新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「常識」の二重性・弁証法性

2021-10-31 16:10:57 | 弁証法
「常識」の二重性・弁証法性


一つ、「常識」が常識である事とは?
それは、「常識」の意味・概念を常識になっている事。
それは、「常識とは普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方」という知識・考え方が普通の人の認識(常識)になっている事。

二つ、その個別・具体的な知識や考え方が、普通の人なら誰でも持っている認識(常識)になっている事。

二つ目の個別・具体的の二重性。
その言葉が「常識」。
その言葉の意味が「常識」。

例えば、「情けは人の為ならず」という言葉がある。

これは普通の人なら学校・教育や日常の中で聞いて知っている「常識」。
私が習い理解した、この言葉の解釈・意味は「人に情けをかけるのは、人の為ではなく周り回って自分の為になる」。
しかし、現代人の多くは「人に情けをかけては、その人の為にならない」と理解している、そうである(テレビの情報)。

これは、「情けは人の為ならず」という言葉は「常識」。
しかし、その言葉の意味・概念には通りあるが「常識」。

これは、この言葉が知識としては「常識」であっても…
その言葉の意味・概念は変化している…という事。

同様な事が、「ヤバい」にも言える。


ある知識・言葉が常識。
その知識の考え方(意味・概念)が常識。

「ある知識・言葉」と「その言葉の捉え方・考え方」は「相対的独立」関係と言える。


近い将来に…常識である「情けは人の為ならず」という言葉の意味が、
多くの人々が「情けを人にかけたら、人の為にならない」と理解せずに
「情けは人の為ではなく周りをまわって自分の為」に変わってしまい…
「情けは人の為にならない」が常識化するのだろう…


因みに、昔から…多くの人々が「常識」について思索していた…ようである。
以下は、ネットからの、その転写である。




常識について、例解新国語辞典[第二版]には以下のように書かれている。
「常識」とは、普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方。



常識(読み)じょうしき(英語表記)common sense
翻訳|common sense
日本大百科全書(ニッポニカ)「常識」の解説
常識
じょうしき
common sense




ある社会のある時期において、一般の人々がとくに反省することなく当然のこととして共通に認めている意見や判断のことであり、その社会の歴史のなかから自然に形成される。したがって常識というとき、なんらかの立場や方法論を前提し、しかもそれを自覚して成立する判断であるところの学問的な知識と、しばしば対立させて使われる。
 ところで常識という語の原義は、通常の人間ならだれでもが共通にもっている感覚のことであり、この点、前述したある社会のある時期という限定を伴う普通の意味と多少異なっている。そしてとくにこの原義に近い考え方で常識に注目している哲学者としては、バークリーの主観的観念論やヒュームの懐疑論に反対した18世紀イギリスのトマス・リードがいる。すなわちリードは、通常の理解力のある人間ならだれでも、その人間の本性に基づいて当然自明なものとして認めるいくつかの根本原理(「常識の原理」)があると考え、諸科学の基礎としてこれらの原理をみいだそうとした。
 なお、リードを中心としたJ・ビーティ、J・O・オズワルドらの一派は常識学派とよばれ、ドイツ、フランスの啓蒙(けいもう)哲学に影響を与えた。また19世紀アメリカの哲学者パースによっても、常識をだれでもがもつ一種の本能のようなものと考える考え方が採用され、展開されている。
[清水義夫]
[参照項目] | 常識哲学
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について



百科事典マイペディア「常識」の解説





常識【じょうしき】
英語common senseなどの訳。ある社会の共同の知識と経験の総合的集積で,その社会の構成員はだれでも受け入れざるを得ないような自明性をもっている。その意味では,知識の一つであるが,直接的に与えられ,一般の人びとに受け入れられている意見の総体でもある。したがって,常識は社会体制の変化に応じて変化する。また哲学的には,デカルトやロックの認識批判の方法をしりぞけ,推論過程に先行する判断(〈常識〉)に価値をおく,T.リードに始まる〈常識哲学〉の系譜がある。日本では,common senseの訳語は,1890年,福沢諭吉の《国会の前途》で〈人生の常情〉という言葉が使われたのが最初で,ほかに〈常見〉という訳語も使われており,〈常識〉の語が主として使われるようになったのは,明治24年―明治25年ころ。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報



ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「常識」の解説
常識
じょうしき
common sense
一般に学問的知識とは異なり,普通人が社会生活を営むためにもち,またもつべき意見,行動様式の総体をいう。これは経験の集積からなることが多く,時代や場所や階層が異なれば通用しないものもあり,多分に相対的なものである。本来は,「共通 (一般) 感覚」の意。アリストテレスは視,聴,触などの相異なる感覚を一つの対象に結びつけて意識させる「すべての感覚に共通な部分」をいった。近世初頭デカルトなどは,これをより積極的に万人が共有する真理感覚と解し,良識 (ボン・サンス) と呼んだ。 18世紀末に現れたスコットランド学派は,この真理感覚を「常識の原理」と名づけ,それを基礎に倫理説を立てたので「常識学派」と呼ばれる。 (→常識哲学 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報


精選版 日本国語大辞典「常識」の解説
じょう‐しき ジャウ‥【常識】
〘名〙
① 一般人の持つ考え。普通の見解。
※童子問(1707)中「此常識之所下以必至レ此而与二聖人一自相違上也」
② (英 common sense の訳語) 社会人として当然持っている、持っているべきだとされる知識・判断力。〔哲学字彙(1881)〕
※彼岸過迄(1912)〈夏目漱石〉報告「常識(ジャウシキ)のない奴だと思はれる丈だから」
③ 哲学で、人類全体に共通する能力で真理、道徳をとらえる直覚をさす。常識学派(スコットランド学派)で真理の最終根拠とした。
[補注]common sense の訳語としては、他に「常見」「常情」なども用いられていたが、明治の後半から「常識」に定着した。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報


デジタル大辞泉「常識」の解説
じょう‐しき〔ジヤウ‐〕【常識】
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。「常識がない人」「常識で考えればわかる」「常識に欠けた振る舞い」「常識外れ」
[補説]common senseの訳語として明治時代から普及。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
世界大百科事典 第2版「常識」の解説
じょうしき【常識 common sense】
常識(英語でコモン・センス)とは,もっとも普通には,われわれの間に共通の日常経験の上に立った知,一定の社会や文化という共通の意味のなかでの,わかりきったものを含んだ知であると考えられている。つまりこの場合,それは,あれこれの立ち入った専門的知識にくらべてありふれた知識,また,厳密な学問知にくらべてあいまいさを含んだ日常の知だということになる。ところで,このようにとらえられた常識を〈出発点〉としての常識というならば,それに対して〈到達点〉としての常識と呼ばれるべきものがある。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
世界大百科事典内の常識の言及
【理性】より
…ライプニッツは〈事実の真理〉と〈理性の真理〉を認め,〈理性raison〉は諸真理の連関を覚知し推論する能力とし,C.ウォルフは悟性は知的なものを包括して意志に対立し,理性は諸真理の連関の洞察であるとした。また18世紀にはイギリスの〈常識common sense〉がドイツで悟性に結びつけられ,無反省に生活で使用される〈通俗的悟性gemeiner Verstand〉よりも〈論究的理性räsonierende Vernunft〉が上位に置かれるようになった。 カントは認識能力を諸対象を直観する受容的な〈感性〉と,諸対象を概念で思考する自発的な広義の〈悟性〉とに分かち,後者を狭義の〈悟性(概念・規則の能力)〉〈判断力(判断の能力)〉〈理性(理念・推論の能力)〉に分けた。…
【スコットランド学派】より
…正式にはスコットランド常識哲学学派Scottish school of common senseという。〈存在とは知覚されることである〉とのバークリーによる物質否定の論証や,ヒュームによる因果観念の否定という懐疑的結論によって哲学一般の基盤,とりわけ既成の教会の教義に及ぼすこの種の帰結の脅威を感じたT.リードは,デカルトやロック以来の〈観念〉を軸とする認識批判の方法をしりぞけた。…
【知識】より
…一般に,専門家と言われる人たちはその分野の手続き的知識をうまく使って効率的に問題を解くことができる(いわゆる,頭より先に手が動く,である)のに対して,素人はその分野の宣言的知識はもっていてもそれらを効率的に使えない(いわゆる,頭でっかち,である)と理解される。
[常識]
 常識common senseももちろん知識の一部である。というより,人間のもつ知識のほとんどは常識であると考えられている。…
【知識表現】より
… 実際のシステム開発においては,単純な表現では対象問題を十分にモデル化できず,また,機能の豊富な表現には処理に膨大な計算量が必要となるというトレードオフの関係が存在する。この点については常識の扱いを含めて理論的な研究の進展が著しい。また,大規模な実用システムにおいては,複数の知識表現を統合して利用することもしばしば行われる。…
【理性】より
…ライプニッツは〈事実の真理〉と〈理性の真理〉を認め,〈理性raison〉は諸真理の連関を覚知し推論する能力とし,C.ウォルフは悟性は知的なものを包括して意志に対立し,理性は諸真理の連関の洞察であるとした。また18世紀にはイギリスの〈常識common sense〉がドイツで悟性に結びつけられ,無反省に生活で使用される〈通俗的悟性gemeiner Verstand〉よりも〈論究的理性räsonierende Vernunft〉が上位に置かれるようになった。 カントは認識能力を諸対象を直観する受容的な〈感性〉と,諸対象を概念で思考する自発的な広義の〈悟性〉とに分かち,後者を狭義の〈悟性(概念・規則の能力)〉〈判断力(判断の能力)〉〈理性(理念・推論の能力)〉に分けた。…
※「常識」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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「普請」について…

