「勉強(する)」の話
以前から「勉強」について興味・関心があった。
そんな中、ブッタお宅のコメント「これもまた、勉強になりますね。」を頂き…
改めて、昨日ネット検索して以下の記述に遭遇した。
~~ネットから転写~~
「勉強」と「勉強する」は、意味が異なります。
「勉強」は、知識や技能を習得するために取り組む作業を指します。学校だけでなく、実用的な知識や技能を学ぶ場合にも広く使われます。
「勉強する」には「将来のために」というニュアンスがあります。
「勉強」の語源は「勉め、強いる」で、本来は気の進まないことを無理にするという意味でした。江戸時代には商人が頑張って、商品の値段をまける意味で使われていました。
~~転写終了~~
勉強とは、「勉めて強いる」事は、分かっていたが…
「勉強」と「勉強する」の意味の違いは、あまり意識していなかった。
学校の教科である「算数・国語・理科…」が、
勉強だと言われる理由を以下のように考えていた。
教科学習でも、
特に座学的に静かに解説・説明・知識…座って聞く教科は、
成長期の児童達にとって「座って静かに聞く授業」は、勉めて強いて静かに座りに続け聞く、事が必要。
だから、勉めて強いて勉強する必要があるから、、名詞で「勉強なのだろう」と考えた。
>「勉強する」には「将来のために」というニュアンスがあります。
この「ニュアンス」は、何となく分かっていた。
「面倒でやりたくない事」を、敢えてワザワザ勉めて強いる意味・意義は?
それは、その事を修得したなら、今ではなく、将来に役立つだろう!の予想され得る事だから。
それが「将来の為」という事だろう。
ここで問題が、
保護者・教員・大人達の予想する「将来の為のモノ」、
児童・生徒・学生・事も達の予想する「将来の為のモノ」…
その予想され得る「将来」像・「役立つ」像の異同であろう。
ユーチューバーになりたい小学生の将来に役立つ事は、
タイピング・パソコン操作…の技術的モノであり、
彼の勉強には、算数・理科・社会…は、入っていない。
最近の私は、児童が「めんどくさい!やりたくない!」と言うと、
必ず~
「めんどくさい!やりたくない!事をやるのが学校の勉強!」
「学校に来たら、確りやって下さい!勉強して下さい!」
と言う事にしている。
因みに、他人の言説・言動・行為・行動…を
「他山の石」・「反面教師」としての勉強もあり得る。
なので「これもまた、勉強になりますね。」が果たして
直接に手本・見習える(将来の為の)「勉強になります」なのか?
それとも、絶対やらない・マネしない「悪い手本の勉強になります」なのか…
言うなれば~
ブッタお宅の「勉強になります」の中身、
どうような形での勉強になったのかを知り得たら、
その時は、自由びと、もキット「勉強になり得る」のに…残念・無念…
それを言うのは少々複雑なところもありますね。自由びとお宅の心情的傾向は「中心となる者(主役?神?)の意図した通りに受け止めなければダメなのだ!」という、私からすると「女性ならばお局タイプ」というか、そんな強引さで「ここは自由びとが始めた自由びとのブログだから、自由びとが意図した通りに受け止め理解し発言しなければいけない!」みたいな発言があるでしょう?私はああいうのが嫌いというか、苦手なんですよね。
それでも敢えて言えば、今回の「勉強」と「勉強する」が違うという記事はネットで検索しても出てきませんでした。それでも、確かに「勉強」で検索するのと「勉強する」で検索するのとでは出てくる記事だとかが違ってるんですよね。付け加えると、私が発言した「勉強になりました」という表現で検索しても違う記事が出てきます。
やっぱり「勉強」の「つとめて・しいる」ということが実感として像として?理解しやすいのは自由びとお宅のような小学校低学年と関わっている教員だとかだと思いますよ。
私は改めて小学校一年生の時間割りだとかを調べたんですが、大体が5時間授業で14時過ぎには下校してますね。それで、2年生、3年生と上がるごとに授業時間が長くなり内容も難しくなっていく。
それで保育園だとか幼稚園の1日のスケジュールも見てみたら、学校の授業を「勉強」と呼ぶ理由もすんなり了解できました。
もう私ら大人は量質転化で技化してるから?苦痛は感じないような学習でも、幼少期は時間をかけてゆっくり身につけてきたのだな、みたいなね。
私の理解の中身よりも「自分の記事を読んで勉強になった者がいる!」ということでご自身の存在意義を感じたなら、老後に自分が社会的に不必要な存在になってしまったと寂しさを感じてる高い地位にいた人みたいにならずに済みますでしょ?
