いや、今日は暑かった。
昨日あんなに涼しかったので、これで一気に秋に向かうのかと思ったら、また暑さのぶり返しである。
正直、この寒暖の上下の激しさはキツイ。老体には更にキツイ。
また今日もクーラー全開で寝ることになりそうだ。
しかし、このところめっきり日が暮れるのが早くなっているし、秋が来ていることは確実なのだが・・・
早く本格的に涼しくなってもらいたいものだ。
清涼の季節を迎えることのなんたる心地よさよ。
しかし、まだ8月だ。
当分、暑い日がると思うとうんざりする。
(今回の写真は仮ポジでご勘弁を)
涼しくなったら京都に行って嵯峨野の辺りを歩いてみたい。
オカブが京都に行くと訪れるのに外せないのが嵯峨野だ。
とにかく野々宮神社から落柿舎まで歩くのがオカブの京都行の定番だ。
ミーハーと言う勿れ。オカブの趣味に後からミーハーが付いてきたにすぎない。
ああ、平野屋の芋棒も食いたい。
しかし、ここでハタと気づく。京都まで行く金など、どこにあるのだと・・・
秋暑し竹林揺らし風ひとつ 素閑
また、使い走りに出た。
最近、かーたんの人使いが荒い。
コンサートの本番が迫っているからかもしれない。
行くところは決まって三茶、太子堂界隈。
うちは三茶の西友のお得意様だから仕方がない。そういえば下北沢のダイエーがイオンに衣替えして品揃えもお手頃価格も充実したという。イオンというと某政党のオカラさんが頭に浮かぶが、今度行ってみるか?
道端の御岳講神社の敷地に見事な木があった。
ちょっとした発見かもしれない。
糖質ダイエットは継続している。
今晩の夕食はおかずだけ。あと焼酎。
いつまで続くやら?
銀木犀二人語るを聞きて立ち 素閑
北朝鮮が、またもやICBMを発射した。
しかも今回は北海道の日本国土を飛び越えて、太平洋に落下している。
危機は一層その緊張の度合いを高めている。
ところで、今回のミサイル危機をチキン・ゲームに例える論調があるが、無理があると思う。
①チキン・ゲームは両者が避けずに正面衝突して双方が壊滅的被害を被るという選択肢も前提としているが、北朝鮮と米国では核攻撃能力に差があり過ぎてこのような結果は考えにくい。
②北朝鮮の挑発は、北朝鮮にとってほとんど抑止効果がない。と言うよりも北朝鮮の挑発は、抑止→力の均衡による平和、ということを目的としたものではなく、一方的な脅迫による国際社会からの果実の奪取を狙ったものである。
③北朝鮮は、果たして合理的判断ができるアクターなのか?
以上から、オカブは今回の事例をチキン・ゲームや他の古典的ゲーム理論のモデルに当て嵌めるのは不適当なのでは、と思う。
だから北朝鮮と米国の行動を無闇・適当に「チキン・ゲーム」と騒ぎ立てる俗論には違和感を感じる。
一方で、ではどのような分析モデルに当て嵌まるかということに関し、適切なものが思い当たらない。
一連の事例を政治分析的アプローチで解説するとすれば、どのような手法をとるべきなのか?
オカブは北朝鮮による、一方的脅迫でもたらされる北朝鮮のプレゼンスの強化と、外交的果実の享受という北朝鮮の単独ゲームの、軍事・外交闘争だと思っている。
北朝鮮の無法な脅迫に対して、かつての六カ国協議でピエロを演じた米国のヒルをはじめ、今回のメルケルの意思表明にも見られるように、対抗勢力は、北朝鮮に対する軍事的オプションという、最も有効な対抗策を最初から捨象して、単に状況を「対話路線」に導くことだけを念頭に置いている。
そこで、北朝鮮による核ミサイルの脅迫というアクションに対して、対抗陣営はそれに見合ったアクションを取らずに、全くゲーム理論のモデルには当てはまらない異常ともいえる行動を取っている。
もちろん北朝鮮との「対話」が可能なら、今、カタストロフィックな結末を回避するうえで、これ以上望ましいことはない。
しかし、北朝鮮の意図が「対話」による相互の譲歩、例えば北朝鮮の核放棄と彼等への制裁の緩和、あるいは経済援助のバーターが可能かというと、それは北朝鮮にこうした交渉は全て反故にされてきたこれまでの経緯から、まずあり得ない解決策といえる。
では、各国は北朝鮮への制裁を強化することで、北朝鮮が音を上げるまで待てばよいのかというと、まず中国とロシアという北朝鮮に対する強力な支援国家があり、この二国の経済的・軍事的・技術的支援の下、北朝鮮は核・ミサイル開発をエスカレートさせるだろう。そして関係国が「待っている」間に、北朝鮮の核攻撃能力は飛躍的に増強され、日本はじめ米国はその脅威に曝され、あらゆる場面で北朝鮮の脅迫に屈せざるを得なくなる。