2021-10-30 12:01:29 | 認識論
「普請」について…

「普請」の常識とは?
「普請」とは、「普」と「請」と二文字漢字の熟語。
漢字には音読みと訓読みがある。
二文字熟語の読み方には、音訓・訓音・訓訓・音音…読み方がある。

その「普請」の場合は、音音だろうと推測できた。
そこで私は「ふせい」と考えた。

ここでの私は「請の読みを「請求」の(せい)と決めつけていた。
しかし…改めて辞書を調べると、請には、(せい、しん)が書かれていた。

考えた「私には、請=しん…の知識がなかったのだろうか?」と問い。
そこで「新漢和辞典(大修堂)[三訂版]」を調べたから
「請」を(しん)と読む二字熟語が見つからない。

この辞書の優れている所では、
意味は書かれていないが、最後に「〇請」の二字熟語がいくつか書かれている。
その中にも、(しん)読みは載っていなかった。

「請」は、清(せい)、精(せい)、青(せい)…から(せい)は納得できるが…
「請」の(しん)読みは納得し難かった…

そこで横にいる家内に尋ねたら、
「それはセットで(ふしん)」と読ませる!」と言われた。

これは、「普請は(ふしん)」と決められているモノ。
それは、慣習として決められているモノ。

しかし、多くの場合が「請(せい)」読みであるのに対して
「普請」の二字に関しては(請しん)と読ませるという特殊なモノであった。
だから、家内の言葉「常識!」であった。

私が、この言葉を小学校にいてある辞書で調べた時に、
「ふるい言葉」と書かれていた事から考えると「普請は過去の言い方」であり、
現代では「普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識…」常識ではなかった。

その証が、現役小学校教員10人に「普請」の読みと意味を聞いた結果である。

「言葉の読み方は決まっている」という考え方は常識である。
家内が常識と言うには、普請は(ふしん)を知っているからである。
その理由は以下である。
家内は日本の歴史が好きで歴史について多くの事を詳しく知っている。
そういう意味で、家内にとっては「常識」である。

しかし、そのような事を知らない私や現代人にとっては、
「普請」の読みは決まっているという考え方の(常識)はあっても、
実際の「普請」読み方や意味(過去の常識)を知らなかった。
また「普請」が古い表現だとも、過去の普通の社会人の常識だったとも知らなかった。

今私は知った!
「普請」の読み方に意味を…
そして「常識とは何か」を…

これも家内ともやり取り・口論レベル事があり、
その結果に納得出来ずに、
現実社会で、書物の世界で、ネットの世界で…
調べまくり、考えまくり、書きまくり…その結果である。


