新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

「達人」について~

2020-06-28 12:19:35 | 言葉・概念

先ず達人とは、
何かある事に、熟達している人、
と概念規定する。

人生の達人とは、
人生の浮き沈みの波乗りに熟達して、上手に生きている人。

護身の達人とは、
自らの身を守る事・技に熟達している人。

空手の達人とは、
空手に熟達していて、
自然な日常動作の如く、空手・空手技が使える人。

武道の達人とは、
武道に熟達していて、
自然に自由自在に武道・武道技を使える人。


そて、護身の場合、
身を守る事・技とは何か?

先ずは、身の危険回避である。
次に、身の危険が発生した場合、
先ずは、怪我をしない事。

怪我をしない為に、護身の為の身体動作を覚える。
逆から説くなら、身体動作を護身の為に駆使する。


空手とは、空手技とは、
空手とは五体の武器化。
空手技とは、武器化した五体技の駆使。


さてさて武道・武道技とは、
「武道とは命を賭けた勝負の道」と概念規定するなら、

勝負に為に「命を賭ける」技、となる。

「命を賭ける」とは?
お金を賭けるとは、お金を失う事を想定している事、
なら…
命を賭けるとは、命を失う事の想定=失う覚悟がある事


武道技での護身とは、命を賭けて、
失う覚悟を持っての護身、となろう…

護身とは、身を守る事なのに、
身を守る為に命を失う覚悟…
とは矛盾であろうが…

そこは、観念的な死と現実・事実的な死、となろう。


さてさてさて…

武道空手の達人とは、
命を失う覚悟に熟練して、
熟達した空手技を駆使して、
命賭けの勝負できる人。



問題は、命を賭ける・命を失う覚悟を、
どのように確認するのか?

それは、命を失うだろう瞬間の、その人の認識であるから、
当然、命を失うような危機に直面して初めて実感可能なモノ。

それは、自分だけが実感し得る認識技・観念的実体技である…

そう…でも…
そんな場面に直面して、そのまま死ねば、
はい!そこで人生終了であろう。

これは、目的意識的に実際に試せない・確認が殆ど不可能であろう…
あるのは、意図しないアクシデントで、死に直面…である。



南郷継正のイメージしている、
武道空手の達人とは、以下のようなモノだろうから…

武道空手の達人とは、
命を失う覚悟に熟練して、
熟達した空手技を駆使して、
命賭けの勝負できる人。


これは、現代社会では、確認でき難いモノであり、
それを、実際に公開・見せる事は不可能である。


何故なら、「命を賭けている」、「死の覚悟」を、
どのように、視覚的に公開・見せられるのだろう?


「死の覚悟」とは、己自身が『死んで逝く』だろうな…
と思った瞬間に生きる動作が出来たら覚悟。

死んで逝ったら、「死んで逝くな~」諦め…である。


ネットで「玄和スレ」で…
「達人」という言葉が出てきている・使われているが…

殆どが、達人の概念が、南郷氏のモノとは、大きく異なっている
なのに、彼らは、同じ「達人」だと思い込んでいる。

それじゃ~全く話が、議論がかみ合うわけがない…
そんな簡単な事にもね気付けずに、玄和会を批判できている…とは、
残念な人達である。

まあ~
現代では、ヘーゲルの絶対精神がイメージできない、ように…
南郷氏の

武道空手も
武道空手の勝負も
命を賭けるも
死の覚悟も生即死も…
イメージする事が至難なのだろう…


また上記のようにイメージ・言葉にできても、
それを観念的実体化するのは更なる至難である。


その理由は、観念の実体化には、
実体・身体を駆使しての修業が不可欠。

しかし…現代社会で、
命を賭けた、負ければ即死というような勝負は
不可能である、から…











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夢について…

2020-06-24 12:18:32 | ニュース


夢とは、眠っていて見るモノ。
夢とは、昼間にボーとしていて見るモノ。
夢とは、自分の将来について空想するモノ。

将来の夢は、必要かor不要か?

ある人は言う、
「夢なんていらない!」
「夢なんて邪魔だ!」」
「夢を見るから辛い!」
「夢見て叶わないなら無駄だ!」

ある人は言う、
「若者よ!夢を見よう!」
「夢があったから生きてこられた!」
「夢がなかったら、死んでいた!」


将来の夢を抱く・見るのは、
自分の将来がハッキリしないイメージできないから…
将来が決まっていたら、将来の夢は抱けない!

本当に、そうなのか?


そもそも~
人生とは?
将来とは?

人生とは、
人が、人間として生き続けつつ自分を活かす事。
人が、人間として自分を活かし生き続ける事

生活か?
活生か?

「将来の夢」の二重性、

一つ、なりたい自分像の夢。
二つ、自分の活かし方の夢。


なりたい自分は、自分の個人的な人格・能力・性格…
自分の活かし方とは、社会的な役割・職業・取り組み…

社会的な夢には、社会的・客観的な制限があり得る。

しかし、個人的な夢には、特に制限はない…
でも…、夢を抱くには、精神的な若さが必要?!


