イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

NOVA墜つ ~神の手が神の子を~

2020-11-29 00:59:20 | スポーツ

 日々日の入りが早まり、いつの間にか帰宅時間には夜道同然になってきた今日この頃。

 菅総理肝いり政策のひとつ“デジタル社会の推進”。それ自体には個人的には大賛成でも大反対でもないですが、“昭和の昔は技術立国だったはずの日本が、二十一世紀、令和2年のこんにちになってナニユエ「世界レベルでは周回遅れ」と揶揄され憂慮される、隠れもないデジタル後進国に成り下がってしまったのか”という、ネットの辺境弱小無名泡沫ブログの身の丈に合わないにもほどがある国家的歴史的問題を、秋の夜長のつれづれに考えていたところ。

 ・・んで、「それは、日本人に“几帳面な人”“細かい手間暇を惜しまずきちんとするのが好きで、得意な人”が多すぎるからだ」「日本人の大半がズボラで面倒くさがりで無頓着でヌケサクで、しかもその自覚のない人ばっかりだったら、デジタル化はもっと進むべくして進んでいたはずだ」と、思いっきり暴論を展開しようと思っていたら、・・・・・

・・・今年相次ぐ国内外有名人の、前兆なき突然の訃報のダメ押しのように来ました。サッカーの“神の子”=ディエゴ・マラドーナさん死去。

 まぁここ数年の報道や近影を見るに、心身万全で元気いっぱいとはお世辞にも言えない外観にはなっておられましたが、コロナ禍で世界のスポーツ界が混乱と沈滞を余儀なくされる中での巨星墜つ。

 何がびっくりしたって、60歳。もうそんなになってたのかと思う向きと、まだ死ぬようなトシじゃないのにと思う向きとあるでしょうが、まるっきり月河と同年代じゃないですか。世に出てきたのが早くて、その時の姿が少年然としていたので、いまだにずっと若いイメージを持っていたのです。

 いまも昔も、あまりまじめなサッカーウォッチャーではない月河でも、マラドーナさんと言えば、顔と名前が一致した外国人サッカー選手として、“王様”ペレの次くらいに来た人でした。

 名前単体では、“皇帝”ベッケンバウアーのほうが先だったかもしれない。ただ、あちらは名前の響きの仰々しさだけが独走で、顔やプレースタイルがなかなかついてこなかった。当時は、地元で視聴できるチャンネルの、敷居の低い時間帯のTVで、海外のサッカー情報なんてまず入って来なかったですから。

 マラドーナさんは、あれは伝説の86年W杯メキシコ大会の後ぐらいのオンエアだったのか、缶コーヒー“NOVA”のTVCMで、月河も「これが噂のマラドーナか」と、初めて名前とビジュアルが一致したものです。一人写りでも小柄(身長公称166cm)なせいか若く見えましたが、当時25歳のマラドーナさんが教科書のようなボレーシュートを披露、商品名が見える角度に缶を傾けてグビグビ飲んで「のば!」とサムアップしていました。あのCMを何度も巻き戻しリプレイして華麗なボレーシュートを習得せんとするサッカー小僧が相当な数、日本国内にいたと思われ。蹴り出す足元がスローアップになりますからね。

 NOVAの商品名はその後、WANDAに変わりましたが、CM単体ではいまでも動画サイトで見ることができるようです。シュートが成功してもしなくても、そのあとグビグビして「のば!」でサムアップ、までがデフォルトで“マラドーナのマネ”ということになっていたような。

 いま思えば、よく日本のCMに起用されたなアと思います。大会前、もっと言えば代表選出前から、禁止薬物使用疑惑はかなり取り沙汰されていました。TV画像でも歴然とわかる、筋肉の塊りというか“結晶”のような大腿部。重心をとる軸足の絶妙な角度と魔法の様に振り出される左足の躍動など、“神の子”と称されるにふさわしいパフォーマンスの数々が、薬物でブーストアップして成ったものとは考えたくはないですが、とにかく比類なき才能に疑いはないものの“光まばゆいほど影も濃い”を、競技キャリアでも人としての人生でも体現した一生だったと思います。

 サッカーは世界的人気スポーツで、競技人口が多く参入してくる新人の数も半端ないですから、平均するとベテランの選手寿命が長い種目ではない(我が国にも“キング”というでかい例外はいるものの)のですが、それにしても60歳です。指揮官、指導者、啓蒙発信者としての可能性も含めて持てる力量のわりには盛(さか)りの時間が短い人だった気がします。

