ここネット上に2チャンネルでは「ソクラテス」と呼ばれ、
私が過去に、「ソクちゃん」と呼んでいた御仁、
ハンドルネームをコロコロ変えて書き込んでいる御仁がいる。
奴は過去に「ソクラテスの部屋?」というブログを書き込んでいた(梅雨さん情報)
らしく、学問にとても興味・関心があるようだ…
しかし、奴のコメントは、対象の言葉との相互浸透はあっても、
その言葉の元になっている対象の認識との相互浸透がない、
ように私には思えている。
今ここで、その事実を一つ…
~~~~引用開始~~~~
掲示板―談話サロン天寿堂―
タイトル「少子化問題、移民問題の議論には肝心な点が欠けている」
[2855]
質問者 - 2018年05月25日 (金) 13時48分
……前略……
やはり愚按亭主は南郷さんの元にお帰りなさい。例の自由びとなる人間が妙案を提示しておりますぞ。玄◯の講習会に乗り込んで大粒の涙をこぼしながら「南郷市販、私は気が狂ってしまいそうです!」と懇願することで相手の情を引き出して仲直りを謀るらしいですぞ。
~~~~引用終了~~~~
上記の事は、過去に私が旧「悟りを求めて…」に
書き込んだ内容を元に書かれているのだろう。
しかし、
私は「乗り込んだ」のではなく「参加」した。
「相手の情を引き出し」ではなく「安心を求めて頼った」である。
まあ~このように、
奴は他人の事実を奴の都合に合わせて自分勝手に加工して書き込んでいる。
しかも、それは悪意塗れの最悪記述なのだろう。
もっとも、悪意を悪意・最悪を最悪と感覚・認識する限り、問題は生じない。
奴ソクラテスはウンチレベルだ!と思って関わっている限り…
ウンチにはウンチの効用があると納得可能である。
ウンチレベルの奴にそれ以上の何かを求めるからダメなのだ。
ウンチレベルのソクラテスの効用とは…
それは、我慢・忍耐…感覚の養成である。
臭くて臭くて耐え難いウンチを、
その悪臭に耐えつつビニール袋で包み取って捨て去る行為の連続が、
その耐え難い異臭・悪臭に耐え続ける行為の連続が、
今の私の忍耐力・我慢力を創り上げたのだろう。
その私の忍耐力・我慢力の養成課程には、
梅雨さんの奴への優しい想いがあったようだ。
それは、「忍耐・我慢」力のなかった私が、
梅雨さんの言葉を信じ切って、奴の中にも善意があると思い、
私の中に生じる奴への嫌悪感・憎しみ感…といったモノの否定…
私は、
奴の悪意との相互浸透を嫌い、
奴の記述に悪意ではなく、梅雨さんの善意をみて、
それと相互浸透を試みたのだろう。
これは、奴の悪意の否定の為に、
梅雨さんの善意を借りた、という事かも…
それでも、
奴は、そんな悪意の記述を書きまくる事で、
奴は己の悪意・最悪と相互浸透し続けるのだろう。
結果的に、奴ソクラテスは、
みんなの嫌われ者・鼻つまみ者・厄介者として
日々、量質転化化していくのだろう。
そう~「相互浸透」の次の法則は「量質転化(化)」であろう。
ならば、「否定の否定」は何処?
それは、弁証法を学ぶ過程で、
弁証法を学びたい私が、弁証法を知らないを、否定する事であり、
それは、南郷継正の説くモノが弁証法だと信じ続ける過程にあるモノ。
弁証法習得の為の相互浸透の継続には、絶え間ない己の否定が不可欠であろう。
相互浸透・否定・量質転化、そして否定の否定。
「否定の否定」とは、一時的・意図的否定状態が量質転化して、
意識的一時的否定状態⇒常態・無意識的常態化、であろう。