黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

定めて萩田備後守は女渕の城に籠もり居べし(渋川勢揃いの事、付けたり、諸勢出陣の事、その1)

2025-01-27 20:39:04 | 桐生老談記の世界

夕方のひめちゃんのお散歩は、堀之内を南に下り、中学校の信号付近を廻って帰ることが多いです。

最近は、行き会う犬たちが少なくなりました

お出かけ大好きドッグの本領発揮中のひめちゃんは、中学生がたむろしている所も、平気で通れるようになりました

 

2021年4月の黒柴家族です。

小次郎パパもまだ元気でした

 

 


定めて萩田備後守は女渕の城に籠もり居べし(渋川勢揃いの事、付けたり、諸勢出陣の事、その1)


去る程に、渋川相模守義勝、小俣に帰城なられ、

今度、留守の合戦、味方勝利あるによって、御悦び無間、義勝の仰せには誠に無勢にて大敵早時に追い破る事、大勤とやいうべし、高名の上のほまれなり、定めて萩田備後守は女渕の城に籠もり居べし、此の上は女渕の城主荒井図書方へ内通して、何卒備後を引き出し、なんとかはかりごとをめぐらし、其の手立てを催し、先ず当家早速出陣して、膳の城を攻めるならば、備後も膳の後詰めに出づべし、恨みの矢を討って、うらみを晴らすべき、時刻を移さずに勢揃え仕まつるべくありければ、

承り候と、既に軍兵を揃えけり。

 



あらすじです。


渋川相模守義勝は、小俣に帰城しました。
そして、今回の合戦に勝利したことを大喜びして、言いました。
「少ない軍勢で大軍を打ち破ったことはすばらしい働きであり、このうえない名誉である。萩田備後守は女渕(おなぶち)の城に籠もっているにちがいない。こうなったら、女渕の城主荒井図書に内通して、萩田備後守を引っ張り出すようにしよう。まず当家が早速出陣して膳の城をせめれば、萩田備後守も膳城への救援に出陣するだろう。恨みの矢を討って恨みを晴らそう。さっそく軍勢を揃えよ。」と。
「承知しました。」とすぐに膳城攻撃の軍勢が揃えられました。



「恨みの矢を討って、うらみを晴らすべき」、気になる表現です
戦国武将は、恨みで行動したりはしなかったはずです
彼らにとっての最大の関心は、領地の確保・獲得だったはずです

『桐生老談記』作者・高橋守行(1716-1766)は、江戸時代の農民で、上野国山田郡今泉村の名主だったといいます。
彼らの価値観の反映なのでしょう

萩田備後守はなぜ女渕城に籠もるのでしょう?
女渕城の城代・荒井図書は足利長尾氏の家臣で、その足利長尾氏には、由良国重の弟・顕長が養子に入ってます
女渕城と膳城は、さほどの距離はありませんけれど、関係もよく分かりません
小俣から引き上げると、膳城を横目に見て、女渕城に行く事になります

それよりも不思議な事は、膳城と目と鼻の先にある山上城が全く出てこないことです
天正2年閏(うるう)11月、羽生衆千余人は、羽生城を破却し利根川を渡り山上にやって来て、膳城・山上城・葛塚城に別れて住んだといいます。
膳城・山上城・葛塚城がひとかたまりです


女渕城は現在でも、遺構がよく残ってます

白柴タバサちゃんの女渕城登城記2021(初めての逆廻り)



女渕には女渕衆という武士団もあったといいます。
どうも、膳城とは別の流れのように思えます

 

 

 

初稿  2020.04.02  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.27

 

 

(つづく)

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馬を早めて二十三日、小俣に着城仕り給うなり(新田より小俣へ加勢の事・その2)

2025-01-25 21:08:59 | 桐生老談記の世界

今朝、ひめちゃんは天神田を歩いて、久しぶりにケンくんちのそばを通りました。

ちょうどケンくんのママさんが出てきて、「覚えてる?」

ひめちゃんは、もちろん忘れるはずがありません

大好きだったケンくんのママさんだもの

いっぱいナデナデしてもらいました

 

2019年11月のある日、ひめちゃんはケンくんちに寄りました。

直接は逢えなかったけれど、まあ満足だったかな

 

 

 

馬を早めて二十三日、小俣に着城仕り給うなり(新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事・その2)

 

其の口上に、「この度不慮に大事を引き請けし所、敵即時に敗北せしむる事、一旗の大勤以て宜しきなり。殊に城主御留守といえ、家の面目世に聞こえるという。国重その類家として、大慶これに過ぎず」と思し召しける旨、仰せ越されける。

一旗謹んで承り、誠に上意有り難き旨、早速御返答仕まつり、使者は新田へ帰りけり。

去れば其日、早旦に小俣より小田原へ早打ちを以て参着する所、藤沢の辺りにて、義勝公に行き会いたれば、国城の騒動の由言上致しければ、大きに義勝公驚き給い、馬を早めて二十三日、小俣に着城仕り給うなり。



