小学生でも分かる由利12頭①
1由利12頭(ゆり12とう)がやってきた!
1192作ろう鎌倉幕府!
鎌倉時代に、岩手県の平泉で奥州藤原氏が東北地方を治めていました。
この頃本荘由利は由利氏が検非違使(けびいし)としてこの地方を管理していたのです。
検非違使とは、平安時代の日本で設置された部署で、治安を守るために活動していました。具体的には、平安京(現在の京都)内での監視や違法者の逮捕を担当していました。その名前の意味は、「非違(不法、違法)を検察する天皇の使者」というものです。
初期の検非違使は、警察のような役割を果たしていましたが、次第に平安京での裁判や行政全般にも関与するようになり、強大な権限を持つようになりました。検非違使は、犯罪者の取り締まりや逮捕だけでなく、政変や反乱といった重大事態にも関与する大事な仕事を担っていました。
つまり奥州藤原京を守るために派遣されたのが由利氏だったわけです。
ただし、正式な記録としては残っていません。
平安末期に奥州藤原氏が源義経をかくまったため義経の兄の源頼朝から奥州藤原氏は滅ぼされます。そのため、由利地方も鎌倉幕府に取り上げられます。
奥州征伐の際に由利氏は捕まります。ところが源頼朝に人物を認められて、命は助かりました。その後の行方はわかりません。
その後由利地方は由利仲八郎という方が守護として治められることになります。
最近になって由利仲八郎と前の検非違使だった由利氏は別人であるという事が吾妻鏡という書物からわかってきました。
その由利仲八郎の一族は、戦の中で誤解もあって、由利氏は守護を首になります。
その後、将軍頼朝の子供たちの乳母である大弐の局(だいにのつぼね)に由利地方が与えられています。
実際に大弐の局が由利に来る事はありませんでした。
由利氏は誤解がとけて、再度この地方を治めることになりましたが、1324年(正中元年)に由利氏の当主、由利仲八郎政春が庄内の鳥海弥三郎に攻められ自害すると、由利地方には正式な領主がいなくなります。すると横行略奪が相次いでとても危ないエリアなっていました。
そこで前郷村(現・秋田県由利本荘市前郷)の農民が集会を開いて、鎌倉に行って太田道灌(おおたどうかん)にきちんとした領主を求めました。
そこで信濃国(長野県)の小笠原一族が由利に派遣されたのです。これは大弐の局の親戚たちです。
この一族を「由利十二頭」(ゆりじゅうにとう)と言います。矢島の大井氏の家来が書いたと思われる「由利十二頭記」という戦記物が残っています。あくまでも物語ですが、当時の由利地方の勢力の様子が良く分かります。
まず、由利十二頭は、「矢島(やしま)氏・仁賀保(にかほ)氏・赤尾津(あこうづ)氏・潟保(かたほ)氏・滝沢(たきざわ)氏・打越(うでつ)氏・岩屋(いわや)氏、下村(しもむら)氏・玉前(とうまい)氏・沓沢(くつざわ)氏・子吉(こよし)氏・鮎川(あゆかわ)氏・羽川(はねがわ)氏・石沢(いしざわ)氏が登場していて12ではなく14人が登場します。
由利十二頭は由利仲八郎の子孫の滝沢氏と、新田氏の子孫とする羽川氏以外は全て信濃の小笠原一族です。
続く
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