新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

二重性と相互浸透…

2018-05-26 15:01:38 | 弁証法

ここネット上に2チャンネルでは「ソクラテス」と呼ばれ、
私が過去に、「ソクちゃん」と呼んでいた御仁、
ハンドルネームをコロコロ変えて書き込んでいる御仁がいる。

奴は過去に「ソクラテスの部屋?」というブログを書き込んでいた(梅雨さん情報)
らしく、学問にとても興味・関心があるようだ…

しかし、奴のコメントは、対象の言葉との相互浸透はあっても、
その言葉の元になっている対象の認識との相互浸透がない、
ように私には思えている。


今ここで、その事実を一つ…

~~~~引用開始~~~~


掲示板―談話サロン天寿堂―

タイトル「少子化問題、移民問題の議論には肝心な点が欠けている」

[2855]
質問者 - 2018年05月25日 (金) 13時48分

……前略……

やはり愚按亭主は南郷さんの元にお帰りなさい。例の自由びとなる人間が妙案を提示しておりますぞ。玄◯の講習会に乗り込んで大粒の涙をこぼしながら「南郷市販、私は気が狂ってしまいそうです!」と懇願することで相手の情を引き出して仲直りを謀るらしいですぞ。


~~~~引用終了~~~~


上記の事は、過去に私が旧「悟りを求めて…」に
書き込んだ内容を元に書かれているのだろう。

しかし、
私は「乗り込んだ」のではなく「参加」した。
「相手の情を引き出し」ではなく「安心を求めて頼った」である。

まあ~このように、
奴は他人の事実を奴の都合に合わせて自分勝手に加工して書き込んでいる。
しかも、それは悪意塗れの最悪記述なのだろう。
もっとも、悪意を悪意・最悪を最悪と感覚・認識する限り、問題は生じない。

奴ソクラテスはウンチレベルだ!と思って関わっている限り…

ウンチにはウンチの効用があると納得可能である。
ウンチレベルの奴にそれ以上の何かを求めるからダメなのだ。

ウンチレベルのソクラテスの効用とは…
それは、我慢・忍耐…感覚の養成である。

臭くて臭くて耐え難いウンチを、
その悪臭に耐えつつビニール袋で包み取って捨て去る行為の連続が、
その耐え難い異臭・悪臭に耐え続ける行為の連続が、
今の私の忍耐力・我慢力を創り上げたのだろう。

その私の忍耐力・我慢力の養成課程には、
梅雨さんの奴への優しい想いがあったようだ。

それは、「忍耐・我慢」力のなかった私が、
梅雨さんの言葉を信じ切って、奴の中にも善意があると思い、
私の中に生じる奴への嫌悪感・憎しみ感…といったモノの否定…

私は、
奴の悪意との相互浸透を嫌い、
奴の記述に悪意ではなく、梅雨さんの善意をみて、
それと相互浸透を試みたのだろう。

これは、奴の悪意の否定の為に、
梅雨さんの善意を借りた、という事かも…


それでも、
奴は、そんな悪意の記述を書きまくる事で、
奴は己の悪意・最悪と相互浸透し続けるのだろう。

結果的に、奴ソクラテスは、
みんなの嫌われ者・鼻つまみ者・厄介者として
日々、量質転化化していくのだろう。


そう~「相互浸透」の次の法則は「量質転化(化)」であろう。
ならば、「否定の否定」は何処?


