黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

高津戸合戦の事、勝安和睦を願う事、付けたり、両勢討ち死にの事、此に寄せ手引退く事・その2

2024-11-16 17:55:07 | 桐生老談記の世界

薄ら寒い曇りの一日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、一日中おうち犬です。

まだ11月なのに、これからずっと室内犬ではヤバイ

晴れたらなるべく、お外のお部屋で過ごしましょうね

 

高津戸城西側の写真を探していたら、2022年2月、お散歩の途中でケンくんに出会った、ひめちゃんとタバサねーちゃんがいました

2人でケンくんに迫って、濃厚接触です

ずっと一緒にいたかったけれど、恋路の邪魔がやってきたようです

 

 

 

高津戸合戦の事、勝安和睦を願う事、付けたり、両勢討ち死にの事、此に寄せ手引退く事・その2

当陣中とも聞きわけて、引くべきというものもあり、また是れ程に催し後日の程も計り難し唯打ち破らんというものもあり、異議まちまちにて一定ならざる所に、

抜け懸けの勢、東の責め口より木戸板もぎ越し、引き払い、時を作って乱れ入れば、城にも岩石を落とし懸け、矢鉄砲を打って軍(いくさ)最中になりにければ、

寄せ手の内より新田勢、長嶋外記、板橋小一郎、岩下織部、半田久六を始めとして、両寄せ手の内より名ある人々十三人、上下三十余騎、目の前に討たるれば、

藤生、金谷も驚き、少数とあなどりて味方の名折れをしでかしたりと、引き太鼓を打って両陣を一所に集め、養命の城に引きこもり、人馬の足を休め、今日より軍評定して居たりけり。養命の城に皆集まりけり。

 

 

らすじです。

新田勢・桐生勢ともに、勝安の主張を聞いた。
納得し引き上げるべきだという者、後日の愁いをなくすため殲滅するべきだという者がいて、意見がまとまらなかった。
そのうちに、東の攻め口から木戸を破って侵入したものがあった。
城でも石を落としたり、矢や鉄砲を撃ったりして軍になってしまった。
寄せ手のうち寄せ手の内より新田勢の長嶋外記・板橋小一郎・岩下織部・半田久六を始めとして名ある人々十三人、上下三十余騎が目の前で討たれてしまった。
大将の藤生・金谷も驚きいて、「少数とあなどりって味方の名折れをしでかしてしまった。」と、引き太鼓を打って両陣を一所に集め、養命の城に引きこもった。
人馬を休め、作戦会議をした。
みんな養命の城に集ったのであった。


 

高津戸城の北と東から、由良勢は侵入したのです。

高津戸城の西には渡良瀬川が流れます。



地図を見ると、なんとなく北と東から、本丸跡(要害神社)へ行けそうな気もしますけど


高津戸城西の渡良瀬川の流れです。

石を落とすのは、こちら側の方が効果が大きいように思えます

 

 

初稿  2019.12.13

改稿  2042.11.16

 




( 高津戸合戦の事、勝安和睦を願う事、付けたり、両勢討ち死にの事、此に寄せ手引退く事  終 )

 

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高津戸合戦の事、勝安和睦を願う事、付けたり、両勢討ち死にの事、此に寄せ手引退く事・その1

2024-11-13 20:17:16 | 桐生老談記の世界

穏やかな朝です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

タバサねーちゃんは、早々に用を足して帰ります。

ひめちゃんは、天神田を歩いてきました

路地ナス畑の収穫は終わったようです。

ナスって、収穫時期の長い野菜です。

最近は、田んぼがナス畑にもなっています。

 

2019年11月の黒柴家族の写真を整理中です。

みんな元気にお散歩しています。

 

獅子丸とひめちゃんは、諏訪神社の向こうの高台をよく歩きました

高台にブロッコリー畑がありました。

最近は、ここは草に覆われて道がなくなり、侵入不可です

獅子丸は、収穫で切り落とされた葉っぱに食いつきます。

ひめちゃんは、興味を示しません。

獅子くんは、ゆでたブロッコリーも、もちろん大好きでした

 