最初の「正直村と嘘つき村」の論理クイズも、次の「観念と概念」も、ネットで検索して今の現実社会で活躍して業績を残している所との結びつきを私は見ていました。
「正直村と嘘つき村」は何故か?関西の教育大学のサイトで扱われていて、難易度が上がるように「正直村と嘘つき村」から「天国と地獄」に変わっていくんですよね。それで大学のスローガンが「人にまっすぐ!」ですから、一つはこういう形式論理学的なガチガチの「白か黒か」「あっちかこっちか」みたいな思考では矛盾だらけの人間には向き合えないのだろう、また一方ではそうした大局的な見地につくことで形而上学的な宗教観をもった人物とも余裕を持って向き合えるのだろう、なんて考えましたね。
「観念と概念」とは、それ自体は私の考えとは異なりますけど自由びとお宅が引用していた新興出版社啓発林館が学校の教科書を作っているような真面目な会社で、さらに土木工学の先生が同じ考えからイノベーションを説いているのも勉強になりましたよ。
最後に「勉強」と「勉強する」との違いは開成ゼミナールという難関高校の進学塾?予備校?が「行動主義」というか「行動科学」の考えを取り入れて勉強のための行動変容を説いているのに注目しましたよ。
そんな感じですかねw
>ブッタ
>・コメント
>>ブッタお宅の「勉強になります」の中身、
>それを言うのは少々複雑なところもありますね。自由びとお宅の心情的傾向は「中心となる者(主役?神?)の意図した通りに受け止めなければダメなのだ!」という、私からすると「女性ならばお局タイプ」というか、そんな強引さで「ここは自由びとが始めた自由びとのブログだから、自由びとが意図した通りに受け止め理解し発言しなければいけない!」みたいな発言があるでしょう?私はああいうのが嫌いというか、苦手なんですよね。
↑
う~ん…
一般的な会話では、相手の言葉の真意を理解して、会話を進めるのが理想です。
しかし…現実的には、相手の言葉を私的に理解して、会話は進められています。
確かに現実がそうであっても…このブログでは、私は理想的にな仮想現実として、
互いに相手の言葉の真意を確認しつつコメントのやり取りを望んで、何が悪いのでしようか?!
>それでも敢えて言えば、今回の「勉強」と「勉強する」が違うという記事はネットで検索しても出てきませんでした。それでも、確かに「勉強」で検索するのと「勉強する」で検索するのとでは出てくる記事だとかが違ってるんですよね。付け加えると、私が発言した「勉強になりました」という表現で検索しても違う記事が出てきます。
↑
私のスマフォのネット検索は、AIが勝手にやってくるので…
あのような、記述が出たのでしょうね…
>やっぱり「勉強」の「つとめて・しいる」ということが実感として像として?理解しやすいのは自由びとお宅のような小学校低学年と関わっている教員だとかだと思いますよ。
↑
そうですね…低学年程に、「教育は教育でも…躾レベル」の教育が主ですから…
特に、初めての小学校で、一年生ては、学校のルール、授業のルール…等を、
当人が理解・納得出来ようが、できまいが…半強制的に躾ける必要があります。
「躾」とは、幼子・低学年…の理屈が理解不能なモノへ半強制的に身体に刷り込むレベルの教育…と私は捉えています。
これが高学年になると…強制よりも自主性が求められます。
それは、教師が児童・生徒に「勉めて強いる」のではなく、
児童・生徒達自身が、自分に「勉めて強いる」事が求められます。
その為に、低学年の間に、自ら進んで「勉めて強いる」=勉強、の仕方を躾・教育する必要があります。
しかし…残念な事に、近年の子供達は、
口が達者で、自分が面倒でやりたくない事には、「やらなくていい理屈」を付けて、やろうとしません!
