本荘の美術工芸品といえば、御殿まりと本荘塗りと言われた時期があったそうだ。残念ながら本荘塗りは平成6年で廃業して、今は手に入らない。当時日本の名工と言われ、文化勲章までいただいた、本荘塗りの創業者が北島三郎さんだ。サブちゃんとは同姓同名だが全く違う人だ。
戦時中は、職人が兵隊にとられたりして、一時製作を中止したことがあったが、やがて戦争が終ると再び息をふき返した。 しかし、職人も歳を取り、技術を引き継ぐ人がいなくなり、廃業してしまった。
北島三郎さんは、昭和十六年に子吉川で、川まつりの花火からヒントを得て、全国にもまれな『菊花模様』を考え出した人である。
能代工業漆器科の第一期卒業生であり、卒業後大正九年には竹谷金之助氏や長崎源之助氏らとともに、県外の先進地に派遣され、二年問みっちり修業を積んで帰ってきた。
帰るとすぐに、稲庭川連町で川連塗りの指導をしていたが、『ぜひ身についた工芸で郷土の特産品をつくり出したい……』との初志が忘れられず、本荘市郊外に繁茂する広葉樹やうるしに目をつけ、それを主材にして本荘塗器をつくりあげた。
かくして昭和十六年、東京三越本店で開かれた『秋田県漆器展』に十二点を出陳したところ、これがわずか数時間で売り切れとなってしまうほどの好評を博し、これがきっかけとなりどんどん注文がくるようになったという。
能代工業漆器科の第一期卒業生であり、卒業後大正九年には竹谷金之助氏や長崎源之助氏らとともに、県外の先進地に派遣され、二年問みっちり修業を積んで帰ってきた。
帰るとすぐに、稲庭川連町で川連塗りの指導をしていたが、『ぜひ身についた工芸で郷土の特産品をつくり出したい……』との初志が忘れられず、本荘市郊外に繁茂する広葉樹やうるしに目をつけ、それを主材にして本荘塗器をつくりあげた。
かくして昭和十六年、東京三越本店で開かれた『秋田県漆器展』に十二点を出陳したところ、これがわずか数時間で売り切れとなってしまうほどの好評を博し、これがきっかけとなりどんどん注文がくるようになったという。
戦時中は、職人が兵隊にとられたりして、一時製作を中止したことがあったが、やがて戦争が終ると再び息をふき返した。 しかし、職人も歳を取り、技術を引き継ぐ人がいなくなり、廃業してしまった。
本荘塗りについて調べているうちに、子孫とコンタクトを取ることができた。三郎さんのお孫さんが、少しだけ残っている。製品や遺品を資料館に寄贈したいという事で、会う事になった。それはそれは素晴らしい塗り物だった。後ほど、寄贈リストと寄贈品をお持ちになるということで分かれた。
別れ際、歳を聞かれ同い年という事が判明し、更に本荘高校の同期である事が判明した。縁とは不思議なところで繋がるものだ。是非、本荘塗りの常設コーナーを設置できればと考えている。
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