実家に帰って半年、15歳半の七海ママの昼散歩によく付き合いました。

ママも、末っ子たちとのお散歩を楽しんでいました

 

 

 

 

高津戸合戦の事勝安和睦を願う事、付けたり、両勢討ち死にの事、此処に寄せ手引退く事・その1

タイトルが長すぎる


去る程に、高津戸の城にも兼ねて用意の事なれば、同じく時をぞ合わせけり。

桐生勢の中よりも荒巻式部、大谷勘解由、常見讃岐、この三人手勢を引いて抜けがけして北責め口より時を作りて押し上りけれども、城内は静まりかえって見えける。

勝安物見へ上り大音声、「これは定めて桐生、新田よりの御出陣にて候べし。我等年久しく他国いたしたれども、故郷なつかしくぞんじ、わずかに住居を構え罷りある所に、何ん人の讒言を以て大勢をもようし給うものや。我ら別してご両家へ向って、野心も御座なく候えども、この陣を引き給え」と理(ことわり)を尽くして和睦を申しければ、

 


あらすじです。


高津戸城のほうでも、かねてからの用意であったので、鬨(とき)の声を上げた。
桐生勢の中からも荒巻式部・大谷勘解由・常見讃岐の三人は、手勢を引いて抜けがけして、北の攻め口から鬨の声をあげながら責めのぼった。
けれども城内は静まりかえっているようだった。
里見勝安は物見台に上がり大音声をあげた。
「これは桐生と新田からの御出陣でしょう。私たちは、長い間他国にいましたけれど、故郷を懐かしく思って、ちょっと居住しているところです。いったいだれの讒言で、こんな大軍でおいでになったのでしょう。、私たちはけっして桐生・新田の両家に野心などありません。この陣をお引きください。」とことわりを尽くして、と和睦を願ったところ、

 

 

鬨の声をあげると言うことは、戦う気があるんですよね
でも、何故か城内はシーンとしています
桐生勢の中からも荒巻式部・大谷勘解由・常見讃岐の三人は、抜け駆けをして、北から責め登ります
そんな中、里見勝安は物見台に上がり大音声をあげたのです
「故郷を懐かしく思って、ちょっと居住している」戦国時代にそんな発言が通るはずはありません
いくら野心はないと言たって
でも、作者は勝安の発言に「理(ことわり)を尽くして和睦を申しければ、」といいます
物見台はどこにあったのかなあ


高津戸城趾・現代の物見台(観光地図の右下Pのあたり)下にある、高津戸城付近の略図です。



周辺に桜並木があります
そのうち、桜の季節にも行ってみましょう

渡良瀬川右岸、桜に囲まれた菊は、ながめの菊です。

余興場もあって、菊の季節の土日には、寄席も上演されます。

ここはとてもながめの良い場所です

ただし、ここら辺は、犬の入場お断りです

 

 

 

初稿  2019.12.10

改稿  2024.11.13

 

 

(つづく)

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桐生渡良瀬川の境なる、ままの下に陣を取り(国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事・その2)

2024-11-11 20:51:21 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、最近おうち犬していることが多いです

でも、今日は晴れて暖かくなりました

昼間は、テラスのサークルで過ごしました

 

5年前の11月、七海ママの昼散歩に付き合う、末っ子のひめちゃんと獅子丸です。

獅子くんが帰ってきて、ママもうれしかったね

獅子丸は、ひめちゃんともタバサねーちゃんとも、仲良くお散歩できてました。

過酷な環境の養家生活を7年もしてきたのに、素直な明るい子に育ってくれました

 

 