 もっとざっくり視野を広げると、月河にとってそれまで、タンゴと『母をたずねて三千里』のイメージしかなかった“アルゼンチン”という国を強烈に印象付けてくれたのもマラドーナさんでした。最近のワールドサッカー事情はどうかわかりませんが、アルゼンチンと言えば「マラドーナのようなサッカーをやる国」「ああいうタイプのサッカーがもてはやされる国」という納得の下地ができました。コレ、同国人の皆さんには本意なのかどうか。もっと緻密で紳士なプレースタイルとキャラを持つ選手も、月河が知らないだけで、きっと居るのだろうとは思いますが。

 5000%のハイパーインフレとか、通貨紙屑化でIMF介入とか、この国がしでかすいろんなことが「マラドーナを輩出した国だから」で説明がつく。

 極めつけは、国民的英雄の逝去だからと国葬扱いで全土が三日間の喪に服することになり、大統領官邸の大広間に遺体が安置され一般ファンの弔問を受け付ける、遺族も同意しての格別の計らいがなされたものの、「弔問時間が短い、延長しろ」と要求する集団が一部暴徒化し警官隊が出動、というニュース。ファンも血の気の多い人が多い・・というより、マラドーナさん自身が“人の血気を沸き立たせずにおかない”稀有な才能をお持ちだったということかも。死してもなお。

 輝かしいプレーの数々にわざとのように汚点をつける薬物や奇行の数々は、決して本意ではなかったでしょう。同年代で同時代にプレーしたチームメイトやライバルたちを5人抜きならぬ数十人“抜き”で旅立ってしまわれましたが、彼岸で初めて、何にも捉われず溺れず、才能の溢れるまま自由にボールを蹴ることができているかもしれない。ご冥福をお祈りします。

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土俵上に女性 ~これが本当の塩対応~

2018-04-06 16:15:10 | スポーツ

 報道を聞けば聞くほど、“想定外”どころか、いままで何十年もこういう事態が一度も起きたことがないということのほうが信じられないんですけど。

 舞鶴市民文化公園体育館というハコモノ、どれくらいのキャパなのかわかりませんが、動画で見る限りかなり埋まっているし、そもそも巡業とは言え大相撲です。体の大きな大人の男同士がぶつかったり投げ合ったり、土俵下に転がり落ちてきたりを見世物にするんですから、怪我人、それも一般人の怪我人が発生する事態はいくらでも想定できる。

 今回は地元の市長さん六十七歳が、挨拶のスピーチ中に急に倒れられたのですが、力士の皆さんも若いとはいえ三十代もいるし、まして随伴の親方衆ともなれば立派な中高年で、脳血管・心疾患予備軍、大袈裟に言えば“いつ発作を起こしてもおかしくない”レベルの人も相当おられるはずです。観客だって若く健康な人ばかりとは限りません。相撲ファンの平均年齢は高いし、日頃から薬を常用していて、当日は体調があまり良くなかったが楽しみにしていた相撲観戦だからと、無理して身支度して出てきたお爺ちゃんお婆ちゃんもおられるでしょう。

 素人が考えたって、突発体調急変リスクの高そうなオケージョンなのに、何故、医師か看護師か救急救命士が同行して、会場内に待機していなかったのでしょうか。

 緊急救命措置とはいえ女人禁制の土俵上に女性が上がったとか、「降りて下さい」のアナウンスを若手行司がしてしまったとか、いや客席から先に「女が上がっていいのか」の声がかかって行司が動転しちゃったんだとか、そもそも土俵が女禁な根拠は奈辺にあるのかとかよりも、こちらのほうがよほど喫緊の問題意識持つべきイシューじゃないかと思うんですが。

 明らかに病変をきたした人が衆人環視のど真ん中にぶっ倒れてまさに痙攣しているのに、医療従事者が誰も駆け上がって来ないまま刻々と時間が経過し、観客の中に偶然居合わせた看護師さんが見かねて飛び込んで心臓マッサージを試みた。土俵が女禁で、看護師さんが女性だったからこんなに二日も三日も続けてマス媒体で再生され蒸し返される話題になってしまいましたが、本来、飛び込んできたのが男性看護師や男性医師だったとしても、“当日の出しもの=相撲を、入場料を払って観にきたお客さんに心配をかけ介入させた”時点で主催者はアウトです。管理不行き届きです。