そこで、教師が強く言うと…「先生が怖いから学校いけない!」と親に泣きつき…
担任は、管理職から、日頃の児童への言動に注意・指導を受けて…結果的に児童達に「強く指導」しなくなります。
だって…善意で「面倒な事・やりたくない事」を強制して…
結果的に、やり終えた時の達成感を児童に体感させて、自主的勉強が可能な体験を味わいさせよう!
という生徒の為なのに…その事が理解されないなら「教科の勉強は教えて終了!」となり得ます。
>私は改めて小学校一年生の時間割りだとかを調べたんですが、大体が5時間授業で14時過ぎには下校してますね。それで、2年生、3年生と上がるごとに授業時間が長くなり内容も難しくなっていく。
>それで保育園だとか幼稚園の1日のスケジュールも見てみたら、学校の授業を「勉強」と呼ぶ理由もすんなり了解できました。
>もう私ら大人は量質転化で技化してるから?苦痛は感じないような学習でも、幼少期は時間をかけてゆっくり身につけてきたのだな、みたいなね。
>私の理解の中身よりも「自分の記事を読んで勉強になった者がいる!」ということでご自身の存在意義を感じたなら、老後に自分が社会的に不必要な存在になってしまったと寂しさを感じてる高い地位にいた人みたいにならずに済みますでしょ?
↑
>「…ご自身の存在意義を感じたなら…」
存在意義ですか…私は、そこにモノが存在する事自体に意義がある…と信じています。
なので、私が私として生きている限り、私に存在価値・意義はあると信じています。
例え「社会的に不要な存在」になったとても、
私の存在は、私自身にとって価値・意義あるモノだと信じいます。
どうも…ブッダお宅は、私の「勉強の概念」誤解しています。
学校での「勉めて強いる(勉強)」とは、学校が、児童・生徒達に「勉めて強いて」いるのではなく、
児童・生徒自身が、学校内での生活過程で「自分自身に勉めて強いる(勉強)」の練習・訓練をする…いう事です。
例えば、校内の掃除~普通の掃除は「キレイにする」のが目的ですが…
学校での掃除は、掃除の仕方を覚える、面倒でも掃除をしようという気持ちを育てるモノ…
>ブッタ
>・コメント
>もう少しだけコメントしましょう。
>最初の「正直村と嘘つき村」の論理クイズも、次の「観念と概念」も、ネットで検索して今の現実社会で活躍して業績を残している所との結びつきを私は見ていました。
>「正直村と嘘つき村」は何故か?関西の教育大学のサイトで扱われていて、難易度が上がるように「正直村と嘘つき村」から「天国と地獄」に変わっていくんですよね。それで大学のスローガンが「人にまっすぐ!」ですから、一つはこういう形式論理学的なガチガチの「白か黒か」「あっちかこっちか」みたいな思考では矛盾だらけの人間には向き合えないのだろう、また一方ではそうした大局的な見地につくことで形而上学的な宗教観をもった人物とも余裕を持って向き合えるのだろう、なんて考えましたね。
>「観念と概念」とは、それ自体は私の考えとは異なりますけど自由びとお宅が引用していた新興出版社啓発林館が学校の教科書を作っているような真面目な会社で、さらに土木工学の先生が同じ考えからイノベーションを説いているのも勉強になりましたよ。
>最後に「勉強」と「勉強する」との違いは開成ゼミナールという難関高校の進学塾?予備校?が「行動主義」というか「行動科学」の考えを取り入れて勉強のための行動変容を説いているのに注目しましたよ。
>そんな感じですかねw
↑~
ふ~ん…成る程~
人間の思い・感情は、「十人十色」で色々~
また、その思考法は、「千差万別」で一人一人違っている…実感!
他人に求めるのは、事実的一致でなく、論理的一致ですかが、正解ですかね…
私は、あくまで事実的に、これらの問題と回答の構造の相違を思考しただけです。
その過程で、クイズの中の「嘘・本当」と現実生活での「嘘・本当」を考えたのです。
そんな中、一つ気付いた事があります。
「神・死後の世界…」は存在は、事実的に確認不能…
一般的に現代では、否定され、現実的には存在!