それは、弁証法を学ぶ過程で、
弁証法を学びたい私が、弁証法を知らないを、否定する事であり、
それは、南郷継正の説くモノが弁証法だと信じ続ける過程にあるモノ。

弁証法習得の為の相互浸透の継続には、絶え間ない己の否定が不可欠であろう。

相互浸透・否定・量質転化、そして否定の否定。

「否定の否定」とは、一時的・意図的否定状態が量質転化して、
意識的一時的否定状態⇒常態・無意識的常態化、であろう。







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悟りと弁証法…

2018-05-26 11:38:06 | 悟りシリーズ

宗教の悟りとは、
「神によって世界は創られ動かされている」
と信じ切る事で、平安な心で生き抜く認識。

学問の悟りとは、
「世界・森羅万象の変化を法則性として把握する」
事で、それに則って物事を解決しつつ生き抜く術。

武道の悟りとは、
「常に死の恐怖を克服可能な状態」
で闘える認識。

悟りとは認識である。
それは、平安・納得・思いのままに生き抜く為の認識。

その認識の根本・前提には、
「対象をどうように理解・信じている」か、がある。

宗教は、常に如何なる時も神の意志・御心に沿える事が、悟得。
学問は、常に如何なる時も世界の法則性に則れれば、悟得。
武道は、常に如何なる時も生死の恐怖を乗り越えられれば、悟得。


「悟り」とは、「悟得」へ道とも言える。


私の求めたモノ~
初めは中学生の生徒を教育していく為の上手な関り方。
それは私の認識で、
心の保ち方、その時々の己を納得させ得る思考法…
等であった。

それが、何時の間にか…
日々の円滑な人間関係の保ち方、
直面している問題の的確な解決法、
…のようなモノへと変わっていた。


私は、弁証法があれば悟れる、と思い込んだ。
数学なら法則・公式が分かれば、問題を解ける。
同じように、
一般的な変化・運動に関する科学である弁証法があれば、
生徒の関わり方の法則・公式が分かり中学生の教育が上手くいく。
と思い込んだ、のだろう。(今にして思えばであるが…)

弁証法について考える時、私は以下のような事を思う。
まずは、弁証法の始点?
つぎに、弁証法の過程?
そして、弁証法の終点?


この「始点」の二重性は、
哲学での弁証法の成立過程での始点、
私の弁証法の形成過程での始点、である。

ここでの法則「個体発生は系統発生を繰り返す」である。
哲学(ヘーゲル)は、ゼノンが弁証法の始まり、としている。

それは「ゼノンの絶対矛盾」で、
歩みの鈍い亀を基準にして走っている限り、
アキレスは、永久に亀に追いつけない。
これは、対象との「相互浸透」という法則について書かれている、
とも言える。

私の場合は、
武道講義を読む過程で、
小学生の担任として思い通りできていた自分と、
中学生の担任として思い通りならない自分と葛藤の解決に、
弁証法を!という認識に至った。


この弁証法の求めた理由は対立物の統一であるが、
そこに、弁証法はまだない。

このような対立物の統一の発生には、
先ず私の「思い通り」と「思い通りでない」という認識の形成がある。

この認識は、七年間の小学担任と二年間の中学担任から形成されたモノ。
そのような日々の事実との関りの中での相互浸透で形成されていった。

今思うに…私の失敗は、
初めから小学担任が思い通りではなかった事を思わず、
二年間だった中学担任を小学担任と同じようにできる筈だと、
思い込んでしまった事。
それは思い違い、または勘違い、というモノだろう。

そこで私が思うべきだった事は、
小学生で七年かかったなら、
中学生でも、その位はかかるだろう!
という認識であった。


さてさて…結論書くなら、
弁証法=弁証法性の法則化の始点は「相互浸透」だろう。


私の場合、その始点は私の矛盾解決の為に、
南郷継正と、彼の書いている弁証法との
相互浸透を求めた事であろう。


もっとも…
ここに現実・事実との関りがあった事もラッキーであった。
それは、教員から商人・サラリーマン、
そこから、塾の講師へ、
そして特別支援学級の補助員…

教員と商人の対立と統一、
商人とサラリーマンの対立と統一、
教師と塾講師の対立と統一、
教員と補助員の対立と統一、
知的障害と情緒障害の対立と統一…

そんな現実・事実との納得し得る統一が…
弁証法の習得・修得への道だった?、なのだろう。

そして、その時々の葛藤・感情の緩和・解決が、
悟りへの道だった(?)、なのだろう











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「神」を信じる事…

2018-05-20 11:27:27 | 悟りシリーズ

私は「神」を信じているだろうか?
私にとっての神とは何か?