 これもいろんな媒体ですでに言われていることですが、倒れた市長さんが処置の甲斐あってか一命をとりとめ、術後の体調は安定と伝えられたからまだしも最低限の不幸中の幸いでしたが、これで取り返しのつかないことになっていたらどう管理者責任をとるつもりなんでしょう。くも膜下出血という報道通りなら、手術が成功しても後遺症が残る場合もあります。

 これだけの会場にこれだけの客を集め、血気盛んな相撲レスラーを大勢率いて興行するのに、急病人が出たときに間髪入れず対応できる医療プロの一人も同行させていない。コレ、もう、女人禁制がどうこう、人命救助の際の優先順位どうこうを論じてる場合じゃないですよ。そんなユニバーサルな、モダンな問題に触れられるレベルに達してないですよ。その遥か手前で、危機管理意識があまりに低すぎる。こんな組織が、土俵上における女人禁制のしきたりの意義や、存続の可否なんぞ語るのは十世紀ぐらい早いです。

 たぶん相撲協会という所は、現状や状況変化に対する「こうしたらこうなるだろう」「こうならなくても、ああなる可能性もある」という想像力がまったく無く、いままで何十年も、何百年も同じ事をやって何事も起きなかったんだから、これからも同じ事をやっていれば何事も起きないだろうと思っている人間しか居ないんでしょう。力士間の暴力問題や貴乃花親方の処分問題、問題が起きて、事情説明して対処して公表してと、一歩動くたびにツッコまれたり叩かれたりする原因の根っこは一つなんです。想像力が無いから、あらかじめ手を打っておく、セーフティネットを張っておくということができない。問題が起きてしまってからバタバタするから、すべてが後手後手です。

 これは、月河だけの勝手な想像力活動ですが、実は、地方巡業で今回のケースの小型版みたいな事態は、一度二度ならず既に起きていたんじゃないかなと。そのたびに実は女性も混じったり混じらなかったりで、有耶無耶ムヤムヤ・・とその場をしのいでいたのが、昨今のような携帯撮影投稿動画がまだ普及していなかったから、協会関係者以外は会場に来合わせた地元民以外の知るところとはならず、全国媒体でも採り上げられず、従って問題視されることもなくここまで来てしまったのではないかと。今回のような、いくらでも起こり得る、いままでも起こり得たレベルの出来事に、爆弾でも落ちたように大騒ぎする傾向を見るにつけても、大相撲に関してはその報道を生業とする人たちも恐ろしくぬるくて、ナアナアで、緩いです。それが常態化しています。

 まだしもの救いは、先に書いた、市長さんがとりあえず命をとりとめたということが一つ。もう一つは搬送が終わった後“大量の塩が撒かれた”という所ですかね。これも、「女性が一時上がったことを“不浄”と見なしてか?」と好意的には受け止められていないようですが、あまりにもスイートな危機管理意識を、まる裸にひん剥いて塩をすり込むという意味では効果があるかもしれません(ないか)。

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月河のトンデモフィギュアスケート論

2018-02-21 21:33:09 | スポーツ

 1972年の札幌冬季オリンピックはもう四十六年前ですから、「日の丸飛行隊の表彰台独占ね、当時ノーマルヒルじゃなくて、“70㍍級”だったよね」「ジャネット・リンちゃん可愛かったね」とはっきり記憶のある人はもう五十代~半ば以上のはずで、四十代でももう記録媒体でしか知らないんだな・・と思うと隔世の感があります。

 女子アルペン2冠のマリー=テレーゼ・ナディヒ(スイス)、彼女の台頭で銀二個に終わった女王アンネマリー・プレル(オーストリア)(←後にプレル=モーザー)、男子アルペン大回転金・回転銀のグスタボ・トエニ(イタリア)、はたまた男子スピードスケート中長距離4冠アルト・シェンク(オランダ)、女子クロスカントリー(当時はもっぱら“距離”と呼ばれていました)2冠ガリーナ・クラコワ(ソ連)等まで記憶している人は相当熱いウィンタースポーツ愛好家でしょう。