仮に私が誰かさんのように~
常識とは「当たり前の事…一々説明する必要のない事…」なんて
考え方をしていたら…今の私のような事は知り得なかった、のだろう。

弁証法の始まれは、
何事も「そう考えるとは限らない」と思う事…
結果がそうであっても、過程は違う、過程がそうであっても、始まりは違う。




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「常識」の二重性~

2021-10-30 10:54:19 | 言葉・概念


常識について、例解新国語辞典[第二版]には以下のように書かれている。


「常識」とは、普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方。

「常識がない」・「常識に欠ける」というのは、
知識が少ない事をいうよりも、人との付き合い方や世間の習慣を知らない事をいう。また「常識がないために、人に迷惑をかけても気付かない事を「非常識」という。しかし、「常識的」というと、「平凡であまり面白くない」という意味になる。

例えば、以下のような問題である。

A-「1たす1は幾つ?」聞かれて
B-「それは2!」と答えたら、
A-「どうして?」と聞かれて、
B-「それは常識!」と答えたとしよう。


この「常識!」という言葉は正しいだろうか?
Aが大人なら一桁の数の計算は「誰でも持っている筈の知識」であるから正しい
しかし、Aが「数と数の計算を知らない」幼児なら間違い。

また、大人同士でも、その理由を聞かれて時に「常識!」と答えたなら、
それは、「人との付き合い方や世間の習慣を知らない事」だから「非常識」となろう。

そもそも…
普通の大人に、どうして「1+1=2」になるか?説明不能であろう。
「算数とは数の論理」である。
論理には、「始まり・過程・結果」がある。
「1+1=2」は計算結果。
そこに考え方・過程は現れていない。

因みに、数の始まりは「1」である。
その後、「0」の発見があった…そうである。
これは数字の知識とての常識。

普通の大人にとって計算結果は必要であり「知識としての常識」でも、
その過程の論理は、特に不要であるから常識化していない。
この場合の「常識!」と答えた大人には、そこに至る考え方が「考え方の常識」になっていない。

弁証法の結果は知っていても、弁証法の過程は知らない。
知識として弁証法は知っていても、論理として弁証法を使えない。


更に、算数の計算としてなら「1+1=2」は「常識」。
しかし、現実の問題解決の場合は、「1+1=2、とは限らない」という考え方は常識。

例えば、リンゴ一つとミカン一つ合わせて何グラム?
このような問いでは、算数計算では答えは出ない…という事は「常識」。

「1+1=2」は常識である。それは、算数の世界の常識である。
現実の世界での常識は、「物事を的確に数に変換してからの1+1=2」


算数の世界で、「1+1=2」が常識である為には、
数が「1」から始まり、「1」増えるごとに、2、3、4、5…9という知識、9に1増えると「10」になる「数の常識」が必要。
この場合に「何故か?」と聞かれたら、「算数ではそう決めた」が正解。
それでも…絵が数に、数が数字になるまでの歴史があるが…これは常識化していない。

そして、現実界から算数の世界へ入る前には、以下のような考え方の「常識」がある。

この場合の「1」と何か?「1つ」、「1人」、「1台」、「1キロ」…を決める必要がある。
更に「1+1=2」は常識であっても、「1個」+「1人」は、「2個」でも「2人」でない事も常識。



さてさて「常識の二重性」について考えるには「普請」ではなく、
「1+1=2」から始めたら上記のようになってしまった。

これって、常識の二重性「考え方と知識」の区別と連関(常識的考え方)であり、
この「区別と連関」という考え方は、弁証法の世界の知識・常識でもある。

それは、現実世界の物事を算数世界の「数」への変換過程の考え方(「1」の決定)。
量に基づいての数字の変化1から9、そして9から10…
(1文字表記から2文字表記への量質転化)…





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続・臨済義玄お宅へ

2021-10-27 09:36:56 | 想いのままに…
以下は、下の方に載せている記事「臨済義玄お宅へ~」への
臨済義玄お宅コメントに対する自由びと記述である。



