昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

フォルツァ・ドンナでクリスマス・パーティー

2013-12-24 12:21:00 | グルメ

今日は、クリスマス・イヴ。
かーたんは教会に行き、オカブは一人残される。自分で決意したこととはいえ、なかなか寂しいものだ。
そんなこんなで、若林のイタリアン、『フォルツァ・ドンナ』で聖夜を過ごそうということになった。たった一人、暗くなった街路をたどりフォルツァ・ドンナへ。
初めてカウンターに座る。マスターに「こういうパターンは珍しいですね」と冷やかされる。そう、ここに来るのはいつもかーたんと一緒だったからだ。
まずはビール。そしてトリッパのトマト煮から行く。そして豚フィレ肉の香草パン粉焼き。なかなか美味い。ビールのつまみにとレアビーフの叩き。
そんなこんなで、かーたんが燭火礼拝を済ませ、教会から駆けつけてくる。温かいものをということでムール貝とアサリのワイン蒸し。そして魚介たっぷりにトマトスープ。
ご馳走に満足満足。特に寒い夜のトマトスープは絶品だった。
11時過ぎに店を出て12時前にご帰宅。

孤独とはこんなものかとイブの夜     素閑

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メリー・クリスマス2013

2013-12-24 11:59:00 | 日記・エッセイ・コラム

今年も余すところあとわずかである。
今年の、クリスマス・イヴ・キャンドルライトサーヴィスには教会に行かなかった。というか、故あってここ3週間ほど教会には行っていない。
『故』と言ったところでご理解いただくのは難しいと思うし、クリスチャン以外の一般の方には、なおのこと不明であろう。
それを承知で言えば、それは小生の霊的覚醒の故である。オカブの信仰の原点は、聖霊が降ったということと、奇跡は起きたという、極めて直接的な信仰体験である。それは、オカブが教会の門をくぐる前に起きた。だから、本来、オカブの信仰に教会が入り込む余地はないのである。それなら、オカブは無教会かということだが、不勉強にして無教会というものがどういうものか知らないし、多分、オカブは無教会の集会の中にも、自分の信仰的体験を遮断するものを感じて、否定的な感触を持つのは目に見えている。
とにかく、オカブの信仰生活にとって、教会は夾雑物以外の何物でもなかった。それは、多少の社交的なコミュニケーションの場としては、オカブの人生の糧になった面もあるが、信仰的には教会はオカブにとってほとんど無価値である。小生の意見を申し述べれば、既存の教会は『霊的に死んでいる』のである。それが、このほどたまたま教会政治のごたごたに巻き込まれて辟易としていたことと、約30年ぶりに聖霊が降ったという霊的な、しかも衝撃的な体験をして、改めて自分の信仰的な立ち位置を再確認したのである。こういってしまうと、オカブは極めてオカルト的な狂信的異端という見方をされかねないかもしれないが、『異端』といわれれば成程、その通りかもしれないが狂信的というのはちょっとニュアンスが違う。オカブは自分の直接的な体験に基づいた信仰の純粋性を守りたいだけなのである。だから、オカブはもう教会に行くまいと決意したが、教会を否定しないし、多くの人にとって、その環境の中で信仰を育み、成長させることは良いことだと思う。しかし、オカブ個人にとっては「炭焼きの信仰」はナンセンスそのものでしかない。信仰とは神と個人との命がけの対話と願いと肯定と否定・・・・すなわち神対個人の全人格的な対話の上に成り立たなければならない。
しかしオカブ一個人にとって既存の教会は『霊的に死んでいる』のである。既存の教会は形式主義と因習と世俗主義に支配されている。
いまや、教会の改革運動でもなく、リバイバルでもなく、かつて誰も目にしなかった『霊的な』教会を建て上げることが求められている。それはカルトを創設するなどということでは毛頭ない。
『霊的な』教会の礼拝は今までよりもっとシンプルでよい。祈祷と黙想と献金だけのプログラムの礼拝でオカブは良いと思っている。ただし、それは従来の形式主義に毒された浅薄な礼拝ではなく、イサクの奉献にみられたような、あるいはゲッセマネの祈りにみられたような、神と人とのぎりぎりのせめぎあい、真剣な神との対話の中で、ひたすら聖霊を祈り求めるものでなくてはならない。
年末に心騒ぐこととも思われるが、いま聖霊に満たされ実に平安である。世界の人々に、メリー・クリスマス!

聖誕祭祈りの果ての希望かな     素閑

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