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由利への入部400年

2022年11月20日 05時34分00秒 | 郷土史

1623年は由利地域への領主が入部した年です。そうです来年が入部400年の年になります。

六郷、岩城、内越、仁賀保各氏が小藩ながらこの地を治めたスタートの年です。由利本荘市でもイベントの準備をしているようです。

私たちは市史を平易に書き換え小学校高学年でも読めるものに書き換え作業をしていますが、小学校高学年まで下げるのはとんでもなく難しいです。まず近世のプロローグ文書ですが、これでは小学校では理解不可能です。


由利は一つ〜由利12頭〜

 私たちの住む、由利地方には「由利十二頭記」という、いわゆる戦(いくさ)を題材にした物語があります。これは、由利地域において戦国の時代に「由利十二頭」と呼ばれた、それぞれの領主の由緒(それまでの歴史)と互いの争いが話の中心です。本当にあったと思われる内容もあれば、そうでない部分もありますが、その当時の勢力の様子がよく分かります。

 中世と呼ばれる時代に活躍した由利十二頭ですが、江戸時代に入ると大部分は、由利の領主としては生き残れませんでした。

 それでも「由利十二頭記」は、由利地方の旧家の武家・商家から村名主・肝煎(きもいり〜名主とも呼ばれ百姓の代表)など幅広い人びとに書き写されて残されています。

 なぜ、このような記録が広く残されていると思いますか。

 それは江戸時代以降も、武士から町人・百姓に至るまで、自分たちは「由利」の人であるいう共通の思いがあったからだと思われます。現代になっても、由利地域の人びとにとっては「由利は一つ」がつづいているからです。


諸領主の配置

 天正十八年(1590)に、豊臣秀吉の全国統一によって由利の諸領主は秀吉の支配下に組み込まれました。秀吉の朝鮮侵略にも動員されているのです。しかし、慶長五年(1600)に起った関ヶ原の戦い後に、由利12頭は、領地替えや今までの領地を没収されてほとんど由利には残っていません。

 江戸時代になると、私たちの由利地域は山形城主の最上氏に与えられました。そして、その家臣である館岡満茂(たておかみつやす)が本城(本荘)に城を築いて、城下町を建設するなど、近世的支配への歩みが始まったのです。

 しかし、元和年(1622)に最上氏は、改易(領主をやめさせられること)されてしまいます。翌年の元和九年に、六郷政乗(ろくごうまさのり)に本荘藩二万石、岩城吉隆(いわきよしたか)に亀田藩二万石、仁賀保挙誠(にかほきよしげ)に一万石、打越光隆(うてちみつたか)に三千石をそれぞれが由利を与えられました。

 またしても由利は分割して支配されてしまいます。このように、由利地方の本格的な近世は1633年に始まったといえます。

 それぞれの領主の領地は、その後18年間で一部変動します。寛永三年(1626)に仁賀保氏の所領が、挙誠の長男の良俊七千石、二男の誠政に二千石、三男の誠次に千石と三人の息子に分割されたました。寛永八年に良俊が死去しましたが跡継ぎがいなかったために、七千石は没収となりました。さらにその三年後には打越氏が改易され矢島の領主でなくなりました。

 矢島藩には、寛永十七年に転封された讃岐(現在の香川県)の生駒氏に現在の矢島・鳥海地域の一万石が与えられたのです。その後は、その時に定められた領域が十九世紀前半まで続くことになります。

 この間、仁賀保では、端数のない石高で所領を与えるために一つの村が複数の領主に分割支配されるということも起っています。

 室沢村・三森村・伊勢居地村などです。このようにして、「由利は一つ」という地域感覚が存在した一方で、由利という小さな地域で複数の領主による分割支配が行われていたことが近世由利の特徴なのです。

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