イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

秋に春色の汽車

2008-09-30 00:29:55 | アニメ・コミック・ゲーム

国土交通相辞任の中山成彬さんは、日教組ガン発言については“偉くなって注目を集めたら、集まってるうちにどっかで言ってやろう”とむしろ狙って発したくさいですね。相当ためて、ためて撃ち放ったと思しき“風圧”がある。

むしろ“怨恨”に近いものすら感じますな。

それよりこの人、両耳上だけ白くて“天井”部分が黒く、おまけに真っ水平に撫で付けた頭髪といい、全体にパーツが顔面の下方に集まって(額が後退してるだけとも言う)、しかも外側に向かってすべてが“尻下がり”な配置といい、等身のサイズ(横幅たっぷりな顔だけ見てると3頭身ぐらいなイメージ)といい、いしいひさいちさんの漫画のキャラになるために生まれて来たようなルックスですよね。

もうどっかで描かれてるかな。いしい漫画の歴代総理・閣僚、小渕恵三さんや村山富市さんなんかはかなりそっくりだったけど、海部俊樹さんや細川護煕さんなんかは雰囲気だけで、「これ海部だよ」「殿様だよ」と言われればそうかと思う程度の似方。でも、言われたら最後、もう海部にしか、細川にしか見えようがなくなるという。

特に、森喜朗さんはすごかったな。よくご本人からクレームが来なかった。顔の下半分の幅が頭部のそれの4倍くらいあって、がきデカの大親分みたい。しかも頭頂部にいつも日の丸立ってんの。お子様ランチか。容貌よりキャラポジションをヴィジュアル化したんでしょうね。

たぶん、いしいさんにかかると、麻生太郎新総理なんかは、クチが顔の輪郭の5センチぐらい外、なんならコマの外に出てるような気がしますが、最近連載見てないからなあ。

さて、本日929日放送開始の帯ドラ2タイトル。

NHK『だんだん』は、『24(トゥエンティフォー)』ばりの画面分割がちょっと高齢家族には唐突だったようですが、昨年暮れ液晶ハイビジョンTVに切り替えたので、さほど見づらさは感じませんでした。従来のブラウン管小画面アナログTVだったらかなりせせこましい感じがしたはずで、これは国営放送による遠回しな地デジ対応買い換え促進キャンペーンと読むべきか。

『赤いスイートピー』のリフレインは懸念した通りちょっとうるさい。三倉茉奈・佳奈さん、専業歌手でないわりには声も歌も悪くないのですが、松田聖子さんの初期の一連の曲って、澄んだ声で丁寧な音程で歌われるほど“こまっちゃくれた”感じがしてしまうんですな。月河がリアル聖子ちゃん仰望世代でないからかもしれない。

同じ双子モノでも『ふたりっ子』とは違って、マナカナちゃんが最終話までぶっ通しでヒロインを演じる、とにかく一にも二にもマナカナちゃんありきの企画なので、彼女たちに「かわいい」「頑張ってる」という好感をまず持てないと、お話に乗っていく以前にきついかも。

ウチのはむしろ宍道湖サイドのめぐみ(茉奈さん)の継母役・鈴木砂羽さんを見て「美和子さんがこっちに出るってことは、(『相棒』の)亀ちゃん(寺脇康文さん)はやっぱりいなくなっちゃうんだねぇ」と、そっちを積極的に惜しんでいました。

もう1本は昼の東海テレビ制作『愛讐のロメラ』。いきなりタイトルバックに男性舞踊手の影絵が現れ、♪イライライライラ~イ とスペインの歌曲“ロメラ”が流れるインパクトたっぷりのスタート。

続いてのOPクレジットかぶせの主題歌はザ・タイガースの代表的ヒット曲『花の首飾り』カヴァー。仲村瑠璃亜さんの、か細く甘い歌声がいかにもメロでいい感じ。

昭和40年代の国内GSブームは、当然ビートルズに触発されてのムーヴメントだったのでしょうが、ビートのきいたエレキサウンドだけではなく、『花の~』のような、カレッジフォークっぽい、メルヘ~ンな曲が混じって流れても違和感がなかった。つくづく日本の大衆音楽は強靭な雑食胃袋だと思います。ちょっと脱線。

