新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

空海お宅とへ・弁証法的に思考とは?

2023-09-14 11:59:04 | ~ものは考えよう~
空海お宅とへ・弁証法的に思考とは?


先ずは、記事 「否定の否定と回り道~」へ
2023/09/12 19:19:54に届いた以下のコメントを読んで頂こう。

>・コメントを書いた人
>空海

>・コメント
>人間の認識はドンドンと発展していきますから、一旦は書いてみたものが少し経つと修正しないといけないことが沢山でてきます。

>Kraft(自然の力)のイメージも最近は生産力のほうになってきて、他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。

>こんなこと書いてると、また自由びとさんに嫌がられますから、この辺でやめときますけどね。




空海お宅へ~やれ!やれ!ですね!

tadaさんから「空海さん ちょっと見直しました」と言われ有頂天になになって書いたら…
今度は、「空海さん 残念でした。滝村先生の考えを理解することは無理なようですね。生前の滝村先生が相手にしなかった理由がよくわかりました。」なんて言われて…

その結果がなんと~
>こんなこと書いてると、また自由びとさんに嫌がられますから、この辺でやめときますけどね。


↑なんてコメント書いて~

これって、本当はこれ以上書けないのに…
その理由を「自由びとさんに嫌がられます…」とする事ですね。
本当は、自己責任なのに、他者に責任を負わせている…という無責任お宅ですよね。

私の本心・本音は、空海お宅とtada氏のやり取りは、とても勉強になるので…特に嫌がっていません。
ただ…tada氏の記述は分りやすく助かりますが…空海お宅のは非常に分かり難く苦労しているのも事実ですが…。
それでも…両方を対比させることで、まあ何とかなっています。


だから空海お宅さん~
「自由びとさんに嫌がられます」は、今の所はありません。
空海お宅が、お宅の主張が正しいと思うなら、
自由びとに遠慮する事無く、どうぞ、思う存分にtada氏とやり続けて下さい!


今回は、「自由びとさん」とHDが書かれているので…
上記の記述の以下の部分へコメントします。


>Kraft(自然の力)のイメージも最近は生産力のほうになってきて、他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。


ここで「Kraft(自然の力)のイメージ」は、どんなに頑張っても「イメージ」である限り、真の現実の自然ではありません。
それが「生産力になった」としても、「自分から自分で自分を変える・変えて行く」事でしか、ありません。
それは、「人間は自己の能力の範囲内で…」の変化・運動・思考…なのです。
自分の範囲内の思考と自分を超えた他力・現実的な思惟との相違です。

自力ではなく、現実・事実的な他力とは~
例えば、今日朝見た録画ドラマで~
恋路で悩んでいる主人公が恋人の事で、朝の会議で、溜息ばかりついていた。
A―「溜息は、テンション下がるからヤメテ!」
B―「溜息は体によくないよ!」
C―「溜息は身体にはいいってよ!」

このような、溜息について、「良い・悪い」の対立している評価・矛盾を解決する思考・思惟とは?

先ずは、事実的な理解⇒溜息とは?
悲しんだり、ガッカリした時に思わず出る息。

次に、現実の溜息とは?
「ハー」とか「フー」とか、肩を落とし、力なく長く吐く息。


会議の際にも、悲しい事やガッカリする事(思い出し過ぎ)は、精神的に良くない事。
それでも、普通「ハー」と吐いたら、反射的に「スー」と長く吸う。この深呼吸は身体的に良い行為。
「精神的には良くない」でも「身体的には良い」それが「溜息」…

ついでに 六時前から眠れなくなった 今朝の自由びとが、おもった事 を書こう。
それは、「弁証法的に考える」という事について…である。

弁証法とは、変化性・運動性の性質に関する科学。

動物は、その種に限った本能で日々を生きている。
従って、動物は、その種の本能と異なった生き方は不可能。
その種に限るなら、弁証法的な生き方ではない。


しかし、人間には、動物のような人間だけの特有・固定的な本能はなく、
人間の本能は、創り創られていくモノ…もっとも動物レベルの最低限の生存本能はあるが…

弁証法的に考えるとは、自己の思考性・思惟性を変えるレベルで考える事。
それは、自分から自分で考える事だけでは、不可能な思考法。

弁証法的に思考するとは、自分の中に他人を入れて、そこから思考(思惟)する事。

自分から自分を考えるが「思考」なら、
現実の他人を受け入れて、その受け入れた他人的モノ・認識から自分を考えるが「思惟」。

それは「対立物の統一」でもある。
現実界の現実的な対立な物と物を自己の頭脳内・思考過程で統一する事。
それが、決して現実的には「統一不可能なモノコト」でも、頭脳内では可能である。



さて…そこで結論を~

上記の空海お宅の以下の記述について~
>「他人の意見に修正を求めることは嫌がられるものですが、自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)。」