夢とは、現実的に、実現が難しい・至難だから夢と言う。
簡単に達成可能なモノなら。目標であり、夢とは言わない。


私は思う!

一般的に、現代人は幸福である。
幸福なら、特に夢はなくても生きられる。


夢とは、
一日一日が辛くて、「死にたい!」と思ってしまう…
そんな辛い人生でも生き続けたいから夢が必要なのだろう。


だから、
こんな私も「なりたい自分を夢み」ようとしている。
こんな私も「自分の活かし方を夢み」ようとしている。


夢を抱けないなら、無理やりでも抱かせよう!
夢を抱かせたら、無理にでも日々少しずつ取り組ませよう!


夢は、大きい程よい!
夢は、至難な程よい!


例え、夢が叶わなくても、
その日々の頑張りの過程で、
得られた・得られるだろうモノは、
自己の人生の大きな糧になり得るモノ、であろう。



人生は、上達論で生きよう。
時々の事実・結果は勝負論で評価し、
それを上達論で検討・反省させよう!











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死ぬ気になれれば…

2020-06-21 10:54:10 | 認識論


人間、死ぬ気になれば、何でもできる…
という言葉を聞いた事がある。

言葉だけ知っているなら知識である。
この言葉の通りに、「死ぬ気になって」…行動出来るなら論理となろう。


これは、言うは易く行うは難し、
または、知るは易く行うは難し、

言葉・知識としてなら、「死ぬ気」も「何でもできる」も簡単であるが…
論理としての「死ぬ気」も「何でもできる」も至難であろう。



そもそも…真に「死ぬ気になった」人間なら、
その行動は「死への行為」であろう。

ならば、その人間にできる行動は何でもではなく、
死へ向かうモノだけであろう。

ならば…この言葉は嘘なのだろうか?


師範の言葉に、「生即死」がある。
それは、武道の真剣勝負において、
眼前の相手に対して「自らの死」を覚悟して、
向かっていく事で、「生」への可能性が生じる。
と、いった意味である。


ここでの「死」とは、「生」を求める為のモノであり、
決して死ぬ為のモノではない。

ここから言える事は、

「死ぬ気になれば、人間なんでも出来る」は、
言い換えるなら、

生きる為に、死ぬ気になれれば、
人間どんな至難も乗り越えられる、

となろう。

ここまでは、容易な言葉・理解であるが…
それでも、ここには、多いなる矛盾がある

以下からは至難な論理である。


そもそも…
「生きい」と思っている人間が、「死ぬ気」になるのは矛盾。
生きる為に死ぬ気になるのも、当然に矛盾。


その理由は、「死」とは「生」の対極にある概念である。
その生命体である生ある人間にとって、死とは予想不能なモノ。
生命体が死を意識する事は、ほほ不可能である。

もっとも…
何度も死に直面した者、
何度もその死への瞬間を感覚・覚悟できた者、
そのような者達なら、生の為の死も可能であろう。

ここに、言葉の論理化への道がある。


「死」への意識とは、
過去に数回は、瞬間的に、
死を覚悟できた者だけが持ち得る
生命体にとっては、特異な意識であろう。

「生」ある生命体で
「死」を意識可能なのは、人類だけであろう。






















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発達障害についての仮説

2020-06-14 11:01:35 | 教育


発達障害とは、感情の発達障害。
人的な感情から人間的な感情への発達過程での障害。

人的な感情とは、動物的な感情。
それは、周囲の事を考えない自己中的な感情。

人間的な感情とは、社会的・集団的な感情。
それは、周囲の人達への気遣いを持った・含んだ感情。
その感情は、主に零歳から三歳までの間に発達する。

動物でもある人間が、動物的な人的な感情で、
どんな不都合があるのか?


人間以外の動物なら、その動物特有の本能がある。
なので、何も思わず・考えず感情?のまま行動しても、
その種としては何の不都合もない。


しかし、残念ながら、
人間には、
人間としての人生に必要な行動様式を可能にする
本能はない。


その人間としての人生を生きる為の行動様式は、
生後の教育によって、体得していくモノ、である。


その「行動様式」体得の為に必要不可欠な感情とは?

それは、
「変化に耐えられる」
「変化を嫌がらない」、
「変化を受け入れられる」、
「変化を受け入れる」、
「変化を喜ぶ」
「変化を喜んで受け入れる」…

このような感情・認識である。


ならば、感情の発達障害を起こさない為の、
零歳から三歳までの生活とは?