国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事・その 2


藤生紀伊守大将にて、関口尾張、茂木右馬之丞、荒井主税、伊藤左近、荒巻式部、福田権三郎、大谷勘解由左衛門、風間将監、須藤帯刀、佐下橋右近、森下長左衛門、岩下織部、岩水喜太郎、飯塚又五郎、籾山太郎左衛門、常見佐貫、箱島右馬之助、半田久六、安田将監、江原与右衛門、片山重蔵、中里若狭、鹿貫将監、彦部加賀、宮寺左近、斉藤丹後、伊藤右京、伏嶋出雲、津久井左京、野村彦八、福島勘解由、柳田縫殿、大沢牛之介、薗田彦六、須永八蔵、内田兵庫、稲垣源九郎、峰岸志摩、垣上半五郎、堀越内造、木村縫殿このほか宗徒人々四十一騎、上下三百二十余人、養命を向城に捕りて新田勢これを待ち居たり。
同後陣、金谷稲葉守を大将にて、丸橋越前、高橋丹後、金井田伝吉郎、岡田石見、引田善八郎、斉藤鉄之助、木村伊豆、渥美又兵衛、同源五左衛門、戸崎源三郎、安藤次郎介、松井平之丞、寺崎小兵衛、織田久五郎、飯島外記、板橋戸市郞、岡野真三郎、堀越茂左衛門、高山平六、板庭与市郎、生方隼人、藤波京右衛門、中根倉之助、小林虎之助、河上民部、小泉左京、芝山大介、薗田彦七郎、井上出羽、鈴瀬藤九郎、織田兵右衞門、滝野田辰介、宮木市市十郎、鈴木新之丞、芝山兵部、大塚半蔵、木戸弥次郎、久永図書、此等を先手として、名ある人々三十八騎上下三百余人、阿左美村を過ぎて桐生渡良瀬川の境なる、ままの下に陣を取り、桐生勢と調子合わせて鬨(とき)の声をぞあげたりけり。



あらすじです。

桐生勢は、藤生紀伊守が大将で、

関口尾張、茂木右馬之丞、荒井主税、伊藤左近、荒巻式部、福田権三郎、大谷勘解由左衛門、風間将監、須藤帯刀、佐下橋右近、森下長左衛門、岩下織部、岩水喜太郎、飯塚又五郎、籾山太郎左衛門、常見佐貫、箱島右馬之助、半田久六、安田将監、江原与右衛門、片山重蔵、中里若狭、鹿貫将監、彦部加賀、宮寺左近、斉藤丹後、伊藤右京、伏嶋出雲、津久井左京、野村彦八、福島勘解由、柳田縫殿、大沢牛之介、薗田彦六、須永八蔵、内田兵庫、稲垣源九郎、峰岸志摩、垣上半五郎、堀越内造、木村縫殿このほか主立った人々41騎、全部合わせて320余人が、養命の砦を向城(むかいじろ)として接収し新田勢を待った。
後陣は金谷稲葉守を大将にて、丸橋越前、高橋丹後、金井田伝吉郎、岡田石見、引田善八郎、斉藤鉄之助、木村伊豆、渥美又兵衛、同源五左衛門、戸崎源三郎、安藤次郎介、松井平之丞、寺崎小兵衛、織田久五郎、飯島外記、板橋戸市郞、岡野真三郎、堀越茂左衛門、高山平六、板庭与市郎、生方隼人、藤波京右衛門、中根倉之助、小林虎之助、河上民部、小泉左京、芝山大介、薗田彦七郎、井上出羽、鈴瀬藤九郎、織田兵右衞門、滝野田辰介、宮木市市十郎、鈴木新之丞、芝山兵部、大塚半蔵、木戸弥次郎、久永図書、等を先手として、名ある人々38騎と上下あわせて300余人が、阿左美村を過ぎて、渡良瀬川の境である「まま」に陣取って、桐生勢と調子合わせて鬨(とき)の声をあげたのだった。


たくさんの人名が出てきます
でも、自分と同じ名字の人が出てきたら、読者は喜んだ事でしょう
その必要もあって、こんなにクドクド人名をあげるのかな?

