黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

嵐山紀行総集編・史跡の博物館と菅谷館跡

2019-11-17 15:33:56 | 嵐山紀行

今朝はゆっくりめのお散歩になりました。

ひめちゃんと獅子丸は、岩神沼に到着です

獅子丸は、ほっぺに草の実を付けています。

赤城山は、不思議な色を見せていました

真ん中の丸い頭の地蔵岳(上の写真だとひめちゃんのシッポの真上)が暗い色です。

上空の雲のせいでしょう。

今日は日曜なので、人間のゆっくりした雰囲気が伝わるのでしょう。

彼らは、更に北上して童沢(どうざわ)貯水池を目指します。

童沢東の新沼からの赤城山です。

おや、対岸に何かいます

白鷺(しらさぎ)です

西の童沢沼には、鴨(かも)がいます。

赤城山は、本日限定の色合いです

 

 

 

(2018年12月13日)笛吹峠から、国道254号線に戻り、嵐山史跡の博物館に到着です

 

数日前「金山城ガイダンス施設」(群馬県太田市)で、今回の企画展「越山・上杉謙信侵攻と関東の城」のチラシを手に入れました。

いい感じのチラシです

これは是非行かなくては

 

越山というと、秋の収穫が終わったあとやって来てさんざん略奪し、雪の降る前に越後に帰っていくというイメージです。

企画展は、17回に及ぶ越山を詳しく検証しています。

冬にもやって来て戦っているのです

 

上杉謙信は越後が本拠地であるために、関東管領としての救援要請に苦慮していたようです。

館内は写真撮影禁止なのですが、図録が詳しく編集されています

金山城出土の砲弾も展示されていました。

あの日金山城ガイダンス施設に行ったので、今ここに来ているのです

 

第15次越山は、天正2年(1574)9月から同年閏11月です。

この経過も詳しく述べられています。

 

そして、上杉方の武蔵・下総国境の拠点であった羽生城を破却し、在番衆を引き連れて、閏11月19日に上野厩橋城に帰陣した

とあります。

 

この時羽生衆は山上にやって来て、膳城・山上城・葛塚城(ひめちゃんちのあたり)に分散して、故郷に帰れる日を夢見て暮らしたのです。

 

 

たっぷり時間をかけて見学した後、外の菅谷館の散策です。

まずは畠山重忠さんに逢いに

この突き当たりの向こうです。

 

こんにちは

お久しぶりです。

今年の1月に来ていますけど、それ以来です。

まだ紅葉が少し残っているようです

 

重忠像付近の紅葉です。

今まではここら辺で帰路についてました。


今回は少し歩きます。

戦国時代の城という感じです。

 

現在見られる遺構は、戦国時代に拡大整備されたものだそうです。

広いです

 

全部歩いて見るには、それなりの準備をしてきた方が良さそうです。

説明板を見ると、まだほんの一部を歩いただけのようです。

そのうちに、捲土重来を期しまーす

 

 

 

 

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嵐山紀行総集編・笛吹峠

2019-11-16 21:37:20 | 嵐山紀行

ひめちゃんと獅子丸は、いつものように堀之内を北に出ました。

あ、赤城山に初冠雪

では、ありませんでした。

一番東の峰に、白い雲が垂れ込めていたのです

いつものように、堀之内の西の道を帰ります。

先日まで残っていた稲も刈り取られて、牛の餌用にロールになりました。

ひめちゃん、かゆそうです。

みんな、毛がモコモコしてきました。

また、換毛の季節です。

 

 

昨年の12月は、埼玉県嵐山町と深谷市の畠山重忠関連の史跡に出掛けました。

総集編として、記録を残しておきたいと思います。

上野国から鎌倉へ行く道中になるのです

 

 

(2018年)12月13日、嵐山(らんざん)史跡の博物館の企画展「越山・上杉謙信侵攻と関東の城」に行ってきました。

博物館に行く前に、今年の1月行こうとして果たせなかった笛吹峠(ふえふきとうげ)を確認に行きました。

嵐山に行くとき、ひめちゃんちからナビを入れると、国道17号線(上武道路)を熊谷まで下るコースが出てしまいます

今回はお隣のみどり市大間々町起点の県道69号線で、ひたすら嵐山駅の東まで下ります。

国道254号線に出て、すぐ左折、都幾川(ときがわ)を渡り、向徳寺の脇を通り鎌倉街道を上ります。

時宗の向徳寺は、(2018年)1月にお邪魔しました。

車を置かせててもらい、駐車場のない源義賢の墓や、大蔵館跡(神社)も訪ねました。

 

今回はパス、またそのうちにお邪魔します

実は1月に笛吹峠も目指したのですが、細い道に不安になって挫折してしまったのです

 

鎌倉街道を行くと、あれ何か史跡のようなものが?

「縁切橋」とあります。

説明板もあります。

 

征夷大将軍・坂上田村麻呂が奥方に縁切り宣言をしたのですね。

婚礼の時新郎新婦を通すわけにはいきませんね

岩殿の悪龍とはどんな龍なのでしょう?

坂上田村麻呂はここを通って蝦夷征伐に行ったのでしょうか?

 

田村麻呂さん、いろいろなところに伝説を残しているのですね

 

さらに行くと、細い道になります。

ちょっと心細いけど、ガマンガマン。

 

あ、ありました

笛吹峠でーす

付近にハイキングコースがあるのでしょうか?

道の反対側の駐車場には何台か車があります。

 

説明板をよく見てみます。

 

ここは鎌倉街道で多くの武士団が行き来したとあります

 

正平七年(1352)閏二月新田義貞の三男義宗等が宗良親王(むねながしんのう)を奉じて武蔵野の小手指ヶ原で足利尊氏と戦ったが、最終的に結末がついたのがこの峠の地であった。新田義宗等は越後に落ちていき足利尊氏は関東を完全に制圧していった。笛吹峠の名称については、この敗退の陣営で折からの月明かりに宗良親王が笛を吹かれたことから命名されたという。

とあります。

 

新田義宗は、わが郷里新田の人であるし、宗良親王はかつて訪れた浜松ゆかりの人でした。

久しぶりに、そのときに購入してきた「歌人宗良親王物語」を開いてみました。

「笛吹峠」あるかな?

 

ありました

 

君がため世のため何か惜しからん捨てて甲斐ある命なりせば

 

この歌は、南朝の兵を励ますために読んだとあります。

 

激戦ののち南朝方はしだいに押されて峠で対峙しておりました。その夜、兵をなぐさめるため親王の吹かれる笛の音が峠に鳴り響いていたといいます。それでこのはこののち笛吹峠と呼ばれるようになりました。

と、ちゃんとありました

 

やっと笛吹峠を体験できました

それでは、嵐山史跡の博物館へ行きまーす

 

 

 

 

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