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西目の由理12頭 潟保氏

2024年09月23日 14時35分00秒 | 郷土史
潟保氏についての情報は非常に限られており、主に「由利十二頭記」などの軍記物に頼るしかありません。しかし、この記録の原本は現存せず、複数の写本があるだけです。また、潟保氏が由利郡に入部した時期についても、応永元年(1394年)説と応仁元年(1467年)説があり、はっきりしていません。70年以上の差は厳しくありませんか!

八幡神社の遷座と海野弥太郎




潟保館(孔雀館)にある八幡神社の由緒によれば、応仁年間(1467年〜1468年)に現在の場所に遷座されたとされています。これは、応仁元年(1467年)に海野弥太郎が潟保館の城主となった際に行われたと考えられます。

 海野氏と斎藤氏の関係

由利十二頭の多くは信濃の小笠原氏や大井氏の出身ですが、潟保氏は特異な存在で、海野氏を祖としています。海野氏が由利地方に移住した際、土地を支配していた斎藤氏との間に問題が生じましたが、海野弥太郎が斎藤氏の娘と結婚することで解決し、「潟保」姓を名乗ることで合意したと言われています。一次資料がないため、この出来事の真偽はわかりませんが、応仁元年から応仁2年にかけて、信濃の海野氏が村上氏に敗れて領地を失ったことは事実です。このため、海野氏の一部が由利郡に移住した可能性は否定できません。

斎藤氏についての詳細は不明ですが、江戸時代初期には潟保村に斎藤長左右衛門という人物が存在し、現在も西目町に「斎藤」姓が見られることから、この地域で斎藤一族が影響力を持っていたことが伺えます。

潟保氏の歴史と領地

潟保氏についての間接的な情報として、天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣しなかったため、潟保修理亮は領地を没収されています。豊臣政権下では由利五人衆の中に潟保氏は含まれておらず、彼らの石高が他の五人に比べて低かったことが示されています。

関ヶ原の戦い(1600年)では、潟保氏の家臣である稲葉勘解由左衛門が仁賀保氏に従って戦った記録があります。この戦いで潟保氏は一定の地位を保っていたものの、独立した領主としてではなく、仁賀保氏の支援者として存在していました。

その後、慶長7年(1602年)に仁賀保氏が常陸国に移封された際、潟保氏は同行せず、最上家に仕えることになり、潟保出雲は「最上義光分限帳」において200石の所領を安堵されています。元和8年(1622年)には最上家が改易された際、潟保氏は庄内藩主の酒井家に仕え、同じく200石の所領を与えられました。

潟保館(孔雀館)

潟保館は「孔雀館」とも呼ばれ、その名の由来は、館の形状が孔雀に似ているからです。現在、館跡には潟保神社や龍田神社、金毘羅神社の石碑が建ち、日本海を望む美しい景色が広がっています。館跡は現在、公園として整備され、一部には土塁や郭の跡が残されています。また、八幡神社や宗老寺などの宗教施設も建てられています。

このように、潟保氏は由利地方において特異な存在であり、歴史的な背景を持つ家系であったことがわかりますが、その詳細については依然として不明な点が多いです。

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