ヒロイン・珠希少女期の増山加弥乃さんは、高校中退した15歳にしては若干幼いか。中学生でもいいくらい。珠希が成人していとうあいこさんに交代してからは、相手役・恭介の男優さんも交代するようなので、ヒロインだけ独走で老けちゃった『花衣夢衣』のような段差感はなくてすみそう。

今日第1話では少女ヒロインの逆境カワイソぶり、少年相手役との淡い交情よりも、大病院院長(名高達男さん)と冷や飯食わされの妾腹弟(うじきつよしさん)との、怨念・嫉妬・軽侮・同属嫌悪・コンプレックスに野望と、盛り沢山に入り混じった心理綱引きが圧倒的。どうやら院長夫人(いしのようこさん)は弟のほうの元カノだったよう。

あと、登場回数この先少なそうですが珠希・亮太姉弟の住む山梨の家の大家さん役に絵沢萠子さんのド迫力。愛人を追って家出した母(立原麻衣さん)は珠希の亡き実父が再婚した、珠希にとっては継母で、亮太は彼女の連れ子、従ってこちらも珠希とは血のつながりは無いこと、一気に台詞で説明し切りましたよ。

絵沢さんと言えば何と言っても故・伊丹十三監督『マルサの女』での「オンナはココに隠すんだ、さあ調べろ!」と開き直る被査察者の愛人おばちゃん役がいまだに忘れられないなぁ。

昨年の同枠このクール『愛の迷宮』は、ナレーターが池上季実子さんで“裏地に正絹”みたいな豪華さでしたが、今年も吉本多香美さん。お父上の黒部進さんが04年の『愛のソレア』に出てくれてましたが、今年は顔出しがあるかな。

そう言えば『だんだん』のナレーターは主題歌を歌っている竹内まりやさんが起用されています。あまりナレーションに拠りかかったドラマ作りは歓迎しませんが、帯ドラマはとにかく“継続して、1話でも多く見てもらうこと”が命なので、何でもいいから「オッ?」と興味持って入ってきてくれればオッケーですかね。

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2008-09-28 15:42:15 | 昼ドラマ

一昨日~昨日の続きですが、『白と黒』オーラス1話前の63話について、聖人(佐藤智仁さん)が兄・章吾(小林且弥さん)の向けた登山ナイフから一目散に逃げたのは、“刺された後、章吾が我に返って救急隊を呼んでも間に合わないように、確実に致命傷にさせるべく森の奥深くまで逃げようとしたからだろう”とここで書いたにもかかわらず、章吾が礼子(西原亜希さん)を聖人から引き離し、棒立ちだった一葉(大村彩子さん)に「聖人を助けるんだ!」と言って止血にかかった次のカットが、3人揃っていきなり病院の廊下(崩)。

画面に映り描写叙述されていることの、裏の、さらに奥を、愛をこめて読み解かんとする崇高(だよっ)な努力が、ここまで見事に一瞬のうちに踏み躙られると、いっそ気分爽快ですな(自棄)。

まぁここまで、信州の研究所⇔東京間、何度も何度もワンカットで往復していたので、このドラマにおける主要な移動手段は空間ワープだったのだ、ということにしておきましょう。聖人を演じたのが元・仮面ライダーガタック佐藤さんでもあるし、“変身しないと走力があまりなく(ガタックマスクドフォームは10089秒、ライダーフォームは同58秒)、自分で思ってるほど奥深くまでは行けてなかったのだ”と補完したほうがいいのかな。んなことはないか。

当該登山ナイフ、刃渡り大体何センチぐらいあるものなのかわかりませんが、女性の礼子が、生涯初体験で刺したのだし、刺さった瞬間の手応えに怯えてそこで手をとめたとすれば、浅手の可能性が高い。肝臓・脾臓など致命的な臓器に達しない創傷の場合、致命の原因としてあり得るのは外傷性ショックと失血、次いで二次感染で、章吾(小林且弥さん)が正気を取り戻して適切な止血を試みれば、あとは消化管出血が逆流して吐血の際窒息する危険がある程度で、意外と時間的にもセーフだったかも。