そんな非存在だから、認識内では「信じる」なのでしょう。
そんな現実的な存在確認が不能なモノだから、認識・観念として「信じる」(本当に存在すると強く思う)。
幼い子供が、大人の言葉・教えを事実だと思えない時、
そこに「その大人の言葉を(本当だと強く思って)」信じる気持ちがないなら…
その子の将来の為の「勉強」は、ありえません。
児童・生徒が、教師の言葉を信じられないなら、そこに勉強的な教育は成功しません。
>その子の将来の為の「勉強」は、ありえません。
ある意味、自由びとお宅の実力というか、人間性が顕になった言語表現ですよね。
お宅は馬鹿ですよ、教育者失格だとも思いますね。
コメントを求められて素直にコメントした私(ブッタ)自身が後悔しています。一口に「大人」といっても千差万別で、幼少期から「知らない人に付いていってはいけない」と親は子に教え諭すわけですが、「信じる」と共に「疑う」ということは人間として必要な能力として幼少期から育んでいくもので、
それが学校や教師のレベルの高低やら「信頼できる先生」と「疑うべきダメ教員」とを区別する感性となって現れますが、
子供に「大人は一般的に区別なく信じるもの」だとか「信じなかった子供に未来はない」なんて教え込む人間は、「学校教育」というのは教員一人で成立するものでもなく、学校の他の教員も同じ意見だと組織的な合意ができているのか?ということから鑑みても「信じなかった子供は将来はない、見捨てる」なんて判断を税金で運営されている学校がするのか?ですよ。
三浦つとむも著書で書いているように「全てを信じているのも異常だし、全てを疑っているのも異常、人は何かを疑い何かを信じるような存在だから、もしも学校教員として児童から自分が信じられていないと感じたなら、別の誰かを信じることで未来に繋げて欲しい」と願うのが「児童の未来に向けての発展を願う学校教員の在るべき姿」ではないか?と考えますね。
それを「俺を信じなかったということは、お前の未来は閉じてしまえ!」と考えるのは、本田克也と奇しくも同じ年齢の自由びとお宅には猛省してもらいたい。
「思い上がるな!大学教授はお宅以外にもいくらでもいる。」と。
?どういうことですか???自由びとお宅はグーグルだとかヤフーだとかの検索サイトに検索したいキーワードを自分で手で打ち込んで、後はその検索サイトが出してくれるんじゃないんですか?
その「何を検索するのか?」というキーワードの選択や「出てきたものから何を読み取るのか?」という認識の活動が、言わば三浦つとむのいう「写真機という機械で撮影した写真でも、何をどのように映したのかという撮影者(人間)の認識が関与しているところが重要」みたいな話しだと思いますけどね。
ともかく、「勉強」と「勉強する」とは異なると書かれたものが何処から引用されたのか明記していただきたい。そうでなければ自由びとお宅のお得意の「嘘」だと判断します。私が嘘からでも実のあることを得られる能力をもっていることと、自由びとお宅が嘘つきなのとは区別されるべきでしょうからね。
>「躾」とは、幼子・低学年…の理屈が理解不能なモノへ半強制的に身体に刷り込むレベルの教育…
私には分かりにくい表現ですね。おそらくは義務教育の現場での専門用語ではないか?と想像されますね。
私個人は「躾、しつけ」というのは「しつける=そうするように習慣づける」という字義通りのことだと思いますから、人に会ったら挨拶するとか、その時は頭を前に倒して会釈して「こんにちは」とか「おはようございます」とか言う「習慣づけること」が「躾、しつけ」だと思いますよ。
だから尿意や便意をもよおしたならトイレに行って用をたすように「しつける、そうするように習慣づける」わけで、そのときに「トイレでやろうか?キッチンでやろうか?それともリビングで?」なんて選択肢だとか判断だとかは無いですし、人と会ってお辞儀するときに頭を前に倒そうか?横に倒そうか?それとも後ろにそっくり返ろうか?なんて選択肢は無いでしょう。
常に同じように行動するように習慣づけられています。
それを「半強制的に身体に刷り込むレベル」だというのは、私のように既にそれが当たり前のようにできる人間ではなく、出来ない児童にやらせようと指導するときに「賞と罰」「飴と鞭」のうちの「罰」「鞭」を重視するという考えなんでしょうね。