>私は自由びとさんが述べるように実際の玄和会に入会したことは有りませんし、実際の南郷さんにもお会いしたことはありません。ですが、「執筆者、学者、研究者」としての仕事は「論文、著作物」として世に問われたものを検討することで十分だとも思っています。

南郷氏の「世に問われたものを検証する」事で、そこに書かれた事を知る事できても自分の生活で生かせるとは限りません。
例えお宅が、「南郷氏なら、○○場合は××するだろう」と思ったとしても…
それは、お宅の思った南郷氏の言動の妄想であり、決して現実の南郷氏のモノでありません。
結局、その行為は「虎の威を借る狐」的モノに過ぎません。

「その知識があれば、それができる」とは限りません。
「空手の写真・本で学び知り得た技で相手を倒せる」モノでしょうか?


>ですから、私が自由びとさんの発言したものを読んで「玄和会や南郷さんが今まで公に発表したものから顧みたならば、自由びとさんのような思考にはならないはずだ」ということも「どの著作のどこを読んだら、そのように判断できるのか」をキチンと引用して示すことが可能です。

ほ~ほ…「引用」とは…
南郷氏の著書に「自由びとが○○したら、それは××!」
と具体的に書かれているのですか?

これも結局は、南郷氏記述を読んでお宅的に理解・解釈し、
その結果お宅の観念・認識で思考し検討した結果・行為・言動なのです。
そもそも…
南郷氏と私の関係を正しく認識していないお宅に、
南郷氏の具体的な私への声掛け分かるとは思えません。




>泣いて馬謖を」というと私を有り難くも?支配下だと考えていただいてるようですが…


>…「泣いて馬謖を」…
これと「断腸の思い」とで…悩みました。
今回の私心の痛みは、「臣下を斬る」と「自身の肉体を断つ」、どちらの痛みに近いか?
と考えた時、それは「断腸」ではないと感じ、「泣いて馬謖を斬る」にしました。


>……そのように玄和会という空手団体は「文武両道」を掲げていたと思われる中、自由びとさんにはそれにそぐわない発言ばかりで不思議に思っているのは間違いありませんよ。

それは、お宅が「玄和会の文武両道」をお宅的に理解しているから…
または、自由びとの記述を論理的に理解できないお宅だから…
または、自己の認識をお宅にでも分かるように書けていない自由びとだから…


>あと、やっぱり自由びとさんが奥さんから「常識」と言われて取った行動は「珍しい、奇妙な現象」として考察の対象とすべき話しで、私と嫁さんとの関わり如何の話しじゃないと思います。全く関係ない話しですよ(笑)

ヤッパリ!自由びとの行動の真意が分かっていない…
世の中には「アンケート調査」といモノがあります。

例えば、「ヤバい」の意味について、

現代では、二通りの意味・解釈があります。
それは、「危ない(悪い事)」と「凄い(良い事)」です。

では、現実・社会では、
どちらが一般的に使われているかを知る為に
「アンケート調査」をしたそうです(テレビで言っていた)。
その結果、
若者は、「これ、(美味しくて)ヤバい!」
年寄は、「それは(怪我するから)ヤバい!」



「ヤバい」は現代社会では言葉「日常用語」として誰もが知っている常識。
「ヤバい」の意味に二通りあるという事については誰もが知っている常識or知らない非常識
そこで「アンケート調査」をテレビでは実行。

結果、「ヤバい」を日常会話として使えていても。
その意味は、大きく二つに分かれしまっている…
この事は、「アンケート調査」があったから確認できた。

家内は「普請」は常識と思う…
でも、私は常識とは思わない…
どちらが正しいか?
「言葉を言葉で小学生を教育している教員十人にアンゲート調査した」
これの行動のどこが>「珍しい、奇妙な現象」…?!なの。

この「珍しい、奇妙な現象」というお宅の言葉は、
物事を表面的に観るだけで論理的に観られない証…
また、自由びと言説を色眼鏡で見ている証…ですね。


更にお宅には大きな誤解が…
上記のような「アンケート調査と嫁さん」が無関係なのは当然です。
そこへ至る過程が「お宅と嫁さん」に関係する…のです。
それは、他人の夫婦関係から、自分の夫婦関係を考える…という事です。


そもそも…元々他人が共同生活をしている夫婦間にトラブル・喧嘩…なし!はあり得ません。
世に言う「喧嘩する程と仲が良い」とか、「夫婦喧嘩は犬も食わない」とか、
夫婦は日常での些細なトラブル・口論を通して相互理解が深まっていくモノなのです。
それを愛して…何も問題なし…とは…
それは虚偽の事実!
鈍感で妻の不満に気付けない!
家庭内別居!
仮面夫婦!