私の認識している「神」は、
全ての人にとっての神なのだろうか?

キリスト教の神とは?
密教の神とは?
イスラム教は?

日本には、八百万の神がいる、そうであるが…
日本人にとっての神とは?
欧米人にとっての神は?
インド人?

以下の故事ことわざから神を考えてみた。

それは、「捨てる神あれば拾う神あり」である。

それは新学期を数週間後に控えていた、今年の三月九日だろうか…
四年間勤務した補助員の仕事の再雇用・契約が出来ない事を、
体育館で副校長から告げられた。

そんな気はしていたが…

そんな気がしていた理由は以下である。
四月から、特別支援学級の児童数が六人減少する事。
それに伴い、市からの予算が減り、
毎日三人体制だった補助員を二名にする事。

当時、補助員は全部で五名、これを交代で毎日三名勤務であった。
五人中一名は、四月から校への勤務が決まっていて、
残りの四名中、二名は週に四日の働き者であった。
最後の二名の中の私は、父の介護があり休みが多く勤務が不規則。
もう一名は、週一の勤務であるが、無遅刻無欠勤であった。
もっとも…私は去年の六月までは、
三年と二か月は無遅刻無欠勤の週四勤務であった。


実際、内心そんな気はしていても…
それが事実だと知ったショックは大きかった。

そんなショックから、
その事を仲間の補助員、他校へも行っている講師に話し、
出来れば、補助員の空きはないか聞いてくれる、よう頼んだ。
不思議なモノで、言葉にして他人に話すと、心が少し落ち着くモノだ。

そんなショックな一日が終わった次の日、
お願いした仲間の補助員がメールをくれた。
なんと!
四月から移る小学校の副校長から、
「誰かいい人いない?」
「うちの特別支援学級の補助員に…」と尋ねれ、
即、私を紹介してしたと知らせてくれた。


上記の私に起こった出来事を一文で表現するなら、
「捨てる神あれば拾う神あり」である。


この「捨てる神」とは?
そして「拾う神」とは?

これらの神は、決しての個別の市、学校、人物…でなく、
捨てる状況に至った全ての過程を含めての結果である。

この神とは、個別・個体ではなく、総体・全体である。
そこには、
個別・個体的な感情・意志に関係なく、
総体・全体的な偶然からの必然性的決定がなされた、と私は考える。


私の父は、よく「運命」という言葉を使用している。
この「運命」を使うなら、
今回の私はの出来事は以下のようにも言える、のだろう。

「捨てる神」に出会った事も運命なら、
「拾う神」に出会った事も運命…。

事実を事実として認識する事が「運命」なら、
その認識した事実を、夢・願いの方向へ変えていくのも「運命」である。

神の中に個別・個体的な感情・意志を認識するのは、
神を正しく神と認識した事にはならないのだろう。


人が、神を信じる事は、人間の特権で、あり自由だろう。
だが、偽りの神を信じる事は絶対に避けたいものである。













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未解決なのに解決…とは?

2018-05-18 11:56:20 | 悟りシリーズ


終わった筈だったのに、
まだ終わっていない。

未解決案件なのに、
もう解決済み案件。



もう~忘れていたのに…
どうして、何で今さら?

前回の記事にも書いたが…
天寿堂の弁証法ゼミ事件は、
もう終わっていた筈であった。

この事件の原因・理由を、
私は、私が興奮して書いたのメールだと思い込んでいた。
その理由に私は納得して、そして平安を取り戻していた。


しかし、何と驚いたことに、
理由が「自由びと=私=スパイ」だという事であった。

この事が正しいか?or否か?
その答えは、私とそのスパイだけが知っている事実から明白である。

私は、大きく胸を張って、
ここに声を高々に
「私が絶対にスパイではない!」と宣言する。

これは、永遠の真理だろうか?
否!永遠に不変な事実である!