言わば「経験主義的」というか「喧嘩拳法的」というか。
やはり、そうした昭和チックな先生とは別に心理の専門家がスクールカウンセラーといて学校にいたほうが良いようにも感じます。
>存在意義ですか…
私が言いたかったのは「他者のお役に立てているという実感が人間としての生きている喜び」だと感じていた偉い人が引退して年老いて誰からも必要とされなくなった寂しさを口にしていたという実話から「寂しい」という人の心理について説いた、いわば海保さんの本で親に帰られて泣き叫んでいた幼児に「汽車ぽっぽだよー」と悲しみから喜びに気持ちを入れ替えたような話しをしたわけですよ。
大体が「教員補助」なんて仕事に達成感などありませんし、教員免許を持っているのに教員補助しかやれないのは他者からそうとしか求められていないからですよ。
自由びとお宅が信じるべきは、自由びとお宅の強制的な指導などなくとも児童たちは立派に大人に成長していくということや、嫁さんが死んでも自分は悲しくも寂しくもないのだと信じることですよ。自分で自分に暗示をかける、洗脳する、それが自由びとお宅がすべき「自分への躾」でしょうね。
>ブッタ
・コメント
>>幼い子供が、大人の言葉・教えを事実だと思えない時、そこに「その大人の言葉を(本当だと強く思って)」信じる気持ちがないなら…
>>その子の将来の為の「勉強」は、ありえません。
>ある意味、自由びとお宅の実力というか、人間性が顕になった言語表現ですよね。
↑
ブッダお宅が、私は、私の記述を読み、感じ取っている「私の人間性」~
それは、お宅の人間性の反映ですよ!
私の記述にブッダお宅の人間性が映し出されている!
それは、私の中に観た、ブッダお宅の人間性!ですね~
>お宅は馬鹿ですよ、教育者失格だとも思いますね。
↑
何が?どう失格なのでしょうか?
そもそも…「…大人の言葉を(本当だと強く思って)」信じる気持ちがないなら…」の記述で思い描いてお宅の像は、私の像とは違っていますね…
この部分を最近の事実で書きましょう~
学校では、集団で椅子無しで座る時に「体育座り」をします。
その座り方を一年生の児童が「これって刑務所での囚人座り」だから「嫌だ!」と言ってしません。
この場合は、彼はネット情報の「体育座り=囚人座り」だと思い込んだのです。
先生の言葉ではなく、ネット上の自分の信じたかった言葉を本当だと信じたのです。
子供が「大人の言葉を信じる」のは、子供の自由です。
そして、その自由な判断の「正しさ」は、両親・保護者の躾・教師の教育次第ですかね!
しかし、現代のような、子供でもネット情報が容易に入手可能な時代では、親・教師の努力は大変な
モノがありますね。
>コメントを求められて素直にコメントした私(ブッタ)自身が後悔しています。一口に「大人」といっても千差万別で、幼少期から「知らない人に付いていってはいけない」と親は子に教え諭すわけですが、「信じる」と共に「疑う」ということは人間として必要な能力として幼少期から育んでいくもので、
それが学校や教師のレベルの高低やら「信頼できる先生」と「疑うべきダメ教員」とを区別する感性となって現れますが、
↑
お宅には、私の「信じる事」を分かるには、雑念が多すぎですね…
「人は自分の信じたいモノを信じる者」です。
子供が、その大人の言葉を信じるのは、
その大人の人間性・その児童の人間性の関係性で発生します。
そして、その子供の人間性は」両親・保護者の人間性・躾によります。
人が、他人の言葉信じる基本は、その事で、生じる「快・不快」(利益・不利益)による事が大です。
ここでも「勉強」の問題は、
その事をする事で「現時点で不快が生じる」事。
しかし「将来的には、強烈な<快>(役立つ)可能性がある」事。
「今は不快」でも「将来は快」だから、自分で自分に「勉めて強いる」事が勉強。
それは、「他人の快感の為」に「自己の不快状態」を勉めて強いる事ではありません。
>子供に「大人は一般的に区別なく信じるもの」だとか「信じなかった子供に未来はない」なんて教え込む人間は、「学校教育」というのは教員一人で成立するものでもなく、学校の他の教員も同じ意見だと組織的な合意ができているのか?ということから鑑みても「信じなかった子供は将来はない、見捨てる」なんて判断を税金で運営されている学校がするのか?ですよ。
↑
残念!現代っ子は違います!