合宿の意義は、
互いに間違いを指摘し合う事による互いの成長・向上・上達。
夫婦の同じです。それを愛し合っていて何もトラブルがない!
臨済義玄お宅って…本当の夫婦生活を体験していませんね!

年齢詐称に夫婦偽装…
臨済義玄お宅の思いは真実でも、
事実として書かれている記述は虚偽ですね。




以下は、そのコメントである。
約束通りに、所々記述を「×××」で抹殺している。
(「南郷さん」の××は全体的に意味不明になり得るので却下)


コメントを書いた人
臨済義玄

・コメント
自由びとさんには自由びとさんの、私とは独立したお考えがあるのは当然ですよね。
ですが、私にも私の考えがあるわけです。

私は自由びとさんが述べたような「南郷さんが著書で書いている枯枝諸侯」ではありません。南郷さんが『試行』に「枯枝諸侯」について発表した時期から計算すると、そう呼ばれた過去の玄和会員は少なくとも70歳以上のご高齢のはずですから。

私は自由びとさんが述べるように実際の玄和会に入会したことは有りませんし、実際の南郷さんにもお会いしたことはありません。ですが、「執筆者、学者、研究者」としての仕事は「論文、著作物」として世に問われたものを検討することで十分だとも思っています。

ですから、私が自由びとさんの発言したものを読んで「玄和会や南郷さんが今まで公に発表したものから顧みたならば、自由びとさんのような思考にはならないはずだ」ということも「どの著作のどこを読んだら、そのように判断できるのか」をキチンと引用して示すことが可能です。

私はコロナ禍で行動が制限されている中、自由びとさんのブログに目を通すことを介して、逆に南郷さんの『武道講義』にある一文一文が恰も「金言」であるかに反映されてきた面があるのです。

そう、それは「人間は精神であるから自らを尊敬すべきである」との発言が、自由びとさんの空虚な空っぽの言葉によってもたらされる「虚しさ」と対比されて得心されたのです。

私は自由びとさんの実態に関して二つの仮説を持っています。一つは玄和会総長である×××さん、もう一人は南郷さんに憧れて私淑している関西の×××さん。

××さんについては××さんと××さんの弁証法講座から破門になったという逸話と、××××さんから玄和会を破門にされたという逸話との共通性から思いついたのですけどね。

××××さんについては鷹?のサイトから閃いたことがあるのですが、どちらの仮説にしても決めつけているわけでありません。

「泣いて馬謖を」というと私を有り難くも?支配下だと考えていただいてるようですが、私の所属している団体の手前、「客人」くらいにしといて貰いたいと思います。

もしも貴兄が本当に×××さんならば、その実際の動きは私を唸らせて尊敬心を抱かせる力を持っているかも知れません。しかし、「今ここ!」で自由びととして書かれた文章は何らの尊敬を抱かせるものは無く空虚です。

それは正しく『武道講義』第一巻で引用されている「もし自由の身でおいでだったら」「なにもできなかったことだろうよ。」という自由びとの自由びとたる自由さが空虚にしているのかも知れませんね。

私がここで挙げた玄和会員の名前は元会員でなければ知らない類の名前ではなく、どれも『学城』の執筆者として名前が世に出ている人ばかりです。
そして、その名前で検索するならば日本社会で立派に仕事をしている、特に「他者を教育・指導する立場にいる」そのような人物が玄和会からは輩出されているのだと了解されるだけでも名前を挙げることに意味はあると思いますけどね。もっとも、玄和会以外の武道団体からも、そうした人物は輩出されていますけど。