由良の軍勢は、桐生と新田から、攻め寄せたのです

桐生勢は、あの養命の砦、里見兄弟の敵・石原石見がいた所に陣取るのです

新田からきた軍勢は、「まま」に陣取ります。
「まま」とは、どこか
ここらへんで「まま」というと、旧大間々町役場の上の崖をいうようです

2019年の3月、高津戸城跡から見た風景です。

黄色系のアートがある崖が、大間々の「まま」といわれている所です
左にあるおおきな建物が、旧大間々町役場(現みどり市大間々庁舎)です。

養命の砦(永明寺)まで、車で10分とはかからないでしょうけど、一緒に鬨(とき)の声をあげられるかな

 

 

初稿  2019.12.07  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.11

 



( 国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事   終 )

 

 

 

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討戮すべしと仰せられければ(国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事・その 1)

2024-11-09 14:02:35 | 桐生老談記の世界

寒い寒い朝です

ひめちゃんは堀之内を西に出て、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。

先日まで、秋なすを収穫していた畑には誰もいません。

ここは、新里村時代には、山上城跡公園で行われる薪能の駐車場になってました。

桐生市に合併してから、いつの間にか薪能もなくなりました

 

古い記事を検索していたら、懐かしい確信犯・獅子丸の写真(2020年12月)があります。

なんとも得意げな確信犯です

道ばたで何も入ってない黒ビニールの袋をくわえたのです。

おかあさんに「ペをしなさい」と言われて、「はーい」と放しました。

そして、ご褒美のツブツブ(ドッグフード)を数粒ゲットしたのです。

袋には何も入っていませんでした

確信犯です。

獅子くん、こんな一面もあったのです

一瞬の出来事で、ひめちゃんは蚊帳の外でした。

確信犯、獅子丸です

 

 




『桐生老談記』、新しい章です。
国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事・その 1(討戮すべし」と仰せられければ)

去る程に、由良上野介源国重硬派藤生紀伊守を召し連れ、里見兄弟桐生に住居の由を、御尋ねなられける。

紀伊守承り申しけるは、「彼ら兄弟我がままの仕方、その上、石原を逃げうせたる有様、また謙信公より伊勢崎を分知せられ、また松嶋、阿久沢が取り持ちを以て高津戸に居城を構え、御当家へ一旦の届けもなく、かれこれ、わがまま至極なる振舞い、もし此の節その分に差し置かば、後日の程も計り難く候」と言上申されければ、

また国重公仰せられけるは、「尤も当家に向って弓引くべきにあらねども、この方の家中、石原を憎むほどならば、外にも野心の者多かるべし。然る時は兄弟がゆえに、分国の騒動、留まるべからず。尤も彼らが当家の類家にて、一家のちなみ不憫なれども、後日の乱を求めては当家の政道愚かなる所なり。またこの度越後より随い来る勢も百騎に過ぎたりと聞く。かれこれ心にくき事なり。討戮(りく)すべし」と仰せられければ、

紀伊守承り、「彼ら兄弟もの小身たりと申せど、一騎当千の兵、隨身いたし、籠城仕る上は、味方無勢にては計り難し、よき大将を仰せつけられて然るべき」旨を言上致されければ、「金谷因幡、藤生紀伊、両大将」とおおせられ、即ち両人内談いたさしつつ藤生は桐生へ帰り、わづかに勢の着頭をいたし、


あらすじです。

由良家は代替わりして、国重が当主になりました。
国重は藤生紀伊守を呼んで、里見兄弟が桐生領に居住していることを尋ねました。
紀伊守は、「彼ら兄弟はわがままのし放題です。そのうえ石原を逃亡させたり、謙信から伊勢崎を知行につけてもらったり、また松嶋、阿久沢の取り持ちで高津戸に居城を構え、当家に全く挨拶がありません。かれこれのわがままをそのままにしておくと、後日の愁いとなります。」と報告した。
国重は、「当家に弓を引くという訳ではないけれど、我が家中の石原を憎んでいるということは、外にも憎んでいる者がいるにちがいない。兄弟のせいでわが領国の騒動は収まりそうにない。彼らは、当家と同じ源氏であるけれども、後日の騒動が起こるまで、ほっておくわけにはいかない。討伐せよ。」といった。
紀伊守は承って、「彼らは小身ものであるけれど、一騎当千の兵が隨身いたして籠城している上は、味方の軍勢は少なくてはどうしようもありません。よき大将を申し付けてください。」ということを申し上げた。
国重は、「それならば、金谷因幡と藤生紀伊がふたり大将だ。」と言った。
金谷因幡守と藤生紀伊守は会談し、藤生紀伊守は桐生に帰って軍の準備をした。




