先ず達人とは、
何かある事に、熟達している人、
と概念規定する。
人生の達人とは、
人生の浮き沈みの波乗りに熟達して、上手に生きている人。
護身の達人とは、
自らの身を守る事・技に熟達している人。
空手の達人とは、
空手に熟達していて、
自然な日常動作の如く、空手・空手技が使える人。
武道の達人とは、
武道に熟達していて、
自然に自由自在に武道・武道技を使える人。
そて、護身の場合、
身を守る事・技とは何か?
先ずは、身の危険回避である。
次に、身の危険が発生した場合、
先ずは、怪我をしない事。
怪我をしない為に、護身の為の身体動作を覚える。
逆から説くなら、身体動作を護身の為に駆使する。
空手とは、空手技とは、
空手とは五体の武器化。
空手技とは、武器化した五体技の駆使。
さてさて武道・武道技とは、
「武道とは命を賭けた勝負の道」と概念規定するなら、
勝負に為に「命を賭ける」技、となる。
「命を賭ける」とは?
お金を賭けるとは、お金を失う事を想定している事、
なら…
命を賭けるとは、命を失う事の想定=失う覚悟がある事
武道技での護身とは、命を賭けて、
失う覚悟を持っての護身、となろう…
護身とは、身を守る事なのに、
身を守る為に命を失う覚悟…
とは矛盾であろうが…
そこは、観念的な死と現実・事実的な死、となろう。
さてさてさて…
武道空手の達人とは、
命を失う覚悟に熟練して、
熟達した空手技を駆使して、
命賭けの勝負できる人。
問題は、命を賭ける・命を失う覚悟を、
どのように確認するのか?
それは、命を失うだろう瞬間の、その人の認識であるから、
当然、命を失うような危機に直面して初めて実感可能なモノ。
それは、自分だけが実感し得る認識技・観念的実体技である…
そう…でも…
そんな場面に直面して、そのまま死ねば、
はい!そこで人生終了であろう。
これは、目的意識的に実際に試せない・確認が殆ど不可能であろう…
あるのは、意図しないアクシデントで、死に直面…である。
南郷継正のイメージしている、
武道空手の達人とは、以下のようなモノだろうから…
武道空手の達人とは、
命を失う覚悟に熟練して、
熟達した空手技を駆使して、
命賭けの勝負できる人。
これは、現代社会では、確認でき難いモノであり、
それを、実際に公開・見せる事は不可能である。
何故なら、「命を賭けている」、「死の覚悟」を、
どのように、視覚的に公開・見せられるのだろう?
「死の覚悟」とは、己自身が『死んで逝く』だろうな…
と思った瞬間に生きる動作が出来たら覚悟。
死んで逝ったら、「死んで逝くな~」諦め…である。
ネットで「玄和スレ」で…
「達人」という言葉が出てきている・使われているが…
殆どが、達人の概念が、南郷氏のモノとは、大きく異なっている
なのに、彼らは、同じ「達人」だと思い込んでいる。
それじゃ~全く話が、議論がかみ合うわけがない…
そんな簡単な事にもね気付けずに、玄和会を批判できている…とは、
残念な人達である。
まあ~
現代では、ヘーゲルの絶対精神がイメージできない、ように…
南郷氏の
武道空手も
武道空手の勝負も
命を賭けるも
死の覚悟も生即死も…
イメージする事が至難なのだろう…
また上記のようにイメージ・言葉にできても、
それを観念的実体化するのは更なる至難である。
その理由は、観念の実体化には、
実体・身体を駆使しての修業が不可欠。
しかし…現代社会で、
命を賭けた、負ければ即死というような勝負は
不可能である、から…