そのように玄和会という空手団体は「文武両道」を掲げていたと思われる中、自由びとさんにはそれにそぐわない発言ばかりで不思議に思っているのは間違いありませんよ。

まあ、自由びとさんからのお願いですから少し考えておきますけど、しかしこのブログは与えることが無いかわりに「やってはいけない」という戒律ばかりが多いんですよね。そこも私には他団体の人間として興味があるんですよ。もっとも、私も私の団体の中では普通に戒律を守っていて、団体と一体となってるから何も感じないだけかも知れませんけど。

あと、やっぱり自由びとさんが奥さんから「常識」と言われて取った行動は「珍しい、奇妙な現象」として考察の対象とすべき話しで、私と嫁さんとの関わり如何の話しじゃないと思います。全く関係ない話しですよ(笑)
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臨済義玄お宅へ~

2021-10-25 21:37:54 | 想いのままに…


臨済義玄お宅殿

日頃からのお宅のブログ愛読には、とても嬉しいモノがあります。
自由びとのレスが間に合わない程のスピード連続コメント投稿・熱意にも脱帽です。

ただ…ここでお願いがあります。
臨済義玄お宅自身の勝手な思い・考え・妄想…を、
玄和会関係者・南郷師範…に関係付けて書かないでい頂きたい。

以下のようなコメントのような…
>本当に玄和会の「心ある会員」がここに居たならば…<とか、
>南郷さんが弟子を叱責する時に使う台詞…<とか…

その理由は、
現実の玄和会を知らないお宅に、
玄和会員、南郷師範…の言動・思考…
を分かり得る訳ないから、である。


もっとも…
臨済義玄お宅が、元・玄和会幹部で、
南郷氏の著書に書かれている「枯れ枝諸侯」であるなら…
少々話は違ってきますが…

それでも、仮に「枯れ枝諸侯」であったとしても…
枯れ枝諸侯お宅の在籍していた時代と今とでは、
名称は同じ「玄和会」でも、
その中身・内実に大いなる相違があるだろうから…
ヤッパリ止めて頂きたい。

そんなこんなで…今後~
お宅が知り得ている玄和会関係者の名前を使って、
お宅の思い・考え・妄想を書かないで頂きたい!

これは、お願いであると同時に警告でもある。
この願いが聞き入れて頂けないなら、
「泣いて馬謖を切る」思いで抹殺・消去するであろう。

ほぼほぼ…
たった一人の愛読者を失うのは非常に心苦しく、
寂しい想いでイッパイではあるにはあるが…



追伸~

以下の記述~
ヤッパリ事実と論理の区別と連関が分からないね♪♪♪

>>お宅の家庭の事実で説くのが

>私は嫁さんを心から愛し大切にしてますから、自由びとさんとのコメントに登場させることは無いですよ。

「嫁さんを…コメントに登場させこと」ではなく、
「心から愛する嫁さん」と旦那でおるお宅との日々の関わり中での実感した事実を
論理レベルの弁証法でを説くのです。

それは、
他人同士の会話・議論と家族同士の会話・議論…の相違から、
発生するだろう量質転化化の相違、相互浸透の相違、否定の否定の相違…
そこから弁証法の三法則の像が、より鮮明・明確・になり得る過程的論理を~




・コメントを書いた人
臨済義玄

・コメント
>「極めて個性的」などと
私は努めて穏当な表現をしたつもりですけどね。

私はやんわりと書いていますけど、本当に玄和会の「心ある会員」がここに居たならば「お前はバカかトンマだ!」という南郷さんが弟子を叱責する時に使う台詞を私が自由びとさんに向かって発したとて、至って仕方ないことだと納得してもらえるはずですよ。

私はその根拠を徹底的に述べていますし、本当に南郷さんの門下から貴兄のような会員が育成されたこと自体が全くもって不思議なことなんですよね。
おそらくは玄和会の上達システムから貴兄のような思考癖の人間が育成される必然性は無く、貴兄は突然変異的に出現した変態か、あるいは玄和会入門以前から今のような思考癖を持ち合わせていたか、のどちらかではないか?と考察してますけどね。


>お宅の家庭の事実で説くのが

私は嫁さんを心から愛し大切にしてますから、自由びとさんとのコメントに登場させることは無いですよ。



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