事態が好転しないことを前提に考えれば、危機の重大性は急速に増大する。
今日より明日が事態が緩和されていることはあり得ない。
仮に、北朝鮮が米国本土に到達可能なICBMと核弾頭を完成し終わったら、そこで従来、人類が数々の犠牲を払って構築してきた国際秩序は終了だし、米国、中国、ロシアを巻き込み他の核保有国も参加する世界核戦争の可能性もはらんでいる。その場合、地球は滅亡する以外の未来はないだろう。
そうなってからでは遅いというのは言うまでもない。
今、世論に問えば無謀の誹りを受けようが、米国の北朝鮮に対する先制軍事攻撃が世界の安寧のために少なくとも最善の選択肢の一つになりつつある。
初秋や水面たいらかいと清し 素閑
八月二十九日。
八月も終わりに近づいている。
今年の夏もオカブ家はなんにもしなかった。
かーたんと7月に高井戸のスーパー銭湯に行って、それで全ての夏のレジャーは終わり。
寂しすぎる。
それであるから夏の記憶と言ったものは殊更ない。
というか夏の印象というものは子供時代で停止し、それ以降は消え去っている。
子供時代は楽しい海にも行ったし涼しい高原にも行った。
しかし、高校、大学と山登りに明け暮れ、夏は苦しい夏山合宿だ。
そして社会人になり、憂鬱な夏休み明けのことを思うと、夏休みを楽しんで、なんてことはできなかった。
さらに、社会人を卒業してオカブ商会を設立し、晴れて自由人の身となると、心の余裕と時間はたっぷりとれるようになったが、肝心の遊びに行く金がなくなった。
なんとも世の中は不条理にできている。
いっそのこと暑い夏より涼しい秋が待ち遠しい。
また、これも現金な気持である。
昨年の去る八月を忘れけり
もうかれこれ10年近く前に、初秋の鎌倉へ行った。
ありきたりの仏閣を回ったが、それなりに情趣深かった。
東慶寺では鈴木大拙、安倍能成、岩波茂雄、西田幾多郎の塔を観た。
鈴木禅学の大拙と西田哲学の幾多郎が同じ寺に眠っているのが面白かった。墓域は大拙の墓の方が広かった。
しかし一番、印象に残っているのは逗子の海水浴場。
海はオークルの彩。
朝まだき、まったく人気のない浜辺で波だけが踊っていた。
秋をひしひしと感じる瞬間だった。
秋の波げにも老いたるわだつみや 素閑
8月22日が島崎藤村の忌日であることを忘れていた。
島崎藤村は木曽馬籠に生まれ、ロマン主義から自然主義の文学の流れを駆け抜けた。
『破戒』は当時としては、視座の定まらない被差別問題を根底に、自然主義の筆致で人間模様を淡々と描いている。
昨年の暮れにエルさんと信州旅行をして、小諸の懐古園にある『島崎藤村記念館』に立ち寄ってきた。ここで藤村がエルさんの明治学院の先輩であることを知る。
今、忘れかけられている島崎藤村の文学的実績だが、波乱多き人生を送った藤村であったが、その作風は感情過多にならず、自らの人生の悲劇性に流されない、透徹としたものであり、今後再びの評価が待たれる。
藤村忌朝しらじらと寝れぬ夜 素閑
街歩きの続き。
普段はせわしなく行き交って見過ごしてしまう路傍の花も、秋の訪れのセンチメンタルで抒情的な季節には何物にも代えがたく映る。
「夕べには炉で燃やされてしまう野の草でさえ、こんなにも神は装ってくださるのだ。ましてやあなた方にはどんなに良くしてくれることだろう」とは福音書にあるイエスの言葉。
しかし、こんな自分よりも路傍に咲く花の方が貴いのではないかと疑ってかかるオカブの不信仰。
秋は、いろいろな観想をもたらしてくれる。
丁度、家には昨日買ってきたバーボンもある。
ロック片手に、徒然なるままのパンセに浸ってみるのもいいかもしれない。
日日草今生別れの劇の果て 素閑
季節の変わり目に外を歩いていると、色々な新鮮なものが目に飛び込んでくる。
都会の街の、ごく平凡な風物でも心を打つものだ。
一本の街路樹、いや道端の草にも心を惹くものがある。
感傷を伴って、夏の終わりと秋の訪れを同時に感じる季節だ。
秋草のその勁きにぞ習わむと 素閑
夕方になって、かーたんからお使いのご命令。
西友でサーモンフライと、卵、そして『ディスカウント・ショップ・モリ』改め八百屋の『太子堂村』で人参を買ってこいとのこと。
まぁ、月末の忙しいところも過ぎたことだしと、唯々諾々と引き受ける。
三茶まで速足で行ったので、少し汗が滲んだが、本当に今日は涼しい。
九月下旬の陽気ではないか?
こうした季節の変わり目に外を歩くのは楽しい。
色々なものが目に飛び込んでくる。
しかし、もう秋の気配、秋の夕暮れの侘しさよ。
秋の街売り子しみじみ呼ばわりぬ 素閑