昨日、目覚めた後に、かなり驚いた。
「大雪」である。
地球が、へんてこな感じがする。大波乱だ。
すりガラスの上からも、景色が真っ白なのか分かるぐらい・・・マッチロケ!
やわらかい雪を踏みしめ、奇麗な色と感触にウキウキした昨日と比べて、
今朝はのっけからスッテンコロリンしてしまい、ひやりとしたスタートだった。
何となく、いやぁ~な予感を感じて、「何も起こりませんように」と願いながら、
今日の日を過ごして、帰宅のドアを開けた瞬間・・・
やはり、何かあったような気配を存分に感じてしまった。
お隣の親切なYさんが来てくれていて、父の面倒を見てくれていた。
あえて外出しないようにと雪かきをしなかったのだが・・・その降り積もった雪の上に
腰をどっかりとおろして、父は道行く人を眺めて声をかけていたらしい。
(父の下半身は、当然ながら“びしょびしょ”だった)
「お~い」と、大きな声をあげていたというようなことも聞いた。
具体的な様子は分からず、明日にでも促してくれたTさん宅にお礼のご挨拶をしようと
思っているのだが・・・・・淋しかったのか、茫然自失だったのか・・・
家にいない私を探していたのか・・・
本人が詳しく語ることはないので、第三者に様子をうかがうしかないようだ。
※近所の皆さんには、本当に感謝している。
「助け合いなんだから」「気にしないで」と言われ、
いつも、涙がちょちょぎれそうになる。
一昨日にも、Yさんにはお世話になった。
一人でいることに不安になって、外に出かけたのだと思うのだが・・・
その他、きっかけになったこととして、あるいは現時点で考えられることとして、
昨日のヘルパーさんのドタキャン事件も影響を与えているように考えられる。
実は・・・12月に続いて、同じ担当者が同じように「ドタキャン」をした。
「来てくださる」と“うかがっていた”ので、私は食事の用意をしていかなかったのだが、
実際には「ドタキャン」だったために、父は食事が取れず・・・・待ちぼうけ・・・
私に対しては「来なかった」という事実を、恨めしそうに訴えるだけだった。
昨年末ほどの攻撃はなく、私が「うそつき」「たぬき」になることは無かったが、
父の中には(確実に)裏切られて、放っておかれた気持ちが募ったはずである。
そして、ひとりぼっちの寂しさと不安を経験したのだと思う。
このような事態(ドタキャン)が続いて発生することには疑問を感じてしまう。
先月は、「誰にも忘れることはありますから」と、苦言の一つも呈せず、
「これからは気をつけてください」という一言で済ませてしまったが・・・
同じことが連続でニ月繰り返されたことで、確認すべきことが明確化したと思う。
調整ミスか、連絡ミスか、それとも、私の勘違いなのか(そんなアホな?!)、
起こったことの原因や経緯について、キチンと“あらう”必要がありそうだ。
今回のドタキャンに関して、正直に言うと、“ふりまわされている感”がある。
小さなミスや、ちょっとした問題は“慣れっこ”になってきたが・・・
こういう初歩的な行き違いには対処方法がない。
折り合いをつけたり、当方が努力して改善されるものよりも、根が深そうな印象だ。
説明して理解していただいて、とにかく“援助していただく”というような関係性が
根本から崩れていく感覚なのだ。
一言でいうと、「信頼」ということ――。
今年が明けた途端、こういうことでストレスをためたくはないのだが、
なんだか父の生活介護の重要度が・・・日々増していく現実を目の当たりにして、
自分自身が非常に落ち着かない状態になっている。
これでは外出することができない。
(現在かなりセーブしている外出が、今後できなくなる可能性も在り得る)
自分自身の“不安”が大きく育っていく・・・。
当然ながら、「完全に安定すること」は不可能だと分かってはいるが、
どうにか“より良い状況”を模索していきたいものである。
そして、何よりも大切なのは、「今をみつめること」と「今をやり過ごすこと」。
どんな状況になっても、必ず“学び”はあるものと・・・ただただ自分を鼓舞しながら
日常を見つめていきたい。
本当に、日々「気力&体力を要する」ということを、切に感じている。
「大雪」である。
地球が、へんてこな感じがする。大波乱だ。
すりガラスの上からも、景色が真っ白なのか分かるぐらい・・・マッチロケ!