「他人の意見の修正」とは、その他人に「求めること」ではなく、
自分の意見の正当性についての検証の為に「対立物の統一」をする一つの過程であろう。

他人の意見と自分意見を統一するとは、自己の頭脳内・思考過程であり、
他人の意見を自分意見で叩き続ける、自分意見を他人の意見で叩き続ける事。

残念な事に、私の意見で、空海お宅の意見を叩く過程は、ここに書くが…
私自身の意見を空海お宅の意見で叩く過程は、敢えてここで書く事はしない…

理由は、そんな事をしたら、激論・口論らしくなくなる から…



さてさて~
最後に絶対的に矛盾してしまう「対立物の統一」について、

「自分の考えを事実に基づいて自分で修正する分には楽しい時間ですね(笑)」

これを非弁証法的・固定的な変化性・運動性に基づく「…修正…」とするなら「〇」。
しかし、この記述を弁証法的思考「…修正」…とするなら矛盾「×」である。(矛盾は「対立物の統一未満」)
それでも、この空海お宅が、自分自身の事を「矛盾」と理解しているなら「〇」。

今回から
非常に知識的な空海お宅だから、
上記の記述を理解した瞬間から、
「矛盾」と暗記できれば、「〇」ですかね。

コメント (2)
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否定の否定と回り道~

2023-09-08 17:55:49 | ~ものは考えよう~
否定の否定と回り道~

「急がば回れ」という言葉・教え・諺がある。
意味は、「早く着くためには、危険な近道より遠くても安全で確実な方法をとったほうが早く目的を達できる」である。
より詳しくは、「急がば回れ」の例文!小学生にでもわかりやすく簡単な短文で! | 贈る言葉情報館 (okurukotoba.tokyo) にどうぞ。

学校教育も一つの大きな回り道と言えよう。

身体的には未熟な小・中学生は無理でも、
17歳(中学卒業)位になれば、大人と同じレベルの身体的労働が可能である。

それでも、高校へ通う理由は、現代社会の文化レベルでの頭脳労働を可能にする為である。
これは、今すぐ肉体的な労働は可能な身体でも、それを否定(労働しない)で更に学校へ通う。
そく働く(直行)を否定して、教育を受ける(曲行)回り道、結果、頭脳労働可能な頭脳獲得、と言えよう。
このように、学校・教育そのものが、否定の否定であり、回り道である。


私は、本日一年生に対する担任の指導の回り道の事実について気付く事ができた。
それは、教員時代の私が普通にやっていた指導なのに…
今日の今日まで、私が「否定の否定・回り道」と全く気付かなかった事。


それは以下のような事実である。

今日の二校時、一年二組の教室体育の補助に入った。
元々は、外・校庭体育だったが台風の為の教室になった授業。
内容は、運動会での「ダンス」種目の練習。

初めに担任が以下の指示を出した。
「みんなで机を後ろに寄せて、終わったら、おしゃべりしない、静かに体育座りで待つ事」

しかし、机の移動が終わっても、子供達は指示通りに待っずザワザワしていた。
そこで、そんな児童達に担任の説教が始まった。

その説教は以下のような内容・言葉に
「…すぐに練習を開始したかった…その為の初めの指示なのに…お喋り・ふざけ合い…で出来なかった…」

私は、担任の言動を矛盾だと感じた。

説教での「すぐに早く始めたかった」という言葉・内容、と
実際は直ぐ始めずに長々と説教し続けている行為の矛盾。

それは、小学校中・高学年以上になると、誰もが感じる不満であろう。
私も学生時代に、同じように感じ続けていた、のに教師が怖くて口に出せずにいた事。

そんな私だったが…今日の私は、「これは回り道であり、否定の否定」だと気付き痛感した。

教員の説教は何の為?
それは、説教によって、今の児童・生徒の言動・行為を変える為のモノ。
上記の場合の説教では、今後は、児童達が、教師の指示に従って静かに待てるようになり、すぐに練習開始が可能になれば、練習時間は、ずっと多くなり得る。

今日の練習時間は、説教の為に結果的には短くなっても、
今後は、説教の効果があれば、より長い時間が生まれる。

今回は、直ぐに練習開始しない(否定)して、
…長い説教での回り道…
結果、次回は児童のお喋り・教師の説教なし(否定)で、そく開始可能。


教育の本質が「否定の否定・回り道」のような矛盾であるから、
当然に、具体的な教育過程も、「矛盾」となり得る。

教師は、自己の教育・過程での矛盾を常に意識・自覚する必要があろう…

今回の担任も自分の矛盾を自覚・意識できていたなら、
説教の終わりに、以下のような言葉を加えられただろう。


「…今回のように、早く練習したかったのに、先生が長々説教したのは、
先生の言葉で、みんなに変わって欲しかった。
次回は、お喋りもふざけのなしで、直ぐに練習を始められる
みんなになって欲しかった、から…(と怒り顔をやめた、思いっ切りの笑顔で伝える)


コメント (2)
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