正確に書くなら以下である。
今後の事は不明で未定だが…

当時の2チャンネルにゼミ員のイニシャルを書き込んだのは私ではない。
当然に、ゼミの内部情報を書き込んでいたのも、私ではない。
ただ…もしかして…私ではない自由びと、かも知りない。

何故なら、
2チャンネルに数回、
「談話サロン天寿堂」掲示板に一回、
私ではない自由びとネームでの書き込みがあった。

談話サロンの記述を愚案君がそのまま掲示していたので、
私が、「この私ではない自由びとコメントをそのままにして」とコメントしたら、
その私ではない自由びとコメントは、即削除された事実があった。


時間経過とは不思議なモノである。
当時、あの一件にあれ程、心乱されていた私なのに…
今の私の心は、それ程に乱されてはいない。

ただ…ただ…私は愚案君が哀れに感じている。

2チャンネルのスパイは私だと断定して、
私を追放して問題解決だと思い込んでいる…

これは、問題の誤答を正答だという思い込み。
これは、未解決問題なのに解決済みという誤解。
これは、不安要因は残されているのに安心している事。


こう考えると、
あのスパイは今も、のうのうと愚案君の傍にいるのだろう。

そうそう昔、
大学の松濤館空手道愛好会を創出した大先輩が言っていた。

愚者は、敵を味方と信じ込み、
賢者は、敵は敵だと認識する。

真のスパイを認識できず、
私をスパイと信じている、

これは、愚行か賢行か、果たしてどっち?
答えは、私とスパイだけのモノだろうね。


虚構の平安がいつの日にか、
真の平安へ変わる事を願い、

己の未熟さ、哀れさ、惨めさ、…を実感できぬ者へ、
その者に、いつか真理の扉が開かれる事を祈りつつ…


絶対的観念論者が、己の観念を絶対的なモノとして、
安堵してしまった時、
それは、彼の学問崩壊への道であり、
それは学問終了への開始であろうか…








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掲示板「談話サロン天寿堂」から…

2018-05-16 21:49:42 | 呼びかけ!




先々週位から、突然天寿堂掲示板へアクセス不能になった。
そこで、「談話サロン天寿堂」で試したら、アクセスは可能だった。

その談話サロン天寿堂の記事を、今日視てビックリである。
その驚きの記事とは以下である。


タイトル
「マルクス生誕200年にあたって、マルクスの罪状を記す」

[4846]

質問者 - 2018年05月15日 (火) 06時27分

話は全く変わるのですが、私は愚按亭主との対話で新たな知見がどんどん拓けていってますから実に有り難く思っていますけど、愚按亭主の言うことを盲信しようとはしませんよね?

愚按亭主とは異なる人格として、愚按亭主とは異なる見解を持つ私のことを許容して律儀にコメントを返してくれるような愚按亭主が、主宰されてる弁証法講座に学びにきた人間を問答無用で破門したというのが信じ難いように思われるんですね。

余程に無礼な振る舞いでもしたのだろうか?との思いもあるのですが、まあ具体的に言ったなら「自由びと」なるコテハンでブログを書いてる人物ですが、自分のブログで愚按亭主に悪態をつきながら、一向に発展していかない幼稚な思考を見るにつけ、「心を入れ換えて愚按亭主のコメントから真摯に学ぶならば、新たな自分を創出できるだろうに…」との気持ちを強く持ちますが…。

愚按亭主が述べた「言論の自由」も、ダブルスタンダードではありませんがやはりどこまでも自由というわけには行かず、人それぞれに「生存権」「自衛権」というものがあるわけで、自己の生存が脅かされるような事態では発言の撤回を求めもするでしょうし、発言を抑制しようともするのは致し方ないように思われます。

「世話人」としての愚按亭主を蔑ろにするような傍若無人な振る舞いを「自由びと」なる人間はしたのでしょうか?



[2847]とりあえず

愚按亭主 - 2018年05月15日 (火) 08時46分

>「世話人」としての愚按亭主を蔑ろにするような傍若無人な振る舞いを「自由びと」なる人間はしたのでしょうか?