63話で「勝利者はオレじゃないぜ」と言った時点で、聖人には“本当に欲しかったもの=礼子の愛”が手に入らないことはわかっていました。桐生家の社会的名声と繁栄の源泉であったはずのA115は、聖人が詐欺に成功した途端に、価値のない物だと判明してしまった。聖人は“無”を失墜させるべく戦いを挑んでいたことになる。

権威や世間の評価リスペクトがどれだけ儚いものか、それらを仮想敵として敵意を燃やすことがどんなに空しいかが、この時点で聖人は身にしみていたはずです。芸術家肌の聖人、“すべてかゼロか”“正答か誤答か”2つにひとつの理数的物差しがわかっていなかったのかもしれない。

勝利者でないなら敗北者。甘んじて兄の、生まれて初めての憎悪の刃、自分が望んで企んで兄に意識させ、覚醒させ、暴いた“黒”の凶刃にかかろうと覚悟を決めた聖人の目の前で、愛する礼子が章吾を突き飛ばし凶行を止めたことで、位相が一転します。章吾を殺人犯にしたくない、それほど礼子は兄さんを愛しているのか?と絶望が脳裏に兆したはず。

しかし礼子が章吾のナイフを奪って「これしかあなたを救う方法が無い…私だけがあなたを殺せる、あなたの罪を一緒に背負える…」と向かってきたときに、もう一度世界がネガからポジへ反転した。倫理と理想の世界を選んだはずの礼子が、自分と同じ黒の地平へ下りてきてくれたのです。

自分の腹に刺さったナイフを抜いたとき、今度は自分が礼子にこれを向けて、礼子に抱きつかれるままもろともに果てる選択肢もあったのに、聖人は捨てた。この12秒の間に、聖人の全人生、全宇宙を賭けた決断があったのです。

思い返せば第1話で、見過ごしても見殺しにしても誰も咎めなかった通りすがりの事故車から、閉じ込められて動けない礼子を救出したときに聖人の運命は定められていた。人の善意を信じずに生きてきた聖人が、自分の中のまっさらの善意を覗き見た瞬間。閉じ込められていたのが礼子でなかったら、疎遠だった兄の婚約者だとのちに知らされなかったら同じ情熱が湧いたかどうか…なんて屋上屋な詮索は野暮というものでしょう。

1部終盤の、和臣(山本圭さん)毒殺未遂事件の直後に聖人を退け、自首を促してからの礼子はめっきり聖人に対して刺々しくよそよそしく、章吾の妻としては反対にどっちつかず隙だらけで、愛があるのかないのか観ていて首をかしげたくなる場面も多かったけれど、はなからこのドラマは、礼子が主人公のようで実はそうではなかった。

礼子という、自己実現欲や社会規範意識が高い一方、情愛や包容力に富んでいるとは言い難い、愛していても表現が下手くそな女性と出会い、愛してしまったことを契機として、黒だけを見つめてきた聖人が黒と白の間の、薄暮の森を見出し、歩んで行く物語だった。

64話中、63回見慣れた提供スポンサーベースの森の映像が、最終話で漸く新緑の色を得たのが印象的。真っ白な人間も、黒だけの人間もいない。白の裏に黒を隠して生きているわけでもない。白黒「混ざり合ってひとつ」。これがわかった瞬間、一気に森に“ひかり”が射し込んだ。

大貫(大出俊さん)が回想していたように、「世間の価値観をものともせず、時にはあくどい金儲けもしたが、人の愚かさを決して攻撃しなかった」という実母・彩乃(小柳ルミ子さん)のDNAが、遅まきながら聖人にも萌芽し開花したとも言えるでしょう。62話の大貫、最後の長い台詞は全篇の総括でした。