私の場合は、息子が生まれてから、育児書を読み
そこに書かれていた、「なるべく外へ連れて行く」…を実践した。


それは、歩けない息子を
抱っこ紐で抱いて時間があれば、
近くの多摩川・公園に散歩に行った。

当時、塾の講師をしていた私には、昼間結構時間があり、
まめに散歩へ抱きかかえて行った。

歩けるようになったら、今度は、
石がゴロゴロしている多摩川沿いの散歩へ連れ出していた。

また、マンションの二階から一階の階段で、ボールポン遊びを
よくしていた。

今、振り返ると、これらの息子との関わりが、とても良かったようだ。
その為だろうか?
今の息子は、スポーツも学業成績も非常に優秀である。


さて、人間にとっての人生を考えると、
それは「一寸先は闇」であり、
何が起こるか分からないモノ。

人生・生活は「変化」の連続である。

そんな人生を過去から現在まで人類は、
文明で、変化の少ない環境創りの為の機械を
文化で、変化を乗り越える為の手段・認識を創出してきた。


それでも、
自然の変化、
社会の変化、
人々の精神の変化は、

どんなに快適に変化の少ない生活・環境を求めても、
変化・変化は永遠に続くモノである。

だから、そんな変化に耐えられる認識・感情の養成・教育が必要である。





過去の大家族・兄弟たくさんの時代は、変化が激しかった。
また、貧しい時代は、少ないモノで工夫・変化させての生活が普通であった。



発達障害は、変化の少ない・恵まれた
零歳から三歳の生活過程で発生する、のだろう。

その過程で、突然に強烈な嫌な変化を強いられた結果、
変化から逃げる感情を慮質転化してしまった。


それは、
嫌だから嫌だ!
嫌なモノは食べない!やらない!…

そんな感情であろう。


では、
そのように慮質転化化されてしまった
感情を変化・変える方法や如何に?


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我!今ここに反省を文字化する!

2020-06-01 12:09:12 | 日記


我!今ここに反省を文字化する!


反省とは、人間の認識である。
人間の認識とは、頭脳に浮かぶ像。
人間の頭脳は、心的・頭的に働く。
心は感情(的)・頭は理性(的)と言われている。

なので、
反省とは、「構造的…」と言われていて、
そこには、後悔・感情が伴ってしまうモノだろう。


反省の二重性、
感情に囚われている「感情的反省」。
理性を中心とする「理性的反省」。


今までの、私の反省の始まりは、
殆どが後悔の感情からであった。

しかし、今回は、
「ちゃんと確り読めばよかった」という後悔よりも、
「ミスったけど…でも良かった」から始まっていた。


その反省した出来事とは、
休校していた勤務校へ今日から出勤した事である。


5月26日に、副校長から電話で以下のような事を伝えられた。
補助員の勤務は、6月1日から。
支援学級の補助員の勤務は、
O先生から、また連絡がある、だろう。

その後、私の思った事・思い出した事は、
5月の初めに、
支援学級の主任教諭のO先生からメールで、
勤務は、たぶん6月からだろうと伝えられた事。

その後、
5月30日のメールで
「…先生の勤務は……月火木金…」
と知らされた。


そこで、今日、私は、
数か月振りに、5時40分頃に起きて、
愛犬の散歩、愛犬と愛猫の餌やり、
愛猫のトイレ掃除・ゴミ出し、朝食…を済ませ、
8時20分頃に自転車で出勤した。

8時25分ごろに学校に到着して、
出会った先生方・児童に朝の挨拶をしながら、
特別支援学級教室へ入って、O先生に挨拶したら所…

開口一番が、
「あれ?先生…今日からでしたっけ…?」
であった。


………中略………


なんとビックリ!

一昨日のO先生メールには、
「8日から月火木金でお願いします」
と書かれていた…(事を知らされた)

携帯を忘れた私に、
O先生は、スマフォを出して、
そのメール文を見せてくれた。


その時の私は、心から笑って、顔も笑っていた。

それは、
間違った理由も、
何故そのような間違いをしてしまったかも、
そして、今後はどうすればいいかも、

全て浮かんできたから、だろうか…
久しぶりの学校・雰囲気が新鮮だったから、だろうか…

そこには、
「損してしまった感・ミスって悔しい感…」が全くなかった。
そう、そこには後悔の感情がなかった。


その理由は、家から五分・自転車で…
登校するのに、大きな苦労がなかった事。

失敗しても、
先生や児童に久しぶりに会えて「嬉しい感」があつた。


今回の失敗理由は~

確りとメール文を読み取らなかった。
確り読み取らなかった訳は、私の思い込みの深さ。


この思いが深くなった訳は、

初めのO先生メールの後、

学校からのメールで6月1日から
分散登校が始まる事を知らされていた事、

副校長からの連絡から補助員も
6月1日からと知らされた事。


私自身、副校長の電話連絡以降、
O先生メールが届くまでの4日間、
特別支援学級も6月1日同じだと、思っていた。

その4日間の思いの連続で、
その思いが、深い思い込みレールに量質転化化してしまった結果…


その思い・深い思い込みレベルの感情・認識で、読んだO先生メール文だから、
書かれていた「8日」を飛ばし読みして、自分勝手に『1日』だと思ってしまっていた。



今後の反省点として、

自分の思い込みが深くなる前に、情報確認、現実確認、をする事。

今回であれば、副校長の電話の後、直ぐにO先生にメールで、
私の出勤日の確認をすれば、こんな間違いはなかった。















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