 フィギュアスケートのジャネット・リン選手は覚えていても、彼女を負かして金メダルを獲得したのがベアトリクス・シューバ(オーストリア)選手だったと記憶している人は少ないと思う。当時はもちろん“トリプルアクセル”や“トリプルルッツ”なんていうワザ名が実況アナウンスや解説で流れることはありませんでした。

 「ダブルアクセル!」はギリ、聞いたことがあったかな。調べてみると札幌オリンピックに先立つこと十九年前の1953年に、アメリカのキャロル・ヘイスが女子選手初のダブルアクセルジャンプを成功させています。

 大雑把に言うと、いまテレビ解説で大活躍の佐野稔さんが現役で、ジャンプを武器に国際大会で10位以内にコンスタントに食い込むようになった1970年代半ばぐらいから、放送実況でも活字媒体でもジャンプの技名が具体的に採り上げられ、“ジャンプが成功してこそのフィギュアスケート”というイメージが定着したように思います。もっと前からのスケートウォッチャーなら別の所感があるかもしれない。

 女子では70年代を通じて渡辺絵美さんが健闘していましたが、日本で、フィギュアで女子よりも男子のほうが大きく扱われる現在のような時代が来ると当時は誰も想像しませんでした。

 思うに、札幌オリンピックの頃のフィギュアスケートには、フリーを披露する前に“規定=コンパルソリー”という種目が巌とそびえ立っていたので、観戦するほうの脳内で“技術”の要素はそちらに寄せ集められ、フリーを“ワザまたワザの成否”として見ていなかったのだと思います。リンさんのようにひたすら流麗に愛くるしく滑れば高評価で、でもコンパルソリーが苦手だから、コンパルソリーで大きく稼いだシューバさんに総合的に勝てなかったんだな、と皆が理解していました。

 この規定=コンパルソリーというのは、音楽もなく淡々と、地味な練習着姿の選手が順に定められた課題の図形を右足、左足とスケートエッジでリンク上に描いていき、審判は至近距離でじっと滑走時の姿勢やエッジの確かさ、氷上の図形の正確さを見て帳面に点をつけていくという、当事者以外の遠目では何をやっているかわからないスーパー退屈なもので、オリンピックでもテレビの実況中継があった記憶はありません。だいたいフリーの前日か前々日の午後3時とか4時とか、中継しても視聴できる人が少なそうな時間帯に人知れず終わっていて、翌日の朝刊に順位と点数が載っているのがつねだったように思います。札幌オリンピックでもオーストリアのシューバさんのコンパルソリーは群を抜いていて、カナダのカレン・マグヌセン選手とアメリカのジュリー・ホームズ選手(←オリンピック前年のプレオリンピックで優勝、札幌ではリンさんに劣らぬ人気の美人選手でした)が続き、リンさんはコンパル終了時点ではその下でした。

 複数の競技経験者や指導者が言っていることですが、コンパルソリーとフリーははっきり選手によって得意不得意が分かれ、フリー、特にジャンプが好きな選手はコンパルが苦手で、反対にコンパルどんと来いの選手はジャンプが不得意な事が多かったそうです。

 札幌オリンピックの1972年時点ではコンパルとフリーの配点比は50/50でしたが、あまりにも放送映えせず観客を集められないにもほどがあるため徐々にフリーの比重が高められていき、1989~90年シーズンをもってコンパルソリーは世界選手権からも外されました。

 すると不思議なことに、本来“ワザ”のほうは不得意だったはずの、伊藤みどりさんタイプの多回転ハイジャンパーのほうが「高い技術」と見られるようになってきました。

 思うに、コンパルの廃止は放送権料や入場料収入に結び付きにくく、競技人口の拡大に貢献しないというおカネの問題だけではなく、“身体能力技量の向上を競う競技としてドン詰まり”だからだったのではないかと思います。5年前、10年前の選手に比べて今大会の選手の能力が向上しているかどうか、昔から決まった図形を、昔から決まった姿勢で歪みなく描いているだけではまったくわからない。選手個人が、現時点のライバル選手あの人この人より高得点を出そうという向上心を持つことはできるけれども、競技そのものの未来が見えないのです。

 1970年代は二回転が普通だったジャンプを、90年代にはほとんどの上位選手が三回転跳ぶようになった。その中でも秀でた選手は三回転半を跳び、いまや三回転→三回転のコンビネーションが上位では必須になった。明らかに進化が読みとれます。