なんとなく、大貫は聖人が結局は国外に去らないことをお見通しだったような気もします。身を隠しても、最愛のひとを見守れる場所にはとどまるはずだと。その前に一葉に一撃食らう可能性ぐらいは読んでいたかな。手を下しかけたのは章吾だったけど、「おもしろいから放っときましょうよ」と言ったのは確かに一葉だった。誘拐詐欺の一件を墓場まで持って行くのは、矢島らプロの黒どもからしっぺ返しを食らわないよう大貫自身のためでもある。ラストシーンの陰で、「彩乃、聖人くんはやはりおまえの息子だったよ、本当に必要なものが何かわかっているし、手段を惜しまない、傷つくことも怖れない、最後に必ず手に入れる」とひとりどこかで乾杯する大貫の微笑みが見えたような。

章吾がよく礼子の離婚届に応じあっさり引き下がったなとも思いましたが、兄弟ですからね。礼子を兄弟で張り合うという図式から一歩退いて、弟に必要なのは誰かと考えれば簡単に答えが出たか。ひととき自分の中の長年抑圧された憎悪を噴出させてみて、その途方もない反動で、章吾は憑きものが落ちてしまったよう。聖人という存在がなければ、“アタマでまず考える同士”、礼子とはいい科学者夫婦になったかもしれませんが、一葉の出没には陰に陽に一生悩まされたでしょうね。一度沖縄で手を出してしまってますからね。

それより、聖人がいなければ礼子は1話のあの現場で死んでいた可能性が高いから、物語になりませんね。“婚約当日にフィアンセに事故死され、現場から見殺し逃げた幼馴染みと結婚した男が、長い髪のフィアンセの亡霊に悩まされる話”で別のドラマになってしまうか。

話が薄くて汁気が少ないことを物足りなく思ったことも多いドラマではありましたが、最終クレジットロールのバックに流れるフラッシュを追うと、実にいろんなことがすし詰めに起きていたことがわかる。ヒロイン礼子の甘くせつない情感不足を不満に思うより、“聖人がそういう女性(序盤同行していた、わかりやすく献身型かつ官能芬芬の“カノジョ”サリナとの好対照を思うべし)を愛したことで眼前に開け、あるいは閉じる世界”のほうに最初から注目していればよかった。やや気づくのが遅すぎましたね。昨年の『金色の翼』も、国分佐智子さん扮するファム・ファタール修子は観客が一緒に泣いたり笑ったりするためのヒロインではなく、全登場人物の情動の触媒なのだと気がついてから一気に読解がスムーズになったものですが、早くソコんとこ気づかせるように作ってくんないほうもお人が悪い。「対照的な2人兄弟のはざまで“死を願うほどの愛”を見つめるヒロインの物語」と公式サイトで謳ってるんだもの。

小説でも長尺になると、冒頭アンダーライン引いて「この人物のこれがテーマよ」と掲げられた事柄から、12章と読み進むうちに微妙に重心が移動して行き、脇役と思っていた人物が俄然重きをなしてきて、終わってみると全然違う話になっていた、ということは珍しくはないし、そのことで即、作品の価値が低下するものでもない。

終わってみれば近来稀なくらい真剣に観た連ドラになっていた。途中では“あとは結末まで貯め録り流し見だな”と思った局面もありましたが、何だかんだ言って、月河は聖人が大好きだったのだなぁ。

意地っ張りで情が薄い上、些事に食いついて猜疑心燃やしがちな礼子のことだから、何年かのちに風向きが変わって「あの顛末ぜんぶ警察にバラしてやるもん、フン」てならないとも限らないけど、どうにか逃げ切ってね聖人。

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2008-09-27 01:00:28 | 昼ドラマ

今日926日をもって『白と黒』の放送が終了したので、安心して、というわけではありませんが、記念の意味もこめて岩本正樹さんのオリジナル・サウンドトラックを←左柱←←に載せることにしました。

劇伴の音楽は例外なく皆そうですが、“劇”本体部分から離れたとき、初めて音楽単体で持つイメージ喚起力が浮き彫りになります。放送番組の音楽なら、放送が終わった時点で一旦音楽が“自由”になれる。劇中のあの場面この場面、あのキャラこの台詞…の記憶とは“別の部屋”で、音楽だけのシングルモルト、ストレートで味わう機会も持てます。

