5月3日のエントリーで、今年は憲法論議が静かだと書いたがとんだ間違いだった。
そして、安保法制に関する解釈改憲が違憲で、反対だと書いた。これも、いまとなっては間違いだったと自省せざるを得ない。
前国会での解釈改憲についての閣議決定が違憲であるという見方については、今でも変わりない。
しかし、「憲法改正」が事実上100%不可能なこと、有事への対応が喫緊の課題であることを考慮すると、このことは憲法論議以前に、政治判断として苦渋の選択だったといわざるを得ない。
安倍晋三も票にならない、なんの得にもならない安全保障政策を提出して、批判を浴びることはあっても、巷に言われる軍国主義国家を作ろうなどという気は毛頭ないだろう。
オカブは世の中には二つの狂気に類する議論があると思っている。
一つは「戦争をしたくて」たまらない議論。
もうひとつは安全保障など不要であるという素っ裸を主張する狂気の議論。
そして両者とも大真面目で主張する者が世の中にいるから始末に悪い。
しかし冷静に考えてみれば、両者ともまったくの不合理であるということはすぐわかる事実だ。
「戦争はしたくない」しかし「安全保障は必要だ」
そうすると両者を結ぶ課題はどこにあるのだろう。
それは「抑止理論」を認めるか否かである。
オカブも元来、抑止理論には懐疑的であった。というか、大学で勉強した基盤が、当時の東西冷戦下の核の脅威と競争のもとで、抑止理論は悪であるという出発点から始まっていたからである。当時の論壇も朝日・岩波を中心にそれが主流だった。
しかし、以降、いろいろな事実を見るにつけ、抑止理論は現代において効力を持つという結論に至った。
これについて、一例をあげれば、海上自衛隊が冷戦を終結させたという事例はあまり知られていない。海上自衛隊のP3C対潜哨戒機の活動がオホーツク海のソ連ミサイル原潜の第二撃能力を無力化し、核バランスの均衡を崩し、結果としてソ連側からのデタント、ひいては雪解け、ペレストロイカ、ソ連崩壊へと繋がったのである。
これは抑止能力の正当性を証するもので、しかも当時からいわば「集団的自衛」が機能していたという事実なのである。
しかし、現日本国憲法上はこれすらも違憲であるという説にオカブは同調する。
憲法は当然ながら最高法規として、立憲主義に立つならば、硬性性を保ち、政治への拘束力を持つものでなければならないのは明白である。
しかし、国際情勢の変化により中国・北朝鮮の軍事バランスの上昇に伴って、日本の抑止力のレベルを上げなければならないのは明らかだ。
国際紛争が起これば、日本国憲法など、微塵に砕けるというということから目をそらせてはならない。
釈然としないのは、政府がPKO活動、国際貢献などと、集団的自衛権の行使をオブラードに包んで国民に目晦ましすることである。そんな姑息なプロパガンダを行わずに、堂々と国家の主権と国民の安全を守るために同盟国と集団的自衛権を行使するといえばよい。
改めて、現状で憲法改正が不可能な以上、解釈改憲によって安保法制を整備するということは好ましいことではないかもしれないが、苦渋の正しい政治選択であったと言わざるを得ない。
四方の海波風騒ぐ梅雨の夜半 素閑
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