あらすじです。


由良国重の書状には、「思いがけず敵の来襲に遭遇したけれど、即座に敵を打ち破ったことは、まことに喜ばしいことである。
殊に城主が留守とはいえ、家中の面目躍如である。国重にとっても、大変うれしいことだ。」


小俣家中は、謹んで受け取り、早速返答しましたので、使者は新田へ帰りました。


また、その日(天正11年4月21日)、小俣から小田原に使者を早馬で送りました。
ところがなんと、その使者は藤沢付近で、義勝公にあったのです
国元での出来事を言うと、義勝公は驚いて馬を早めて23日には、小俣城にお帰りになりました

 



この小俣合戦で討ち死にした膳備中守の居城は、膳城(旧勢多郡粕川村)でした。


2021年11月19日、朝散歩でみんなで行きました。

ひめちゃんの膳城初登城記

本丸址にある説明板です。




「膳城は、天正8年(1580)武田勝頼の素肌攻めのあと、廃城になったと伝えられる」とあります。


『桐生老談記』 の今は、天正11年(1583)4月です
天正11年、膳城はもうすでに廃城になっているのです

 

 

 

初稿  2020.03.30  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.25



( 新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事   終 )

 

 

 

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未の上刻より雨風しきりにして止まらず(新田より小俣へ加勢の事 ・ その1)

2025-01-22 20:18:58 | 桐生老談記の世界

昨日はひさしぶりに少し暖かい一日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんも一緒に、膳城跡公園と近戸神社までお出かけしました

タバサねーちゃんは16歳半、よちよちながらも自力歩行できます。

おむつもまだ使用してません。

目は見えないけれど、たくましく生きています

 

2020年3月の黒柴家族です。

小次郎パパも、まだ尻尾が上がってます

みんな笑顔がありました

 

 

 

『桐生老談記』 新しい章です。
タイトルには長すぎる題名なので、タイトルは省略形になってます



未の上刻より雨風しきりにして止まらず(新田より小俣へ加勢の事、付けたり、小俣より小田原へ早打ち、義勝帰国の事・その1)



去る程に、由良成重公、病気以ての外なれば、萩野養意を召して御養生の内談最中なる所、小俣合戦の由、午中刻(午後1時)に告げ来り。

上下大いに驚き、則、加勢の為、増田伊勢守、堀口彦五郎を差し添え、都合百七十騎、小俣城に隨わされける。

未の上刻より雨風しきりにして止まらず。

これにより鹿の裏の川原に日を暮らす。


小俣より来る早打ち、小俣勝利の由、聞かしかば、加勢は新田へ帰陣す。

其の日巳刻(午前10時)に新田より小林虎之助を以て使者に立てらる。

 



あらすじです。


由良成重は病気で、その療養を、萩野養意を呼んで相談していました。
そこへ、午中刻(正午頃)に、小俣合戦の報がもたらされました。


由良家中は驚いて、すぐに加勢のために、増田伊勢守を大将に堀口彦五郎を補佐に付けて、170騎で小俣城に派遣しました。
未の上刻(午後1時から午後1時40分)に雨風しきり降り出し、いっこうにやみません。


渡良瀬川は渡ることができないで、鹿の裏の川原で日が暮れました。


そのうち小俣から、小俣勝利の報がもたらされたのです。
それで、加勢の軍は、新田へ引き上げました。
そして、巳刻(午前10時)に新田から小俣に、小林虎之助を使者にして送りました。

 



時間の記述がはっきりしません
この部分は2日間にわたる出来事です。
お昼頃、合戦の報がもたらされて、1時間かそこらで170騎で出陣はかなり難しいと思われます

新田(金山城)から、渡良瀬川をどこから渡って小俣に行くか
やはり松原の渡し、現在の松原橋付近でしょう
鹿の裏の川原がどこかわかりませんけど、松原橋付近でしょう。
豪雨で増水して、渡れなかったのです

松原の渡しは、新田(太田)側が松原、桐生側が三ツ堀ということです
あれ、三ツ堀には小俣城攻撃から退却した萩田備後守も来ています
鉢合わせしなかったのでしょうか、心配です

 

 

 

初稿  2020.03.28  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.22

 

 

(つづく)

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女渕の城に引き取りけり(寄せ手敗軍膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水越後勢水死の事 ・その 2)

2025-01-20 20:59:43 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、最近スーパードッグをしています。

おかあさんがスーパーなどにお使いに行きそうな時に、先回りして玄関で待っていて同行をしてしまうのです。

今日は帰りに山上城跡公園に寄ってきました。

ロウバイがやっと開花し始めていました。

 

2020年の1月、ロウバイの山上城の写真、なかなかないです。

この頃、スーパードッグというかお出かけのお供はタバサねーちゃんでした。

いろいろなところに行ったね

暖かくなったら、またお出かけしよう

 

 