←ここ←←に載せる紹介メモフレーズを、新しいタイトル載せるたびに結構考えます。今作、全曲を通じて“光”と“影”のコントラスト及び諧調だけは通底しているので、この字句だけは必ず入れようと思っていました。

以前の記事でも触れましたが、タイトルチューンでもあるM1『白と黒』の変奏ヴァリエのうち、特に終盤の礼子誘拐に関わる場面で使用されたサスペンスフルなヴァージョンが幾つか未収録になっている点、一抹の残念感は拭えません。やはり“劇中使われた音楽は、断簡零墨でも網羅”が理想ですもんね。

“事件サスペンスもののアルバム”という印象を、僅かでも与えないことに徹した…と善意に捉えることにします。

デスクの上の試験管やプレパラートのミクロコスモスから、空を仰いで見晴らす地平線の彼方まで、空間的な“水平方向の広がり”がこれだけ豊かな音世界なら、欲を言えばいま少し“上下動”の振幅もあってよかったかなと思うものの、この枠で岩本さんが音楽担当されたドラマで、サウンドトラック盤がリリースされている作の中では、表出された情念の総量(全登場人物が個々に披瀝した情念の総和)が際立って少ないタイトルだったので、これで本編にベストマッチングな、着物の半襟のように“出過ぎず隠れ過ぎず”な仕上がりと言っていい。

そもそも本筋に絡んだ人物のアタマ数からして少なめだったし、比較的登場場面の多い重要な脇キャラも、特殊に入り組んだ個人事情を背負って物語に参入して来る人より、どこにもいる平凡で普通の“善意の人率”が高く、全体に絵ヅラも台詞もアクが弱め。こういう、建て込まない“風通しの良さ”もこのドラマの個性であり得がたい魅力のひとつだったと言っておきましょう。岩本さんの本作も、いつもよりさらに闊達、流麗かつ解放感に富んだ後味です。

06年の『美しい罠』が仲秋の夜長の読書のお供向き、昨年の『金色の翼』が汗ばむ陽気の午前~昼間のデイリーワーク向きとしたら、今作はオールシーズン起床時に良し、日中のデスクワークのBGMにも、午後のお茶タイムにも、就眠前にも良し。最近は在宅時間に、一度も聴かない日はないくらいのヘビロテタイトルになりました。

…その“本体”『白と黒』ドラマ最終話については、駆け足ではもったいないので改めて腑分けすることにしますが、とりあえず、聖人(佐藤智仁さん)が章吾(小林且弥さん)に「オレはいままで人の善意を信じないで、人間の裏側ばかり見ようとしてきたが、本当は人間に裏も表もない、善も悪も混ざってひとりの人間だ。それがやっとわかった」と述懐し、刑を終えて桐生家を訪れた礼子(西原亜希さん)に「聖人がこう言ってた、これを伝えるのが元夫だった男からの最後のメッセージと思ってくれ」と告げるくだりだけは蛇足だったように思います。

聖人のこういう人間観の変化は、仕上げられ桐生家に掲げられた自分の肖像を見、さらにはあの森の入口で再会し抱擁したときに、礼子みずからが、氷解するように感じ取らないとね。

章吾の“元夫としてのメッセージ云々”は、会わず言葉を交わさずにあの絵の場所へ礼子を誘導し、発足なった座間味研究所で実験台に向かいながら“今頃礼子はあの絵を眺めて…”と想像しつつ微かに微笑むだけで、必要にして十分でしょう。

……それには座間味のセットが時間的予算的に無理だったか。

それ以外はこのドラマにふさわしい、区々たる説明を避け当事者たちの“世界へ向かう姿勢”の変化だけに叙述を集中させた、いい結び方だったと思います。この件はまた後日。

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ノゾメグ

2008-09-25 22:56:54 | 昼ドラマ

929日(月)~スタートのNHK朝の連続テレビ小説『だんだん』のメイキングを先日放送していましたね。

朝ドラヒロインは通常オーディションで新人を抜擢するのに、今作は最初からオファーキャスティングらしい。96年『ふたりっ子』以来という担当ディレクターさんは、よほど三倉茉奈・佳奈さんを買っていると見えます。

