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横手に来ています〜本多正純の話

2024年09月15日 08時56分00秒 | 郷土史

今朝は横手に来ています。時間があったので、本多正純の墓を尋ねてみました。

本多正純の転封と最期について

本多正純は、徳川家康の側近として活躍し、その子・秀忠からも信頼されていた人物です。しかし、晩年は出羽の国へと転封となり、不遇のうちに生涯を閉じました。

正純が転封になった主な理由は、以下の二つが挙げられます。

  • 宇都宮城の普請問題: 秀忠が日光東照宮へ参拝の際、宇都宮城に宿泊する予定があったため、正純は城の普請を行わせました。しかし、この普請に不備があるという密告が秀忠に届き、これが転封の引き金となったと言われています。
  • 権勢に対する周囲の嫉み: 正純は家康・秀忠から厚く信頼されており、その権勢は周囲からの嫉みを買っていました。転封は、こうした嫉みによって引き起こされたという見方もできます。

1622年の最上改易で空いた出羽国へ正純は減転封となります。それに不服だった正純は不服申し立てをして,秀忠の逆鱗に触れ改易となって佐竹預かりとなります。

正純は、出羽国の横田城の一角で、不遇のうちに生涯を閉じました。晩年は、かつての栄光を懐かしみながら、静かに余生を送ったと伝えられています。









補足

  • 正純は、転封になった後も、自分の潔白を訴え続けました。しかし、その願いは叶うことはありませんでした。
  • 正純の転落は、権力闘争の悲劇として、後世に語り継がれています。

まとめ

本多正純は、徳川家康・秀忠の側近として活躍した人物ですが、晩年は宇都宮城の普請問題や周囲の嫉みなどが原因となり、出羽の国へと転封になりました。そして、不遇のうちに生涯を閉じました。正純の生涯は、栄光と転落のドラマとして、人々の心に深く刻まれています。

権力を持ちすぎた結構です。



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