女渕の城に引き取りけり(寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事 ・その 2

備後守大いにあせり、馬に続けと下知なし、馬上歩行武者百騎ばかり逆巻く水に打入りて、よわきものは馬に取り付き、弓筈武者鐙しりにて取り付き越えければ、悪水岸に充満し、歩行武者、弱き武者、手負いの類い三十人ばかり、波間に沈み死にけり、備後守馬ばかり流して、ほうほう岸に上がり、女渕の城に引き取りけり。


あらすじというか、大意というか、非常にわかりにくい表現なので、だいたいのストーリーです

萩田備後守は、「我が馬に続け。」と指令したので、騎馬武者が百騎ほど、逆巻く渡良瀬川に乗り入れます。
弱い者は、馬に捕まったり、弓筈(ゆはず)に捕まったり、鐙に捕まったりして、渡良瀬川を渡ります。
弱い者や負傷者約30名が、波間に沈んで死にます。
備後守は馬だけ流して、ほうほうの体で岸に上がり、女渕の城に逃げ帰ります。



まるで、『平家物語』の橋合戦で、足利忠綱が先頭に立ち、宇治川の逆巻く流れを渡るシーンのようです
ちょっと、迫力不足ですけど。
約3分の1が流されてしまったのですか
足利忠綱率いる東国武者は一騎も流されませんでしたけど。


渡ったところ・三ツ堀は、現在の松原橋付近です。

桐生老談記の作者・高橋守之は山田郡今泉村と新田郡長岡村・菅塩村の管理を領主から任されていました。

桐生老談記の作者

山田郡今泉村から新田郡長岡村・菅塩村によく通ったことでしょう。

そのときには、渡良瀬川を三ッ堀(松原橋付近)で渡ったのでしょう。

松原橋を渡ると、桐生市広沢町、その南はもう太田市です。

三ッ堀から女淵城には、ちょっと遠回りな背走経路のような気もします

 

萩田さん、歩いて帰ったんでしょうか?
かなりの距離ですよ
それに、膳備中守の居城は、膳城です
女渕城では、ありません

 

2020年3月、桜の女渕城を歩いて来ました



萩田さんの記憶は何もないようですね
城主として名前のあがっている、荒井図書允・沼田平八郎は由良方の武将ですね

 

 

初稿  2020.03.26  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.20


(寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事  終 )

 

 

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三ッ堀という所引き退き(寄せ手敗軍膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水越後勢水死の事 ・その 1) 

2025-01-17 21:32:43 | 桐生老談記の世界

今日も寒い寒い一日です。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、お散歩以外はしっかり室内犬しています。

今日も朝晩のお散歩で、誰にも会いませんでした。

みんなどうしてるのかな?

 

2020年3月の黒柴家族です。

やっぱり寒かったんだね

 

東の牧場にも、よく行っていました

ヤギさん家族も増えていたね

 

 

 



三ッ堀という所引き退き(寄せ手敗軍、膳備中守討ち死にの事、付けたり、渡良瀬川満水、越後勢水死の事・その1)


去る程に、萩田備後守搦め手の合戦に打ち負け、米沢山の腰に引きて味方を見るに、打ち死に手負い半死半生のやからもあり。

かくて大手の大将も、笛吹坂流れ矢にあたりて失いける。

惣じて大手搦め手八十人ばかり打たれ、かくて備後守、三ッ堀という所引き退き、河原に馬を立て見れば、渡良瀬川洪水にて、越すべきようはなかりける。



あらすじです。

萩田備後守は、搦め手の合戦に負けて、米沢山の腰(ふもとに近い所)に退却して、味方を見ると、打ち死にした者、負傷者、半死半生の人々もいたのでした。
そして、なんと大手の大将も、笛吹坂で流れ矢に当たって死んでしまったのです。
大手搦め手合わせて、80人ほどが打たれてしまい、備後守は三ッ堀というところまで退却しました。
馬上から河原を見ると、渡良瀬川は洪水で、越す方法はなさそうでした。

 

 


萩田備後守は、搦め手の合戦に負けて、米沢山の腰(ふもとに近い所)に退却したんですね。

ここには、この時の戦死者のものと言われる五輪等群があります

くらみ沢下流の米沢薬師

ここを流れる群馬県と栃木県を分ける川は清水川というそうです。


章の題名には、膳備中守とありますけど、本文中には出てきません
でも、大手の大将は、膳備中守でした
『桐生老談記』では、膳備中守は笛吹山で流れ矢に当たって死んでしまったのです



笛吹山ってどこだっけ?
それは、下の写真の山です



上野国山上から国道50号線に出て、渡良瀬川を渡り、桐生川を渡り、でも1時間足らずです。
ここは、笛吹山恵性院不動寺(ふえふきざんえしょういんふどうじ)という真言宗のお寺です
実は、鶏足寺に行く時に通ったこともあります。

最近は足利市内に行くときは、道67号線(旧国道50号線)をひたすら東に行くコースで、恵性院は通ってません。

またそのうちに、三つ葉ツツジの季節にでも足を伸ばしてみましょう




ここの三つ葉ツツジは、おしべが5本です

 

初稿  2020.03.23  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.17

 

 

(つづく)

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