キャスト表にはオーロラ輝子役で、劇中の持ち歌で紅白歌合戦にまで出た河合美智子さんの名前も見える。NHKとしては「夢よもう一度」ってところかな。そんなに成功作、人気作だったのだろうか。朝ドラに限らず、いちばんTVドラマと薄縁な時期だったのでまったくわかりません。

同じ両親の血と、そっくりの容姿を持つがゆえに普通の人とは違った運命模様が展開する双子姉妹の物語…というと今年6月まで放送していた『花衣夢衣』を思い出します。今年はプチ双子ブームなのかな。ザ・たっちはどうしてる。

時間帯的に視聴はウチの高齢家族次第ですが、1週めぐらいはとりあえず見ることになるかな。いまから「“だんだん”ってのはあれか、あのコたちのコンビ名か」「“ダウンタウン”とか“ココリコ”みたいなもんか」等と言っているので先が思いやられるけど。

こちらは『花衣~』の真帆・澪姉妹とは違い、物心つく前に生き別れて互いの存在を知らされず、家族・きょうだいとしての時間を共有しないまま成長した双子のようで、1963年に岩下志麻さん、80年に山口百恵さん主演で映画化もされた川端康成の『古都』にもちょっと似たふしがあります。

再会した姉妹が一緒に歌う喜びを知ってプロ歌手を目指すという展開がややむず痒い。2人の共通の思い出の曲が81年の松田聖子さんのヒット曲『赤いスイートピー』との設定で、これからは頻繁に劇中で歌われることになりそう。こちらも若干胃にもたれるかな。あの頃の松田さんのヒット曲は歌謡曲として佳作・良作揃いなのですが、歌詞の物語性といいメロディックなオカズの多さといい、いまの時代に聞くと甘さも香味も、汁けも過剰。プレバブル期とは言え、本当に夢多き時代だったのだなあ。

NHKとしてはオリジナルの松田聖子さんなり三倉さん姉妹なりが劇中のしつらえで年末の紅白に出られるような流れになれば、わかりやすい万々歳でしょう。

『白と黒』はオーラス前の第63話。この枠でも、この作品だけは刃物振り回しての追っかけ回しはないと思っていたのですが、やっぱり来てしまった。「“いつものこの枠ドラマ”とは、ひと味(だけは)違うはず」と信じて追尾してきた期待はあっさり裏切られたではないか(崩)。

1部で2度ほど出てきた兄弟フェンシング対戦から倫理や理性を取っ払った“ケダモノ版”と解釈すれば、それほどベタではないか。

聖人(佐藤智仁さん)は刺されたくなくて逃げたのではなく、いずれ章吾(小林且弥さん)の手にかかったとき、救急隊を呼んでも間に合わないように、確実に致命傷になるように森の奥深くまで逃げたのでしょう。

…と思ったら礼子(西原亜希さん)一葉(大村彩子さん)の女性軍、スカートにヒールありサンダルの軽装なのにあっさり追いつき過ぎ。

冒頭このドラマの主題に掲げられた“死を願うほどの愛”が、自分と愛する者との愛の成就のために、邪魔ものの第三者の死を願うという形ではなく、愛する人自身に死んでもらうしか愛を守り、伝達するすべがなくなるという転帰は画期的な昇華形態ではありますが、章吾との“社会的・理性的な愛”に対して聖人とは“情熱のみの愛”で惹き合っているという礼子の内面の燃焼が、特に2部以降(第37話~)どうしてもほとんど感じ取ることができなかった。今日の4人の追いつ追われつの刃傷劇、礼子が土壇場で選んだ行動がもうひとつTVのこちら側に突き刺さって来なかった原因はそれに尽きるでしょう。