補助員をやっていて実感しています。
現代の多くの児童は、ネットを筆頭に色々ん情報が浸透しています。
それは、子供的な自己の利益の為に、取捨選択されて情報・知識で、
その為に、彼らの自己主張には、彼らにとって有利な情報からなされます。
その自己主張は、児童次第でが…
賢い児童は、自分の都合のよい情報・知識を使って強烈な自己主張をします。
それが、「体育座りは囚人座り」という主張に顕著ですね…
>三浦つとむも著書で書いているように「全てを信じているのも異常だし、全てを疑っているのも異常、人は何かを疑い何かを信じるような存在だから、もしも学校教員として児童から自分が信じられていないと感じたなら、別の誰かを信じることで未来に繋げて欲しい」と願うのが「児童の未来に向けての発展を願う学校教員の在るべき姿」ではないか?と考えますね。
↑
お宅には、分かっていない!
「教師を信じる事」と「教師の言葉を信じ事」の相違を~
また、「信じいない相手の言葉を信じてしまう」事。
結局は、「信じるor信じない」とは、相手の人間性というより、
聞き手の人間性の問題ですかね!
ここでのブッダお宅が、私の言説を信じられないのも…結局はお宅の人間性の問題ですね…
>それを「俺を信じなかったということは、お前の未来は閉じてしまえ!」と考えるのは、本田克也と奇しくも同じ年齢の自由びとお宅には猛省してもらいたい。
↑
「未来を閉じる」とは…大袈裟ですね!
私の言いたい事は、「子供時代の苦労は買ってでもしろ!」です。
その「苦労を買わず、しなく」ても決して「未来は閉じる事はありません!」
その時には、「苦労を買わなかった結果の未来が開ける」だけ!
例えば、
学校の宿題を「面倒くさい!できない!やらない!」と言っている児童に、
教師が「面倒!できない!それを頑張ってやるのが勉強!」と言ったとします。
ある児童は、「そんなの勉強じゃない!」と教師の言葉を信じない「やらない!」。
ここで言えるのは、信じている教師でも、
子供は、自分に不都合・不快な教師の言葉は聞きません・信じません…
でも、その教師の言葉信じて「そうか…じゃ~俺は頑張って勉強する・できなくても宿題やる!」と~
勉強した児童の将来は~
例え宿題はやっても、、それでも成績は悪くても…
日々の苦手嫌なやりたくない宿題を頑張ってやり続けた努力は自信につながり・―勉強力は養成されます。
>ブッタ
・コメント
>>私のスマフォのネット検索は、AIが勝手にやってくるので…
>?どういうことですか???自由びとお宅はグーグルだとかヤフーだとかの検索サイトに検索したいキーワードを自分で手で打ち込んで、後はその検索サイトが出してくれるんじゃないんですか?
↑
もう一年は経ちますかね…生成AIが実験的にグーグルに装備されて…
スマフォのグーグル検索にキーワードを入れると、その入れ方次第で、
自動的に生成AIが、関連情報を纏めて提示してくれます。
キーワードの書き方によっては、生成AIではない事もあります。
それは、キーワード書き方次第ですね…
>その「何を検索するのか?」というキーワードの選択や「出てきたものから何を読み取るのか?」という認識の活動が、言わば三浦つとむのいう「写真機という機械で撮影した写真でも、何をどのように映したのかという撮影者(人間)の認識が関与しているところが重要」みたいな話しだと思いますけどね。
↑
そのネット情報と私の思考結果の一致・不一致から、更なる思考を開始します。
時に、私の知らない実験・情報の提示もあり得ます。
諸々の知識の検索、以前だと一つ一つ検索していたのが…
生成AIのお蔭で、まとめて提示されます。
>ともかく、「勉強」と「勉強する」とは異なると書かれたものが何処から引用されたのか明記していただきたい。そうでなければ自由びとお宅のお得意の「嘘」だと判断します。私が嘘からでも実のあることを得られる能力をもっていることと、自由びとお宅が嘘つきなのとは区別されるべきでしょうからね。
↑
ネットではなく、以前に調べた辞書(かなり古いモノ)には「勉強する」の意味は、勉めて強い。
そもそも…漢字の「勉」は勉める!「強」は強いる!