里見兄弟は、由良さんによって討伐されるのですね
知りませんでした
兄弟の父を自害に追い込んだのは、石原石見です。
そして、彼らは桐生親綱にに内通していたのです
敵は石原石見と桐生親綱のはずです

里見兄弟は由良領国内で勝手に城を修復して住み、仇討ちをしようとしていたのです
謙信が伊勢崎を里見兄弟の知行に付けたと、また出てきます

伊勢崎の地名は、由良成重が伊勢神宮に土地を寄進したことによりついたと言われています。
変ですね

 

 

初稿  2019.12.05  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.09

 

 

 

(つづく)

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閑心院は未地の僧なれば(成重逝去、付けたり、葬送の事)

2024-11-06 22:43:39 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは1人散歩で、堀之内の西を歩いてきました。

降りそうで降らない、晴れそうで晴れない一日です。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、おうち犬でお留守番です。

夕方は、いつも通り南に下り、中学校の信号付近まで行ってきました。

最近、行き会う犬が少なくなったような

 

2019年11月、ひめちゃんと獅子丸は堀之内を北に出て、よく岩神沼へ行っていました。

沼面に、逆さ赤城も、きれいに映っていました。

今年は、逆さ赤城がどうもきれいに映りません。

15歳半の七海ママも、元気に末っ子たちとの昼散歩をしていました。

ちょっと見には全く似ていない3名ですけど、子供たちはママと似ている部分を持ってます

 

 

 

成重逝去、付けたり、葬送の事

去る程に、由良成重公同六月上旬より、病の床に伏し給う。

同六月二十九日、御年六十一歳にて終に卒去し給う。

上下愁いななめならず、去れば閑心院は未地の僧なれば、金竜寺和尚導師にて、閑心院に葬(とむ)らい給う。

去れば此の君、厚く万民をあわれみ給いし故、御在世六年の間、上下悦こびも誠に御領地静謐、終に収まる事、是名将の徳なり。諸人名残おしく思うこそ、ことわりなり。


あらすじです。

そうしているうちに、由良成重公は天正6年6月上旬から、病の床に伏した。
6月29日、61歳で死去した。
菩提寺の閑心院(鳳仙寺)は、まだ世に知られていなかったので、金竜寺の和尚が首座として、葬儀を執り行った。
この人は万民をあわれんだので、治世6年の間、領地は平穏に治まった。
それは、ひとえに彼が名将だったからである。
みんなが別れを惜しんだのは、もっともなことである。



ウィキペディアによると、由良成重(成繁)は、永正3年(1506)の生まれ、天正6年(1578)6月30日死去とあります。
享年72歳です。
約10年違います

由良成繁は、内通してくれた関心院(鳳仙寺)を菩提寺にしたのでした。
でも、由良の殿様の葬儀を取り仕切るには、ちょっと無理がありました
「未地」は「未知」で、「まだ知られていない・有名でない」でしょう。

金竜寺は新田(太田市)にあります。
桐生にも、金龍寺を桐生氏の菩提寺西方寺のすぐ近くに建立したといいます。
「金竜台」の地名が残るそうです。

由良成繁は、関心院(鳳仙寺)に葬られました。


鳳仙寺の山門です。

 

鳳仙寺の文化財説明板と境内の案内図です。

 

由良成重の墓は、本堂裏の小高い所にあります。

 

本堂です。



由良成繁の墓です。



作者は、由良成繁をすばらしい名将だと評価しています
江戸時代の桐生は、由良氏の時代をよかったと懐かしむ空気に満ちていたのでしょう

 



( 成重逝去、付けたり、葬送の事  終 )

 

初稿  2019.12.01  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.06

 

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