 「昔に比べて進化した」、こう思わせるのがいまのフィギュアスケートのトレンドなのだと思います。フィギュアという競技は、この“トレンド”というものに良くも悪しくも左右されるスポーツで、そういう“時代(←“それぞれのお国の事情”も併せて)とのシンクロライブ感”が魅力と言えば言えるのですけれども、選手も、サポートスタッフも、応援するファン、広く言えば外野席野次馬も、いつもこれに振り回されてきた気がしないでもありません。

 滑りがきれいで、且つ瞬発力に富み多回転ジャンプを失敗なくこなす選手が勝つのはどんなトレンドが来ても変わらないでしょうが、とにかく回転数回り切るのが有利なのか、一回転少なくても着氷が正確なほうが有利なのか、序盤に跳ぶのと終盤に跳ぶのとどっちが有利なのかいつ跳んでも同じなのか、微妙な違いでトクしたり損したりが常について回る。

 四十六年前の札幌で、深紅のコスチュームで開花したジャネット・リンさんの華は記憶から色あせることはありませんが、やはり“時分の花”でした。1972年、日本では昭和47年という時代だから、輝いた。

 フィギュアスケートは“技術”と“芸術”のミックス、コンビネーションとして捉えられることが多いけれども、むしろ、映画や演劇と同列の“芸能”、もっと言えば音楽性やファッション性、ショー性、話題性も包含した“総合芸能”と見るべきではないかなと思います。“トレンド”という、うつろい流れゆくものに振り回されてナンボ、なのではないかなと。

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心ザワめく

2018-02-20 13:33:45 | スポーツ

 たとえばフィギュアスケートなら、技(ワザ)の名前がスーパー戦隊並みにありますから、繰り出されるたびワザ名を挙げてるだけで4分ぐらいすぐ過ぎてしまいますが、ただ走ったり滑ったりしてるだけで、最終的に出たタイムだけで決着するような競技の場合(そういう競技のほうがまた圧倒的に多い)、実況アナも実況席サイドの解説者も、実際問題、しゃべることがそんなにないわけです。応援しているファンや観客も「いいから黙って画面見せろ」と言いたいでしょう。

 ところが、競技だけならスタート前のウォームアップやコース整備入れても正味30分かそこらで終わるものを、放送時間が2時間近くあったりするから、どうにかして間を持たせなきゃならない。民放の場合特に、30分じゃスポンサーを入れ込めないからでしょうが、はっきり言って殺生です。生殺しです。

 そこでスポーツ専門でないキャスターや、ド素人同然の元アスリートレポーターが、無い知恵を絞った苦しまぎれの、あるいは何も考えない与太話延長線での“余分なひと言”がボロボロ出て、暖かい日本のお茶の間や、片手スマホで見ている暇な視聴者がいちいち食いついて、片っ端から炎上する。

 いいじゃないですか小平奈緒選手が「獲物を狙う獣の様な瞳」だって。生きとし生けるものが一点に全神経を集中すると人間も動物もなくなるんですよ。前に進む。ひたすら速く、より速く前に進む。ものを考えちゃダメだからね。考えたら考えた分だけ、前に進む以外の神経にブドウ糖その他が行くから。これは獣の世界です。36.94秒間、奈緒さんは獣になったのです。獣を獣と表現して何の文句があるのでしょう。ぶっちゃけそんな事でも言って胡麻化してないと時間が余ってしょうがないんですよ。

 開会式を「閉会式」と言い間違ったからってどうだって言うんでしょう。その前2時間半以上も見てりゃサルでもわかるでしょうよ、これは開会式だって。“開”“閉”って似てるじゃないですか、夜目で見ると。活字原稿あったんだかわからないけど。とか、とか、とか、ぱっと見で大勢間違える漢字なんぼでもあるわ。スキーの荻原選手だって、初めは何度も「ハギワラさん」て呼び間違えられたはずです。しかも彼ら双子だから、下の名前まで間違えられっぱなしだったはず。それは別の問題か。

 ようするに、無くもがなの言葉実況なんかにいちいち目くじら立ててないで、虚心坦懐に選手の競技っぷりだけを堪能したらどうですか、ということを言いたかったのでした。

 ちなみに、羽生結弦選手と宇野昌磨選手のワンツーフィニッシュ成った17日の男子シングルFSは、月河はフィギュアスケートでは初めて、ラジオ(NHK第一)のナマ実況で聴いてました。夜、帰宅したらTVでも飽きるほどリプレイ観られる前提でしたけど、コレなかなかいいですよ。サッカーのラジオ実況よりいいかもしれない。動いてるのが一人だし、とにかく技名が豊富で、絶えずワザに次ぐワザで、ワザとワザの間も音楽がずっと流れていますから、間が持てないという事と無縁です。