やわらかい雪を踏みしめ、奇麗な色と感触にウキウキした昨日と比べて、
今朝はのっけからスッテンコロリンしてしまい、ひやりとしたスタートだった。
何となく、いやぁ~な予感を感じて、「何も起こりませんように」と願いながら、
今日の日を過ごして、帰宅のドアを開けた瞬間・・・
やはり、何かあったような気配を存分に感じてしまった。
お隣の親切なYさんが来てくれていて、父の面倒を見てくれていた。
あえて外出しないようにと雪かきをしなかったのだが・・・その降り積もった雪の上に
腰をどっかりとおろして、父は道行く人を眺めて声をかけていたらしい。
(父の下半身は、当然ながら“びしょびしょ”だった)
「お~い」と、大きな声をあげていたというようなことも聞いた。
具体的な様子は分からず、明日にでも促してくれたTさん宅にお礼のご挨拶をしようと
思っているのだが・・・・・淋しかったのか、茫然自失だったのか・・・
家にいない私を探していたのか・・・
本人が詳しく語ることはないので、第三者に様子をうかがうしかないようだ。
※近所の皆さんには、本当に感謝している。
「助け合いなんだから」「気にしないで」と言われ、
いつも、涙がちょちょぎれそうになる。
一昨日にも、Yさんにはお世話になった。
一人でいることに不安になって、外に出かけたのだと思うのだが・・・
その他、きっかけになったこととして、あるいは現時点で考えられることとして、
昨日のヘルパーさんのドタキャン事件も影響を与えているように考えられる。
実は・・・12月に続いて、同じ担当者が同じように「ドタキャン」をした。
「来てくださる」と“うかがっていた”ので、私は食事の用意をしていかなかったのだが、
実際には「ドタキャン」だったために、父は食事が取れず・・・・待ちぼうけ・・・
私に対しては「来なかった」という事実を、恨めしそうに訴えるだけだった。
昨年末ほどの攻撃はなく、私が「うそつき」「たぬき」になることは無かったが、
父の中には(確実に)裏切られて、放っておかれた気持ちが募ったはずである。
そして、ひとりぼっちの寂しさと不安を経験したのだと思う。
このような事態(ドタキャン)が続いて発生することには疑問を感じてしまう。
先月は、「誰にも忘れることはありますから」と、苦言の一つも呈せず、
「これからは気をつけてください」という一言で済ませてしまったが・・・
同じことが連続でニ月繰り返されたことで、確認すべきことが明確化したと思う。
調整ミスか、連絡ミスか、それとも、私の勘違いなのか(そんなアホな?!)、
起こったことの原因や経緯について、キチンと“あらう”必要がありそうだ。
今回のドタキャンに関して、正直に言うと、“ふりまわされている感”がある。
小さなミスや、ちょっとした問題は“慣れっこ”になってきたが・・・
こういう初歩的な行き違いには対処方法がない。
折り合いをつけたり、当方が努力して改善されるものよりも、根が深そうな印象だ。
説明して理解していただいて、とにかく“援助していただく”というような関係性が
根本から崩れていく感覚なのだ。
一言でいうと、「信頼」ということ――。
今年が明けた途端、こういうことでストレスをためたくはないのだが、
なんだか父の生活介護の重要度が・・・日々増していく現実を目の当たりにして、
自分自身が非常に落ち着かない状態になっている。
これでは外出することができない。
(現在かなりセーブしている外出が、今後できなくなる可能性も在り得る)
自分自身の“不安”が大きく育っていく・・・。
当然ながら、「完全に安定すること」は不可能だと分かってはいるが、
どうにか“より良い状況”を模索していきたいものである。
そして、何よりも大切なのは、「今をみつめること」と「今をやり過ごすこと」。
どんな状況になっても、必ず“学び”はあるものと・・・ただただ自分を鼓舞しながら
日常を見つめていきたい。
本当に、日々「気力&体力を要する」ということを、切に感じている。