30話辺りで、急に倒れ救急搬送された彩乃(小柳ルミ子さん)の病名を知ったときだったか、眠る彩乃を見下ろし茫然とした聖人の背後から、礼子がそっと肘のあたりに手を添える場面がありました。あの頃の礼子は、関わり合っても何もプラスにならないと思える聖人でも、本当に自然に愛しく思い、感情を共有したいという気配があったのに、残念ながら後半はこの静かな波動が持続も高潮もしなかった。後半の聖人は母への援助を拒絶した父の毒殺まで挙行した酷薄な“純黒”としての再登場でしたが、「そんな男でも、いや、だからこそ惹かれてしかたがない」をドラマ上、表現するのはいかにも難題すぎたか。

聖人の“黒さ”を、A115詐欺の企みオンリーではなくもっといろんな角度から照射ショーアップする必要もあったでしょう。現に“白”の章吾のほうは、理想と使命感に生きるだけではなく、「お父さん(山本圭さん)とは違う、学者として自分独自の研究を発展させたい」との野心・功名心を持って沖縄ゲットウ研究所建設に燃え始め、「そのためにはもっとカネが要る」と前がかりになった辺りは1部にはない魅力がありました。

聖人の“黒”も、これでもかと全方位から黒を突き詰めて行けば、「あぁ礼子はこういうところに引っかかりをおぼえるんだな」という納得性も生まれたはず。画才あり、かつ贋作の天才なんてのは実に魅力的なモチーフだったではありませんか。礼子を幼時捨てた母が刺繍か染色の名手という設定にして、礼子が幼い頃見て記憶していたのと寸分違わぬ“作品”を制作して「いろいろ調べて回ったら、あんたのおふくろが昔の住み込み勤め先にこんなものを残していったそうだよ」と礼子に見せたら「あの頃の母さんの作風だわ、好きだった色ばかり…」と涙…なんてね。

少なくとも、2部でほとんど画面に出もしなくなるオルゴール修理させるよりは活きた。あぁもったいない。もったいないオバケが出るぞ。

59話で鑑定を依頼された画商が「贋作ですから無理矢理値付けすれば35万、まあ、贋作とわかった上で楽しまれるならそれも結構でしょう」とこってり皮肉たれていましたが、贋作とは、人を偽り欺くという点においては悪ですが、かりそめの幸福・満足をもたらすという点においては善でもあるのです。

真実が殺伐たる、寒々しい空漠ならば、華やかにきらめく充実した虚偽で人を満ち足らしめるのも、贋作師の“黒”“白”両刀の真骨頂と言える。

聖人の贋作技術を、たとえば上記のように変奏させて劇中、披露させておけば、瀕死の重傷を負った聖人が、

「礼子、あん時のアレは、オレが作った真っ赤な贋物さ…この血よりも真っ赤な、ね…」「大事な人の、思い出の手がかりが何もないより、ニセモノでも、この手でつかめて、触って確かめられるものが、ひとつでもあったら…いいだろ?…この手で…」と震える手を、

礼子「死なないで!聖人、あれは贋物なんかじゃなかったわ、私にとっては…あなたがくれたもの、あなたと見た景色、あなたと一緒に過ごした時間…ぜんぶ、ぜんぶ、私にはかけがえのない本物だったわ」と握りしめる…てなシーンも作れたのに。

もちろんこの台詞を2人に言わせるとなると礼子自身が刺したってわけにはいきませんな。約30年生きてきて、やっと初めて憎悪のカタマリとなった“黒ビギナー”の章吾より、“プロの黒”の矢島らの手の者が先回りして…っていうほうがしっくりするでしょうか。

まぁタラレバを言っていてもはじまりません。はじまらないどころか、明日で終わりだし。これまたこの枠でよくある、三ヶ月垂れ流したストーリーの辻褄合わせに終始する(しかも、合わない作のほうが多数)最終話でなく、象徴的によく使われた森の風景同様、風通しのいい読後感のエンドクレジットを期待しましょう。

