。劇中の公平と良明(阪本奨悟さん)も、一方が格闘術を習いもう一方に教えている姿を“いじめ、いじめられ”に見せかけることで教師や同級生の目をくらましていました。
いじめいじめられが、やめさせなければならない憂慮すべき問題行動ではなく、デフォルトだから誰も干渉も容喙もしない安全地帯になる。
“教育現場”という言葉が月河はとりわけ嫌いなのですが、教育の場たる学校といえども、結局は管理される側より管理する側に都合がいいように、ラクなようにできている。それが社会。
将来“社会人”となって、人生なるたけすべっこく、快適に苦痛少なく生きていこうと思ったら管理する側に回りなさい…ということを、暗に教え込むべく、学校なるシステムは存在しているのかもしれません。
『不毛地帯』は26日に第7話。黒塗りの役員専用車、接待用のクラブなど、画面のディテール端々に昔日の栄光・昭和の会社人間ワールドが覗くせいか、限りなくおっさん寄りエイジの男性軍には、少なくとも月河の周りでは食いつき良好なのですが、ちょっと間延びモードに入ってしまったか。
もっと壹岐(唐沢寿明さん)、肩で風切っていい快進撃なのに、将の陰の人=軍師体質なのでしょうな、はじけないんですよね。戦争と人間もの、社会派ドラマと言っても、連続TVシリーズなんだから、どこかでエンターテインメントソフトとしてハラくくって、はじけを出していかないと。
特にかつての上司の娘で壹岐に尊敬感謝以上の感情を秘める千里(小雪さん)との交流は、じれったいし不純感もあって、唐沢さんも小雪さんも全然カッコよくない。何のためにこのくだりがあるのか毎回首をかしげます。ともに秘めつつストイックに徹するなら、壹岐の苛烈なる沈黙、千里の堅忍を表現する、大人の味のドラマらしい、いいシーンになったかもしれませんが、いつも2人とも表情が微妙で、未練たらしく見苦しい。
華僑公司の第二夫人におさまったはずの紅子(天海祐希さん)が、ビジネス上援護するような素振りをしてやたら壹岐にクチを出し、千里と接点を持たそうとちょっかいを出す素振りも、本気で演出すればもっと大人な女心と映るはずですが、肝心の壹岐・千里の関係性に“一線越えれば不倫になってしまうけれど、気持ちはわかる”といった、観客が切ながり、応援したくなる魅力皆無なので、どうにもとって付けたよう。紅子はひたすら何考えてるかわからない、余計なお世話女に見えるのみです。
そこへ7話、夫と千里との距離接近を具体的には知らないまま、息子の帰省日を忘れて帰宅の遅い夫を妻・佳子(和久井映見さん)が涙ながらに詰ったりするものだから、いや増しにどっすーんテンション下がってしまうではありませんか。「立派なお仕事をなさって、常務にもなられて…でも私には家族がすべてなんです」という、あまりに古めかしい企業戦士専業主婦妻の言い分は、それこそ気持ちはわかるのだけれど、これが胸を打つためには壹岐がもっと家庭外でブイブイ炸裂してないと。
原作未読で言うのもなんですが、このドラマ、原作の咀嚼具合、消化吸収して血肉になり具合が浅いのではないかという気もします。もっと言えば、原作や主人公に惚れて作っている感触がない。
“本筋とはあまり関係ないけれど、この角度から読むと、この人物はこんな顔があり、本筋角度以上の魅力があるな”との、悪戯心含みの発見でドラマを膨らませられていないのだと思う。遊びがないんですね。良くも悪しくも作りが真面目、四角四面。当節、こういう態度のドラマも一つぐらいあっていいとは思いますが。