だから、普通に漢字から読み取って「勉めて強いる」は常識・一般教養レベルですよ!
今む「岩波国語辞典」第八版
P1408~「勉強-無理にでも(=強)努力して励むこと」と書いていますよ!
お宅って、ネットで検索して発見できない事は、全て「嘘」なのですね…
辞書の意味。感じそのモノの意味は考えない!
お宅の本当は、ネットで、お宅が検索して発見できる記述だけなのですね!
>>「躾」とは、幼子・低学年…の理屈が理解不能なモノへ半強制的に身体に刷り込むレベルの教育…
>私には分かりにくい表現ですね。おそらくは義務教育の現場での専門用語ではないか?と想像されますね。
私個人は「躾、しつけ」というのは「しつける=そうするように習慣づける」という字義通りのことだと思いますから、人に会ったら挨拶するとか、その時は頭を前に倒して会釈して「こんにちは」とか「おはようございます」とか言う「習慣づけること」が「躾、しつけ」だと思いますよ。
だから尿意や便意をもよおしたならトイレに行って用をたすように「しつける、そうするように習慣づける」わけで、そのときに「トイレでやろうか?キッチンでやろうか?それともリビングで?」なんて選択肢だとか判断だとかは無いですし、人と会ってお辞儀するときに頭を前に倒そうか?横に倒そうか?それとも後ろにそっくり返ろうか?なんて選択肢は無いでしょう。
常に同じように行動するように習慣づけられています。
↑
まあ~そのようなモノです。
「理屈・常識」を言葉で言っても分からない幼子だから…
言葉・理屈抜きで、繰り返しの習慣化ですね!
>それを「半強制的に身体に刷り込むレベル」だというのは、私のように既にそれが当たり前のようにできる人間ではなく、出来ない児童にやらせようと指導するときに「賞と罰」「飴と鞭」のうちの「罰」「鞭」を重視するという考えなんでしょうね。
言わば「経験主義的」というか「喧嘩拳法的」というか。
↑
半強制的にやらせて~
やったら・できたら「賞」・「飴」。
やらない・できない「罰」・「鞭」。でしょう!
>やはり、そうした昭和チックな先生とは別に心理の専門家がスクールカウンセラーといて学校にいたほうが良いようにも感じます。
>>存在意義ですか…
>私が言いたかったのは「他者のお役に立てているという実感が人間としての生きている喜び」だと感じていた偉い人が引退して年老いて誰からも必要とされなくなった寂しさを口にしていたという実話から「寂しい」という人の心理について説いた、いわば海保さんの本で親に帰られて泣き叫んでいた幼児に「汽車ぽっぽだよー」と悲しみから喜びに気持ちを入れ替えたような話しをしたわけですよ
↑
私は、「誰からも必要とされなくな」っても「寂しさ」は感じない…と思います。
それでも、誰も遊び相手が・話し相手が。いなくなったら寂しい…です。
だから、周囲の友達・知人より長生きしないで、惜しまれて逝った方が幸せかも…なんて思ったり…
>大体が「教員補助」なんて仕事に達成感などありませんし、教員免許を持っているのに教員補助しかやれないのは他者からそうとしか求められていないからですよ。
↑
そうですね…確かに「達成感」は少ないです。
でもね…時に、授業中プリント問題が解けずに苦労している児童に、
その解説をして…その児童の「分かった!ありがとう!」の言葉・表情に快を感じますが…
>自由びとお宅が信じるべきは、自由びとお宅の強制的な指導などなくとも児童たちは立派に大人に成長していくということや、嫁さんが死んでも自分は悲しくも寂しくもないのだと信じることですよ。自分で自分に暗示をかける、洗脳する、それが自由びとお宅がすべき「自分への躾」でしょうね。
↑
確かに、私の指導がなくても、どんな児童もそれなりに立派な大人に成長します。
私が、日々思い思考しているのは、
その児童に如何なる過程・関わり方をしたら、
その児童が、今よりも一段と立派になり得るか?ですねか…
>「嫁さんが死んでも自分は悲しくも寂しくもないのだと信じることですよ。」
↑
この言葉は、私の信じるではありません。
信じるとは「本当だと強く思う事」…
その現実界の事実に対して、その事実が「本当」だと強く思う事。
家内の死は現実・事実…本当の事です。
でも、現実界に、私の「悲しみ・寂しさ」と事実はありません。
それらが、あるのは「私の観念界」です。
もうあるのに、それなのに「悲しくない・寂しくない」と信じる事は、
観念の背反的な分裂…それは精神的な分裂病気ですよ!