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WCつながり

2008-09-23 17:38:05 | ニュース

TVのリモコンをTV本体のそば、CDラジカセのリモコンをCDラジカセ本体のそば、PCのリモコンを(以下略)に置かないと気が済まない人がいます。

「リモコンを置く定位置は、本体の横なり上なり、一体になった場所であるべきだ」と信じてやまない人。

はっきり言ってリモコンの意味がありません。

本体から離れた場所で操作できてこそのリモコンじゃないか。リモコンを手に取るために本体のそばまで行くなら、本体のボタンで操作したほうが早いわと。

同様に、トイレ用消臭スプレーを、個室内奥深く目立たない場所に置かないと気が済まない人がいます。

使用後、使用者みずから必要を自覚してスプレーして出る場合以外、意味がありません。

外から入ろうとドアを開けた瞬間に緊急消臭の必要性を感じた場合、スプレーが中の奥深くにあったのでは、臭死するだろうと。

特に名前は挙げませんがウチの家族にいます。

よい子の皆さんは真似をしないようにしましょう。

さて、昨日の自民党総裁選確定が夕刊に間に合わない午後300台だったため、今朝の朝刊は軒並み1面見出しが麻生新総裁誕生でしたね。

ウチはなぜか(忙しい日は1紙どころか1行も読まないのに!)朝刊2紙購読しているのですが、期せずして両紙トップ「総裁選 大差で麻生氏」

差で生氏”、略して“大麻”

…別に略すことはないんだが。時節柄“大”と“麻”の字並び見るとついね。

これで、石原伸晃さんか、石破茂さんが当選すれば“大石”。

小池百合子さんが当選すれば“大小”。あるいは“大百合”。

…意味不明。て言うか何故略すんだ、月河脳内。

『ゴーオンジャー』の“ケさみ”じゃありませんが、どうして人名が同列に並ぶと、みんなアタマの1文字取って略したがるんでしょうかね。月河が顔と名前一致する最初の日本国総理大臣というと佐藤栄作さんですが、長期政権の後任をめぐって“三角大福”なんてよく新聞・週刊誌にぎわせてたなあ。“福”は“いまの”福田さんのお父さんですが。結局、順送りで全員総理になった。

そのあと“大中小”とか“安竹小(あんちくしょう)”なんてのも出たっけ。当時学生だったか社会人だったか、新聞見てて「書くほうも書かれるほうも、コイツらバカじゃないのか」と思ったね。いまやどれが誰の頭文字だったかも判然としませんが。“中”はご健在の中曽根康弘さん、“安”は安倍晋三さんのお父さん、“竹”はうぃっしゅDAIGOくんのお祖父ちゃんでしょうね。

最近だと小泉純一郎さんの後任騒ぎの“麻垣康三”。さしずめ今回は“麻原茂与子(あさはら・もよこ)”ですかね。

“大麻”当選に特段の異議はありませんが、強いて言えば“麻生さんの、さらにその次”が展望できる結果にならなかったのが残念。次点の与謝野さんは年齢的にも、体力的にも次はきつそうだし、石原さん・石破さんも“次こそは”の腹応えはなかった。

小池さんに至っては、土壇場での小泉さんの支持発言がなければ推薦人20票の上に何票ONできたかすら疑わしい。評論家の三宅久之さんに言わせれば「自民党総裁史上、初めて女性が立候補したというだけで歴史的に雨戸一枚開けた功績は大きい」そうですが、月河なんかは『ルックルックこんにちは』での竹村健一さんのツッコミ役のイメージがいまだ強くて、女性だからどうこうというシンパシーはまるでなく、何党でどこ選挙区で、何期当選しても、「所詮タレント候補」としか思えない。

確かサッカーWCの最近のいつかの大会の実況で、NHK現解説委員の山本浩さんが言っておられたと思うのですが、「本当のサッカー大国は、優勝してさらに“次大会で主力になるべき若手”の片鱗を見せつけている」。

今回の総裁選での自民党は、“総裁選ぶぞの号令かければ5人は出る”ことで小沢民主党に対する優位を見せつけたつもりかもしれませんが、“これから麻生がやって、かりにダメでも二番手グループがこれだけ強力”をアピールできなかったのはやはり誤算だったでしょう。自民党首脳部が誇れると思っているほど、もう同党は人材の宝庫ではないのです。

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