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新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

不思議な違和感の正体(中身)発見~

2022-03-30 13:24:28 | 悟得びと認識論
不思議な違和感の正体(中身)発見~

前回の「不思議な違和感」とは、
「お楽しみ会」でのゲームの決め方を、
「ジャンケン」or「挙手での多数決」にするかを決めるのに、
「挙手での多数決」を選択した事である。


この場合の「ジャンケン」とは、
各ゲームの提案者同士のジャンケンで決める方法。
この場合は一対一の個人的な対決となる。

子供達は、キックベースやドッヂボール…等で、
周囲の判断が難しく双方がセーフを主張している場合に「ジャンケン」で決める事が多々ある。

それは、何としても己の主張が正しい・通したい…といった場面である。

それに対して、「挙手による多数決」は、
己だけではなく氏優位の賛同・賛成を求めてのモノであろう。


さて…お楽しみ会のクラス全体で楽しむゲームを「ジャンケン」で決定を求めた子供は、
何としても自分の提案したゲームがしたかった…のだろう。

でも話し合いの中で自分のゲームに多数の賛成が得られない事を実感したのだろう。
そこで「ジャンケン」での決定法を提案した…と思われる。

しかし…「多数決」が、クラスで普通に多くの児童が望んでいる決定法であるから…
少数派の「ジャンケン」決定法への多数の賛成を得るのは無理だったのだろう。

この勝負は初めから結果がみえていた…とも言える。


だから少数派の「ジャンケン法」or多数派の「多数法」かの選択を
多数派が有利の「多数決」法で、決める事が不公平であった。


公平な決定法でなくても、みんなで楽しむケームが、
個人的な「ジャンケン法」で決められたなら…
例えば、この場合、ジャンケン法で「バスケット」ゲームが決定したとする…と、
多くの子供は、バスケットのルールのやり方も知らない一年生では、

「お楽しみ会」が、
少数の「お楽しみ会」になり、
多数の「おも白くない会」になっていた事だろう…







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不思議な違和感…

2022-03-19 11:58:49 | 悟得びと認識論
不思議な違和感…

先日、小一学級で「お楽しみ会」でのゲームを決める為の話し合いがあった。

進行係の二人が前に出でクラス全員の提案を黒板に書いて決めようとしていた。
黒板に、ドッヂボール、椅子取りゲーム、鬼ごっこ、たか鬼…バスケット…と書かれ、
その内、二つを選択する事になった。

その最終的な決め方が、「ジャンケン」と「挙手による多数決」の二通り提案された。
そこで、「どちらがいいか手を挙げて決める事になった。
「挙手による多数決」の結果、お楽しみ会のケームは、
「挙手にする多数決」で決めると決まった。


私は…ふと思った。
お楽しみ会の決め方を「ジャンケン」or「多数決」の決定を「多数決」で決めている、とは…
何か不思議な違和感があった。

この話を息子にしたら、その場合は、
「くじ引き」とか「コインの裏表」とか…別の方法で決めるのが妥当では~と言っていた。


そう初めから「多数決」で決める前提で、
「多数決」か「ジャンケン」か、を決めるのは…少々変な感じだったのだろう…

今までは、「多数決」で決めていたので、
今回の「お楽しみ会」は「ジャンケかor多数決」を旧来の「多数決」で決めた~という事だろう。

新たな考え・方法は、過去の考え・方法から生まれるモノで、
ある日、ある時、ある瞬間に、
過去とは全く無関係に突然、新たなモノの発生はない!という事なのだろうか…

この事を担任の先生に話した、
「矛盾ですよね~」
「子供達は思わないようですが…」と言っていた。


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「分かる」と「分からない」…

2022-03-02 13:09:57 | 悟得びと認識論
分かるとは、「例解新国語辞典」
(一) 意味を知る。
(二) ハッキリと認められる。明らかになる。
(三)世の中の事や人情に理解がある。


分かるとは、「現代新国語辞典」
(一) 物事が明らかになる。見たり聞いたりして、知る事ができる。  
(二) 理解する事ができて、意味内容が明らかになる。また、了解される。
(三) 人の気持や物事の事情を理解できる。



理解とは、物事の意味が分かること。
理解とは、物事の筋道・意味をさとること。

理会とは、物事の道理をさとること。

道理とは、理屈にあった筋道。
理屈とは、物事の筋道。もっともな論理。道理


悟る・覚るとは、
(一) 心の迷いを去り真理を会得する。
(二) 物事の意味・事情などをハッキリと理解する。また、隠されていた事柄に感づく。


「分かる」とは、上記のよう意味である。


何かが、「分かる」とは?
今まで知らなかった事が「明らかになり・知る」という事になろう。


ならば「分からない」とは?
「ハッキリしていない・知っていない」という事になろう。


さて、
当人が「ハッキリしていない・知っていない事」(分かっていない事)を
いきなり他人から「知らされ」て、それを直ぐに「分かる」であろうか?


この時、
他人から指摘された、その具体的に内容は理解できなくても、
その他人の指摘が正しいと判断可能・信じ切れるならば、
これは、自分が今まで「分からなかった」事が、他人の指摘で「分かった」となろう。


しかし、自分が長年の間、
ずっと気付けなかった事・知らなかった事を、
他人から言われて直ぐに納得・理解可能であろうか?

分からない事が、分かったとしても、
分からなかった具体的な内容を理解できるとは限らない。


例えば、
「一、二、たくさん」という数の概念しかない未開のアマゾン原住民に、
「1、2、3、4~」という物の数え方を説いても「分かる」事は不可能であろう…
彼らは、自分が算数を「分かっていない」事を、全く「分からない」(理解)できないであろう。



「何か」そのモノを、分かっていない」事と
「何か」の具体的内容が、分からない事とは、別物「分からない」である。

例えば、
赤ちゃんが「自分は人間だと」分からない事と
子供が「人間とは何か」を分かってない事は別モノであろう。


教師が児童に、「質問されたら『無言はない』、何か答えよう!」

教師―「「○○さん!分かりましたか?
○○―「分かりません!」
教師―「何が分かりませんか?」
○○―「………」
教師―「無言はないです!」
○○―「分かりません!」
教師―「だから…どこが分からないの?」
………
こんな会話が、私の小学生時代によくあったが…


本来、この児童の正解は、
「僕…何が、何処が、分からないか、分からないのです」

この児童は、自分が今までに、
「分かっていなかった事、さえも分からない」


その理由として考えられるのは以下であろう…

先生のいう事を確り聴いていていなかった。
確り聴いていたが、内容が理解できなかった。
シッカリ聴いて理解したが、先生の言う事を本当だと思えなかった。

教師の言うことが本当の事で、
自分の信じている事が間違いと思えたなら、

その児童は、
「自分が、分かっていない・間違っていた」事が「分かった」筈であろう。

その時には、
先生の言う事の具体的な内容はハッキリしていない(分からない)が、
自分自身が「分かっていなかった」事が明確になった(分かった)となろう。












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