現実の家内の死の事実を嘘だとは、信じようがありません。
それは、体験・経験的な愕然たる事実です。
また、私の悲しみ・寂しさも観念内の事実です。
それらが「嘘」と信じられたら、私は精神異常者てせすね…
ただ…まあ~言える事はも「逆さメガネの実験」からも分かるように…
対象の逆さま像もなれたら、普通に見える事。
家内のいない、悲しさ・寂しさも慣れたら、それが普通です。
だから、「それが嘘だ!と思う必要もなく・忘れる必要もありません」
そして、家内は、私の観念中に、今も生き続けて・存在しています。
これは、私にとって紛れもない観念界の事実です!
お宅に分かりますが!
現実の事実・起こっている事・起こってしまった事を、現実界での否定は不可能です。
それでも、観念界なら、現実の事実の観念的否定は可能です!
事実的にないモノでも、信じれば、問題(or少なく)観念界は存在可能です。
また、ある事実に対する自己の観念界の事実は、事実的な否定は不能でも、観念的に否定する事は可能です。
それは、レベルによっては精神異常になり得てしまう重大事。
家内の死による「悲しみ・寂しさ」を事実として否定する事は、
それ家内の現実的な復活による、「私の悲しみ・寂しさ」の消滅です。
それが不可能だから、私の観念内で、家内は私と共にいきます。
ですが、そんなことで得た情報を周囲とのマッチングも考えずに振り回す阿呆な子供ばかりでしょうか?
むしろ、学校の勉強の方向を先回りして知ってしまうような児童たちがいるように思いますね。ある意味で生き上手というか、児童が使う教科書でなく教員が使う指導要綱なんかを学校にもってくる児童が私の時代でもありましたしね。
私はやはり神戸の老婆なんかが書いているように小学校の子供たちは多少の悪さはすることがあっても、無邪気な天使のような存在だと思いますよ。「囚人座り」だとか言って頑張り続ける能力すらないほどの。そんな精神力の小学生なんかいないでしょ。
それよりも、自由びとお宅が書いていることで、私はあらためて小学校の教員の評価がどのようになされるのか調べてみました。自由びとお宅の言っていることは世間的には「ダメ教師」でしかありませんから、仕事ができないのに給料を貰えるはずもなく、必ず上司から注意や指導を受けているはずですよ、そんなダメ教員は。
教員の評価というのは、やはり「教科の科目を教える能力」の比重が高いみたいですね。同じ教科書を使ってもどのように教えているか?児童の学力向上はどうか?は給料を貰っている教師の業務として「能力の高い教師」と「能力の低い教師」とに成績をつけられていくようですね。
「学級経営」という言葉もありますから、児童のほうの素材が悪いからなどと言っている教師はダメ経営者と一緒でしょうね。
私も小学生の時にやっていた「体育座り=囚人座り」は知識のある子供から拒否してくるというよりも大人のほうが不必要の意を唱えて廃止になってる学校が増えていると知りました。
アメリカの小学生なんかはアグラをかく子が多いそうですが、基本的には「体育座り=囚人座り」はやるな!ではなく、各自が自由に座るという考えみたいですね、アメリカは。