 世話人の権限で無理して入れてあげたのに、その恩をあだで返すように、2チャンネルに、弁証法ゼミの潜入に成功したと、ゼミ員の発言などを暴露してスパイのような書き込みをして、弁証法ゼミそのものを危機に陥れたことです。おかげでゼミ員はみな大変な思いをさせられたことです。





[2848]そうだったのですか…

質問者 - 2018年05月15日 (火) 09時31分

そんなことがあったのですね。

ですが「自由びと」なる人間は古くからの玄◯会の道場生で、もう三十年以上も在籍していたように発言しています。道場で愚按亭主の直接指導も受けていたようで、言わば愚按亭主からすれば同門の「弟子」ないしは「後輩」にあたる相手だと思うのですが?

そんな古くからの愚按亭主の顔見知りだという気のゆるみからか、自分ももう長いこと南郷学派の出版物で学んできているという自信からか、弁証法ゼミという「学びの場」を大事にしようというところを失念したのでしょうか?

「百年の不作」といいますか、残念なことどはありますが…


……………引用終了…………





当時、⒉チャンネルで
「…弁証法ゼミの潜入に成功したと、ゼミ員の発言などを暴露してスパイのような書き込み…」
を私は視た。

そこには、正確に当時のゼミ員のイニシャルが書かれていた。
そして、自分はゼミをスパイして⒉ちゃんに書き込む…といった事を書き。
他の⒉チャンネル書き込みで、そのスパイは人間としてどうなの?
とった批判を受けていた。

しかし…残念な事に、そのスパイ的な書き込みは、私=自由びとのモノではない。

何故に、「残念」なのかと言えば、
それは、「犯人は自由びと」だという安心している愚案君にとって、
その安心が嘘である事。そのスパイが今も健在なのかもしれない事。

愚案君の確信が残念な事に虚構であるからの残念である。


愚案君は、スパイは自由びと!それらの書き込みも自由びと!
と、妄信して安心してしまっている。

でも…事実を知っている私には、
あの書き込み犯の大笑い顔が目に浮かぶ。

私が、弁証法ゼミの事を⒉チャンネルに、比較的詳しく書き込み始めたのは、
初めになかった「体験入塾期間終了」の言葉で、退塾させられてからである。

流石は、絶対的観念論者の愚案君である。
直接、自由びとに確認する事無く、自由びとをスパイと確信し切ってしまっていた。
これが、唯物論者なら、それこそ直接確認するだろうに…

そもそも…私がスパイして、⒉チャンネルに書き込む必要がどこにあるのか?
愚案君は、私の「自由びとブログ」の記事・記述を読んで、
私の人柄を読み取れないのだろうか?
もっとも…愚案君は、自由びとブログは読まないだろうが…


どっちにしても…事実を知っている私からすれば、上記の愚案君のコメントは、
彼の人間性のそのモノに思えてしまう。

直接の確認もなく、自由びと=私をスパイと決めつけ、
「恩をあだで返す…」と言いきっている愚案君の姿。
やっぱり私は弁証法ゼミを追い出されて♪ラッキー♪だったようだ。

愚案君の南郷師範・南郷先生に対する掲示板での書き込み…
そして、この皮肉たっぷりの「質問者」とのやり取り…

私は、ソクラテスを思い出してしまう。
奴も、上記の「質問者」のような皮肉屋だったから、
もっとも、その皮肉はネコを被っている時だけだったが…


そうそう…[4846]で突然に
>…まあ具体的に言ったなら「自由びと」なるコテハンでブログを書いてる人物ですが、…<
と話題を自由びとへふった所から推測するに…

この質問者はソクラテスだろう、と思えてしまう…
これが現実世界の知り合いなら会って確かめもするだろうし…
また…メールで確認もするだろうが…

もっとも…ソクラテスのような奴とは知り合いたくはない!
それでも、現実世界では猫被っていい子なのかも?

世間によくある~
「本当なの?あの人がやったの…まさか?」
的な人物だろうか?



最後は以下の私的妄想である。

それは、愚案君の横で、
心で嘲笑い、顔で真剣に、
話しているスパイの姿である。







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