 アナが技名を言う→女性解説者「きれいに決まりました」「着氷踏ん張りました」「二回転になりました」「シングルでした」「体が開いてしまいました」「両足(着氷)になりました」「転倒です」「(体の)軸が斜めでした」等と技の成否・首尾を言う・・の流れで、バックに観客席の反応も入るし、“とりあえず、羽生選手なりお目当ての選手の出来は良かったのかダメだったのか”はつぶさにわかる。

 日本の両選手のメダルはあっぱれめでたいの一言ですが、それにしてもフィギュアスケートっていつからこんなに“ワザまたワザ”の競技になったんでしょうか。

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そこで氷解かすな

2018-02-17 11:50:39 | スポーツ

 もはや流行語でもなんでもなく会話でも活字媒体でも普通に使われていて、聞いて読んで意味は解るけれど自分では使えない言葉、自分が表現しようとするときの語彙の選択肢として脳内に並ぶまでにはなっていない言葉というのが、常時幾つかあります。

 もう十年以上前、このブログを開設して間もない頃ですが、「“萌え(る)”という言葉が、人の書いた文章の中に出てくるとなんとなく解るまでにはなったが、自分でドラマや特撮を見ていて、そうそうこれぞ“萌え”だ!という感覚にならない」という意味の事を書いた記憶があります。たぶんもう“萌え(る)”がバリバリ市民権獲得済みだった2006年暮れぐらいだったと思います。 

 最近の自分内で同じような位置にある言葉のひとつに“ドヤ顔”があります。

 おもに関西出身の芸人さんたち発の言葉で、ネタやギャグがウケたときの「どんなもんだい」「やってやったぞ」「ざまぁ見さらせ」という気分を顔面表情化したもののことを言うんだな・・と、ここまではわかるんですが、人物の顔を見ていてそういう表情になったとき「あ、いま“ドヤ顔”になった」と脳内語彙の中からスッと浮上してこないんですな。オーバーに言うと、月河の住んでいる言語文化の中にはない言葉なんです“ドヤ顔”。

 「勝ち誇った」「有頂天」「プライド」「達成感」、プラス「自己陶酔」「人を下に見ている」「冷静に他人視点で見ると微量滑稽」・・等の様々なニュアンスを包括してくるくるっとひとまとめに“ドヤ顔”の一言で言い表す文化の中に、日本中がすでに居ても自分は居ないな居ないな・・と、ずっと思ってきました。

 昨日(17日)の平昌五輪フィギュアスケート男子シングル、羽生結弦選手のSP演技後の顔を見て、一気に氷が解けました。

 これぞ“ドヤ顔”

 あのすがすがしく気高くも傲岸不遜な、故障もリハビリも世間の雑音もぶっちぎってやり切った感に満ち溢れ、いっそ小憎たらしいシャラくさいくらいの表情を一気に言い表すには“ドヤ顔”が、残念だけどいちばんふさわしい表現のようです。もう認めよう負けを。何に負けたんだ。

 羽生選手が見てのとおりの細身の優男で、競技外だとむしろナヨッとして、負傷あがりじゃなくても「大丈夫かしら」と常に思わせる風情で、そのビジュアルのわりには(自身でも言ってる様に)「おい!」と思うくらいビッグマウスなのも“ドヤ顔”性を際立たせ明快にしてくれました。叩いても蹴っても死ななそうないかつい、寡黙でコワモテの大男だったら、ドヤ顔と平時顔との区別がつきにくくてしょうがない。

 いまさらですが羽生選手を“ドヤ顔王子”と呼ばせてもらいましょう。“王子”は古いか。次のFSでは陰陽師に扮するそうですから“ドヤ顔博士”か。

 あと二~三時間少々で、現地では結果が出ると思いますが、夜、NHK‐BSで再放送ありますよね。もう一度ぜひ目視確認したいですね。まずはアクシデントなどなく、思う存分やり切れますように。よく知らないけどライバル勢も力を出し切って、後を引かない勝負でお願いします。

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